11月18日の説教要旨 「オリーブ山での祈り」 平賀真理子牧師

詩編75:2-11 ルカ福音書22:39-46

 *はじめに

 今日の新約聖書箇所は、マタイ福音書とマルコ福音書で語られている「ゲツセマネの祈り」の出来事が記されています。エルサレムの東の方の郊外に「オリーブ山」があり、恐らく、その一画が「ゲツセマネ」と言われ、イエス様はエルサレム滞在中は、そこを祈りの場として、よく用いられたということでしょう。イエス様が十字架にかけられる直前、弟子達を連れ、ここで熱心にお祈りなさったと、ルカ福音書を含めた3つの福音書は大事に語り継ごうとしています。

 

 *ルカ福音書の「オリーブ山での祈り」の特徴(他の福音書との違い)

上記の他の2つの福音書での「ゲツセマネの祈り」では、「3人の弟子の選び」や「3弟子の疲れによる居眠りを主が3度発見すること」などが記されています。しかし、ルカ福音書ではそれには触れず、別のことを伝えようとしているようです。それは、イエス様の祈りの真剣な御様子と、「弟子達が眠り込んだのが、悲しみの果てだったこと」です。

 

 *御自分の使命を悟りつつも、弟子達と共に祈ることを望まれた主

弟子達との最後の晩餐が済み、いよいよ十字架への定めが間近となった中で、イエス様はオリーブ山のいつもの場所へイエス様は行き、弟子達も従っていきました。そこで、イエス様は、弟子達に「誘惑に陥らないように祈りなさい」と指示なさり、御自分は石を投げて届く距離で、一人で祈り始められたのです、イエス様は、天の父なる神様に、まず「父よ」と呼び掛け、迫る「十字架の定め」を取りのけてほしいと祈られました。十字架にかかることは、救い主としての御自分の大いなる使命で、 人々の罪を肩代わりすることです。しかし、この世で人間の肉体を持って歩まれていたイエス様にとって、十字架上で刺し貫かれることは想像するだけでも恐ろしく、できれば避けたいと思われたことでしょう。こんなギリギリの状況を、弟子達と一緒に祈りつつ、乗り切れたら!とどんなにか望んでおられたことでしょうか。

 

 *サタンの誘惑に陥り、主と共に祈り続けられなかった弟子達

しかし、弟子達は、イエス様の預言どおり、サタンの誘惑に陥りました。ルカ福音書では「悲しみの果てに眠り込んでいた」とあります。彼らは、イエス様の祈りや御様子から、近い将来の危機を察知し、「大きな悲しみ」=「自分の思い」に捕らわれ、神様に頼ることを忘れたために、サタンの仕組んだ「睡魔」に負け、大事な時に眠り込む失敗をしたと言えるでしょう。イエス様と弟子達とのこの世での最後の祈りの場面で、サタンは、主と弟子達の一致を邪魔し、その間を裂く試みにおいて、一時期成功したのです!

 

 *「わたしの願いではなく、御心のままに」 

イエス様は逮捕される直前、父なる神様に「御自分の杯」=「十字架という苛酷な定め」を取り除いてほしいとの自分の願いを表明しつつも、一番大事なことは父なる神様の御心の実現だと祈ったことは、3つの福音書共に書かれています。この祈りは、私達信仰者の祈りの模範です。神様への祈りの中で、自分の願いを勿論打ち明けてよいのですが、最終的には、父なる神様の御心が実現されるように!という姿勢が重要です。なぜなら、これこそが、自分が一番でなければ許せないサタンには決してできない祈りであり、神様最優先のイエス様と弟子達だけができる姿勢だからです!

 

 *「天使の出現」と「イエス様の苦悶」

イエス様の祈りの御言葉と謙虚な姿勢を、天の父なる神様がどんなに喜ばれたかが、ルカ福音書だけに明示されています。それが43節です。「天使が天から現れて、力づけた」とは、天の父なる神様が御自分の御心に適った祈りをしたイエス様を応援なさったこと示しています。これだけ考えれば喜ばしいのですが、実は、同時に、イエス様の十字架への道の確定を父なる神様が示されたわけです。天使の出現でそれを悟ったイエス様だから、44節にあるように、御自分の身の上に起こる十字架刑の現実を前に、より一層苦悶し、だからこそ、神様に頼って、より一層切実に祈られたのです。

 

 *「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」

イエス様は、弟子達と歩んだ御経験から、人間の弱さをよくご存じの上で、それでも「(霊的に)起きて祈っていなさい」とおっしゃいました。十字架と復活によって既にこの世に勝利したイエス様が、弟子たる私達に期待してくださっているのですから、この御言葉を守ることに励みましょう。