4月8日の説教要旨 「見ずして信ずる者は幸福(さいわい)いなり」 佐藤 義子

詩編145:1b-9,17-21 ヨハネ福音書20:19-29

はじめに

イエス様が復活した! 死人がよみがえった!   教会が知らせる、この素晴らしいニュースは、人知を超える出来事ですから、普通の感覚であれば、あり得ないこと、信じ難いこととして受け止められます。それゆえ、イエス様が十字架というむごい死刑で死なれたこと、しかも死で終らずに三日目に復活されたことが、伝道を困難にしていると考えて、もしも宣教内容を、イエス様の「十字架の死と復活」を背後にまわして、前面には「神の愛、キリストの愛、隣人愛」だけを大きな声で語り続けていくならば、教会は教会でなくなってしまうでしょう。キリスト教は確かに、私達人間が正しく生きる生き方を指し示していますが、その大中心にあるのはイエス・キリストの十字架の死と三日後の復活の出来事(その根源には神の愛・キリストの愛がある)であり、これこそキリスト教がキリスト教として立ち続けている土台です。

 

家の戸に鍵をかけていた弟子達

今日の聖書には、イエス様の十字架に伴うご受難と死と埋葬の出来事(18-19章)に続く、三日目に起こった復活の出来事が記されています。20章前半には、マグダラのマリアが復活されたイエス様と最初に会い、弟子達に、イエス様とお会いしたことと受けた伝言を伝えたことが記されており、今日の箇所は、同じ日の夕方、復活されたイエス様がトマスを除く弟子達の集まっている所に来て下さったこと、後半には、その八日後、再びイエス様が、今度はトマスもイエス様とお会いした出来事が記されています。 今日読んだ最初の19節には、弟子達がユダヤ人を恐れて家に鍵をかけていたとあります。弟子達は、今まで主と仰ぎ、先生と慕ってついてきたイエス様を失い、大きな失意と悲しみの中にいただけではなく、神を冒涜したとして処刑された犯罪者イエスの弟子・仲間であるとの理由で、イエス様を憎んでいたユダヤ人達から、いつ襲われるかもしれないという不安の中に、身をひそめて過ごしていたことでしょう。

 

シャローム(あなた方に平和があるように)

そこへ突然、復活されたイエス様が来られ、真ん中に立たれて「シャローム」と挨拶されました。復活体のイエス様は空間と自然を支配されておられます。「シャローム(あなたがたに平和があるように)」の平和とは、人間の全領域にわたっての、神様のご意志に基づいた真の望ましい状態をさす言葉です。イエス様は、この挨拶のあと,ご自分から十字架の釘あとが残る手と、兵士の一人が やりでわき腹を刺したその傷跡を弟子達にお見せになりました。それによって弟子達は、今目の前に立たれているイエス様が、三日前に死んで葬られた自分達の先生であるイエス様だと確認して、「弟子たちは喜んだ」(20節)とある通り、それまで部屋に満ちていた、おそらく暗い絶望的な空気を吹き飛ばすかのように大きな喜びが弟子達の間に満ち溢れたことでしょう。イエス様は再び「シャローム」と言われました。弟子達が、神様の御心に沿う望ましい状態の中で生きていくことを強く願われていたことを思わされます。そしてイエス様は、弟子達に大きな使命と権限を与えていかれました。

 

大きな使命と権限

大きな使命とは、イエス様が生前、父なる神様から派遣されて宣教してきたように、今度はイエス様から弟子達に派遣命令が出されたのです。弟子達は、これまでイエス様と共に宣教活動を行ってきましたが、その宣教をこれからも中断することなく引き継ぐことを命じられました。

そしてもう一つなされたことは、この宣教活動に不可欠な「聖霊」を、弟子達に与えられたことです。この聖霊が与えられたことによって、弟子達には「罪の赦し」と「罪の留保」(罪が赦されないまま残る)という、二つの権限が委託されたのでありました。

 

