4月30日の説教要旨 「主の復活の恵み」 牧師 平賀真理子

イザヤ書651719 コロサイ書3111

 はじめに

今日の新約聖書箇所は「コロサイの信徒への手紙」から与えられました。「コロサイ」の場所は聖書の後ろにある地図9で見ると、真ん中より少し東側であるとわかります。主が十字架にかかったエルサレムから直線距離でも800㎞も離れた この町にも、この手紙が書かれた頃(紀元60年頃)には、主を信じる人々がいたのです。ところが、その群れの中に、当時流行していた「グノーシス主義」という、知識偏重の考え方が入り込んできて、それを心配したパウロが、福音の本来の正しい教えに帰るように、コロサイの信徒達に勧めているわけです。

 「キリストに結ばれて歩みなさい」(2:6)

今日の箇所は、2章20節からの「日々新たにされて」の段落の一部です。一つ前の段落「キリストに結ばれた生活」の段落の冒頭の6節には「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」とあります。これがこの手紙の主題です。更に、その後の12節では(あなたがたは)洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」とあります。これを踏まえ、2章20節からの「日々新たにされて」の段落は、話が進められていきます。

 「キリストと共に死んだのか」

 2章20節から23節は、まず、信徒達がキリストと共に死んだということが大前提になっています。この「死」は、勿論、肉体的に死ぬということではありません。「この世の考え方や教えに支配された人間として、神様から離れた霊的存在の自分が一度死んだのか」と問われています。この手紙の内容から見て、コロサイの信徒達は、この世の考え方や流行していたグノーシス主義に左右され続けていたので、それは違うと著者パウロは言いたかったのでしょう。信仰者となる前と後とが変わらないならば、それはイエス様と共に死んだわけではないということです。これは、コロサイの信徒達だけに言われているのではなく、時空を超え、私達を含む、信徒達全員に問われていると読み取れます。

 「キリストと共に復活させていただける」

ただ、私達、主を信じる者は、イエス様と共に死ぬのであって、孤独に放り出されるわけではありません。この世で霊的に一度死んだ後に、今度は「復活したイエス様」を信じている故に、その恵みをいただいて、「神の国の民」として、霊的に復活させていただけると言えます。「主と共に」です。このことこそが、本当に大きな恵みをいただいていると言えるのだと思います。

 恵みをいただく前に、この世の考え方や生き方を脱ぎ捨てる

イエス様の十字架の意味=「私の罪の贖いのために神の御子・救い主が命を犠牲にされた」ということが本当にわかっているならば、それまでの考え方や生き方すべてを捨てていいと思えるのが、本当に主に出会った人の姿勢だと思います。私達日本人の中には、何かに一生懸命になっていることを見抜かれることを好まず、信仰者となっても以前の姿とあまり変わらないで過ごしたいと考えるクリスチャンが多いように思います。しかし、今日の聖書の箇所では、そうであってはならないと警鐘を鳴らしているのです。

 主と共に復活させられるだけでなく、終末の時には主と共に現れる

 キリストと共に確かに死んだ者は、「キリストと共に復活させられる(3:1)とパウロは語っています。それだけでなく、復活後に天に帰ったイエス様は、今や、神様と同じ存在になっておられ、今、私達には見えないけれども、歴史が終わる終末の時には現れてくださり、その時に、私達信じる者達も神の国の民として共に現れるようになれると、霊的な目を持っているパウロは保証しているのです。

 「古い人」を脱ぎ去り、「新しい人」を身に着け、日々新たにされる

この世では許容される「性的な乱れ」や「自分の欲望に引きずられて他人を軽んじる行為」を、信徒達はやめるように、更には、その源となる、悪い心や悪い言葉さえも、捨て去るように!とパウロは指導します。グノーシス主義では、天の秘密の知識さえあれば、この世で悪い言動をしても構わないとされたので、対照的です。主を信じる者達は、この世の言動と心根を持つ「古い人」を脱ぎ去り、造り主の姿に倣う「新しい人」を身に着けるように教えられています。しかも、洗礼の時の1度きりではなく、日々新たにされることで成長すると言われています。キリストだけを見つめて成長できるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

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