ペンテコステ礼拝 「聖霊とわたしたち」 倉松功先生

/n[イザヤ書] 59章20-21節 20 主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると/主は言われる。 21 これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると/主は言われる。あなたの上にあるわたしの霊/あなたの口においたわたしの言葉は/あなたの口からも、あなたの子孫の口からも/あなたの子孫の子孫の口からも/今も、そしてとこしえに/離れることはない、と主は言われる。 /n[使徒言行録] 2章1-4節 1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 4 すると、一同は聖霊に満たされ、““霊””が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 /n[使徒言行録] 2章32-33節 32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 33 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 /n[使徒言行録] 2章38節 38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 /nはじめに  今日はイエス・キリストが復活なさった過越しの祭りから数えて50日たった五旬節(ペンテコステ)の日で、教会がこの日に始まったという記念の日です。使徒言行録2章には、当時の全世界といってもよい、七つの民族と九つの地方(9節‐11節)から、五旬節の為に人々がエルサレムに集まっていたことを伝えています。その時に「聖霊」がくだって教会が始まったのです。  今日は全世界の教会でペンテコステを記念する礼拝が守られています。大事なことは、教会が始まった時に聖霊が降った(くだった)ということですから、「聖霊とは何か」ということを聖書から学び、心の中にきちんと入れておきたいと思います。そこで今日は、以下の三つのことについてヨハネ福音書14章から学びたいと思います。 +聖霊とは何か +聖霊はいつ降ったか +聖霊と私達の関係 /n1.聖霊とは何か >>  「わたしは父(なる神)にお願いしよう。父(なる神)は別の弁護者(ヘルパー・助け主)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」(16-17) <<  この言葉から、主イエスが聖霊(助け主)を父なる神にお願いする、ということがわかります。しかもその霊は「あなた方と永遠に一緒にいるようにしてくださる」のです。同じことが26節でもいわれます。 >> 「しかし、(助け主である)弁護者、すなわち、父(なる神)がわたし(主イエス・キリスト)の名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方 にすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。 <<  ここでは父なる神が、主イエス・キリストの名によってお遣わしになるのが聖霊です。(*16節では、主イエスが父なる神に願う)。「真理の霊」(17節)は、主イエス・キリストについて「何をなさったか、どのような教えをされたか」ことごとく思い起こさせて下さいます。 /nまとめ +聖霊は父なる神と主イエスから遣わされる +聖霊は助け主・真理をあかしする霊として、常に永遠に、私達と共に、主イエスについて、あかしをする。  使徒パウロの言葉でいえば、「神の霊以外に神のことを知る者はいません」(Ⅰコリント2:11)。わかりやすくいえば、神のことは、神の心を持っている人以外には知らないということです。又、「聖霊によらなければ、誰もイエスは主であるとは言えないのです。」(同12:3)。 /n2.聖霊はいつ降(くだ)ったか  聖霊はペンテコステに降ったことが使徒言行録に記されていますが、主イエスご自身が前もって語っておられます(ヨハネ16:7)。 >>  「しかし、実をいうと、私が去っていくのは、あなた方のためになる。私が去って行かなければ、弁護者(助け主)はあなた方の所に来ないからである。私が行けば、弁護者(助け主)をあなた方の所に送る。」 <<  主イエスが昇天すれば、助け主なる聖霊をあなた方の所に送ると主イエスご自身がここで言われています。これは主イエスが父なる神のもとに昇天されるということです。主イエスが昇天されて父なる神のもとに行くと、神と主イエスから聖霊がこられる。ここにキリスト教の教え「三位一体」ということが非常にはっきり出て来ます。キリスト教の教会では、聖霊降臨日の前に主イエス・キリストが昇天する「昇天日」(五旬節の10日前・今年は17日)があります。 /n3.聖霊と私達の関係  イエス・キリストが言われたように聖霊がくだりました。使徒言行録にあるように、当時の全世界の人々が集まった所に、聖霊が降って教会が始まりました。聖霊と私達の関係とは、教会が建てられた(始まった)ということです。教会を通して、主イエス・キリストが語られるということです。主イエスが何をなさったか、どういうことを教えておられるかということは教会でしか語られません。勿論私達は個人で聖書を読んだり聖書の話を聞くことが出来ます。しかし、「主イエスの名のもとに2、3人集まり」(マタイ18:20)、そこでイエス・キリストがなさったこと、教えられたことをきちんと語られるのは教会です。自分で納得出来る聖書の読み方も大切ですが、牧師(神様によって聖書を証しする為に召された)を通して聖書の言葉を聞くということ、「二人または三人が私の名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)のが教会です。 >> 「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ロマ10:17)。 << >> 「私達から神の言葉を聞いた時、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」(Ⅰテサロニケ2:13)。 <<  教会によってキリストが語られる。語られる言葉を、私共が主イエスの言葉として受けとめ、主イエスの言葉として私共の中で力になる。それがまさに聖霊の働きです。主イエスが父なる神にお願いして、父なる神が主イエスの名によって主イエスのなさった事、教えられたことを証しする。そこに聖霊が降る。それが教会の最も中心的な営み、業(わざ)です。聖霊は、父なる神が主イエスの名によって、主イエスについて証しする時に、それを受け入れる時に働く力、神の力、それを私達は聖霊と理解することが出来るし、そのように教会で働く聖霊の力、それが私共にとって最も大事なことではないかと思います。そういうわけで、「説教」というのは、私共が主イエスの所に連れて行かれるか、主イエスが私共の所に来るところ、と宗教改革者ルターは言っております。大変わかりやすい言葉です。「説教」は、主イエスについて語られるわけですから、そこに聖霊が働いて、説教によって神の言葉が証しされることによって主イエスが私達の所に来られる、あるいは、私共が主イエスの所に導かれる、というふうにも理解出来ると思います。「主イエスを証ししない説教」は、聖霊は働きません。人間の言葉、人間の政治的な意見、人間の社会的な意見とかには「聖霊は働かない」 と言わざるを得ません。キリストを離れて聖霊は存在しません。主イエスとかかわらない聖霊は、聖霊とはいえません。霊の高ぶり、心をゆさぶられる、感動した、等ありますが、主イエスに関係しない心の高ぶり、感動というものは、感情の働きではあるけれども、聖霊の働きとはいえないでしょう。  聖霊によって教会が始まったということ、そして聖霊によって私達は主イエスのところに導かれ、あるいは主イエスが私達に届けられる、ということから、聖霊というのは、教会を中心にして考えられます。  最後に私達と聖霊の関係について、もう少し日常的な信仰生活のことについて考えてみたいと思います。 /n聖霊とわたしたち >> 「霊の初穂(聖霊)をいただいている私達も、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。私達はこのような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを誰がなお望むでしょうか。私達は、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。同様に、「霊」も弱い私達を助けて下さいます」(ローマ書8:23)。 << >> 「私達すべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私達に賜らないはずがありましょうか。」 (同8:32)。 <<  このことは、使徒言行録2章と密接に関連しています。それが以下のペテロの説教の中心的な部分です。 >> 「神はこのイエスを復活させられたのです。私達は皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて 注いで下さいました」(32-33)。 <<  主イエスは私共の罪のために十字架につけられた、そしてその御子は復活され天に上げられた。そのことを言っています。 >> 「私達すべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私達に賜らないはずがありましょうか。誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義として下さるのは神なのです。誰が私達を罪に定めることが出来ましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私達のために執り成して下さるのです」(ロマ8:32-34)。 << >> 「私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私達の主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私達を引き離すことは出来ないのです。」(同38‐39) <<  パウロは、「父なる神が私達すべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」と語りましたが、これが神の愛です。主イエスが昇天をして父なる神とご一緒におられ、そこから父なる神が主イエスの名によって、聖霊を送ってくださる。これが 「キリストを通して神が私達と結び合う力」です。 「高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物 (神以外の人間・自然)も、私達の主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私達を引き離すことは出来ない」のです。なぜならば、主イエスの名によって、聖霊の力によって結ばれている からです。これがペンテコステにおいて、私達と聖霊との関係の一番重要なところではないかと思います。

