3月26日の説教要旨 「死と復活の予告②」 平賀真理子牧師

イザヤ書53610 マタイ福音書162128

 はじめに

前回、マタイ福音書16章13-21節までを「死と復活の予告①」と題し、お話しをしました。「あなたはメシア、生ける神の子です。(16節)」という、ペトロの信仰告白をイエス様は祝福なさいました。それは、この世での信仰の基盤ができたということを意味します。そして、その揺るぎない信頼関係ができて初めて、イエス様は、人間がすぐには受け入れがたい「救い主の死と復活」について語り始めました。

 「救い主の死と復活」を初めて聞く人間の反応

イエス様が待ちに待った信仰告白をしたにもかかわらず、ペトロは、イエス様御自身が打ち明けてくださった「受難、死、復活」のことを信じられませんでした。というよりも、きっぱりと否定しました。しかも、救い主であるイエス様を「わきへお連れして、いさめ始めた(22節)」のです。これは、何もペトロに限ったことだとは言えないでしょう。他の弟子達にとっても、更に言えば、その後々の人々、ひいては、現代の私達に至るまで、このことを初めて聞く人間にとっては、受け入れ難いことです。「全能の『神の御子・救い主』が反対派の人間から苦しみを受けて殺されるなどありえない!反対派の人々をやっつけて、即座に御自分の支配を始める力と知恵があってこそ、『神の御子・救い主』だ!」と多くの人間が思うでしょう。人間が思い込んでいる「神の御子・救い主」は「栄光の主」、一方、イエス様の考えでは、「屈辱を受ける僕の立場」を味わわねばなりません。

 「神のことを思わず、人間のことを思っている」

イエス様が、直近には祝福したペトロに向かい、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしを邪魔する者。」と呼ばれたのは、大変衝撃的です。その理由をイエス様は続けて語っておられます。「神のことを思わず、人間のことを思っている(23節)」。ペトロは神様から送られた救い主と信じるイエス様の御言葉を、第一に尊重するべき立場にいました。でも、自分の持つ「栄光の主」の像にイエス様を当てはめたいと思い、自分の思いの実現を第一に考え、イエス様の預言を押しいただくことができませんでした。

 「わたしの後ろに来たいと志すのか」

イエス様がペトロに向かっておっしゃった「サタン、引き下がれ」は元々の言葉に忠実に訳すと「サタン、わたしの後ろに退け」です。「わたしの後ろに」が重要な言葉です。それは、24節の御言葉の最初にもあります。「わたしについて来たい者は」というところが、元々の言葉では「わたしの後ろに来たいと志す者は」と書かれています。これが弟子達におっしゃりたいことです。「あなたはわたしの後ろに来たいと志すのかどうか」という問いです。もっとはっきり言うと、「あなたはわたしを前にする(第一とする)のか」ということです。

 「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

「わたしの後ろに来たいと志す者」に向かって、イエス様が教えてくださったことが続いて記されています。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(24節)」。「自分を捨て」とは、自分の思いや要求を第一に実現しようとする生き方を止めることです。この世では、多くの人間がそういう生き方をするのに、です。そして、「自分の十字架を背負って」と要求されます。「自分の十字架」とは、突き詰めて考えれば、神様の前に断罪されねばならない「自分の罪」のことを指すのだと思われます。ペトロのように、神様の御言葉や御心を知らされても、自分の思いや判断を優先してしまうこと、それが「自分(人間)の罪」であり、神様から離れてしまう「自分の十字架」です。しかし、それを捨て去ってしまうまでは、ついて来てはならないと、イエス様はおっしゃったのではありません!それを背負ったまま、「わたしの後ろに来なさい。」と招いてくださっているのです。そして、その先に、「わたしと共に十字架にかかって、罪を処断してしまいなさい。しかし、それは神様の御心であり、その後には、私が復活の主として永遠の命を与える栄誉を用意しています。」と教えておられるのです。

 復活なさり、従いたいと志す者に「永遠の命」をくださるイエス様

25節以降でイエス様が語っておられる「命を得る」とは、「神様の御前で生きている状態」、つまり、神様に繋がって神様に従って生きるという、「永遠の命を得ている状態」を指しています。肉体的に生きていても、罪の中にいるために神様に繋がっていない状態では、イエス様の目から見て「命を失っている」のです。イエス様は十字架の後、復活の栄光を父なる神様からいただき、その恵みを従う者に喜んでくださる御方です。その大いなる恵みを感謝して歩みましょう。