民数記15:27-31 ルカ福音書12:35-48
はじめに
今日の新約聖書の箇所では、「主人と僕」の例え話が2つ出てきます。ほぼ同じ内容を記しているマタイによる福音書により、この話が、世の終わり=「終末」の時のことを例えているのは明らかです(24:36-51)。
「終末」について
「終末」と聞いて、私達は遠い将来に起こることと何となく思ってしまっているのではないでしょうか。確かに、「終末」は、世の終わりであることは間違いないけれども、しかし、それは、遠い将来ではなく、もう既に始まっていることを想起していただきたいのです。イエス様がこの世に来てくださって、救い主としての御業を成し遂げてくださったという時点で、この世の終わりが始まっているのです。この場合、終末とは、短い時を指すのではなく、ある長い期間を指すことになります。イエス様の出来事から約2000年経っていても、その期間ずっと終末であるということです。ですから、現代に生きる私達に対して、神様は、終末に生きる者として、救い主イエス様の御心に適った生き方をするように期待してくださっているのです。今、イエス様が私達の方から見えなくても、イエス様の方からは見えている、このことについて、自覚していれば、自分の欲望に任せた好き勝手はできない!のです。
「終末」については、もう一つ、将来に起こるはずの「世の終わりの終わり」が必ずあると聖書は告げています。私達はその時を知りたいのですが、それはイエス様の父なる神様だけが御存じです(マタイ24:36)。人間にとっては、突然「終わりの終わり」がやって来ます!マタイ福音書には「終わりの終わり」の恐ろしい現象が記されていますが、私達信仰者が覚えておくべきことは、「終わりの終わり」には、イエス様が再びこの世に来てくださる=「再臨」を約束してくださったという希望です。
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」(35節)
いつ帰宅するかわからない「主人」とは、再臨の時が人間に知らされていない「イエス様」を例えていますし、また、「僕」とは、イエス様の再臨の時を知らされていない「信仰者」達のことを例えています。だから、主を信じる者達は、いつも「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と教えられているのです。「腰に帯を締める」とは、きちんとした服装で居ることです。主人の前にいつ出てもいいように準備が整っている状態です。また、「ともし火をともしている」状態も、主人の帰還の時が暗い時間でも支障ないように、ランプの油や燈心のチェックを終えて万全に準備できている状態の例えです。どのような状況でも、できるだけ早く帰ってきてほしいという、敬意と愛情を基にした準備です。私達は、日々の生活において、そのような思いで、また、そのような状態で、再臨の主を待ち望んでいるのかどうか、つまり、「目を覚ましているのかどうか」を自分自身で吟味するよう、求められています。
ペトロの質問(41節)に対しての2つ目の例え話
ルカによる福音書では、2つ目の例え話に入るに当たり、ペトロの質問を独自に記しています。「一つ目の例え話」が自分達のような直弟子に対してなのか、この時たまたま話を聞きに来た群衆に対してなのかが、ペトロは気になったのでした。その質問について、イエス様は、言葉の上で直接返答なさらず、2つ目の例え話をすることによって、返答となさったのでした。
2つ目の例え話の「僕」とは、召使達の長、ここの表現では「管理人」と置き換えられています。また、この「管理人」は「主人の言われたとおりにしているか」「自分の欲望に従った管理をしているか」で、主人からの賞罰がはっきり分かれることが記されています。このことから、2つ目の「僕」=「管理人」とは、主を信じる人々を管理する立場に置かれた者のことを指します。ペトロの質問にはっきり答えるならば、イエス様の語られる例え話を理解して従うことについて、直弟子達が一番責任が重いと教えておられます。現代の教会で言えば、牧師や役員の責任が重いと言われており、その当事者として私は慄然とします。
まず、私達の「僕」として、私達を救ってくださった救い主イエス様!
ただ、会員の方々も、恵みに先に与った者として、人を導くことになり、より重い責任を問われる時が来て、「管理人」と同じ立場になります!責任の重さは、神様からの期待の重さとして感謝できるようになりたいものです。私達は、自分より先に、私達の罪を贖うという「僕」の役割(十字架)を負ってくださった、イエス様の大いなる恵みを知らされており、その御方に応えたいと願うからです。