2月17日の説教要旨

イザヤ書53:1-5  ルカ福音書23:26-43

「十字架における主と立ち会った人々」  平賀真理子牧師

*はじめに

ルカによる福音書を読み進めておりまして、とうとう、私達の主イエス様の十字架への道について書かれている所まで来ました。十字架刑の執行にあたり、当時は、刑を受ける本人が、「されこうべ」(ヘブライ語の一種のアラム語で「ゴルゴタ」、ラテン語で「カルバリ」)と呼ばれる刑場まで、自分が架かる十字架を背負わされることになっていました。成人男子が架かる十字架は大変重いことは容易に想像できます。しかも、イエス様は、長い宣教の旅のお疲れがあった中、逮捕や裁判に際しての疲労が重なり、十字架を途中で背負えない状況になりました。

*主の十字架を背負って従うことになった異邦人シモン

それで、通りがかりのキレネ人シモンが、恐らくローマ兵の命令で、イエス様の十字架を代わりに背負うことになったのでしょう。ルカ福音書では、特に、彼が「主の十字架を代わりに背負い、しかも後ろから従う姿」を描写しています。それは、一番弟子であったペトロと呼ばれたシモンに、本来求められる姿だったのに、彼は、前日にイエス様を知らないと3度否認しました。ユダヤ人シモン・ペトロが主に従えなかった一方、異邦人(キレネ人)シモンが主に従ったという証しとなっています。マルコ福音書に、キレネ人シモンは「アレクサンドロとルフォスの父」とあります(15:21)。それは、初代教会の中で、この兄弟は既に名の知れた信仰者であったことを示しています。キレネ人シモンは、神の選びにより、十字架に向かう主に出会い、理想の信仰者の姿を表す役割を担い、それを契機に、本人と家族は救いの恵みをいただいたと想像できます。

*救い主を殺す大罪を犯す「神の都エルサレム」への裁きについての預言

イエス様の十字架への道について行った多くの人の中でも、嘆き悲しむ婦人達に向かい、27節―31節にはイエス様がおっしゃった御言葉が記録されています。当時は、子供を持つ婦人が幸せで、そうでない婦人は不幸であるという考え方がありましたが、イエス様は、それを覆す出来事が起こると預言されたのです。子供を持つ婦人が不幸になること、それは子供が殺されること、悲惨な目に遭うことです。つまり、神様が派遣された救い主イエス様を殺す「神の民」には、救い主に対して行ったこと、いや、それ以上の悲惨な裁きを神様がせざるを得ないと、イエス様が予見なさり、悲しまれたのです。(実際、これから約40年後に、エルサレムはローマによって徹底的に破壊されるという「ユダヤ戦争」が起こりました。)

*救い主イエス様のとりなしの祈り(34節の[ ]内)

 その後、いよいよ、本当にイエス様は十字架の上に釘打たれることになりました。そこでおっしゃった御言葉(34節の[ ]内)こそ、イエス様が救い主としての姿勢を貫いた御姿を見ることができます。この御言葉は、まずは、御自分を十字架に付けているローマ兵達に向けられたと思われます。彼らは、救い主を殺すことに加担しているとは知らないのですから、イエス様が父なる神様に彼らの罪の赦しを彼らに代わって祈ってくださったのです。何と憐れみ深いのだろうと感謝ですが、その対象は彼らだけでなく、イエス様の十字架刑を主張したユダヤ教指導者達や権力者達、それに追従したエルサレムの民衆までを含み、主は彼らの罪をとりなそうとしてくだっさったと思われます。この、主の「とりなしの祈り」こそ、自己を犠牲にしても、相手の救いや赦しを願う、本当の神様とその御子の憐れみ深い御性質が示されていると私達は思い知るべきです。

*神を恐れ、自分の罪を悔い改め、救い主に素直に近づく

主と同時に十字架刑になる2人の犯罪人の内、一人は、主に対して「自分自身と我々(2人の犯罪人)を救ってみろ」とののしりました(「自分を救え」という主張は、ユダヤ人議員達やローマ兵達も発言していて、この発言で3回目)。一方、もう一人の犯罪人は、イエス様には罪が無いと宣言し、一方、自分には罪があるが、主に自分を思い出してほしいと願いました。神を恐れ、自分の罪を悔い改め、救い主に素直に近づく、という理想の信仰者の姿が示されています。私達信仰者もこの姿勢を貫いて歩めるよう、祈りましょう。

「十字架における主と立ち会った人々」   平賀真理子牧師

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