2月24日の説教要旨

イザヤ書52:13-15  ルカ福音書23:44-56

「主の死と埋葬」 平賀真理子牧師

*はじめに

今日の新約聖書箇所で、主がこの世での生、つまり、人間としての生を十字架上で終えたことが書かれています。私達人間が神様に絶対の信頼を決して寄せられないという深い罪を肩代わりなさるため、イエス様は御自分の命を犠牲にせざるを得なかったわけです。神の御子が御自分の命を献げるほどに、父なる神様に従順に従う、その御姿は、本来は、最初の人間アダムに求められていたことでした。しかし、「蛇」と称される「悪霊の頭サタン」の罠に陥り、人間は主なる神様とその御言葉を信じ通せず、「神様に従えない」という罪を継承するようになったのです。しかし、神様はそんな人間を見捨てず、まず、「神の民」に選ばれたイスラエル民族が、神様とその御言葉を信じることで、人間の信仰を回復させようと御計画なさいました。その深い愛にも関わらず、人間の罪は重すぎて、悪魔の追及を寄せ付けないほどの信仰を示すことができなかったことを旧約聖書は証ししています。

*救い主が「苦難の僕」とならざるを得ないほど、人間の罪は重い!

 だから、神様は人間を救うための新しい方法として「救い主への信仰」を示した者が救われるという御計画を立ててくださいました。が、ここでも難問が立ちはだかります。人間は「救い主」と言うと、この世の「王」の延長で、最高の権威を顕示する権力者をイメージします。一方、本当の神様は「救い主」を「苦難の僕」の歩みをするように定められた(参照:イザヤ書52:13-53:12)ので、「救い主」について、神様と人間では、全く違う様相を想定していたわけです。イエス様は勿論、父なる神様の御心に従われます。この世の権力を横取りしたサタンが告発できないほどに、イエス様は苛酷な苦難の道を歩んだ上で、その命を犠牲にする、それでも、父なる神様への従順を貫く、このような御計画を成就するために、主の十字架という苦難が必要だったのです!私達自身を含む「人間の罪」は、それほどまでに重いのです。

*十字架で息を引き取ったイエス様の最後の御言葉

 イエス様が十字架に架かって数時間で、太陽の光が失われ、また、エルサレム神殿の至聖所と聖所を分ける垂れ幕が真ん中から裂けました。めったに起きない2つの現象が同時に起きたのです。本当の神様がお造りになった自然の中でも、最大の明るさを持つ太陽が光を失ったことは、神様の御心も光を失い、大変な悲しみに沈まれたと読み取れます。また、ユダヤ教の総本山の大事な垂れ幕の破損を通して、ユダヤ教の役割(神の民を教え導くこと)の終了が示されたと思えます。この直後に、イエス様は「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(46節)と叫んで息を引き取られました。神の御手によって、イエス様の救いの御業こそが、次の時代の救いとなるとルカ福音書は証ししていると思えます。46節の御言葉は、イエス様の御生涯を貫く、父なる神様への絶対の従順の姿を表した御言葉であり、この姿勢こそ、人間が神様に向かって献げるべき、本来の信仰の姿勢です。

*ローマ兵の証しは、イエス様の救いの御業が異邦人中心へと向かう暗示

主の死の直後、異邦人であるローマ軍の百人隊長が、イエス様を「正しい人だった」と証ししたと書かれています。ユダヤ人指導者達が扇動して十字架に付けた「救い主」に対して、異邦人がまず最初に、本当の価値を理解したわけです。イエス様の救いの御業は、ユダヤ人の救いよりも、異邦人の救いへ向かうことの象徴的な出来事ではないでしょうか。

*主の埋葬のために用いられた「アリマタヤのヨセフ」

 金曜日の午後3時頃に息を引き取ったイエス様の埋葬のため、神様に用いられたのが「アリマタヤのヨセフ」です。彼は議員でしたが、イエス様を有罪とした決議や同僚の行動に同意しませんでした。神様は、そのような彼を、主の御遺体の尊厳を守るべく埋葬する働きに用いられたことをルカ福音書は証ししています。神様は、その御用のために、私達信仰者一人一人の信仰に応じて豊かに用いてくださるという証しと言えます。神様は、御子の死という大変な悲しみの中でも、信仰者への愛を注がれる御方です。