説教要旨 「なぜ疑ったのか」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 14章22-33節 22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。 23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。 24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。 25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。 26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。 27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」 29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。 33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。 /nはじめに  5つのパンと二匹の魚による奇跡は、弟子達をはじめ、この場にいた群衆にとって感動的なことがらであったに違いありません。弟子達も群衆も、この出来事について更にゆっくり味わいたいと思ったでしょう。ヨハネ福音書には、奇跡を行なったイエス様をローマに対抗するユダヤ人の王として担ぎ出そうとする人々の動きがあったことを伝えています。(6:15) /n強いて  イエス様がまずしたことは弟子達を「強いて舟に乗せ、むこう岸へ先に行かせた」ことです。「強いて」ということは、弟子達はイエス様と一緒にまだここに残りたいと思っていたのかもしれません。しかしイエス様のご命令であるゆえに、弟子達は群衆より先に舟に乗ってこの場を離れました。イエス様は「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられ」(23節)ました。 /n逆風で漕(こ)ぎ悩む  一方、弟子達の乗った舟は向こう岸にたどり着くことが出来ずにおりました。舟は湖の真中までは来ていましたが(マルコ6:47)、逆風でこぎ悩んでいたとあります。先に進めず、かといって後戻りも出来ず、時刻は既に真夜中を過ぎ明け方近くになっていました。そんな時、薄暗い中を湖の向こうからこちらに向って歩いてくる人影が見えたのです。弟子達は「幽霊だ」と叫びました。弟子達は「おびえ、恐怖のあまり叫び声をあげ」(26節)ました。 /n「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」   湖上を歩いてこられたのは幽霊ではなくイエス様ご自身でした。強いて弟子達を舟に乗せられたイエス様は、それゆえに今、来られたのです。その来られ方が私達人間の思いを越えていた為、弟子達は幽霊だと思いおびえたのです。その時すぐに、イエス様は声をかけられました。 /n「わたしだ」(27節)  「わたしだ」という原語のギリシャ語は、モーセが神様に名前を聞いた時に「わたしはある」と答えられた、その「わたし」と同じに読むことが出来ます。自然を相手に全くの無力の中にいた弟子達の所に、イエス様は「わたしだ。」と来られました。 /n「わたし(ペテロ)に命令して」(28節)  ペテロは、この超自然の中におられるイエス様と一緒になりたいと思いました。イエス様がもしも命じて下さるならば、自分もイエス様と同じように湖の上で並んで立つ事ができると信じました。自分も神様の力にあずかれるとの確信がありました。 /n「来なさい」(29節)  イエス様はペテロの願いを聞き届け、「来なさい」と命じられました。ペテロは水の上を歩いてイエス様に近づいていきました。「しかし」(30節)、イエス様だけを見ていたペテロは途中強い風に気付いた時、イエス様の命令で歩いていることを忘れて怖くなりました。その途端、沈みかけたのです。 /n「信仰のうすい者よ、なぜ疑ったのか」(31節)  助けを求めるペテロにイエス様はすぐに手を伸ばされました。そしてなぜペテロが危険な目に会われたのか、その理由を明らかにされました。ペテロは暴風の力を見て、その暴風を受けている自分が水の上にいるという危険に目を向けました。確信がゆらぎ疑い、心が分かれたからです。 /n「主よ、助けてください」(30節)  この言葉は、イエス様が救い主であり、助け主であられることを私達に示しています。助けを求めるお方は、このイエス様しかおりません。まさに沈みゆく私達に手を伸ばして捕まえて下さる方は、人ではなくイエス様です。イエス様こそ神の子であられるゆえに、私達は「主よ、助けて下さい」と叫ぶのです。 /nすぐ  イエス様は、恐怖の時間を長く放っておかれる方ではありません。私達がイエス様に叫び求める時、すぐ、手を伸ばして下さいます。助けを求めず自分の力で何とかしようと考える者は、そのまま沈むしかありません。 /n「本当に、あなたは神の子です」  イエス様とペテロが舟に乗り込むと、あれ程弟子達を悩ませていた風は静まりました。この時弟子達は「本当に、あなたは神の子です」との信仰の告白を表わしました。弟子達はこの出来事を通してはっきりとイエス様のお力の根源、すなわち天地万物の創造者なる神様を見上げ、イエス様はその方から出てこられた方であり、その方としっかりつながっておられることを知りました。弟子達を強いて舟に乗せられたイエス様の目的はこの告白を導き出す為であったともいわれます。 /nキリスト者としての私達の歩み  私達は神様を信じ、イエス様を信じています。しかし私達は湖上を歩くイエス様を見て「幽霊だ」とおびえ、又、イエス様を見ながら強い風を受けると足元を見て沈みかけるような「信仰うすき者」です。そのような私達でも「主よ、助けて下さい」との祈りを通してイエス様につかまえていただき、「本当にあなたは神の子です。」と告白し続けていくことが出来ます。暴風・荒波はキリスト者として社会に生きる時、度々経験します。しかし舟に一緒に乗っておられないイエス様は、私達が舟をこいでいることをご存知です。そして前にも後ろにも行けない時に来て下さいます。「夜明け」に、人がまだ寝静まり活動が始まっていない時も、イエス様は働かれます。そして「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」といわれます。又、ペテロのようにイエス様の持っておられる神の力にあずかりたいと思えばそれも可能にして下さいます。そして私達がイエス様から目をそらさず、心が分裂しなければ、私達はイエス様と共に湖の上に立つことも許されているのです。今週も又、このイエス様と共に歩みつつ「本当にあなたは神の子です」と告白する日々でありたいと願うものです。

