8月16日の説教要旨 「み言葉は魂を救う」 牧師 佐藤 義子

詩編119:73-80・ヤコブ書 1:19-27

 はじめに

今日の聖書から、三つのことを学びたいと思います。第一に、21節「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことが出来ます」ということ。第二に、22節「御言葉を、行なう人になりなさい」ということ。第三に、27節「みなし子や、やもめが困っている時に世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること」についてです。

 対話される神様

「御言葉は、魂を救う」の「御言葉」とは、聖書を通して語られる神様の言葉です。神様を知らなかった時、聖書は、私達にとって単なる一冊の本にすぎませんでした。しかし教会に通うようになり、あるいはその他の機会に、神様について、又、イエス様について学んでいくうちに私達の心は変化していきます。今までほとんど意識しなかった神様の存在が、少しずつ、はっきりしてきます。それまでは「祈る」対象(誰に向かって祈るか)が漠然としていましたが、神様は、天と地を創造し、私達に命を与え、私達の生も死も支配されるお方であることがわかってきます。そして人格を持ち(神様の場合は「神格」といいます)、私達の祈りに対して、神様は御言葉をもって私達と対話して下さることを知らされます。つまり、神様は偶像のような命がない神様ではなく、生きて働いておられ、この神様が私達の心に、魂に、働きかけて下さるのです。

 魂の救い

私達人間の心の中に罪が入り込んでからは、人間は神様から離れ、その結果、自分の欲望を制御することが出来なくなりました。現代社会は戦争が絶えず、テロやISのような暴力集団が生まれ、社会に不安と恐怖を与えています。その他、虐待、詐欺、贈収賄などの不正、又、家庭破壊から子供達に不幸な環境を与え、さらには殺人などの悲惨な事件もあとを絶ちません。これらすべては、人間が罪の支配のもとで生きている結果です。又、私達の心の中にも、時に、敵意や怒り、利己心、不和、ねたみなどが生れます。そのような、神様から離れた罪の世界から、神様は、私達を引き上げて、神様の支配のもとで生きていくようにして下さいました。これが罪からの救い・魂の救いです。魂の救いは、罪という鎖につながれて生きていた私達人間の、その鎖を、「十字架の死」によって断ち切って下さったイエス・キリストを、私の救い主と信じる時、起こるものです。19節に、「誰でも、聞くのに早く」とありますが、私達は神様の言葉を聞くことに鈍いのです。鈍いだけでなく、神様との対話を求めず、自分の論理で、解決しようとしてしまいます。私達はもっと真剣に、神様が語ろうとしておられることを正しく聞いていかねばなりません。

御言葉を行う人になる

第二の、「御言葉を行う人になる」とは、聞くだけに終らないということです。ここでは、聞いても行わない者は、顔を鏡に映して眺める人に似ていると言っています。私達は、鏡から離れれば、自分の顔をすぐ忘れるように、聞いても行わない者は、その御言葉をすぐ忘れてしまうのです。それに対して、聞いた御言葉を実践しようとする者は、「御言葉」が自分の内面を照らし、内面の本質にふれるのです。その時、何でもお出来になる神様が、必ずその御言葉を自分にさせて下さるとの確信のもとに祈り求め、たとえ時間がかかろうとも、それは成し遂げられるのです。「このような人は、その行いによって幸せに」(25節)なります。

私達の神様への奉仕

最後の27節では「みなしごや、やもめが困っている時に世話をすることと、「世の汚れに染まらないように自分を守ること」の二つを命じています。前者は、イエス様が教える隣人愛、具体的には「良きサマリア人」が示した愛です。後者は、神様を知らない人々の態度の中にある汚れを、自分の中に受け入れないようにすることです。私達は信仰によって、それらに染まらないように自分を守ることで、キリストの良き証人となるのです。この二つは神様への奉仕です。私達は今まで以上に、「魂を救う御言葉」を真剣に聞き、その実践者となり、神様の良き奉仕者とならせていただきたいと願うものです。

