1月20日の説教要旨 「あなたも神の愛の中にいる」 遠藤尚幸先生 (東北学院中・高 聖書科教諭)

イザヤ書40:1-11 マタイ福音書18:21-35

 

*ペトロの問い

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

今朝、私たちに与えられた聖書の言葉には、そのようにありました。主イエスの一番弟子のペトロが、主イエスに対して、問いかけています。彼はなぜ、突然このような問いを投げかけたのでしょうか。それは、直前の箇所と関係があります。今朝お読みしました箇所の一つ前、私たちが読んでいる新共同訳の聖書では、「兄弟の忠告」とタイトルがつけられている箇所です。実はこの18章全体は、主イエスに結ばれた共同体であるキリスト教会の交わりについて書かれている、一つのまとまった箇所です。18:1では弟子たちが、だれが天の国でいちばん偉いのか議論しています。すると、主イエスが弟子たちに語り始めた、という文脈にある箇所です。主イエスは弟子たちに、あなたがたの共同体は、「小さな者」を受け入れる共同体であるということを語っていきます。第一に子供を受け入れること(18:5)、そして、教会に来る者たちをつまずかせないこと(18:6)。そして、教会から迷い出る者を、きちんと自分の群れに受け入れていくこと(18:14)。主イエスは、私たち教会の群れのあり方を、一つ一つ丁寧に教えてくださっています。そして、18:15にさしかかると、私たち教会の中で一番議論されるかもしれない事柄へと話を移していくのです。それは、18:15にある通り「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という事柄です。子供を受け入れること、つまずかせないこと、迷い出た者を探し出すこと、これらは、特に私たち自身に何か具体的な危害が与えられるということは語られていません。しかし、どの話も背後には、あなたがた教会は、あなたがた自身に罪を犯す者をどうするのか、このことによく注意しなければならない、ということが語られていたのです。もちろん、話し合い、和解できることが一番良いはずです。しかし、私たちの生活の中で、実はそのことが、大変よくあることでありながら、なかなか解決し難い課題ではないかと感じます。「自分に罪を犯す者を赦す」。言葉にすれば短いものですが、いざ自分がその現実に向き合うときに、驚くほど困難を覚える。私たちにも、そういう人物が一人や二人いるのではないでしょうか。手を伸ばし、本当は和解すべきだと分かっている。しかし、それをすることができないのが私たちです。主イエスは単に教会とはこうあるべきだということをこの18章で語っているだけではないことが分かります。主イエスはこれらの話を通して、私たちの最も深いところにある悩みに、触れてくださっている。私たちは主イエスの投げかける問いの前に立たされながら、主の御声によって、「赦す」とはどういうことか、その問いに立たされているのです。

 

*ペトロの答え

私たちと同じように、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という問いに、このペトロという人も立たされています。ペトロはその問いに、こんなふうに答えています。もう一度21節をお読みます。

「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

彼は決して、赦すべき回数を聞いているわけではないことは明らかです。なぜなら彼は、この18章の一つ一つの言葉を聴きながら、教会は自分に罪を犯す者をきちんとその群れに受け入れなければならない、ということを聞いているからです。その彼が、赦しを「七回」と限定するはずはありません。実は、この「七」という数字は、ユダヤにおいては、たとえば、祭司が罪の赦しの儀式をするときに、イスラエルの人々の汚れを聖別するため、祭壇に血を振りまく回数として出てきます(レビ記16:19)。つまり、それは特別な意味を持った数字であり、「どこまでも赦す」という意味を持つ数字です。

 

*主イエスの答え

主イエスは、ペトロに対してこう答えました。

「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」

「七の七十倍赦しなさい」。これが主イエスの答えです。先ほどの「七」という数字が持つ特別な意味を考えるならば、これは「490回赦せばそれでよい」と言っているわけではないことが分かります。「どこまでも、計り知れないほど、永遠に赦し続けなさい」。これが主イエスの答えです。ペトロの答えが、私たち教会を代表する声であるなら、主イエスの声は、まさに、私たち人間の想いを超えたところにある神様の声そのものです。「どこまでも、計り知れないほど、永遠に赦し続けなさい」。そして主イエスは、その言葉に続くように、23節以下のたとえ話を話し始めました。それはこういう話です。

 

王と家来

あるところに王様がいました。王様は、自分が家来たちに貸したお金の決済をしようとしています。王が決済をし始めると、そこに一人の家来がやってきました。この家来は「一万タラントン借金をしている」と紹介されています。一万タラントンとは、聞きなれない金額です。現在の金額にしてだいたい10億〜1兆円くらいだと考えられています。普通の人間が、一生かかっても使いきれないほどの金額をこの家来は王様から借りていました。実はこのたとえは、聞いている人にしてみれば、現実離れし、かなり異様なたとえです。しかし、この莫大な金額の意味が続く話の展開で明らかになっていきます。この家来は、到底この金額を返済できるはずはありません。それで、王様から「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように」命じられました。この家来は26節で「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と願います。すると、その王様は、この家来を憐れに思い、彼を赦し、その借金を帳消しにします。主イエスがどうして、こんな現実離れした金額のたとえ話をしたのか。それは、今、主イエスの言葉を聴き、罪の赦しに歩みだそうとするペトロに対して、その前に、まずあなたがたが与えられているものがどれほど大きいのか、そのことに目を留めることこそ大切なことなのだということを教えたかったからです。

 

