エレミヤ書14:11-14・マタイ福音書7:15-20
「良い木が良い実を結ぶ」 佐々木 哲夫
*滅亡の危機を目前にして
聖書の民イスラエルは、歴史の中で国家存亡の危機を3度経験しています。1度目は、紀元前8世紀、アッシリア帝国によって北王国イスラエルが滅ぼされた時、2度目は、紀元前6世紀、新バビロニア帝国によって南王国ユダがバビロンに捕囚された時、3度目は、ローマ帝国によってエルサレム神殿が破壊された時です。ユダヤ人は、危機的な時代を神の言葉を礎(いしずえ)に生きました。本日の聖書は、2度目の危機の時代の預言者エレミヤの言葉と 3度目の危機を目前にした時代の イエスキリストの言葉です。
*預言者の使命
預言者と呼ばれる人物は二重の使命を担っておりました。使命の第一は文字通り、神から預かった言葉を民に伝える働きです。時代は、新バビロニア帝国によって祖国が滅ぼされる危機的状況です。民の心は激しく揺れ動き、生きる方向を神の言葉に求めます。
その時、神からエレミヤに与えられた言葉が、11節 「主はわたしに言われた。『この民のために祈り、幸いを求めてはならない。…わたしは剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす。』」でした。
なんと、国が滅ぼされると語るよう示されたのです。しかし、すでに、神はエレミヤに、預言を告げる根拠を示しておりました。「わたしは、あなたたちの先祖をエジプトの地から導き上ったとき、彼らに厳しく戒め、また今日に至るまで、繰り返し戒めて、わたしの声に聞き従え、と言ってきた。しかし、彼らはわたしに耳を傾けず、聞き従わず、おのおのその悪い心のかたくなさのままに歩んだ。」(11章 7節- 8節)。 神の言葉とはいえ、民の心は、戦争や滅亡ではなく平和や現状維持を求めます。民たちは、滅亡を預言するエレミヤにではなく、『お前たちは剣を見ることはなく、飢饉がお前たちに臨むこともない。わたしは確かな平和を、このところでお前たちに与える』(14章13節)と語る偽預言者の言葉に傾きます。
*「悲嘆にくれる預言者エレミヤ」
15年ほど前のことになりますが、当時の奉職先の学長先生が学長職を退任されるという時に、学長室に置いておられた数多くの名画の複製の中から、宗教部長を拝命していた私に一枚の絵をくださいました。複製といっても横60cm縦80cmという大きさの額縁に入っているもので、オランダの画家レンブラントが描いたエレミヤの絵です。光と陰の魔術師と呼ばれたバロック絵画の巨匠レンブラントが、預言者エレミヤを描いた名画です。絵の題名は「悲嘆にくれる預言者エレミヤ」です。
自分の預言を信じてもらえない晩年の預言者が、体を横にして頬杖をついて、自らの想いの中に静かに浸っている姿が暗闇の中の光に浮かぶような構図で描かれている名作です。なぜ学長先生は、数あるお持ちの絵の中からこの一点を選んで私にくださったのだろうかとしばし考えさせられました。「君の悩みは預言者エレミヤの悩みの足元にも及ばないものだから忍耐が肝要」ということを教えようとしたのだという 勝手な自己解釈の学びをして納得したのでした。
*二つ目の使命
さて預言者が担っていた二つ目の使命は、民と神との関係を執(と)り成(な)すという務めです。預言の告知が、裁きを告げる義の業であるならば、執り成しは、救いをもたらす愛の業です。相反する義と愛の務めの狭間(はざま)で、エレミヤは「わが主なる神よ、預言者たちは彼らに向かって言っています。『お前たちは剣を見ることはなく・・」と神に訴えています。
神の答えは、「預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らを任命したことも、彼らに言葉を託したこともない。」(14節)という厳しいものでした。
*預言者イエス・キリスト
エレミヤから400年ほど後の時代になります。イエス・キリストの時代です。イエス・キリストは、三つの職務を担ったと教えられています。預言者(申命記18:14-22)としての務め、祭司(詩篇110:1-4)としての務め、王(詩篇2)としての務めの三つです。本日の新約聖書の箇所は、預言者としてのイエス・キリストの言葉です。特に、18節に注目したいと思います。
「良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」
イエス・キリストが弟子たちや群衆に語っている場面です。比喩を用いての表現です。この「良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」の言葉に関し、宗教改革者のマルチン・ルターが次のように解説しております。
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正しい行いが 正しい人を作るのではなく、正しい人が正しい行いをする。
悪い行いが悪い人を作るのではなく、悪い人が悪い行いを生ずる。
どんな場合でも、良い行いに先立って人格が正しくなければならない。
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<木>自体が、重要だというのです。例えば「地の塩」と賞賛される行い、「世の光」と言われる行為が、その人を地の塩や世の光にするのではないのです。では、実ではなく木であるというならば、何をもって「良い木」となりうるのか。それが問題です。
*本物と偽物
28歳の時に、私は新米の主任牧師として小さな教会に派遣されました。ある日、教会の信者さんで、はり灸治療院の先生をしておられた年配の方から「本物の宗教と偽物の宗教を、簡単に私にも判断できる方法を教えてください」と質問されました。目の不自由な方との会話では沈黙は良くないと教えられておりましたので「えー」とか「んー」とか とにかく声を出しながら考えていましたら、「私はこんなふうに考えます」というのです。聞いてみました。
「信者さんにお金を出すように要求する宗教は偽物で、逆に信者さんが自由に自主的に献金を捧げる宗教が本物だと考えますが、それで良いでしょうか」と言いました。なるほど、と教えられました。おかげで、その判別方法に今でも頷(うなず)くことがあります。
羊の皮を身にまとってはいるが、内側が貪欲(どんよく)な狼は偽物です。外側の姿形や行いではなく、内側の存在が問題なのです。内側がどうあるべきかと考えさせられます。
答えの一つは、内側の自分が何をロールモデル(手本)にしているかであると考えます。外側に見えるところの行いではなく、内側の自分が何を信じて、この世で生きてゆこうとしているのかが大事だと考えます。ルターは、次のようにも解説しています。
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信仰は、その人を正しいものにすると同時に良い行いをも作り出す。
行いは、その人を正しいものにするものではないので、人は、行いをなす前に、まず正しいものとならねばならない。
信仰は、キリストとその言葉によって人を正しいものにするという恵みの祝福において、十分なものである。(『基督者(きりすとしゃ)の自由』36ページ)
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見える行いではなく、内側の自分が有する信仰が優先するというのです。
*教会の時代
私たちは、預言者の時代でなく、イエスキリストが直接語った時代でもなく、教会の時代、すなわち、聖霊降臨(ペンテコステ)に始まった教会の時代に生きております。教会の時代は、聖書の言葉に聞き従って実を結ぶ時代です。使徒パウロは、テサロニケの信徒への手紙の中で次のように語っています。
「わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」(2:13)
仙台南伝道所は、開設15周年を迎えました。それは、神の言葉に連なっての15年であり、これからも継続する歩みでもあります。 そのことを感謝しつつ再認識したいと思います。 (文責:佐藤義子)