8月9日の説教要旨 「神の御心と律法」 牧師 平賀真理子

ホセア書6:4-6・ルカ6:6-11

 はじめに

イエス様がこの世で宣教の旅をなさっていた時代には、ファリサイ派と呼ばれる人々や律法学者と言われる人々が、ユダヤ教の指導者として、人々の生活を導き、「先生」として尊敬されていました。この指導者達は自分達は神様から選ばれて「律法」というものをいただいていると教えていました。その「律法」の中心に「十戒」というものがあります。これは、「モーセ」を通して神がイスラエルの民に与えた教えです。「十戒」は旧約聖書の「出エジプト記20章」と「申命記5章」の2か所に記されています。十の教えの内、この時代には、「安息日を守りなさい」という教えが特に大事にされるようになっていました。旧約聖書から読み取ると、安息日を守る目的は二つです。一つは、神様が六日間でこの世を造り、七日目の日に安息されたという「天地創造の御業」を覚え、この日を聖別することです。もう一つは、奴隷として苦しんでいた民の叫びを神様が聞き届け、実際にこの世に働きかけて、民を救った事実を「安息日」に思い起こして感謝を献げるためです。ですから、「律法の核心」は、「神様の人間への愛」です。それは、「自ら罪に陥った人間を見捨てず、絶対に救う」という「無条件の愛」です。「神の愛」に感謝するために「安息日」があるのです。安息日の礼拝で感謝すると共に、いただいている「神の愛」にふさわしい生き方ができるよう、神様に祈り求めるのです。

 反対派(ファリサイ派や律法学者達)の目の前での癒しの御業

しかし、ファリサイ派や律法学者たちは、前述の「律法の核心」を忘れ、安息日の外面的な細かい決まり(「安息日規定」)を守ることを強調して教えていました。安息日規定では、治療は労働と見なされて禁止されていました。命に関わることは例外ですが、「手の萎えた人」の治療は緊急事態ではなかったので、翌日に延期することが普通でした。ところが、イエス様は、神の御力を信じて癒して欲しいと心から願って御許に来た人を、「憐れみ」ゆえに待たせずに、すぐに癒されました。しかも、イエス様を訴えようとする反対派の真ん中に彼を立たせて堂々と癒されました!

 安息日に、反対派が「神の御心」を外れて行ったこと

癒しの御業をなさる前に、イエス様は反対派の人々を放っておくのではなく、問いかけをなさいました。彼らは恐らく安息日の礼拝の後だったにもかかわらず、人の落ち度を見つけようという心根で、事の成り行きを見つめていました。神様に献げる礼拝の後とは思えない、心得違いです。イエス様は、彼らの考えや行いが、神様の御心に適っていないと気づかせたかったのではないでしょうか。

 「全き善」であり、「命を与える」神様

安息日に律法で許されていることを問うイエス様の御言葉(9節)は、反対派の人々から答えをもらいたいのではありません。彼らが「律法の核心」に立ち返り、「全き善なる神様」・「命を与える神様」の御心を思い出させようとされるものです。彼らの答えを待つ必要もなく、「救い主」として、イエス様は「手の萎えた人」を癒して、苦境から救い出されました。イエス様は、安息日であろうとなかろうと、御許にやって来た人を憐れみ、命や御力を与えてくださるという「全き善」を、神様の御心どおりに行われました。

 「怒り狂った」反対派の人々

反対派の人々は、イエス様に出会い、イエス様に御言葉をかけられ、救いの御業を目の当たりにしました。「救いの御業」をたくさん受けていると言えるでしょう。ところが、彼らは、イエス様の「救いの恵み」に触れていながら、イエス様に従うどころか、背を向け、イエス様を亡き者にする謀略を練る方向へ走り出してしまいました。その果てが「主の十字架」です。「怒り狂う」という語の元々の意味は「無理解からくる怒りで満ち満ちて」というものです。自分達の考えや権威にしがみつく「自己中心の罪」によって、「救い主」の招きから外れ、罪を重ねる結果になっていったのです。私達は反対派のようになってはなりません。

 神の御心に従って「安息日」を守る

「律法の核心」について、イエス様は、ルカ10:25以降の「善いサマリア人」の箇所で、「全身全霊で神様を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」であると教えておられます。私達の場合で言えば、日曜日ごとの礼拝で、神様に感謝し、神の愛に応える生き方ができるように祈ることが大事です。また、救い主の恵みにより、永遠なる「安息」をいつもいただけるのですから、礼拝の日であろうとなかろうと、常に隣人を愛することができるよう、祈り続けたいものです。

今日の*花クラブ*

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アガパンサス

根茎性多年草

花言葉)恋の訪れ・愛しい人・知的な装い・誠実な愛・優しい気持ち

科•属名)ユリ科・アガパンサス(ムラサキクンシラン)属

今日のみことば(ヨハネによる福音書 13:34)

《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。》

8月2日の説教要旨 「安息日の主」 牧師 平賀真理子

サムエル記上21:3-7・ルカ福音書6:1-5

 はじめに

イエス様はガリラヤ地方やユダヤ地方やその周辺を巡って、福音を広める旅を続けておられました。神様のお話や神様の御力をいただいた癒しの御業によって、神様の支配がこの世に始まったことの素晴らしさを人々に知らせてくださっていました。

