6月25日の説教要旨 「人間の視点」 牧師 平賀真理子

詩編491421 ルカ福音書121321

 はじめに

イエス様の周りには、いつも多くの群衆が押し寄せました。イエス様のお話を聞くことで、多くの人々が希望を持ったことの証しでしょう。ルカによる福音書12章1節によれば、そのような中、イエス様はまず、弟子達に教えを語っておられます。ファリサイ派を中心とした反対派の偽善に注意すること、しかし、このような権力者達は人間に過ぎないので恐れる必要はなく、弟子達には本当の権威を持つ、父なる神様がついてくださっていると励ましてくださいました。また、この世で人間として歩まれたイエス様は、人間の弱さも重々ご承知の上で、御自分が悪く言われても、人々を救う救い主として、父なる神様に執り成して聖霊を送ってくださることも保証してくださいました。

 問題を根本的に解決をなさろうとするイエス様

そこへ、群衆の中から、個人的な願いを持ちかける者が現れました。この人の訴えに対し、イエス様は、表面に現れた、相続問題だけを解決しても根本的解決にならないことがわかっておられました。本人も認識できていない、深い部分に問題の根本があり、そこから彼を救う必要があるとイエス様は見抜かれました。相続問題の調停をするかしないかを言葉の上で明確に御答えにならず、そのような裁きをするために御自分がいるのではないと宣言なさいました。一見、愛がないように見えるかもしれません。しかし、イエス様の実践なさる「愛」と私達が実践する「愛」とは、内容が違うのです。前者は、人間の悩みや苦しみを根本的に解決したいと熱望して実際に働いてくださるものです。その範囲は無限、力も無限です。一方、後者は、相手の依頼を解決しようと試みますが、その視点は目の前のごく近い所・浅い所に絞られており、私達は、ごく小さな範囲しか気づき得ない、有限なものです。

 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。」(12:15)

「貪欲」とは「もっと!もっと!」と欲しがる心です。この相続問題を抱えた人は、単なる法律の不正から相談に来ているのではなく、心の底に、この世の物、殊に財産(=お金)を欲する心(=欲望)に支配されていることを、イエス様は見抜かれたのでしょう。それはこの人だけの問題でなく、群衆一同、更には人類に共通する問題です。人間の普遍的な罪を根本的から救う、それが、本当の意味での救い主の役割であることをイエス様は自覚され、そのために働かれる姿勢を示してくださっていることがわかります。

聖書では、「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3:5)とされて戒められています。人間は、神様から「命の息」を吹き入れられて初めて「生きる者となった」とされています(創世記2:7)。神様によって「命の息」が入る部分を、神様由来でない物で埋めようとしても満たされません。無限のものが入るべき所を有限な物で埋めることはできません。しかし、神様を忘れたり、背いたりする者は、この「不可能」に無謀にも挑戦しているのです。決して神様から祝福されません。

 「人の命は財産によってどうすることもできない」(12:15)

「人の命」の「命」という所に使われている単語は、元々の言葉では「永遠の命」という時に使う単語と同じです。イエス様は、「人間が神様に繋がって永遠の命を得る」ことが本当の幸いであり、人間にそのことを教え、本当の幸いをくださろうとなさっています。その「永遠の命」のためには、人間が作った物やこの世の物(お金を含む)、つまり、有限な物は何の働きかけもできません。

 この世での「命」を「主は与え、主は奪う」(ヨブ記1:21)

イエス様は、この時の群衆に合わせて、例え話をなさいました。16節から20節までの「愚かな金持ちの話」です。この金持ちは、まず、豊かな恵みをくださったのが神様であることを忘れ、神様への感謝を献げていません。更に言えば、「愚かさ」の一番の原因は、この世での歓びや楽しみの土台には「命」(原語では、15節の「人の命」の「命」とは異なる単語)があり、それを人間に与えたり、奪ったりするのは、神様であることを忘れていたことです。この金持ちは、神様から与えられた命のもと、収穫の恵みをいただき、自分で考えたことを実行することが、わずかの間、許されていただけだったのです。

 「人間の視点」、それに対して、イエス様の「神の前に」という視点

この例え話の結論の21節にあるように、罪の中にある人間の視点は「自分のために」です。一方、主は「神の前に」という視点を教えてくださいました。私達も主から学び、「神の前に」豊かになることを願って生きていきたいものです。