11月25日の説教要旨 「主によって満たされる」 平賀真理子牧師

イザヤ書61:5-11  フィリピ書4:4-14、19

 *はじめに

 今日は、収穫感謝礼拝の日です。「収穫を感謝する行事」は、他の宗教や文化の中にも数多くあります。食べ物が豊かであれば、生存を保証されて人間は嬉しいわけです。また、人間の力を越えた「偉大な存在」が、自分達のために実りを生み出してくださったと感じ、その偉大な存在に畏敬の念を持つことは、どの人間社会でも見られます。

 

 *キリスト教の神観<その一>

キリスト教における「偉大な存在」である「本当の神様(以下、「神様」と表記)」は、何が特徴なのでしょうか。2つのポイントを押さえる必要があると私は思います。一つは、「神様」を、唯一の神様として、この御方がこの世界全部を無から造り、人間が喜びに満ちて生きる準備を整えてくださった御方、所謂「天地創造の神」だということです。一方、他の宗教などを基盤とする社会では、この世にある(人間が目に見える)全部を神様と捉えることが多いようです。それらは、「太陽」や「大地」を神様と定めたりしますし、また、「水の神様」「風の神様」「田んぼの神様」等、複数いる神様に向かって人間が担当を与えたりします。

 

 *キリスト教の神観<その二>

さて、キリスト教の神観の特徴の二つ目は、先に述べた、天地創造の神である「神様」が、御自分の存在無しで苦しむ人間のために、御子をこの世に送り、更には十字架で犠牲にすることで、人間が再び御自分につながって生きられるように導いてくださる御方だということです。創世記3章にあるように、神様の御言葉を疑って、自ら罪に陥る事件を起こした人間に対し、「神様」は徹底的な愛を示してくださいました。ダメな人間達を見捨てず、再び、御自分に結び付ける方法、即ち、人間の罪を贖う方法を考えてくださり、それを実現するべく、この世に働きかけてくださいました!人間の罪の贖いを担う神様というのが、キリスト教独自の神観です。罪のない「神の御子の命の犠牲(十字架)」という代償を払って、罪を受け継いだ人間を御自分の民として、真剣に取り戻そうとなさいます。これは「神様の愛」の現れです。それに加えて、主の恵みは、「十字架」で終わらないで、その先に「主の復活」があります。主の十字架と復活を信じることで、人間は、生死を越えた「神の国の民」とされるようになりました。これこそ、最大で、徹底的で、完全な「神の恵み」です!だから、キリスト教で証しされている「神様」に対して、私達は、その恵みを深く感謝したいと心から欲するのです。

 

 *「主にあって」=「神様」の御子イエス様と心で一致して

「フィリピの信徒への手紙」の著者パウロは、以上のことを深く理解した上で、「主にあって常に喜びなさい」(4節)と教えました。「主にあって」とは「心の中でイエス様と一致している」ことと言えるでしょう。そのためには、今の時代の信仰者である私達は、福音書や新約聖書全体をよくよく読み込んで、イエス様がどのような御方かを知る必要があります。

 

 *イエス様から受け継がれた「広い心」(5節)

主と一致することで賜るものに「広い心」(5節)があります。イスラエル社会では「律法」が神様の正義を表すとして尊重されましたが、イエス様は、それだけでは救われずにいた多くの人々を「広い心」で実際にお救いになりました。律法の基盤である正義よりも、福音の基盤である「広い心」こそ、「神様の愛」をより明確に証しすると言えます。

 

 *「主によって満たされる」ことを信じて歩む幸い

それだけでなく、「神様」は、フィリピ4:8に書かれた「良きもの全部」の源なので、救い主イエス様に一致する者に、その良きもの全部を「主と共有できる」恵みをくださいます。また、「天地創造の神様」は、この世での必需品をも人間に与える権威があるという信頼により、信仰者は物資の心配から解放され、「神の平和」(7節)が得られます。パウロが証ししたように、信仰者はこの世での状況に左右されずに、「主によって満たされる」と信じ続けられ、この世の物への思い煩いを乗り越えられます。そして、本当の喜びの源である福音の伝道に邁進できるのです。私達信仰者も、フィリピの信徒と同じく、「神様」によって、自分達が求めている物は勿論、それ以上の本質的な恵みをいただくことができます。信仰者は「主によって満たされていく」喜びの生活へ招かれているのです!