11月6日の説教要旨 「神の愛に捉えられた者」 平賀真理子牧師

イザヤ書5049 ローマ書831b39

 はじめに

「ローマの信徒への手紙」には何が書いてあるかというと、この手紙の冒頭(1:1)からこう言えます。「キリスト・イエス」についてです。次に、この手紙の筆者と宛先をお知らせしたいと思います。筆者は「パウロ」という人です。パウロは「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった(1:1)人です。また、宛先は、ローマにいる「キリスト・イエス」を信じる者達です。これも説明があります。「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ(1:7)」です。神様が救い主をこの世に送ってくださることすら知らなかった異邦人であるローマ人の中で、イエス様が救い主であると知らされ、信仰を与えられた人々に、「救い主イエス様の恵み」を豊かに語っているのが、ローマの信徒への手紙です。特に、8章31節からは見出しのとおり「神の愛」について書かれています。

 神がわたしたちの味方である

8章31節-35節は、パウロが自問自答する形を取りながら、ローマの信仰者達に、「神の愛の恵み」を伝えています。31節bは信仰者達に敵対できる者がいるかを質問していますが、これは反語です。だれも敵対できる人はいないということです。32節はその説明です。人々の罪を肩代わりするため、イエス様は十字架にかかりました。それは、イエス様の「父なる神様」のご計画でした。神様は愛する御子を十字架で犠牲になさるほど、人々を愛してくださっています。神様が私達信仰者を本当に愛してくださる、大いなる味方である以上、敵対できる者がいるはずはありません。

 わたしたちを訴える者はいない

パウロは33節で、私達信仰者は神様に選ばれた者であると言っています。私達が神様に選ばれているなら、私達を悪者として訴えられるものはいません。人を「良し」として認めてくださるのは神様ですから、その神様が最初に選んだ者達=私達信仰者を訴えることのできる者はいません。

 わたしたちを罪に定める者はいない

私達信仰者の罪を糾弾する者もいないとパウロは言おうとしています。その説明がその直後に書かれています。キリスト・イエスについて、4つの説明があります。①死んだ方②復活させられた方③神の右に座っている方④私達のために執り成してくださる方です。①「死んだ方」とは、十字架で私達の罪を肩代わりするために命を犠牲にされた方という意味です。②「復活させられた方」とは、救い主としての定め=「十字架にかかって死ぬ」役割をイエス様が果たしたことに対して、父なる神様が栄誉として授けた復活を受けた方という意味です。③「神の右に座っている方」とは、2000年前にはこの世で人間として歩まれたイエス様も、今や、人間ではなく「神様」となられているという意味です。④「執り成してくださる方」こそ、イエス様の特徴です。イエス様は人間として歩まれたので、人間の弱さ・愚かさもよくご存知です。もし、私達信仰者を非情な裁判官のように裁く者がいても、主は人情ある弁護士のように執り成すのに充分な御力をお持ちである、安心しなさいと語られています。

 キリストの愛からわたしたちを引き離す者はいない

私達信仰者が信仰を失う原因となるものが、現実にはいろいろ考えられます。35節にあるとおり「艱難・苦しみ・迫害・飢え・裸・剣」など、つまり、権力者や社会からの圧迫や現実生活の厳しさによって、人間は次第に、もしくは一気に信仰を失ってしまいます。36節は詩編44編からの引用ですが、旧約聖書のある昔から、信仰故に苦しみを受けることを信仰者が神様に訴えている箇所です。しかし、です。その苦しみの数々、人間を信仰から遠ざける困難さに対して、私達信仰者は、もう既に勝利を収めているのです!イエス様の恵みによる勝利は、ギリギリの勝利ではありません。勝って余りある勝利、大いなる凱旋です。

 キリスト・イエスによって示された神の愛からわたしたちを引き離す者はいない

38節-39節では、もう一度、信仰者を脅かすものが具体的に挙げられています。それらは、イエス様が人間として歩まれた頃、当時の人間達が、神様以外に恐れたものです。パウロは、当時の人々の恐れを知った上で、神様から選ばれて、その大いなる愛を受けている信仰者に対して、神様の愛の偉大さを思い起こし、何事も恐れず、キリスト・イエスの福音を信じるように勧めているのです。

 「神の愛に捉えられた者達」

本日は召天者記念礼拝です。私達の教会員で、先に召天された、平野武夫兄、石川進兄、佐藤博子姉を覚えます。この3人の方々は、「神の愛に捉えられた者達」であり、信仰を貫かれました。死の床にあっても、他の人々と違う、その姿で、私達の主キリストを証しされました。私達は、その信仰を継承したいものです。