10月23日の説教要旨 「祈るときには ②」 牧師 平賀真理子

 歴代誌 1517 ルカ福音書11513

 はじめに

イエス様は、祈りを教えてほしいと願う弟子達に、まず、「主の祈り」を教えてくださり、御言葉として一つの形を示されました。その一つ一つの意味について、前回お話ししました(前週の週報の裏面をご参照ください。)。「主の祈り」には、イエス様の父なる神様への思いと、人間への憐れみが貫かれており、「主の祈り」は、その意味を理解して祈る必要があるし、また、そのように祈れることは大きな喜びです。

 「主の祈り」を献げる相手

「主の祈り」を献げる相手はイエス様の「天の父なる神様」です。その御方は、私達の祈りを確かに聞いてくださり、私達に必要な物を確かにくださる御方であることを、主は弟子達に更に教えようとされました。

 友人のためにパンをしつように頼む者の例え話

「主の祈り」の御言葉を教えてくださった後、イエス様は例え話をなさいました。「旅行中の友人に挙げるためにパンをください」と別の友人宅を夜中に訪れる人についての話です。

友人宅を訪ねる人をAさん、訪問された人をBさん、旅行中の人をCさんとしましょう。Aさんは、Cさんに一泊してもらうことになったのでしょう。急なことで、翌朝のCさんのパンがないことにAさんは夜中に気づき、願いを聞いてくれると予想した友人Bさん宅を訪ね、Cさん用のパンをくださいと願います。

しかし、Bさんの方では、たやすくAさんの願いを叶えてあげる余裕はありませんでした。それでも「しつように」頼んだ結果、やっと願いを聞いてもらえて必要な物を入手できたという話です。

 例え話からわかる「祈るときの真実」

この例え話から、父なる神様に献げる祈りに必要とされる2つのことがわかります。一つは「しつように頼めば」です。思い起こしていただきたいことは、ここは「祈るときには」の話です。Aさんは祈る人間の例えです。Aさんが頼ったBさんは、あまり親切でないように感じます。そんなBさんでさえ、「しつように頼んだ」Aさんの願いを叶えてくれたのですから、祈りにおいて「しつように頼む」ことが大切だということです。Aさんも「友人とはいえ、夜中にBさんを訪ねることが非常識だ。」とわかっていたはずです。それでも、自分でなく、友人Cさんをもてなすために、恥ずかしさを捨て、何度も熱心に訴えたのでしょう。祈る時には、その「しつようさ」が必要とされていると示されています。

もう一つは、願いをする相手のことです。例え話では、Bさんという、限界のある人間でした。そのBさんはAさんの「しつようさ」=「熱意」で動かされました。そうならば、愛情豊かで、限界のない、全知全能の天の父なる神様は尚更、人間の熱意ある祈りを叶えるように、実際に働いてくださる御方であるとイエス様は弟子達に教えてくださっています!私達日本人の多くは、祈ることはしますが、その相手が誰なのか、どういう方かは全く意識しません。実力のない相手、心の冷たい相手に頼んでも叶えられないことは、社会経験上、よく知っているのに、大事な祈りにおいて、相手に無頓着なのは不可解なことです。

 天の父なる神様の人間に対する愛

今日の箇所の後半部分(9節以降)は、天の父なる神様が人間にどんなに愛情を感じているかを主が伝えようとされておられる所です。人間の父親さえ、子供の欲しがる物、いや、それ以上の物を与える愛情を持っています。愛情の源である神様なら、尚更、主を求める者には、良いものを与えようと待ち構えておられると教えておられます。主を求め、熱心に祈る者に神様が与える最良のものが「聖霊」です。それは、神様の御心に自分の心を従わせようとする者だけが受け取れる「神様の霊」です。神様の周波数にアンテナを合わせなければ、神様の御心を知ることはできません。9節・10節は良く知られた御言葉ですが、対象が何かが問題です。「神様の御心」または「神様とのつながり」です。人間が、神様の御心やそのつながりを求め、探し、門をたたくことを神様は待っておられます。

 「祈りが聞かれるために」

自分では祈っているつもりでも、祈りが聞かれていないと感じる時があります。原因は幾つかあります。①自分中心の欲望が捨てきれていない=神様の周波数に合わせ切れていない場合、②いまだ「神の定めた時」でない場合、③神様がその人とのつながりを強めるために鍛錬している場合です。だから、私達は「主の祈り」を熱心に忍耐強く祈り続けて、主の弟子としての成長を願いましょう。

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