 ある「安息日」の出来事

福音宣教の旅のある日、弟子達が通りすがりに麦の穂を摘み、食べました。これを、イエス様一行を偵察していたファリサイ派の人々が責めました。現代の私達なら「盗み」という罪状だろうと想像する方が多いでしょう。しかし、そうではありません。通りすがりに、手で麦の穂を摘んで食べるくらいは許されていました(申命記23:26)。問題は、この出来事が「安息日」に起こったことです。ファリサイ派などユダヤ教の指導者達は「安息日」の決まりとして、労働を禁じていて、弟子達の麦摘みは、収穫という労働をしたので律法違反を犯したというわけです。

 当時の「安息日」の決まり

ユダヤ教指導者達は、神様からいただいた「十戒」を守ることが大事と人々に教えていました。特に「安息日を守る」ことについて、人々の生活に合わせた具体的な細かい決まりを作り、形式的に守らせることに留意しました。安息日に、仕事をすることはもちろん禁じられましたが、それ以外に、火を起こして料理したり、長い距離歩いたりすること等も労働として禁じられました。そのような規定が200以上あったそうです。

 「安息日」の本当の目的

旧約聖書に「十戒」は2か所に書かれています。出エジプト記20章と申命記5章です。その中の一つ、「安息日を守る」ことについては、この2か所それぞれで違う目的が書かれています。「出エジプト記20章」では、11節に、神様が六日間で「天地創造の御業」を終えられた後の7日目に休まれたと明記されています。このことを覚えるために、人間も同じように、仕事を六日間した後の七日目に休むことが必要とされたのです。一方、「申命記5章」では、エジプトで奴隷だった人々の苦しい叫びを神様が聞いて、歴史に働きかけて救い出してくださったことを想起するために安息日を守る必要があるとしています。「安息日」は、人間を造って愛してくださる神様、罪に陥った人間を救うために実際に働きかけてくださる神様に感謝を献げるためにあります。そして、神様の御心に従って初めて、人間は心から安息できるのです。

 「安息日規定」より優先されるもの

「安息日」の本来の目的から外れた所で、「安息日」の外面的な細かい規則を守らせることに躍起になっていたファリサイ派の人々に対して、イエス様はお答えになりました。イエス様がお生まれになった時代より更に1000年程前に、ユダヤ人達が一番栄えた時のイスラエル王国のダビデ王の行動(サムエル記上21:3-7)を思い起こさせるものでした。「ダビデ王」はユダヤ教指導者達が尊敬する人物の一人でしたから、ダビデ王とその一行が祭司しか食べてはならないと律法で定められたパンを食べるという違反を犯したという出来事を示すことは有効でした。ダビデ王は、非常時において律法違反をしていたけれども、神様の栄光のために働き続けて神の祝福を受けた人物として記憶されていました。イエス様は決して律法を軽んじられたのではありませんが、非常事態には、律法よりも優先されるものがあると言われたのです。それは神様の御心に適った働きをすることです。「救い主」であるイエス様がこの世で「救いの御業」をなさることこそ、神の御心に適った働きです。そのイエス様の弟子達が、福音伝道の旅の途中で、たまたま安息日に空腹になって、収穫という労働をしました。それは「安息日規定」では違反ですが、それだけで弟子達を非難するというファリサイ派の人々の考えは、神様の御心を優先していない点で、律法の本来の目的から外れています。律法の外面的な決まりよりも、律法の核心にある「神様の御心」に適う御業のために働く弟子達が優先されるとイエス様は教えておられるのです。

 「安息日の主」

イエス様は「人の子は安息日の主である」とも言われました。「人の子」とは「救い主」である御自分のことを暗示するときにイエス様が使われた言葉です。当時の指導者達がすべてに優先するとした「安息日規定」の権威よりも、「救い主」の権威が上であることを宣言されています。イエス様は、最高の権威を持って、私達一人一人の「救い」と本当の「安息」を保証してくださる御方です。