説教要旨 「五つのパンと二匹の魚」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 14章13-21節 13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。 14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。 15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」 16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」 17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」 18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、 19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。 20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。 21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。 /nはじめに  本日の聖書には二つのことが書かれています。一つは、イエス様は人里離れた所に行かれた後、ついてきた群衆を深く憐れみ病人を癒された話。もう一つは、五つのパンと二匹の魚で五千人が満腹した話です。 /n「イエスはこれを聞くと」(13節)  これ、とは、すぐ前のヨハネの弟子からの報告(ヨハネが殺されたこと)と考えられます。預言者ヨハネの死は予測されていたとはいえ、ある日突然に(殺したヘロデ王でさえ、考えてもいなかった)起こりました。ヨハネの死を聞いたイエス様は「一人 人里離れた所に退かれ」(13節)ました。 /n一人になる  ヨハネの死は、イエス様ご自身の受難が近づいてきているしるしでもあります。神様からの使命を果たしながら、近い将来迎えるその時まで、イエス様は働き続けていかれます。その根底を支えるのが、人から離れ、一人になって祈ることでした。  私達は日常生活の中で、突然予想を越えた出来事に出会うことがあります。そのことは、時に私達をゆさぶり、私達を不安にし、落ち着きを失わせます。しかしヨハネの死を聞いたイエス様が、まず神様との交わりの時を大切にされたことを覚え、私達もイエス様に従う弟子として「まず祈る」者でありたいと思います。 /n「歩いて後を追った」(13節)  群衆は、イエス様に会いたくて歩いてその後を追いました。そして病人はいやされました(14節)。 /n「あなたがたが与えなさい」(16節)  追ってきた群衆は、女と子供を別にして五千人おりました(21節)。時は過ぎ夕方になりました。食糧を買いに行くには村まで時間がかかります。そこで弟子達はイエス様の所に来て、群衆を解散させるようにお願いしました。この時イエス様は、群衆を空腹のまま帰らせようとなさらず、弟子達に食事の世話をするように命じられました。 /n「ここにはパン五つと魚2匹しかありません」(17節)  イエス様は弟子に「それしか持っていない」というそのすべてを持って来させました。そして群衆を草の上に座らせ、五つのパンと二匹の魚をとり、天を仰ぎ、賛美の祈りを唱えました。それからパンを裂き、それを弟子達に渡されました。弟子達はパンを受け取るとそれを群衆に与えました。その結果、男も女も子供も全ての人が満腹になりました。余ったパンは12の篭に一杯になった、とあります。 /n天を仰ぎ・賛美の祈りを唱え・パンを裂き・弟子達に渡す」(19節)  この言葉は、最後の晩餐のイエス様の言葉と同じです。或いは又、この情景は、神様の食卓に招かれ、神様の言葉をいただき、神様の恵みにあずかる毎週の礼拝の姿であるとも言われます。さらに、群衆の全ての人が食べ、満腹し、残ったパン屑が12の篭に一杯になったことから、これは、終末時の神の国で食卓を囲む「祝福の先取り」をあらわしているともいわれます。 /n神の国  イエス様がおられるところは神の国です。神様の恵みが、愛が、満ちている所です。イエス様から食事の世話を命じられた弟子達は「ここには・・しかない」としか答えられませんでした。天から降ったマナの話を知っていたことは役立ちませんでした。ところが「・・しかない」と差し出されたものをイエス様は祝福され、それは何倍にもなって十分な余りが出ました。このイエス様に私達は従っているのです。

