3月31日の説教要旨 

エレミヤ書31:31-34 ルカ福音書24:36-53

「主の十字架と復活と昇天の証人」平賀真理子牧師

 *はじめに

ルカによる福音書の最終章24章の35節までを振り返りましょう。まず、復活なさったイエス様について、天使の証言「あの方(イエス様)は復活なさった」という「御言葉」がありました。しかし、弟子達の多くは、それだけではすぐには信じられませんでした。次に、復活のイエス様は、エマオへ向かう二人の弟子達に現れましたが、彼らも弟子でありながら、「復活の主」にすぐには気づけませんでした。主の死で絶望していた彼らに対し、「復活の主」自らが、聖書の御言葉と生前の御自身の教えを思い起こさせ、「主は復活なさった」と二人を導き、希望を与えられました。エルサレムに引き返した彼らは、自分達だけでなく、一番弟子の「シモン・ペトロ」も「復活の主」に出会ったことを知らされました

*今の御自分は「復活の主」だと弟子達に悟らせようとなさるイエス様

神の都エルサレムで、イエス様の弟子達が「主が復活された」と確信を持ち始めたその時、何と当の「復活なさったイエス様」が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と挨拶なさったことが36節にあります。これは、かつて、72人の弟子達を福音宣教に派遣する時、イエス様が弟子達にまず、そう挨拶しなさいと教えた御言葉です(ルカ10:5)。主がかつて教えた御言葉を聞いて、弟子達は、この現れた人が「復活したイエス様だ」と悟れるはずだったとも思えます。ところが、彼らはすぐには悟れず、「亡霊だ」と恐れおののき、うろたえ、心に疑いを持っているとイエス様に見抜かれました。ここでイエス様は、人間の亡霊に対する「肉も骨もない」という思い込みを逆手に使い、御自分の今の姿には「肉も骨もある」とお見せになりました。更に、「食べ物を食べる」様子をお見せになり、御自分の今の姿は、人間が今まで見たこともない「復活の主の姿だ」と悟らせようと導かれました。

*神様の出来事を悟らせるために弟子達の心の目を開いた「復活の主」

そして、「モーセの律法と預言者の書と詩編」と表現される「旧約聖書」に書かれたことは、神様から派遣された救い主である御自分のことであり、神様の御計画は必ず実現するとお語りになりました。十字架は人間的な目で見れば敗北に見えても、神様の目では勝利であり、それは神様の御栄光を現わす「復活」につながり、今、「復活の姿」でイエス様が現れたことは、これまで実現してきたことが神様の御計画であることの証明だと説明なさいました。けれども、無限なる神様の出来事を理解する知恵を、有限なる人間は持っていません。主から助けていただかなければ、悟れないのです。それで、イエス様は弟子達の「心の目を開いて」(45節)、自ら、聖書の解き明かしをしてくださったのです。

*罪の赦しを得させる悔い改めがイエス様の御名によって広まる

 旧約聖書は「救い主の受難と死と復活」を預言しているが、そのような父なる神様の御心に従ったイエス・キリストの御名のゆえに、悔い改めた全ての人間の罪の赦しが可能になり、それが世界に確実に広がるのだとイエス様は預言なさいました。同時に、「復活の主」に出会った弟子達こそがイエス・キリストの御名による救いの証人となると預言されました。しかし、そのために、弟子達は、人間的な力を出して頑張る必要はありません。イエス様による救いは、神の都エルサレムにいる弟子達が、父なる神様から与えられると約束されたもの「神の霊=聖霊」を受け取った後に広められるようになるとイエス様は預言なさいました。これは、ルカ福音書の続編である「使徒言行録」の1章―2章に証しされています。そして、約二千年かけて福音が世界に広まった歴史、その中でも特に、時間も距離も離れた私達が、イエス様の御名によって救われた事実を見れば、主の預言が確かに実現していると理解できると思います。

*主の十字架と復活と昇天の意味を知り、主の証人として用いられる
最後に、イエス様は天に昇る姿を当時の弟子達に見せ、御自分が「神様と同じ地位に帰る」と示されました。これらの証言を信じる私達皆(みんな)が「主の十字架と復活と昇天の証人」として福音伝道を託された弟子なのです!


 最後に、イエス様は天に昇る姿を当時の弟子達に見せ、御自分が「神様と同じ地位に帰る」と示されました。これらの証言を信じる私達皆(みんな)が「主の十字架と復活と昇天の証人」として福音伝道を託された弟子なのです!