8月27日の説教要旨 「救われる者」 牧師 平賀真理子

詩編107:1-9 ルカ福音書13:22-30

*はじめに
「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。(22節)」エルサレムで十字架にかかる、つまり、人々の罪を贖うという過酷なゴールに向かいつつ、イエス様は人々に「神の国とはどういうものか」を教える、宣教の旅を続けられたのです。

 

*「救われる者は少ないのでしょうか」(23節)
そこへ「救われる者は少ないのでしょうか。」という質問をする人が現れました。「救われる」とは、教会ではよく使われますが、「何から」救われると言うのでしょうか。それは「罪に染まり切っている状態から」です。更に言えば、「全知全能で良いもの全ての源であり、本当の愛を注いでくださる神様から離れている状態から」救われるということです

 

*神様が最初に造った姿とはかけ離れてしまった人間

聖書で言われている「神様」と人間とは、本来なら、人格的な交流ができるはずでした。ところが、人間の側で、神様の教えへの信頼よりも自分達だけの判断を優先したため、神様と交流できなくなる状態に自ら陥りました(参照:創世記3章)。本来、神様に繋がって生きることで幸いを感じるように造られた人間なのに、神様に繋がることをやめたなら、どんなにあがいても、本当の幸いには到達できません。様々な面で限界だらけの人間同士が自己中心で生き、限りある利益を自分の方へと奪い合う競争の世界、これが「罪の世界」「罪に染まり切っている状態」です。そして、人間は「罪のない世界」があることさえも知らされなければ、罪の世界を抜け出そうとさえ思えません。人間は知恵の上でも限界ある存在だと思い知らされます。

 

 

*人間が「救われて」、神様との本来の関係に戻るためには?
イエス様は、神の御子として「罪の世界」ではない世界=「本来、人間が置かれるべき、神様と繋がった世界、本当の幸いな状態」が確かにあると教えてくださったのです。罪の世界から人間が「救われて」本来の状態へ戻ることが起こりうると。それはイエス様を救い主として受け入れ、主の「十字架と復活」の恵みをいただいて神様に繋がれるということです。

 

*「狭い戸口から入るように努めなさい」(24節)

イエス様は23節の質問を受けて一同に対して「『救い』に入る戸口は狭い」と言われ、「救われる者」が少ないことを暗示なさいました。そして、その狭い戸口から入るように「努めなさい」と言われました。この「努める」という言葉は、元々は「苦闘する、戦いをくぐり抜ける」という意味を持っています。確かに、罪の状態で生きることが当たり前のこの世の中で、「神の国」の基準で生きるのは容易ではないと信仰者の多くが実感されているでしょう。まさしく「入ろうとしても入れない人が多い(24節)」のです。しかし、人間の罪深さにもかかわらず、神様が「救いの道」を用意してくださった、その深い愛に応えたいものです。

 

*神様が定めた「救い」のための時と方法に従える者は少ない!
25節―27節の話は、人々を救うためにこの世に来られたイエス様と、イエス様に出会った人々の例え話です。救い主イエス様は多くの人々が「救われる」ために町や村を巡り歩いて「神の国」に招いたが、いよいよ、十字架と復活の時になり、戸口を閉めると例えられる時になって初めて、事の重大さがわかり、「神の国」に入りたがる人が多いという例えです。彼らは、「主と一緒に食事をした」とか「教えを受けた」とか言い、知り合いだからと特別な温情をあてにして訴えます。しかし、救いの戸口を閉める時を決め、入る許可を出す権利は「主」にのみあるのです。「救い」のために神様が定めた時と方法に従える者は少ないのです。

 

*イエス様を救い主と受け入れた、新たな「神のイスラエル」として
主の御降誕以前の歴史では、神様からの召命を受けて信仰を貫いたアブラハム・イサク・ヤコブや預言者達は「神の国」にいるとイエス様はおっしゃいました。しかし、主の御降誕の後では、神様が先に救おうとされたイスラエル民族は、イエス様を「救い主」と受け入れなかったために、「救われる者」としては後になってしまい、神様の最初の計画では後回しになっていた異邦人が先に救われるようになる(30節)と、主は預言され、それは本当に実現しています!そして、今(新約時代)や、「イスラエル」とは、血統上の民族のことではなく、イエス様を救い主と受け入れる信仰を与えられた信仰者達を指すようになりました。主を信じる私達は、「神のイスラエル」(ガラテヤ書6:16)という名にふさわしく、主の恵みを受けて、信仰の戦いに勝利し続けられるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

 

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