説教要旨 「ヨハネの死」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 14章1-12節 1 そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、 2 家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 3 実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。 4 ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。 5 ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。 6 ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。 7 それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。 8 すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。 9 王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、 10 人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。 11 その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。 12 それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。 13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。 14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。 /nはじめに  今日の聖書では、ガリラヤの領主ヘロデがイエス様の評判を聞いて、「洗礼者ヨハネが生き返った」と恐れと不安を感じたことが初めに紹介され、次に、なぜヘロデがそのように、死んだヨハネのことを恐れているのか、その理由が説明されています。 /nバプテスマのヨハネ  預言者として活動したヨハネは、「悔い改めよ、天の国は近づいた。」「私は、悔い改めに導くためにあなた達に水でバプテスマを授けているが、私の後から来る方は、私よりも優れておられる。私はその履物をおぬがせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。」と宣教しました。 /nヨハネの死  領主ヘロデが「ヨハネが生き返った」と、不安と恐れの中に置かれたのは預言者ヨハネを殺したからです。しかも自分の誕生日にヘロディアの娘が踊り、ヘロデを喜ばせたほうびとして「何でもやろう」と口にした結果のことでした。ヨハネはヘロデとヘロディアの結婚が、姦淫の罪を犯すことであると指摘して、逮捕され牢につながれていました。イエス様から「預言者以上の預言者、女から生まれた者の中で最も偉大な者」と言われたほどのヨハネが、なぜこのような死に方をしなければならなかったのでしょうか。 /n予告  マタイ福音書17章に「エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる」(12節)。「その時、弟子達はイエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った」(13節)とあります。 さらに、イエス様は「ぶどう園と農夫」のたとえ(21:33‐)を通して、預言者は必ず殺され、最後にはご自分も預言者と同じように殺されることを予告されました。 /n十字架を担う  イエス様は「自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない。」(10:38)と言われましたが、更に「私についてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(16:24) と言われます。又、「私のもとにきなさい。休ませてあげよう。私のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」(11:28)とも言われます。 預言者を殺し、神の子を殺す「この世の人々」と私達は同じ地上で生きながら、彼らと一線を画す、その時に、自分の十字架を担ってイエス様に従っていく歩みが始まります。 /n同じ道を行く  教会は、イエス様への信仰が与えられた信仰者の群れであり、イエス様の弟子としてイエス様に従っていく群れです。私達は聖書を通して、ヨハネの死も、イエス様の死も「予告され、実現された」ことであったのを知ります。それでも尚、その道が正しく真理の道であるゆえに、私達はイエス様に従い、同じ道を歩いていくのです。今週も、一人一人に与えられた信仰が豊かに守られるように、そして、自分の担うべき十字架をイエス様も共に負って下さることを忘れず、平安と恵みの中を歩ませていただきたいと願うものです。

説教要旨 「山から下る道」 鈴木裵善姫牧師(石巻山城町教会)

[マタイによる福音書] 17章1-13節 1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。 9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。 10 彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。 11 イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。 12 言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」 13 そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。

