2020年5月24日の説教要旨 詩編103:1-5 マルコ福音書2:1-12

「主によって自由になる」   加藤秀久伝道師

*はじめに

本日の聖書は、直前の、重い皮膚病の人の癒しから幾日かが過ぎて、イエス様が再びカファルナウムを訪れた時のことです。イエス様が、再び村にやって来たことが人々の間で広まり、数日前になされた癒しを見聞きした人々がこの癒しを求め、又、権威ある教えや話を聞くために、その家に集まって来ました。その家は戸口の辺りまで、隙間のないほどに大勢の人々が集まり、人々の中には奇跡を期待する人達や、直接話を聞きたい人達、又、イエス様の話に感動している人達など、その場はいろいろな思いで一杯だったに違いありません。

*4人の男と、中風の人

そのようなところに、4人の男が中風の人を運んできました。イエス様の所に近づこうとしましたが、群衆にはばまれて近づくことが出来ません。しかし4人の男達はあきらめたくありませんでした。なぜならイエス様なら、この人をきっと助けて下さる、イエス様は必ず何とかして下さると信じていたからです。彼らは、イエス様がおられるあたりの屋根をはがして屋根の上から中に入ろうとしました。当時の家屋の屋根は、おそらく横梁の上に角材を並べて、その上に木の枝や柴を編み、粘土で塗り固めた平屋根と思われますので、屋根をはがそうと思えば簡単にできたと考えられます。そこで4人の男達は屋根に上りイエス様がおられるあたりの屋根をはがし、病人の寝ている床をイエス様の所へ、つり下ろしました。

*「子よ、あなたの罪は赦される」

 イエス様は彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言いました。なぜ、「あなたの罪は赦される」と中風の人に言ったのでしょうか。この言葉を聞いた全ての人達は、イエス様の言われた言葉に戸惑いを感じたのではないでしょうか。人々は、イエス様の癒しの業を期待していたはずです。しかしイエス様は、人々の期待を裏切る形で、「罪の赦しの宣言」を行なっています。

つまり、人間は、「目に見える癒し」を求めていますが、本当に必要な癒やしは「罪の赦し」であることをイエス様はここで明らかにしているのです。人間を縛りつけているものは「病」ではなく「罪」であることを指摘しているのです。人々に、本当の「癒しと自由」を与える為には、何よりも「罪の赦し」が必要であり、「罪からの解放」が必要であることを、イエス様はここで告げていると考えることができます。

*私達にも必要な「罪の赦しの宣言」

 私達の罪とは何でしょうか。どのような罪が原因で、イエス様のもとに近づくことを妨げているのでしょうか。それは、忙しさからくる神様との交わりのなさか、それとも知らずに行なってしまった隣人に対する無関心・無反応なのか、あるいは家族とのいざこざからくる自己中心的態度からなのか・・。どのような罪であるにしても、罪を犯し続けることは、身体の器官に病を冒すことになり、最終的には身体が不自由になってしまうというのです。それゆえイエス様は、病に対しての「癒しの宣言」ではなく、「罪の赦し」を宣言されたのだと思います。中風の人は皆の見ている前で立ち上がりました。そして床を自らの手で担ぎ、その場を去って行きました。人々はこの出来事に驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って神様を賛美しました。

*私達もイエス様の十字架により自由にされた者

 神であるイエス様は、2000年前に私達と同じ人となり地上に来られました。それは私達人間の中にある罪を取り去り、自由にして下さるためです。この罪を取り去るために、イエス様は、ご自身で十字架に架かる必要がありました。罪のない方が、罪ある私達のために死なれる必要があったのです。それはイエス様が私達一人一人を大切に想い愛しているからです。罪は、絶えず私達の周りにあり、私達の心の隙間を見つけて入り込もうとしています。ですから私達は、悪い行いや考え、習慣があったとしても、日々、イエス様に赦しを求めてイエス様と共に歩んで参りましょう。イエス様は、今日も私達のそばにいて下さいます。 イエス様を求める その心を、神様は喜んで下さいます。