12月23日の説教要旨 「この世に来られた救い主」 平賀真理子牧師

イザヤ書9:1-6  ルカ福音書2:1-21

 *はじめに

 私達の救い主イエス様について、お生まれになった経緯を具体的に記録しているのは、4つの福音書のうち、マタイによる福音書とルカによる福音書です。そのうち、ルカによる福音書だけが「人間世界の記録」を意識していると言えます。というのは、イエス様がお生まれになった時を、当時のローマ帝国のアウグストゥスという皇帝の治世の時と明記しているからです。更に限定された時と地域が示されます。ローマ帝国の役人「キリニウス」がシリア州の総督だった時と記されています。このように、ルカ福音書では、人間世界の記録で重要な「時と場所」を意識して表記しています。イエス様が本当に「この世に来られた御方」であることを伝えようとしていると読み取れます。

 

 *「救い主についての3つの預言」がすべて実現

この福音書の1章では「天使のお告げ」等があって、幾分「物語」のようでもありますが。2章に入ると、上記の理由で、俄然、この世に本当に起こった出来事、つまり、事実の記録の度合いが高まります。そして、イエス様のこの世における父親役を引き受けるヨセフに焦点が当てられます。イエス様の母に選ばれたマリアの婚約者であるヨセフは、まず、ガリラヤに住んでいながら、しかし、ローマ皇帝の命令によって、先祖であるダビデ王の町ベツレヘムへ一時的に出かけるように設定されなければならなかったのです。というのは、「救い主」についての3つの預言を実現させる必要があったのです。一つは、ダビデ王の預言者だった「ナタン」を通しての預言「ダビデ王の子孫から救い主は生まれる」(歴代誌上17章)ということがイスラエルの人々によく知られていたのです。二つ目は、今日の旧約聖書イザヤ書9章の直前の1行に記されている「異邦人のガリラヤが栄光を受ける」という預言です(ガリラヤはイエス様の育った土地、所謂「故郷」)。三つ目は、ミカ書5章1節にある預言「ベツレヘムからイスラエルを治める者が出る」という内容です。神様は、イスラエルの民に告げた、一見内容の異なる3つの預言を、このように人知を超える形で、実現してくださったのです!ダビデ王の子孫でガリラヤに住むヨセフに、身重の婚約者を伴う旅をさせ(皇帝の命令には逆らえない!)、旅先のベツレヘムで「救い主」として御自分の独り子をこの世に誕生させるように、神様がなさったのです。

 

 *「神様をお迎えする場所を用意しているのか」という問い

神様がイスラエルの人々への預言をこのように守ってくださっているのに、それを受ける側の人間達はどうだったかと言えば、イエス様が待望の救い主だとわからず、最初の時から、救い主の場所は用意されていなかったわけです。7節「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とあります。これは、当時の状況を述べているだけではなく、私達も、この世の出来事でいっぱいいっぱいになって、神様のおられる場所を、心の中に確かに開けているかどうかを問われていると受け止めるべきです。

 

 *天からのお告げを受けて信じる者のみ「救い主」を礼拝できる!

ただ、7節までに記された人々は、救い主がこの世に生まれたことを知らされていなかったようですから、そのような態度となったことも仕方なかったのかもしれません。一方、それとは対照的に、8節からは「救い主御降誕」を天使によって知らされた「羊飼いたち」の様子が記されています。羊飼い達は、当時のユダヤ教では、仕事柄、礼拝を守れないダメな人々、「神様の恵みを受ける資格のない人々」とされていました。けれども、人間の基準で低く見られていた彼らに、神様からの大事な知らせ「救い主御降誕」が最初に告げられました。彼らは、天使の言葉(即ち、父なる神様から託された御言葉)を受け入れ、信じ、その内容を確かめに闇夜の中で歩み始めました。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」というしるしを目当てに、イエス様を探し当てて拝み、この重要な知らせをくださった神様を賛美する恵みを最初にいただきました。キリスト教では、イエス様は「神様の御言葉としての存在」と申します。神様の御言葉であるイエス様を中心に、天使のお告げを受けたヨセフとマリアと羊飼い達が礼拝するという信仰の形が、既にできていたのです!ここに、私達プロテスタント教会が大事にしている信仰、つまり、御言葉をいただいて礼拝する信仰が示されているのです!