はじめに

私達が信じているキリスト教には理解出来ない神秘的な話がよく出てきます。神の子イエス・キリストが人間としてこの世に来られ、聖霊によって処女マリアから生まれ,神の子イエスが罪人として十字架で死んでしまったこと、そして葬られたのに三日目に復活し、弟子達が見ている所で天に昇られたということです。これらは私達人間の理性では信じ難い話です。しかし聖書は人類の歴史を変え、私達の人生を変える生きた命あるものとして私達に受け継がれてきました。主イエス・キリストに出会った私達は信仰によってこの全てが事実であり,この世を超えて生きておられる神様の御手によってなされた、と信じることが出来るのです。人生を越えて私達は天の秘密を知ることが出来る、聖霊によって他の人には見えないものを私達は見ることが許されている、ということです。
山の上で  今日の聖書もそのように神秘的な要素で満ちています。イエス様は12弟子を選び公生涯をおくりますが、その中でもペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れてあちこちに行かれた話が聖書にあります。ある日イエス様はその三人の弟子を連れて高い山に登られました。ところが彼らの目の前でイエス様の姿が変えられました。聖書によると、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなり、それだけでなくエリヤとモーセが現れイエスと語り合っていました。モーセはイスラエルの律法を神様から受け取った預言者であり、エジプトの地で苦しんでいたイスラエルを救い出し、シナイ山で神様に直接対面し神様から律法を授かった人でイスラエルにとっては神様の御声を代弁する代表的な預言者です。又エリヤも旧約を代表する偉大な預言者です。洗礼者ヨハネが現れた時、人々は彼の権威と霊的な力を見てエリヤが生き返ったといいました。エリヤはイスラエルの人々に数々の奇跡を行なった預言者として記憶されています。
ペテロが口をはさむ  この死んだはずのモーセとエリヤが今,現れイエス様と語り合っています。 ペテロが口をはさみました。「先生、私達がここにいるのは素晴らしいことです。お望みでしたら、私がここに仮小屋を三つ建てましょう・・」。ペテロはこの不思議な光景に酔ってしまい、この素晴らしい瞬間をここに留めておきたい。モーセとエリヤがずっといれば良い、ここから離れたくないという気持ちで一杯になったようです。
ペテロの・そして私達の願望  ペテロは、洗礼者ヨハネが殺され、宗教指導者達と政治家達、ファリサイ派とサドカイ派の人達がイエス様を試み、脅し、捕えようとする気運が高まっており、しばしばご自身の死と復活について語られるイエス様を前にして、何となく理由もない不安と緊張感を感じていました。そのような現実から離れて、このように聖なる方達と共にここで暮らしたいとの願いが湧き上がってきたのかもしれません。私達の人生でも、ある時、この素晴らしい瞬間が永遠につながって欲しいという気持になる時があります。戦争や殺人が絶えないこの世から離れたい、争い憎み合うこの生活に疲れ、山の奥や海辺でも良い、静かに暮らしたい・・。気が合う人達に会い、愛する人達に囲まれて静かに生きていきたい・・。このような願望が誰にでもあるのです。
祈祷院  韓国には山の奥(人里少し離れた所)に祈祷院があります。そこに行くと早天祈祷会や晩礼拝があり、聖書を読みながらお祈りをします。ある人は山の中で叫ぶ人もいれば、掘った中で神様と勝負をするように必死の祈りをする人もいます。又静かに岩の上で瞑想し讃美する人達もいます。一部屋に5-6人一緒に寝ますが、そこでは皆、顔も明るくなり気持ちもきれいになって神様と自分との関係などの証しをします。お互いに霊的な言葉を交じえながら、忙しい生活の中で離れていた自分の信仰や神様との関係を整える時間でもあります。
祈祷院からの帰り道  私も時々行きました(三日とか一時間)。断食をしたり黙想して帰る時もあります。いつも帰り際になると「帰りたくない、神を讃美し祈りながら聖書を読みながらここにずっといたい」と気持が複雑になり、不安と緊張感を覚えたことを思い出します。私達が信仰によって真剣に生きようとするなら、この世はそんなに楽ではない。いつも見えない悪と戦い、いつも神様にそむいて生きようとする自分自身とも戦わなければならない。現実の厳しさ、愛していくことの難しさをつくづく感じます。
この世では  ある人は苦しい現実から逃げ出す為に麻薬をしたり賭博やお酒におぼれます。アルコール中毒になった人達に、健康に悪いからやめるように言っても、彼らはアルコールがいかに悪いのか、体全体でそれを感じて知っています。それにもかかわらず飲まなくてはいられない。飲むしかない、そのみじめな現実があります。アルコールは辛い気持ちを安定させマヒさせ、偽りの幸せを与えるからです。  私は新宿で短い期間、開拓伝道をしました。大抵の方はパチンコに走りお酒を飲み、中に麻薬をする人達もいました。1時、2時になると電話が鳴ります。お酒で舌が回らないのに1時間も2時間も身の上話をします。教会に来ると涙を流しながら讃美をし一生懸命祈ります。しかし世の中に向かって行くと、めちゃくちゃな生活に又流れていくのです。「そんなに飲んではだめでしょう。」「先生私はお酒でも飲まなければ生きていけません。すべてを忘れることが出来るなら何でもいいです。」私がこの人達に、「あなた達は悪い。神様の御心にかなっていない。」と言ったら多分皆逃げていったと思います。この世で傷だらけになって行き場を失い、人間として無視され軽蔑され、明日もわからなく生きるこの人達の為に、せめて教会はオアシスのような所になって欲しい、教会では人間らしい扱いをされる。牧師が私のいうことを聞いてくれる。恥ずかしい所を見せても受け入れてくれる。・・どうかそのようになれば良いという気持ちはありました。  ある人は、若い時に家庭も子供も捨て、自分勝手に外で楽しみばかり求めてきました。年を取り日本に来たが子供達に連絡も出来ない、安定して生きている子供達に「自分が親だ」と言えない苦しみ、又、母親の再婚相手に、中学生になった自分の体を触られた。お母さんに言ったらお母さんは返って怒った。それが心の底に深くありました。日本に来て「その男よりもお母さんを赦すことが出来ない!」と、この世の中には私達人間が癒すことが出来ない深い深い傷を持った人がいるのです。このような人達が行く所はどこか。教会です。教会がその人達の行き場にならなければ教会は教会ではないのです。「あなた達が互いに愛し合うことによって、私の弟子であることを人々は知るだろう」(ヨハネ13:35)。教会だけがお互いを愛し合い、赦し合う。汚いものがあってもそれを吐き出せる所。受け入れてくれる所。勿論、知恵が必要であり方法的な面も問われますが本質的に、教会に行くと離れたくない、教会に留まりたい、仲間がいる、それが教会なのです。
神の御声を聞く  もう一つ、教会は神様の御声を聞く所です。高い山で神の御声がありました。光輝く雲が彼らを覆い「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえました。教会は神様の御声を聞く所です。神様の御声が聞こえなくなる教会は教会ではありません。説教を通して、又、教会の交わりを通して、主がここに共におられる、主の臨在を感じる、主の御声を聞くことが出来る。 「これは私の愛する子」。この言葉はイエス様が神の子であることを確証する言葉です。つまり、イエス様はこの世の全ての権威と支配権が与えられている、ということです。神様が認めた神様の子、神様と同様な存在である、私の全ての権威をこの子に与えた。だからイエスに聞き従いなさい、ということなのです。モーセとエリヤが来たのは救い主イエスの道を備える為でした。その預言者達が示したメシアが来られたのです。ですから、私達は聞き従わなければなりません。

恐れることはない

イエス様はひれ伏して恐れている弟子達に近づいて彼らに手を触れて言われました。「恐れることはない」。天使がマリアに現れた時も,又預言者達に向かっても神様は「恐れることはない。」と言われました。私達はどのようなことがあっても恐れることはないのです。これが主イエスを通しての神様の約束です。「恐れることはない」。
山から下りて  主イエスと弟子達は高い山から下りてきました。主イエスは再び,これから迎えるご自身の苦難と死について語られました。この後、ある人が悪霊に取りつかれて苦しんでいる息子を弟子達のもとに連れてきましたが弟子達は治すことが出来ませんでした。結局イエス様が治しました。弟子達は悪霊と病気がある世界、悲しみと絶望がある現実に戻って来たのです。迫害があり差別と暴力がある、弱い者はいじめられ強い者によって不義が行なわれる暗闇の人間の世界に、その素晴らしい山から現実の世界に戻ってきたのです。私達が信じているキリスト教は、現実から離れて逃げている生活ではありません。神の子イエスが私達の世界(この世)に来られたように、私達もこの世の真中に入り悪と戦う生活にならなければなりません。それが主イエスの御声に従うことなのです。
主イエスに従って生きる  私達は主イエスが教え示して下さったことに従い、愛せない隣人を愛し敵を赦そうとします。痛み悩ませる問題があってもその問題に真正面から対面し、責任と義務を果たそうとします。どのような状況であっても真実に生きようとつとめます。主がそうであったように、弱い者、無視されている者の友になりたいのです。富や権力に服し真理をゆがめることは出来ません。汗を流して働き、また感謝をもってその一部を神様に捧げるのです。一時の利益を好みません。幾らかのお金と快楽の為に、自分の人格を売ることはしません。私達のまわりがどうであれ、多くの人々がどうであれ、私達は主のみ言葉に従って生きていきたいのです。
十字架を負うために   主イエスはご自身の命をねらう人達が多くいたのにもかかわらず、そこから逃げようとしませんでした。すべての権力を持っていたのにもかかわらず、それを使おうともしませんでした。そしてどのような危険があってもゆれることなく真理について語り続けておられました。使徒ペテロが見たその安全な場所、神の人達と語り合える所、神の霊に満ちていた所から下ってこられたのです。ペテロが味わった高い山での神秘、平和と喜びの瞬間、それに留まりたくても十字架を負う為に、主がその高い山から下りてきたように、私達もおのおのの十字架を負う為に、この世に向かって下りていかなければなりません。使徒ペテロは言います >> 「私達は、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これは私の愛する子、私の心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。私達は、聖なる山にイエスといた時、天から響いてきたこの声を聞いたのです。」(Ⅱ・1・17‐18) << そのように言いながら、「こうして私達には、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています」(19節)と、旧約の預言者達を通して示して下さった神様の約束がいかに確かなものであるかを証言しています。

