6月18日の説教要旨 「赦してくださる御方」 牧師 平賀真理子

イザヤ書54410 ルカ福音書12812

 はじめに

今日の新約聖書箇所の直前の段落で、イエス様は、人間の目より、悠に重要な「神様の目」を第一に考えるべきだと教えてくださっています。御自身も、父なる神様の御心を成し遂げること(人間に対する救いの御業)を第一として歩まれました。そして、権力はあっても人間に過ぎないファリサイ派などの思惑に左右されることはありませんでした。しかし、同時に、福音がこの世に広まることが神様の御旨であればあるほど、この世の長として人間を利用するサタンの反撃は大変激しくなると予見なさいました。御自分と同じように、弟子達も反対派の反撃を仕掛けられることが、主はお分かりになっていました。権力者や世間が反対する中、神の御子・救い主イエス様の弟子として、自分の立場を公けに発言しなければならない弟子達を、主は事前に励ましておられるのです。

 イエス様の弟子であると公けに信仰告白すること

人々の前でイエス様の弟子であると言う場が与えられて、そのように言えるならば、人の子=イエス様も、その弟子を「神の天使たちの前で」自分の仲間であるとおっしゃいました。そして、逆も真なり、人々の前でイエス様を知らないと言う者は、神の天使たちの前で言われるとおっしゃいました。本当の弟子であるならば、つまり、揺るがぬ信仰を与えられた者は、人の目や人の評価を気にせず、イエス様の弟子であると公けに宣言できるでしょう。そうできれば、人目、つまり、この世を恐れず、本当の救いをくださる神様を第一に生きていることを天地に宣言することになり、神様を喜ばすことができると示されています。

実は、私達はイエス様の弟子であることを、一度は公けに、既に宣言しています。洗礼を受けた時です!まだあります。毎週1回は宣言しています。礼拝で「使徒信条」を高らかに信仰告白しているわけです!しかし、キリスト教の歴史の初めの頃、つまり、直弟子達やそれに続く信仰者達は、命を掛けるような厳しい状況に置かれることを、イエス様はわかっておいでだったと思われます。そのような信仰者達に対して、イエス様御自身や父なる神様、神の天使たちまでが、見守っているから、信仰を告白できるように!と主は励ましておられると思います。

 主を知らないという者は、主に知らないと言われるのか、赦されるのか

それでも、人の子=イエス様を知らないという信仰者もいることを主は御存じでした。そのような者は、神様の御前で知らないと言われるとおっしゃった9節の直後の10節で「人の子の悪口を言う者は皆赦される」と言われました(「悪口を言う」とは、原語ではその関係を否定するという意味があります)。9節と10節では、イエス様への信仰を公けに告白できない者に対し、主が全く逆の対応をなさるとのことです。この流れの中で、何が起こったか、2つ考えられます。

一つは、同じ内容を記したマタイによる福音書と比べてわかることです。今日の段落は、その見出しにあるように、マタイ福音書の10章を中心に3箇所に分かれて書かれています。福音書は、イエス様の直弟子やその次の世代が、主の歩みや御言葉について、後代のために、聖霊に導かれて記録したものです。主の御言葉を弟子達はよく記憶していたとしても、その時の状況については少しずつ記憶が違っていたのかもしれません。ルカによる福音書では、厳しい状況の中、イエス様の弟子であると公言する重要性と、それを乗り超えるためには、聖霊の助けがあるという神様の恵みに焦点をあてて、伝えられていると思われます。

もう一つは、この時に弟子達(特にペトロ)が視界に入り、彼らが御自身との関係を公けに言えないという出来事を、もう既にイエス様はおわかりになっていたのではないかということです。事実、この後、イエス様の裁判の時、ペトロはイエス様の弟子ではないかと人々に問われたのに、その関係を全く否定したことが福音書にあります。信頼に値しないペトロに対し、イエス様は復活された後、彼を赦し、御自身の方から会いに来られ、神様の霊=聖霊を送ってくださいました(使徒言行録2章)。聖霊を受けたペトロは、別人のように変えられ、「人間が十字架で殺したイエス様を、神様が救い主となさった」と証しし、主の復活の証人であると公言して、厳しい状況の中、福音伝道のために、力強く、喜んで働きました。聖霊を受けた者は全く変えられ、神様の御用のために豊かに用いられます。この世に来てくださり、人の心を見抜く御方であるイエス様だからこそ、御自身への信仰告白を望んでおられても、告白できない人間の弱さを知っておられ、赦してくださり、父なる神様に執り成して聖霊をくださる御方なのです!