今週のみことば

★ エズラ記

月・火曜日 通読予備日       

水曜日  1: 1~ 2:70 捕囚からの帰還

木曜日  3: 1~ 6:22 神殿の再建

金曜日  7: 1~10:44 エズラのエルサレム帰還

【エズラ記について】  歴代誌上下は捕囚までの歴史が記され、捕囚後の時代をエズラ記・ネヘミヤ記が記しています。また「キュロスの勅令」が歴代誌下の終わり(歴代下36:22-23)とエズラ記の始め(エズラ1:1-4)に記されていることから、この書物は、もともとは一つの作品であったとも考えられています。  エズラ記は捕囚からの帰還とその民のリスト、神殿の再建と奉献の様子、エズラの帰還と捕囚後の共同体の創設について記されています。

【残りの者】  「残りの者」とは大惨事の後の生存者を指している。その概念は旧約聖書にときどき見出されるが、たとえ文献の周縁にあるとしても非常に重要である。自然なものであるにせよ、政治的軍事的なものであるにせよ、そのような大惨事はテキストの中では特徴的に神の怒りと審判に関係している。 災渦の後に残る者を予期することは、幸福や満足の文脈で述べられる場合には、不吉な脅威である。そのような用法では、現状が必ずYHWH(主)の審判の下で容赦なく崩壊させられる。こうした「残りの者」の使われ方が意味するのは「残りの者だけ」が生き残るということであり、それ以上ではなくて、今生きている幸福に暮らしている人が全員生き残るのではないということである。・・・ しかしながら、同じ言葉がまた肯定的な保証として機能することもある。つまり、審判の厳しさにもかかわらず、YHWHの憐れみと思いやりのゆえに、生き残るものがいるというわけである。神がその怒りを制限して、破局から保護した者がいるので、その破壊は完全なものとならないのである。・・・  残りの者という概念の両側面、すなわち否定的な側面としての審判と肯定的な側面としての保証が明らかにするのは、この世における生は暫定的で不安定であるということと、この世における生が良くなるか悪くなるかは神の意思に大いに依存しているということである。「残りの者」とは、すべての神の民の将来を最終的に決定するYHWHの審判や憐れみについて伝える手段なのである。  従って、残りの者という概念は、神の民の将来を確実に神の支配の中に置くので、極めて強く神学的なものである。その用語には社会学的イデオロギー的な影響力もある。前6世紀と5世紀に捕囚から帰還した小さなグループは、自分たちのことを神に愛され命を助けられた残りの者であって、そのためにイスラエルの古い伝承の唯一の正統的な伝達者であると理解していた(ハガ1:12-14, 2:2, ゼカ8:6-12)。イザヤ書中のいくつかの後代のテキストでは(イザ1:25-26, 4:2-4)、エズラ記の伝承(エズ9:8-15)と同様に、残りの者とはかなり特別な共同体のための自己理解や自己識別の手段である。この共同体は自らが、トーラーの命令に純真かつ厳格に従って生きるべき存在であることを知っている。このような民が、後に「敬虔なる者(ハシディーム)」として現れた人々、すなわち神の憐れみによって生き、喜んで従順に応答しようとする人々なのである。・・・ w.ブルッゲマン『旧約聖書神学用語辞典』小友聡/ 左近豊監訳、 日本キリスト教団出版局、2015、363-364頁より抜粋。

【エズラ記9章、エズラの祈りから】   「わが神よ、…わたしたちの罪悪は積み重なって身の丈を越え、罪科は大きく天にまで達しています。…わたしたちは、数々の大きな悪事と罪科のゆえに受くべき艱難をすべて受けましたが、わたしたちの神、あなたはわたしたちの重い罪悪をもそう重く見ず、わたしたちをこのように生き残らせてくださいました。… イスラエルの神、主よ、あなたは恵み深いお方です。だからこそ、わたしたちは今日も生き残りとしてここにいるのです。御覧ください。このような有様で御前に立ちえないのですが、罪深い者として、御前にぬかずいております。」