8月23日の説教要旨 「砂漠に向かうアブラハム」 野村 信 先生(東北学院大学)

イザヤ書35:1-2・ヘブライ書12:1-3

 はじめに

最近、私は部屋を片付けることを2回行いました。次に使う人のために生活空間を片付けたのです。私達は「区切りをつけて次の所へ向かうこと」を人生で何回か繰り返します。そして、人生の最期を迎える時も、部屋や財産を片付け、地上の生活に大きな区切りをつけ、次に移ります。

 「次の世界」が存在する根拠

「次の世界」に何があるのか、はっきりとはわかりません。しかし、この世の私達には「次の世界」があるとの予感はあります。それを聖書では、「神の国」とか「とこしえの命」と言っています。イエス様は、例え話を用いて教えてくださいました。また、旧約聖書では、弱肉強食の無い世界のように(イザヤ書11:6-8)例えていたりします。聖書に確かにあるとされる「次の世界」に向かい、私達は希望をもって歩みたいものです。人間は、この世の常識から考えて、「次の世界」を疑ったり、否定したりします。しかし、聖書に言われていることは、神様から言われていることであり、正しいことです!私達は、ここから、希望をくみ取る必要があります。

 「直接的な神との交わり」

フランスに住んで著作活動をした日本人の思想家で「森 有正」という学者がいます。彼が「次の世界に移っていく」ことで、晩年ずっと心に描いていたのが「アブラハム」です。森 有正は、「パンセ」という著作で有名な「パスカル」の研究を通して、「アブラハム」に出会いました。聖書の神様は「アブラハムに呼びかけ、イサクを祝福し、ヤコブに働きかけた神様」です。後々の人間が宗教として規定したような、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神ではないとパスカルは言いました。「私に働きかけてくださる神」「生々しい神」であるとして、キリスト教を勧める本を書きました。「神と私がじかに語り合う(『私』としては祈り求める)」これが信仰の原点です。「直接的な神」とパスカルは言っています。更に言えば、「人間である『私』は、神とのつながりを決して欠かすことはできない」と聖書は告げています。

 「砂漠を見ていたアブラハム」

森 有正は「ヘブライ人への手紙」を読んでいくうちに、アブラハムの人生は砂漠を見ていた人生であると気づきました。アブラハムは、神様から召し出されて故郷から砂漠に向けて出発しました。「不妊の女である妻サラによって与えられる子供を通して子孫が砂のように増える」と神様から言われた時も、砂漠を見ていたに違いありません。(最初はとても信じられないことでした。)4千年の時を経て、今や世界の人口の2分の1がアブラハムの子孫です!「神の約束」は実現するのです!その孫のヤコブも兄エサウとの確執で砂漠を越えて親戚の所に身を寄せて寄留者の立場になりましたが、神様の祝福の下、財産を増やして故郷に帰り、兄にも認められる存在として和解に漕ぎつけました。その息子ヨセフは、異郷の地エジプトに売られ、ひどいことに、囚人にされましたが、そこから、エジプトのNo.2の地位にまで上る恵みを受けました。その400年後、エジプトで奴隷として苦労していたイスラエルの民は、神の恵みにより、「モーセ」を指導者として、約束の地「カナン」へ帰ってくることができました。(モーセはカナンを目前に亡くなりますが…。)アブラハム以降の族長は砂漠を見ていましたが、神との約束を信じて希望を持って歩んだのです。

 「砂漠を歩んだイエス・キリストの人生」

「砂漠を見ていた」とは、「悲惨で厳しい道を歩んだ」ということですが、この点で、最も悲惨な人生を歩んだのが、「イエス・キリスト」です。しかし、十字架の死の後、イエス様は復活されました!まさしく、「暗闇」を「光」に、また、「死」を「復活」に変えてくださったのです。「死」の後に「光」=「希望」が満ちています。だから、キリスト者も希望に満ちて歩んでいるのです。たとえ、それぞれの現状が砂漠のような厳しい状況でも…。神の約束はふさがれて、はっきり見えないかもしれませんが、「キリストを信じる」とは、新しい世界があるという希望を、眼前に見つめながら進むことです。

 「十字架」から「栄光」へ=「絶望」から「希望」へ!

ヘブライ人への手紙12章2節には「イエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになった」とあります。イエス様は「恥」「恥辱」「敗北」で人生を終えられましたが、神の目から見れば、それは一つの通過点です。最終的には、「神の玉座の右にお座りになる」という「栄光」を受けられました!ヘブライ人への手紙には、悲惨な状況の時、イエス様が横にいて助けてくださると書かれています。(2:17-18、4:15-16、5:7-10等) イエス様は、信仰者の全生涯の中にいてくださいます。たとえ、真っ暗な墓の中にまでも……。キリストによって、暗闇(絶望)から光(希望)へと移っていくのです。

 イエス・キリストの教え

そのような救い主イエス・キリストの教えを集約するならば、「神と隣人とを愛しなさい。」と「神に感謝して喜びを持って生きなさい。」ということです。前述のとおり、ヤコブやヨセフは、厳しい境遇に置かれてもふてくされたりしませんでした。その境遇で一生懸命に生きて、財産や地位を得ました。将来の希望を見据えつつ、つらい現状でも、神と隣人とを愛しました。ヘブライ人への手紙11章には、「信仰によって」という言葉が随所に記されていますが、ヤコブやヨセフは、まさしく、「信仰によって」砂漠に向かう族長だったのです。その11章の8節には、アブラハムについて「行く先も知らずに出発した」とありますが、そんな状況でも、アブラハムも、神と隣人を愛して歩んだのです(創世記12章-25章)。

 「イエスを見つめながら」(ヘブライ12:2)喜ぶ

ヘブライ人への手紙12:1では「こういうわけで」と言って、11章の族長達の信仰深い歩みを踏まえた上で、「自分に定められている競走」をまっすぐ走ることを勧めます。次の2節の「信仰の創始者または完成者であるイエスを見つめながら」という御言葉は重要です。どの人にも現実の悩みがあります。しかし、「預言者イザヤの幻」(イザヤ35:1-2)にあるように、砂漠一面に花が咲くのです。これは、「神の(救いの)約束の中に立てば、人知では及ばない、素晴らしい喜びの世界がある」との例えです。救い主イエス・キリストを知って信じる者達には、救ってくださった神様への感謝と、救いに招かれた喜びが満ち満ちています。イザヤの預言は「喜びの先取り」です。現状は砂漠のように厳しくても、救い主を見つめるならば、花園のような喜びが、今、ここに起きていると告げています!

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