8月14日の説教要旨 「弟子の覚悟」 牧師 平賀真理子

サムエル記上3410 ルカ95762

 はじめに

今日の新約聖書箇所の直前の段落の中の51節に、イエス様の十字架への道が、いよいよ始まったことが書かれており、その段落では、主はサマリアの村で歓迎されず、別の村に行ったと記されています。今日の箇所は、その道中で「主に従う」という本当の意味を学ぶことができます。

 「苦難の僕」への道に従う覚悟

一人目の人は、イエス様の行かれる所ならどこへでも行くと言って、弟子になることを自ら願い出ました。この言葉は、弟子としては当然の内容だと思います。ところが、イエス様は、この申し出に対し、大変辛い将来を示す御言葉をおっしゃいました。58節の「人の子」とは、救い主としてのイエス様のことです。前の段落でサマリア人に歓迎されなかったイエス様の「苦難の僕」としての救い主の道は、「巣を持つ動物にさえ劣る待遇を受けますよ、だから、弟子としてわたしに従うなら、同じ運命を引き受けねばなりませんよ、 その覚悟がありますか」と問われているわけです。主と弟子達は、宣教の旅から旅で、家でくつろぐ余裕もない、それどころか、人々に排除される定めであり、 「十字架」はその最たるものです。この世にいる人間のほとんどは、救い主と認めて歓迎することはほとんどないとイエス様はよくご存じです。弟子になるなら、その厳しい道を受け入れる覚悟が必要とされるのです。

 死んでいるこの世への未練を捨て、神の国のために働く覚悟

二番目の人は、イエス様の方から「従いなさい」と呼びかけてくださる恵みを受けています。しかし、その人は、その恵みを理解せず、条件を付けました。「従うつもりだけど、まず、『父を葬る』役目を終えてからにしてほしい」と許可を願っています。「父を葬る」ことは十戒を奉じる民にとって重大な役割です。なぜなら、その中の一つ「あなたの父母を敬いなさい」(出エジプト20:12)に従った儀式だからです。この世の常識での自分の役割を全うした後、「主に従う」道を歩きたいと考えたようです。ところが、イエス様は、神の国のことだけを考えておられます。肉体的には生きていても「救い」に与っていない人々を「死んでいる者たち」とおっしゃいました。「死者は死者に任せて、救い主のわたしが救おうと呼びかけている、あなたはわたしに従い、神の国を言い広める働きをしなさい」と呼びかけられました。人を見抜く御方であるイエス様は、この人が福音伝道において優れた賜物のある人だと見抜いて、呼びかけてくださったのでしょう。

 神の国だけを真っ直ぐ見続けて働く覚悟

三番目の人も、二番目の人と似ていますが、家族に別れを告げてから従いたいと願いました。この内容は、ユダヤ人もサマリア人もよく知っている話を思い起こさせるものです。旧約聖書の中にあります(列王記上19:19-21)。預言者エリヤが後継者となるエリシャに呼びかけた時に、エリシャは父母に別れを告げることを許してほしいと願い、この時は許されたのです。この話を踏まえて、三番目の人は、自分も同じことを願ってもいいと思ったのではないでしょうか。しかし、主は御自分がこの世にいる時の終わりが近づいているとご存じでした。この世での絆を断ち切れない人は、「鋤に手をかけてから後ろを振り向く者(62節)」と例え、神の国にはふさわしくないとおっしゃいました。神の国の民には、この世への未練を断ち切り、神の国のために、顔をまっすぐに向けて働こうとする覚悟がいるのです。私達も我が身を振り返ってみると、いつもいつもまっすぐに、神の国を見続けているとは言えないのではないでしょうか。しかし、「この世」から「神の国」へと人間を救うために、イエス様が「十字架への道」をたどられたことを、私達信仰者は再び思い起こしたいものです。

 召命の時=神様が定められた時にすぐに従う覚悟

今日の3人には、忘れてはならないことがもう一つあります。それは、彼らは、それぞれの人生の「時」にあって、主に出会い、「主に従う」ということについて、主の御言葉をいただく恵みを得たことです。

「主が救いたいと思う人に出会う時」をお決めになるのは、主御自身です。

受け手の私達人間ではありません。「主が私に働きかけてくださる時」は、主が造ってくださるのです。「『時』も被造物である」とアウグスティヌスという学者が言いました。「時」も神様の支配下にあり、人間は神様の定めた時に従う運命です。今日の旧約聖書で示された「サムエル」に倣って、主の召命を待ち、その「時」には すぐに聞き従う覚悟を日々強められるように祈り続けましょう。