御声の意味

ペテロにとって高い山での体験はこれから迎えなければならない数々の試練の中で大きな慰めになったと思います。主の死と復活を目撃したペテロは高い山で聞こえた神様の御声の意味を知り、預言の言葉の確かさをしっかり心に刻むことが出来たと思います。復活された主が共におられる。死んだ者も甦えらせる神様の確かな預言である。だから恐れずこの山を下りていきなさい。それではないでしょうか。
私達は・・  教会で力を得、神様の御声を聞きます。慰めと平安の中に留まりたいものです。しかし自分の十字架を負う為下りていかねばなりません。私達が歩む道は平坦な道ではありません。悪との戦い、不義と暗闇との対決が待っています。しかし使徒ヨハネは言います >> 「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それは私達の信仰です。誰が世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(手紙Ⅱ 5:4-5) << >> 「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」(マタイ17:5) << そのような神様の御声を聴き、主イエスに従う私達には世に勝つ勝利があるのです。そのような私達に、主イエスは言われます。 「恐れることはない」 (文責 佐藤義子)

説教要旨 「イエスにつまずく人々」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 13章53-58節 53 イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、 54 故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。 55 この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。 56 姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」 57 このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、 58 人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。 /nはじめに  皆さんはつまずいたことがおありでしょう。多くの場合、つまずくところびます。行くべき目的地があるのに、つまずいて転ぶと目的地への到達は遅れ、転び方がひどい場合には、目的地到着を断念せざるを得ません。同じことが信仰の世界でもいえます。 /nナザレの村  イエス様はユダヤのベツレヘムで生まれましたが、ガリラヤ地方のナザレの村で少年時代、青年時代を過ごされ、バプテスマのヨハネがヨルダン川で洗礼を授けていることを聞いてナザレの村を出て、ヨハネから洗礼を授けられ、その後、公生涯に入られます。イエス様は父ヨセフから大工の仕事を教えられ、ご自分も大工として働かれていたと想像されます。イエス様が公生涯に入られたのが30才頃といわれており、それまではナザレの村の一員として、又、ヨセフとマリアの長男として村人に知られていたのでしょう。 /n会堂で  この日イエス様は故郷ナザレに戻られ、ユダヤ人の会堂で教えられました。ふるさとの人々が、イエス様の話を聞き終り、言った言葉が54節にあります。「この人は、このような知恵と奇跡を行なう力をどこから得たのだろう」と。ふるさとの人々にとって、自分達の知っていたイエスという人物がなぜこのように話すことが出来るのか不思議でした。語る言葉には権威があり、力がありました。見るところ、自分達の知っているあの大工の息子のイエスであり、又、母マリアもイエスの兄弟姉妹もまだ村にいます。自分達と同じ延長線上にいるはずのイエスが、はるかにそれを越えた話をしたことは大きな驚きでした。しかし彼らのその驚きが尊敬に変わることはありませんでした。 /nつまずく  かつて自分達と一緒に過ごしたあのイエスが、何でこのように話せるのか、との疑問は、イエス様を信じる方向には導きませんでした。自分達はイエスの生い立ちを知っている、その古い知識が、新しい出会いを妨げました。出身や家族についての知識、共有する過去の思い出は、イエス様を受け入れるのに何の役にも立たなかったばかりでなく、むしろ邪魔をしたのです。そこでイエス様は当時良く知られていた格言、ことわざを口にされました。 「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」。人間という者は、自分の先生とか教師・指導者として尊敬するのは、その人の過去を知らない人であり、一緒に育った人、過去を知っている人を敬うのはむつかしいということでしょう。不信仰のふるさとの人々を聖書は57節で「このように、人々はイエスにつまずいた」と表現しています。 /nつまずきの原因  ふるさとの人々は、イエス様を自分達と同じ部類の、同レベルの人間であると考え、それ以上の人物であるとは考えたくありませんでした。今、目の前でイエス様がどんなに立派なことを教えても、彼らは自分達のイエスへの評価を変えたくないのです。同じ村で育った人間であるという思いが彼らの心をかたくなにしています。語られた言葉に対して心を開いて聞くのではなく、語った人物と自分達が同じ場所で成長した、そのことにこだわって、自分達の教師として敬うことを拒んでいるのです。それは相手より自分を低くすることを拒否する自尊心であり、傲慢な心であります。 /n拒否反応の共通点  イエス様の家族も、ファリサイ派や律法学者もそうでしたが、イエス様のまわりにはイエス様の語ることに耳を傾けず、批判する人々が多くいました。彼らは神を信じていましたが、神様がイエス様を自分達以上に高く置かれていることを認めたくありませんでした。それには、イエス様を自分達のところまで引きずり下ろさなくてはなりません。そこで彼らはイエス様のこの世における、大工という父親の職業や、母の名前、イエスの弟妹達のことを言うことによって、自分達と同じレベルに並べたと考えたのです。彼らは昔からある価値観や信頼するものをもっていました。又、自分のことは自分が一番よくわかっているという自負心もありました。その自分達の教師になるべきふさわしい人は、昔から知っているあなたではなくて、もっと別の名の通った正統派の教師だと言いたかったのでありましょう。 /n私達を省みて  私達はどうでしょうか。イエス様を拒んだ故郷の人と変わらない傲慢さを持ち合わせているのではないでしょうか。頭を下げることは嫌いだし苦手です。自分を高くされることは嬉しく歓迎しますが、相手を高くすることは自分が低くなることなので出来ることならしたくありません。親子、兄弟、夫婦、友人、同僚、上司との関係においても、表面はともかく、自分を低くすることのむつかしさは誰でもが経験しているところではないでしょうか。 /n傲慢はつまずきの石  神様を知る、イエス・キリストに出会う、真理に到達することを願うならば、つまずきの石となっている、この私達の傲慢さを打ち砕いていただかなければなりません。私にはあなたの助けは必要ないと心を閉じて、だからこのままで十分なのだといわしめるものは、私達の傲慢にほかなりません。ふるさとの人々は、「イエス様を信じた時に救いへの道が開かれていく」ことを知りませんでした。彼らが知りたかったイエス様の知恵と力の根源も、イエス様を信じた時にはじめて理解できるのです。しかし彼らは信じる前につまずきました。イエス様の人間的血筋にこだわり、しかも自分達が知りうる範囲だけの知識に基づいて判断したからです。小さな自分の知識の枠の中にとどまり、大きな力の働きに向かって信じる決断の一歩を始めることが出来ませんでした。 /n十字架もつまずき  馬小屋から始まったイエスさまの一生は一貫して低い生き方を通されました。イエス様が弟子として選ばれた人達、すすんで関わりを持たれた人達は、地位や名誉のある自分を高くしている人達ではありませんでした。弱い人、人から軽蔑されている人、苦しんでいる人達が友でした。しかも最後は十字架という犯罪人がかかる死刑で殺されました。イエス様は常に低いところにご自分を置かれました。それが人々にとってはつまずきになりました。なぜなら人々は、身近な人、良く知っている人ではなく、高い所に自分を置いているような人を指導者として尊敬したいのです。イエス様の十字架は多くの人達にとってつまずきとなりました。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私達は十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわちユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものです。」(Ⅰコリント1:22-)。十字架という死刑で殺された人をなぜ救い主として拝むのか、はユダヤ人だけでなく、日本においてもつまずきです。私達はそれを知りつつ、なお、イエス様は神の御子であることを告白し続けています。 /nおわりに  「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私達救われる者には神の力です。」(Ⅰコリント1:18)。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(同25)。私達はつまずく人ではなくつまずかない人、信じない者ではなく信じる者として、又、イエス様の低さを学び、自分の傲慢さを祈りによって打ち砕いていただきながらこの一週間を歩んでいきたいと願うものです。