教会へ引き継がれる

ここで大切なことは、復活のイエス様が弟子集団に与えた大きな使命と権限が、この時以後、ペンテコステの出来事を経て、教会へと引き継がれ、私達の仙台南伝道所も又、一つの教会としてイエス様の派遣命令を受けて立ち、宣教の使命を果たすべく日々歩んでいるという事実です。

そして、聖霊の導きのもとに行われるバプテスマ式、すなわち「イエス様の十字架の死によって、自分の罪が贖われ、赦されたことを信じる」信仰告白に基づいて行われるバプテスマ式を通して、今も、すべての教会は、委託された罪の赦しの権限を正しく行使することが求められています。

 

復活のイエス様にお会いできなかったトマス

24-25節には、不在の為、復活のイエス様に会うことが出来なかったトマスと他の弟子達との会話が記されています。弟子達はイエス様とお会い出来た喜びの中で、仲間のトマスに、口々にイエス様のことを、興奮と感動をもって伝えたことでしょう。しかしトマスはこの嬉しい大ニュースを聞いて一緒に喜ぶことは出来ず、こう言います。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。

 

トマスの不信

トマスは、なぜ信じられなかったのか、と私達はトマスを批判することは許されないでしょう。と申しますのは、20章の最初には、マグダラのマリアからお墓が空になっていることを知らされたペテロと、もう一人の弟子が、お墓まで走って確かめに行くことが記されていますが、二人は、中にあった遺体がなくなっていることを確認したものの、イエス様の復活と結びつけることは出来ないまま帰宅しています。その行動に対して聖書は、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(9節)と説明しています。又、ルカ福音書24章36節以下には、復活されたイエス様が弟子達の所に来られた時、弟子達は、「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と記されています。 さらに、その前には、エマオへの途上で、二人の弟子が途中からイエス様と同行する出来事が記されていますが、二人とも食事をするまでイエス様のことが分からなかったことが記されています。さらに又、マルコ福音書に出てくる女性達についても以下のように記されています。「若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。(中略)さあ、行って、弟子達とペトロに告げなさい。『あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(16:6-)

 

不信のトマスにイエス様は・・

トマスは八日間、不信の中で苦しんだことでしょう。彼は自分の前にイエス様ご自身の姿が現れて、自分に満足を与えて下さることに固執していました。ただ見るだけでなく、その姿が亡霊でないことを確かめるために、自分の手を使って直接その部分に触れることを望んだのです。再会されたイエス様は、トマスに「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい」と、トマスが望んでいたことをするように許可されました。トマスは自分の願い通り、確認したのでしょうか? 聖書はそう書いていません。トマスは(おそらくそのお姿に圧倒されて)何も言えず、口から出た言葉は、ただ、「私の主、わたしの神よ」との信仰告白でした。これは最も古い信仰告白の言葉とされています。私達も又、イエス様にこの告白の言葉を捧げた時、私達は新しく造り変えられていくのです。

 

「見ずして信ずる者は幸福(さいわい)いなり」

イエス様はトマスに「見たから信じたのか」と、トマスの不信仰と、かたくなな心を おとがめになっています。そしてこのあと、「見ないのに信じる人は幸いである」と言われました。聖書に登場する弟子達や婦人達の姿の中に、私達は、私達の中にも入り込もうとする不信や、かたくなさや、自己主張や、弱さを見ます。にもかかわらず、イエス様は、すべてをご存じの上で、私達を赦し、聖霊を与えて下さり、教会を通して伝道へと派遣されておられます。イエス様から送られてくる聖霊の導きの下で、見ないで信じる幸いな多くのクリスチャンが、2000年以上たった今も尚、生れ続けており、私達の伝道所でも10人の方々が見ないで信じる幸いな人として加えられました。何と素晴らしい大きな恵みでしょうか。最後に、第一ペテロの手紙1:8-9(p.428)を読みます。

あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今、見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。それは、あなたがたが信仰の実りとして、魂の救いを受けているからです。

