2021年8月15日の説教要旨 詩編15編・ヨハネ福音書7:40-52

「真実なお方」   加藤 秀久伝道師

*はじめに

詩編15編には、神様の家には誰が住むことができるのか、どのような人が聖なる山に住むことができるのかという問いかけから始まり、その条件が2節以下に記されています。「それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり 舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人をあざけらない人。主の目にかなわないものは退け 主を畏れる人を尊び 悪事をしないとの誓いを守る人。金を貸しても利息を取らず 賄賂を受けて無実の人をおとしいれたりしない人。

これらの事柄は、礼拝するにあたり、ただ各自の態度や姿勢についての要求がなされています。すなわち私達が神様に礼拝することは、神様に犠牲の捧げ物を献げるよりも、自らが「献げ物」となる、「私自らを神様の教えに従わせる」ことが大事だと強調しています。

つまり私達は、神様に正しいとされる生活を送り、人の悪口を言わず、うわさ話に耳を傾けず、隣人を傷つけるような態度をとらず、悪とされるものから足を遠のけ、主に従う人達を大切にする。そして相手から損を受けたとしても、立てた誓いは変えない、賄賂を受け取って無実の人に不利な証言を間違ってもしない・・ならば、その人は神様から多くの祝福を得ることになるでしょう。

旧約時代の礼拝者は、この基準に沿って、神様の言われることを行ない、祭司に聖所の立ち入りを認められて、神様の前に出て礼拝をすることが許されたのでした。私達は、神様に近づく時、どのような態度、心構えで神様に礼拝を献げているのでしょうか?

*信じる者は、生きた水が川となって流れ出る(7:37~)

 本日読んだヨハネ福音書の少し前の37節に、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に」とありますが、この祭りはユダヤ人の三大祝祭日の一つであり、一週間続く「仮庵(かりいお)の祭り」(申命記16:13:小麦の収穫が終り、穀物収納の感謝祭)のことで、ユダヤ人達は特別な儀式を行います。

それは「水を汲む祝い」と呼ばれ、神殿に仕える祭司達はシロアムという名の池に下りて水を運び神殿に持ち帰ります。人々はこの祭司達の後に従って楽器を鳴らし喜び歌いながら歩いて行くのです。そして祭司達はその水を祭壇に注ぎかけます。その時人々は祭壇の周りを歩きながら「ホサナ」と叫びます。これはヘブライ語で「どうか救って下さい」という意味です。祭壇の傍らには一本の柳の木の枝が置かれ、切り取られた柳の枝がすぐに水分を失い、わずかな時間で枯れてしまう様子を自分達に当てはめながら、柳の枝が水を必要としているように「私達にも神様の救い・助けが必要です。どうぞ私達の必要を満たして下さい」との願いを込めてこの儀式を行なっていました。この儀式の最中にイエス様は大声で、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と叫ばれたのでした。

信じる者信じない者

 この言葉を聞いた人々は、「この人は、本当にあの預言者だ」とか「この人はメシアだ」と言う者と、「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫でベツレヘムから出ると聖書にあるではないか」との対立が生まれ、この対立は人々を神様を信じる者と信じない者とに分けました。信じない者は、神様はイスラエルの独立と栄光と義を回復するために人間を遣わすのであり、神様が人の姿でこの地上に現れるとは考えていませんでした。

イエス様は、私達人間を罪や悩み、様々な問題など神様との間に壁を作っている事柄から救い出す為に、この世に来て下さり、十字架にかかり、死なれ、甦られました。イエス様は「わたしを信じる(た)者は、その人の心の奥底から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われています。イエス様を一度受け入れたらイエス様から離れることは出来ません。イエス様はそれだけ、私達・あなたを愛しているからです。

なぜならわたしがイエス様を選んだのではありません。 イエス様が、あなたを形造り、あなたを選んだのですから…。