今週のみことば

 ★ サムエル記下
月曜日         サムエル記上(予備日・復習日)
火曜日  1: 1~ 6:23 ダビデ,イスラエルの王として油を注がれる
水曜日  7: 1~12:31 ダビデの治世
木曜日 13: 1~19: 8 アブサロムの反逆
金曜日 19: 9~24:25 ダビデの治世の最後の時代
【サムエル記について】
サムエル記上・下は、七十人訳聖書(LXX・ギリシア語訳)では、「王国1・2」と呼ばれています。また列王記上・下が「王国3・4」となり、この4書に「イスラエル(イスラエルとユダ)」王国の歴史が記されます。
士師記までの時代には、イスラエルに王様はなく、主ご自身が王として、イスラエルの民を導きました。また士師や祭司、預言者を通して語ってくださいました。しかし人々は、周りの国々と同じような王制を求め、主はサムエルに、ベニヤミン族のサウルに王として油を注ぐことを許します(油を注がれた者=メシア=キリスト・民の贖いの為に神に任命された者という意味を持つようになります)。サウルがイスラエルの最初の王様として統治します(年代に関しては諸説ありますが、キリスト教学校教育同盟編『旧約聖書の教え』創元社2015ではBC1020~1000です)。しかし、サムエルが献げるべき犠牲をサウル自身が献げてしまったことにより、主はサウルを王位から退けて、サムエルは、ダビデに油を注ぐことになります。主は、ダビデとダビデの子孫を祝福することを約束し、イスラエルには、ダビデ以上の王様は現れなかったと言っても過言ではありませ。しかしそのダビデの人生でさえも、失敗と悔い改めが繰り返され、主の憐れみを受け続けた人生でした。ダビデの歌とされる詩編の中には、絶望の中においても、主の真実に希望を見いだす信仰があります。
またサムエル記には、ハンナの祈り、少年サムエル、ダビデとゴリヤテ、ダビデとヨナタンなど教会学校では良く読まれる物語が記されています。
(マクグラス、158-178頁参照。)


【イスラエルとユダについて】
イスラエルは時代によって、様々な意味を持っています。たとえば、①ヤコブの別名が〔イスラエル〕創32:29であり、②ヤコブの子孫が「イスラエル」の12部族であり、「イスラエル」の共同体とされてきました。「イスラエル」の12部族は、神様の約束の土地であるカナンの地に入ると、③約束の地全土を『イスラエル』と呼んでいました。
しかし、北の土地に住む部族(サウルの支持者)と南の土地に住む部族(ダビデの支持者)の間に戦いが起こった為、④北の土地と北部の部族を{イスラエル}⑤南の土地と南部の部族を{ユダ}と呼ぶようになります。
しかしダビデとソロモンの時代は、⑥{④イスラエル}も{⑤ユダ}も、「②イスラエル」/『③イスラエル』という一つの国(統一王国)でした。
その後「イスラエル」王国は分裂して、⑦《北王国イスラエル》と⑧《南王国ユダ》となります。
またイスラエル人とは現在のイスラエルの人々のことを指すと同時に、聖書の時代では、アブラハム・イサク・ヤコブの子孫、つまり「イスラエル」の人々を指します。またユダヤ人とはユダ部族だけを指す言葉ではなく、北王国イスラエルの滅亡後に南王国ユダだけが残ったために、やはり「イスラエル」の人々を指す言葉として用いられます。ヘブライ人/ヘブル人とは「向こう側から来た者」という意味で、異国民としての「イスラエル」を指し示すために、イスラエル人=ユダヤ人=ヘブライ人/ヘブル人であり、文脈の中で何を強調しているかによって使い分けていると考えると分かりやすいかもしれません。

【サムエル下7章から】
「主なる神よ、取るに足りない私と、私の家を、ここまで導きくださるのは、なぜでしょうか。主なる神よ、あなたの目には、これさえも小さなことにすぎません・・・それゆえ、僕はこの祈りをあなたに献げる勇気を得ました。」