説教要旨 「天の国を学んだ学者」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 13章44-52節 44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。 45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。 46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。 47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。 48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。 49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、 50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」 51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。 52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」 /nはじめに  本日の聖書でイエス様は三つのことを語っています。初めの二つは天の国のたとえであり、三つ目は天の国のことを学んだ者の「姿」です。 /n宝と真珠のたとえ  ある人が畑を耕していたら偶然に宝を見つけました。当時パレスチナでは財宝をつぼに入れて土の中に埋めることがよくあったようです。戦火から、或いは略奪から財産を守る為です。たとえでは、財産を埋めた畑は何らかの事情で人手に渡り新しい所有者が畑を小作人に任せていたような想定です。たとえでは、宝を見つけた人がその宝を手に入れる為に全財産を処分して畑を買ったという話です。真珠のたとえでは、真珠の商人が良い真珠を探しており、ついに本物の高価な真珠を見つけた時、彼は全財産を処分してこの真珠を買ったという話です。 /n共通点と相違点  最初の人は、宝を探していて掘り当てたのではなく、たまたま偶然に見つけました。それに対して真珠商人はあちこちを探し尋ねた結果見つけました。共通点は、彼らが発見した後、手に入れる為に同じような行動をとったことです。彼らは今まで蓄えてきた財産をすべて処分して見つけたものを手に入れました。 /nすべて処分するということ  「汗と涙の結晶」などという表現があるように、努力を重ね、それ迄に築き上げてきた自分の人生「そのもの」に近いものを手放すということは簡単なことではありません。ところがこのたとえでは、手放すことに何のちゅうちょも迷いも見られません。むしろ喜んでそれをしています。それほど価値のあるこの宝・真珠とは何なのでしょうか。 /n天の国・天の支配  これは天の支配、言い換えれば神様の支配の中に入る、神様の支配のもとで生きるということです。それはイエス・キリストに出会い、イエス・キリストと共に生きる、福音を信じて永遠の命を与えられるということです。そのことはそれまで築いてきたもの全てを引き換えにしても惜しくはない、それほどの価値があるということです。それによって開かれるあらゆる可能性を秘めた豊かな生き方は、人間の思いをはるかに越えていて、まさに宝であり高価な真珠です。これを手にする為の引き換えとして「すっかり売り払う財産」とは何か?各自、神様から示されるでしょう。 /n網のたとえ   後半の、網によって集められた魚のたとえで引用される網とは地引き網のことです。漁師が夜のうちに網を投げこんでおくといろいろな魚が入り、朝、一杯になった網を引き揚げます。ある聖書学者は「伝道とは暗い海に網を投げるようなものだ」と言いました。これは、罪の世界に生きる人間を、暗い夜の海に泳ぐ魚にたとえ、網にかかる、とは偶然御言葉の網にかかり救われることをいっています。そして今の私達の状態は、朝の陸揚げ(終末)を待って時だとこの学者はいっています。聖書は、網が引き揚げられると「良い魚・悪い魚」の選別が漁師によってなされるように、救われた人間も又、天使によって必ず選別される時を迎えるというたとえです。 /n天の国のことを学んだ者  以上、「種まきのたとえ」から始まった13章の七つのたとえを語り終えたイエス様は、弟子達にこれらのたとえを理解したかどうかを尋ねました。弟子達は「分かりました」と答えました。イエス様は、天の国のことを学んだ者は「一家の主人」に似ていると言われました。一家の主人は、家族・来客の為に必要に応じて倉から古いものや新しいものを自由に取り出すことが出来ます。弟子達も今や、人々に神の国を伝えていくために必要なものを取り出す為の倉を持ち、そこにそれ迄教えられてきた律法を中心とする古い教え(旧約聖書)と、それに新しい光を当てられたイエス様の山上の説教をはじめとする「神の支配」の教えが入っています。救いに招かれ信仰を与えられている私達も又、倉を持つことがゆるされた弟子の一人とされた者です。神様の支配のもとで生きる毎日の歩みの中で、その都度、倉から必要な神様の教えを引き出し、それに聞き従い、人にも伝えることが出来る者になりたいと願うものです。

