2月5日の説教要旨 「ともし火」 平賀真理子牧師

詩編119105112 ルカ福音書113336

 はじめに

2017年の年明けから、ルカ福音書11章14節以降の「ベルゼブル論争」から読み進めてきました。今日の箇所で、一連の流れのお話は終わりになります。ルカ福音書の筆者は、「体のともし火は目」といった、今までの流れとは、一見関係ないような話を、この箇所に置いています。

 直前の段落「人々はしるしを欲しがる」から導き出されること

しかし、この箇所が直前の段落を受けて書かれていることがわかれば、今日の箇所が、私達に対する主の勧告だと理解できます。直前の段落で大事な「しるし」として語られているのは、イエス様の十字架と復活の御業による救いのことです。「救い主としてのその救いの恵みは全人類の救いのしるしとなる、つまり、主の十字架と復活の恵みは全人類に惜しみなく与えられていると語られています。

 「ともし火」=「主の十字架と復活の恵み」の例え

だから、今日の箇所では、「ともし火」とは「イエス様の十字架と復活の恵み」の例えと言えるでしょう。主の救いの御業の恵みはとても大きいので、隠せるようなものではなく、むしろ、その光を求めてやってくる人にはよく見えるようにふさわしい場所に置かれるべきものであると33節で語られているのです。

 人間の体の中で「ともし火」となるべきところは「目」

次の34節では、人間の体の中で「ともし火」となるべき個所は「目」であると語られています。医学的に言えば、「目」が光を受けて「光」を認識する器官であるということでしょう。その作りが完全で、完全に機能していれば、光を受けて体にも光が満ち溢れることになるし、そうでなければ、体がに光のない状態=闇に満たされることになると語られています。

 「目」=「心の目」

「目」とは「心の目」の例えです。「目が澄んでいれば」とは、元々の言葉で「目が単純であれば」という意味を含んでいます。それは何を言っているのかというと「心の目が単純であること」、つまり、「神様に二心を持たないこと」を指すそうです。唯一の神様だけを第一に敬う心の目が機能しているかどうかということです。ユダヤ人達の中で、「澄んだ目」とは「唯一の神様を信じる心」を例えたもので、「澄んだ目」を持った人だけが「唯一の神様を見ることができる」という考えがあったそうです。

 「目が濁っている」=「唯一の神様を信じない」

34節では、逆に、「目が濁っている」という表現がありますが、それは「唯一の神様を信じない」とか「複数の神々を信じている」とか「この世の価値観を第一に生きている」といった意味になるわけです。

 33節-34節のまとめ

イエス様の十字架と復活の恵みは誰にでも与えられる大いなる恵みなので、それを尊重して輝かせられるよう、ふさわしい「心の場所」に置かれるべきであり、そうすることで、自分も他者も、その恵みをいただくことができ、神様の御前に健全な存在となれます。そのような豊かな恵みをくださる「唯一の神様」を信じる「澄んだ心の目」でいられるように、イエス様が勧めておられるのです。

 「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」(35)

「澄んだ目」であれば、主の十字架と復活の恵みの素晴らしさがわかるはずです。でも、人間は一度わかっても恵みを忘れることがあることも、主はよくご存じだったのだと思います。だから35節で、その恵みを受けた光が消えていないかを注意するように教えておられます。

 「主の救いの完全な光に照らされ続けるならば」

そして、イエス様の救いの恵みの完全な光に照らされ続けるならば、私達人間は、神様から離れた闇の部分などなく、本当の恵みの光が、その人の全存在を輝かせるはずだと36節で語られています。

 2つの課題

今日の箇所から私は2つの課題を読み取りました。1つは「ともし火」が唯一の神様の御子イエス様の救いからくるものだと知ることです。ユダヤ人の多くは神の民として選ばれて愛されながら、イエス様を救い主と理解できませんでした。しかし、新約時代の私達は、聖霊の助けにより、そのことをわからせていただいていることに感謝しましょう。そして、2つ目の課題として、本当の光をふさわしい場所に高く掲げ続ける必要を痛感します。この世に対する証しとして、教会がその役目を第一のこととして負う責任を果たしているかを吟味し続けるべきです。そして、教会に連なる私達一人一人が、主の救いの恵みの光を高く掲げて、キリスト者としての生き方を貫くことも、主の恵みをふさわしい場所で輝かすことなのです。2つの課題に励めるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。