*王と家来とは

このたとえに出て来る王様は神様です。そして、この借金を帳消しにされた家来が、私たちです。神様は、何よりも、この私たちの負債を赦してくださっている。それは、この莫大な借金が表す通り、私たちの途方も無い罪の現実を赦してくださっているということです。これは主イエスの宣言です。「あなたの罪は赦される」と、主イエスはここでペトロに向かって語ってくださっている。私は、主イエスがここでペトロに向かって罪の赦しを語ってくださっていることに、後にペトロが犯す、主イエスに対する裏切り、不信仰な姿を憶えずにはいられません。主イエスは彼が、これからの歩みの中で、ご自身に背いていく。そのあなたの罪を赦すために、そのために、私はあなたの傍らにきたのだと、宣言されているのです。

 

*王が損失を被る

どうしてそんなことが言えるのか。それは、この王様の姿に現れています。王様は、確かにこの家来の借金を帳消しにしました。家来の方からしてみれば、それは突如訪れた幸運です。しかし、王様にしてみればどうでしょうか。王様は借金を帳消しにしたところで、その損失はゼロになったわけではありません。ですから、このたとえの本質は、実は、この家来の借金を、王が代わりに背負ってくださったというところにあると言えます。神様の私たちを愛する愛。それは私たちの方から見れば、徹底して無償の愛です。しかし、神様の方には大いなる痛みがある。ペトロの弱さ、不信仰、私たちの弱さ、不信仰は、その身代わりとなった存在によって、担われ、そして赦されているということです。ではその私たちの計り知れない罪を、私たちの代わりに背負ってくださったのは誰か。それが主イエス・キリストです。主イエスこそ、罪人であった私たちの身代わりとなって、その罪を一身に受けてくださったお方です。この方が、真の神でありながら、罪人としてあの十字架につけられていくのです。キリストの十字架は、痛みと悲しみに満ちています。主イエスは、祭司長、律法学者たちに苦しめられ、引き渡され、鞭打たれ、そしてユダヤの人々、弟子たち、私たちすべての人間に見捨てられ、遂には「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫び、十字架でその命を捨てました。主イエスの十字架は、実は、本来、私たち自身が受けるべき十字架であったのです。使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙2:19-20でこう語っています。

「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」

あの2000年前に起こった十字架の出来事によって、私たちの自身の罪の赦しが成し遂げられました。そして、キリストが罪を背負い死ぬことによって、その代わりに、私たち一人一人が、全き神の子として生きることができるようになりました。私たちはもはや、罪という奴隷の軛につながれているわけではない。神様の豊かな、そして大いなる恵みの中で、神の子となる資格をあたえられているのです。主イエスはここで、その恵みをも先取りしてペトロに語っています。だから、「この大いなる恵みを受けた者として、当然、同じように、他者を赦すことがあなたはできるはずだ。安心して行きなさい」。主イエスはペトロにそう語っています。主イエスはこのようにして「七回までですか」と他者を赦すために歩み出そうとするペトロを励まし、また私たち教会の歩みをも励まし、この世へと遣わそうとしているのです。

 

*赦すことができない私たち

しかし、このたとえの後半にあるように、話はそう簡単にいかない現実があります。この莫大な借金を赦してもらった家来は、その足で、自分に借金をしていた仲間の首を絞め、しまいには牢に入れてしまいます。赦された者が、他者を赦すことができない姿が描かれます。私たちもまた、この家来が犯してしまうような、他者を赦すことができない経験を何度もします。私たち神様の恵みによって罪赦された者の歩みは、すぐには、他者を赦すことができるか問われれば、それはいつまでも未完成だと言わざるを得ません。しかし、このたとえを通して、私たちは、やはり、自分たちの行い、それはどこか不自然なことであるのだ、ということに気づくことはできます。キリストの十字架の恵みを受けている者として、この感覚は大変大切な感覚です。他者を赦せないとき、私たちはキリストの恵みを思い起こさずにはいられません。何度も自分たちに罪を犯す者に出会う時、その者を赦すことができない時、キリストがあの重い十字架をたった一人で背負い歩まれた姿を思い起こさずにはいられません。終わりの日、キリストが再び帰ってくるときに、私たちは堂々と胸を張って神様の御前に立てるのか。それは依然として、私たちが判断することができない、神様の御手に中にある事柄です。しかし、分かっていることがあります。終わりの日、帰ってくるこのキリストこそ、私たち一人一人を命がけで愛してくださった方であるということです。どこまでも神様に、そして隣人に罪を犯しつづける私たちをなお、神様はそのままで見捨てておかれないということです。ここにこそ、私たち教会が立つべき場所があります。キリストの恵みこそ、私たちはいつでも心に刻み、何度でも、自らのあり方を問い続けるべきであるのです。あなたの罪は赦される。神様は今日私たちを無下に放っておくということはいたしません。私たちの傍らにいて、いつも私たち一人一人の手を取り歩んでくださっている。私たちの神は、神我らと共にあり、インマヌエルの神様なのです(マタイ1:23)。神様は、私たちに必ず、他者との和解という恵みをお与えくださる。和解こそ、私たちがこの地上で与えられる、何物にも変えがたい喜び、神様からのプレゼントです。私たち一人一人も、その恵みにあずかる日を期待しつつ、生きることができる。人生とは、神と和解させられた者たちが、他者との和解の喜びに生きることができる、恵みに満ちた時間なのです。私たちは、この喜ばしい和解の福音を一人でも多くの人に届けたいと願います。あなたの罪は、主イエス・キリストの十字架によって担われ、赦されている。あなたは必ず、他者との和解に生きることができる。主イエスが今日も私たちと共にいてくださる。あなたも神の愛の中にあるのです。