7月26日の説教要旨 「新しいもの」 牧師 平賀真理子

エレミヤ書31:31-34・ルカ福音書5:33-39

 はじめに

イエス様は「レビ」という「徴税人」を弟子になさいました。当時のユダヤ人達は、「徴税人」を大変嫌っていました。仲間から税金を取りたて、異邦人達に渡すという罪深いことをしていると考えたからです。ユダヤ教指導者達(ファリサイ派と律法学者達)も、「徴税人」を救おうとは考えず、彼らの汚れが自分にも移ることを避けるため、彼らと同席しませんでした。ですから、神の御力をいただいていると噂になっている「ナザレ人イエス」が、罪深い「徴税人」の「レビ」を弟子にしたのは、ユダヤ教指導者達には受け入れがたいことでした。まず、彼らは、「罪人」(「徴税人」を含む)と同席することを裁こうとしました。一方、イエス様は「救い主としてこの世に来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるため」と答えられました。恐らく、この答えを聞き、彼らは、「罪人を裁くのではなく、悔い改めに導く」ということが、自分達の姿勢に足りないと気づかされたのではないでしょうか。主の御言葉は、人間の本来のあるべき姿を問うものです。ユダヤ教指導者達は反論の余地が全くなかったのです。

 「悔い改め」32節)という御言葉を受けて

当時のユダヤ人達は、「悔い改め」という言葉から、ある人物を思い出しました。「洗礼者ヨハネ」です。イエス様の宣教活動開始の前に、人々に「悔い改め」を激しく迫った人物です。洗礼者ヨハネとその弟子達は、当時の人々が宗教的だと考えていた「断食」や「祈り」に熱心でした。一方、イエス様とその弟子達は、人々の前では、「罪人」達と「飲んだり食べたり」している姿が印象づけられていました。しかし、イエス様は、「断食」や「祈り」を決して軽んじられたわけではありません。宣教活動の前に、40日間の断食をされました(4:2)。また、人里離れた所で祈られた(5:16)等、いつも熱心に祈られていたことは福音書に度々書かれています。

 「花婿」=「救い主」

ユダヤ教指導者達の「イエス様一行が断食せず、飲み食いしている」という非難に、イエス様は例えで答えられました(34-35節)。「花婿」とはユダヤ人が待ちに待っていた「救い主」のこと、つまり、イエス様のことです。救い主がとうとうこの世に来てくださり、人々が喜んで集うことが「婚礼」であり、「婚礼の客」とは「救い主を喜んで受け入れて信じる人々」です。喜びの宴会では、人々は喜んで飲食します。愛する民と共に居ることを喜ぶイエス様=「インマヌエルの神」(マタイ1:23)とその一行(弟子達)も共に飲み悔いするのは当たり前だと言われたのです。主は「救い主がこの世に来て、人間として共に生きておられる」、それが本当に大変な恵みの時であることを知らせようとされています。同時にまた、救い主がこの世から奪い取られる時が来ることも告げられました(35節)。これは、「十字架」による死の予告であり、主の死後、人間が悔い改めの断食の時を過ごすようになることを知らせてくださったものです。

 新しいものは新しいものに!

イエス様を「救い主」として受け入れて信じることで救われるのが、エレミヤ書31:31にある「新しい契約」と言えるでしょう。そして、律法を守るということで救われるというのが「古い契約」であり、ユダヤ教指導者達が教えていたものです。イエス様がもたらした福音を信じる「新しい救い」は、律法を死守するというユダヤ教の「古い救い」に引き継がれるのは、むずかしいことだろうとおっしゃっています。(後の時代の私達は、まさしく、そのようになっていることを知っています。)

 主によって「新しい救い」に招かれた私達

「布切れ」や「葡萄酒」と「革袋」の例えも、古いものが、その古さ故に新しいものを受けとめ切れないということ、つまり、新しいものを受け入れられるのは新しいものだということを教えておられるのです。そして、イエス様一行を非難してきたユダヤ教指導者達に対して、御自分の「新しい救い」を彼らが受け入れるのはむずかしいだろうと予告されました。それが39節です。それまでになじんできた「古いもの」(古い「救い」)の方がよいとして、「新しいもの」の良さを認めず、「古いもの」に留まる心地よさを捨てられないという人間の頑なさを、主は知り抜いておられるのです。イエス様は、弟子達を、漁師や徴税人といった「古い救い」の中では軽んじられた人々から新しく選ばれました。そして、同じく軽んじられた「異邦人」の中に、私達もいました。憐み深い主の御心によって、私達は、「新しい救い」を受け入れる者として招かれているのです。

今日の*花クラブ*

 

 

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<牧師夫妻の庭より>

 ジニアリネアリス

ジニアには沢山の種類があるが、これは草丈30センチ程度のコンパクトな種類。一重の花を咲かせる。一年草。

科•属名 )キク科•ジニア(ヒャクニチソウ)属

花言葉)  遠くにいる友を想う・高貴な心・幸福

今日のみことば (コリントの信徒への手紙 Ⅰ   13:4)

《愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。

                                             愛は自慢せず、高ぶらない。》