“4月8日の説教要旨 「見ずして信ずる者は幸福(さいわい)いなり」 佐藤 義子” への3件のフィードバック

    1. ろーず様、ご質問ありがとうございます。遅くなりましたが回答させて頂きます。

      ヨハネによる福音書20章21節-23節
       「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。
      『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』
      ______________________________________
      4月8日の説教で、この箇所について次のように語りました。(以下、抜粋)
      イエス様は、「シャローム」の挨拶のあと、弟子達に大きな使命と権限を与えられていかれました。大きな使命とは、イエス様が、生前、地上で宣教活動をされていたのは、父なる神様から派遣されていたからでありましたが、今度は、弟子達が、イエス様から派遣されて、これまでの宣教活動を引き継いでいくという大きな使命であります。
      そしてもう一つなさったことは、この宣教活動に不可欠な、聖霊を、弟子達に与えられたことです。この聖霊が弟子達に与えられたことによって、弟子達には「罪の赦し」と「罪の留保」、
      つまり罪が赦されないまま残るという、二つの権限が委託されたのでありました。
      ______________________________________
      *「罪の赦し」について
      キリスト教の宣教の中心は「罪のゆるしの福音」です。イエス様の福音宣教の言葉は、「時は
      満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ福音書1:14)でした。イエス・
      キリストによって新しい時代が到来し、キリストのみが神の子として罪を赦す権威を持つ者でした(マタイ福音書9:6)。イエス・キリストの生涯は、人の罪を自ら負うことによって、人の罪を
      赦す(贖罪:しょくざい)生涯でした。最後の晩餐のイエス様の言葉 「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタイ福音書26:28)と、ある通りです。又、主の祈りの中でも、又、「七の七十倍までも」(マタイ18章)赦すように、と教えています。又、パウロの手紙に「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ(あがなわれ)、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェソ1:7)とあります。
      「ゆるし」は、キリストによって、今、わたしたちに与えられている恵みであると同時に、それは、終末において与えられるべき約束です。
                             <以上、「新聖書大辞典」より抜粋>
      *「罪の留保」について
      復活されたイエス・キリストは、ご自分が父である神から遣わされたように、今、弟子達を
      派遣するにあたり、「聖霊を受けよ」と聖霊を与え、ご自身と弟子達の間に、御霊の交わりを造られました。そして、弟子達の使命が、罪を赦すことの中にあると示されました。
      したがって、彼らがゆるさないところでは、罪責は残り、裁かれるのです。彼らがこのことを
      力強く行い、彼らのゆるしが真実のゆるしであって、彼らの罰が真実の罰となるためには、そのことが、人間的な思いに従い、単なる人間的な愛や人間的な怒りから行われてはなりません。
      そのために弟子達は、御霊に照らし出される目を必要とし、御霊に清められた心と御霊の与える言葉を必要としました。彼らは、イエス・キリストの恵みの御業を助け、人間を罪から解放すべきなのです。
       しかし弟子達は又、裁きの御業においてもイエス・キリストの奉仕者とならねばなりません。それはイエス様ご自身も地上の奉仕において、いかの神様がこの世を愛し、いかにこの世が自ら裁きを招くか、これら二つを完全に一致して啓示したのと同じです。弟子達の言葉においても、業においても、イエス・キリストは恵みと真理とを一つにされました。
      それゆえ、彼らの使命の中で、罪をゆるすことと、とどめることを結ばれたのです。
       しかし、そのため、彼らは、ただ一つ、彼らをそのような役にふさわしくする聖霊を必要とし、それを受けたのです。
                    <以上、シュラッタ-新約聖書講解 4> 新教出版社 より
      ____________________________
      *尚、参考聖句として以下の言葉があります。
       
      「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪をおおやけに言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(ヨハネの手紙一 1:9)

       「だから、言っておく。人が犯す罪や冒とくは、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する
      冒とくは赦されない。人の子(イエス様)に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタイ福音書12:31-32)

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