8月7日の説教要旨 「平和の主の道」 牧師 平賀真理子

イザヤ書1115 ルカ95156

 はじめに

今日の新約聖書箇所として「サマリア人から歓迎されない」という小見出しがついた段落が与えられました。しかし、その中の最初の節の51節は、ここから19章半ばの主のエルサレム入城までの旅路が始まることを示しています。ルカ福音書は全部で24章ですが、その半分弱の約10章分を使い、イエス様の十字架への道の途中の出来事をたくさん記しています。苦難の道の途中にあっても、イエス様は、従う人々を愛し、導くことをおろそかになさらなかったことが証しされています。

 「天に上げられる時期が近づく」(51節)

イエス様は神の御子として、天の父なる神様から、救いの必要な人間ばかりのこの世に降りてこられました。そして「救い主」としての使命=イエス様だけに託されていた使命が、人間の罪を贖うために命の犠牲(神の御子の死)=十字架上での死です。人間的に見れば、これは敗北と受け取られるでしょう。しかし、神様から見れば、全く逆、勝利です!

壮絶な死を遂げなくてはならなくても、父なる神様の御心に従順だったイエス様には、その後、「復活」という誰も賜ることのなかった栄誉が与えられました。神様から与えられた「復活の体」で弟子達と過ごし、その後は天に昇り、今や父なる神様と同じ「神様の位」に就かれています。

 「エルサレムに向かう決意を固められた」(51節)

ルカによる福音書によれば、主の十字架と復活は、神の民ユダヤ人の都「エルサレム」で起こりました。イエス様がエルサレムに向かうとは、その先に栄光の復活があるとはいえ、まずは十字架にかかるということです。人間の肉体を与えられて、この世を歩んでいた主にとって、それは、激しい苦痛と屈辱を受けることを意味していると主はご存じのはずです。だから、主と言えども、決意を固める必要があったのでしょう。

 「サマリア人も救いの中に」

「栄光の救い主」ではなく、まずは「苦難の僕」としてエルサレムへ向かうイエス様が、ユダヤ人達が嫌うサマリア人の村を最初に通ろうとしたことには、意味があると思われます。サマリア地方はユダヤ地方の北側に位置し、ガリラヤ地方で宣教されていたイエス様がエルサレムに行くには、サマリア地方を通るのが近道です。けれども、当時、ユダヤ人はサマリア人の村を避けてヨルダン川の東から遠回りしてエルサレムに入りました。サマリア人は、元々は「神の民」イスラエルの民だったのですが、侵略してきた異民族に荒らされて、宗教的にも人種的にも純粋でなくなったということで、ユダヤ人がサマリア人を軽蔑し、それでサマリア人達もユダヤ人を嫌ったからです。この状況は、イエス様も当然御存じのはずです。なのに、決意を固めた後に「救い主」として初めて通る道として、主はサマリア人の村を選ばれたのです。約束を必ず果たされる神様が、人間の事情に左右されず、最初の約束を守ってくださり、サマリア人を「神の民の救い」の中に含んでくださったと考えられるでしょう。

 「サマリア人は歓迎しなかった」

神様の大いなる愛を受けているにも関わらず、その村のサマリア人達はイエス様を歓迎しなかったことが記されています。サマリア人から見れば、仲たがいしているユダヤ人の救いのためにイエス様が自分達の村を通るのですから、面白くなかったでしょう。しかし、もっと普遍的なことが暗示されていると思われます。人間は人間的な理由で、イエス様を「救い主」として、歓迎できないということです。(エルサレムでも一時的に歓迎されたものの、最終的には歓迎されませんでしたし、福音宣教する時も、まずは歓迎されないことが多いものです。)

 「弟子2人の発言」と「平和の主の道」

主を歓迎しないサマリア人に対して、弟子のヤコブとヨハネが、村を焼き滅ぼすことを提案しました。反対者に対して、彼らは全滅させる方法を取ろうとしました。しかし、イエス様は、歓迎しない人々の罪をも背負うために、我が身を滅ぼすという十字架にかかった御方です。これが神様の方法です。従わない人間のために神様御自身が犠牲になるのです。弟子2人とは全く逆です。父なる神様の御心に従って、イエス様は「自分を犠牲にする道」を従順にたどられました。これこそが、「神の霊」を受けた本当の平和の主の道です。私達は、「平和の主の道」を正しく理解し、それに倣いたいものです。「山上の説教」の御言葉を思い起こします。「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)私達は主と同じ「神の子」と呼ばれる幸いを賜わるのです!