イースター礼拝  「死者の中から復活された」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 28章1-10節 1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。 2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」 /nはじめに  イエス様の弟子でありながらユダヤ人達を恐れてそのことを隠していたヨセフ(ユダヤ人の町アリマタヤの出身)が、十字架上のイエス様の遺体を取り降ろす許可をローマ総督ピラトから得ました。そして取り降ろした遺体にニコデモと共に香料を添えてきれいな亜麻布に包み、岩に掘ったヨセフ所有の新しい墓に遺体を納めました。墓の入り口に大きな石を転がしてふさぎ、そこから立ち去ったのは、安息日に入る金曜日の日没前のことでした。 /n日曜日  今日の聖書の箇所は、安息日が終り(土曜日の日没)日曜日の朝まだ十分明けない内に二人の女性が墓を訪れた時の出来事です。墓は封印され番兵も置かれていました。(弟子達が遺体を盗み、復活のうわさを流すことを祭司長達が恐れた為です)。二人の女性は家にじっとしていることも出来ずに墓のそばでイエス様の死を悲しみ、又、イエス様を偲びたかったのでありましょう。 /n主の天使が降る  ところが墓についた二人は思いもかけない光景を目にします。大きな地震が起こり天使が墓の入り口の石をころがしてその上に座り「あの方は死者の中から復活された」と告げたのです。 /n復活  復活とは死んだ者がよみがえったということです。驚くべきことです。私達人間は、死の前には全く無力です。全ての人間は死ぬことが定まっています。誰一人例外はありません。なぜ死ぬのでしょうか。死ななければならないのでしょうか。それは「罪の支払う報酬」であると聖書は教えます(ロマ6:23)。最初の人アダムによって罪がこの世に入り、同時に罪によって死が入り込んできました。この死が全ての人におよびます。全ての人が罪を犯したからです。 /n罪を犯されなかったイエス様  イエス様には死ぬ理由はどこにもありません。罪を犯されなかったからです。死ぬ必要のないイエス様がなぜ死んだのでしょうか。それは私(あなた・全ての人)の罪を引き受けられたからです。 /n復活は神のわざ  イエス様は十字架につけられ殺されました。死んだ後、墓に葬られたことは私達人間と同じです。(この世においては、死を宣告されると多くの人達は絶望します。なぜならすべての終着駅として死を考えているからです。)しかしそこから先は違いました。イエス様は死者の中から復活されたのです。「復活された」とは「神によってよみがえらされた」という受身の言葉です。イエス様の誕生がそうであったようにイエス様の復活も又、神様のわざです。 /n死の先  イエス様の復活は死に勝利されたことを意味します。それによって肉体の死は一時の通過点に過ぎずその先があることを知らされました。それが天の国(神の国)です。イエス様がこの地上におられた時に語られた多くの話はこの神の国についてでした。人は目に見える世界だけに目を奪われ、喜び悲しみ苦しみ悩みます。しかしイエス様は告別の説教で次のような言葉を残されています。「あなたがたは世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」「神を信じ、私を信じなさい」「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとにいくことは出来ない」。又、復活後、疑うトマスに向かって「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われました。 /n私達は神の子供  私達人間に命を与えて下さった神様は、私達の、神様への不従順の罪を赦し、罪の奴隷となっている私達人間を罪の支配から救い出す為に、御子イエス・キリストを遣わされました。そして私達の罪をすべてイエス様に転嫁して負わせ、罪の報酬としての死をイエス様に引き受けさせられたのでした。イエス様の死によって今や私達は罪を赦された神の子供となりました。 /nイースター(復活日)  イースターはイエス様が死に勝たれてよみがえったことを祝う日です。復活されたイエス様は、聖霊の働きを通して今もなお私達と共にいて私達を守り導き励まして下さいます。復活のイエス様を心から感謝し(だから絶望しない)、復活のイエス様と共に歩む一週間でありたいと願うものです。

礼拝説教要旨 「ゲッセマネの祈り」 牧師 佐藤 義子

/n[マタイによる福音書] 26章36-46節 36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたれたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。 38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」 39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 40 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言わた。「あなたがたはこのように、わずかな一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。 41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 42 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」 43 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。 44 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。 45 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 46 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」 /nはじめに  本日の聖書は、最後の晩餐(木曜日)の後、イエス様が弟子達と一緒にオリーブ山のゲツセマネと呼ばれる園で祈りを捧げられたことが記されています。ゲツセマネは、イエス様がエルサレムに滞在されていた時にはたびたび祈りの場所とされていたようです。ゲツセマネに着くと、イエス様は弟子の中からペテロ・ヤコブ・ヨハネの三人を選び、更に奥へと祈りに行かれました。まもなくイエス様は悲しみもだえ始められ(37節)、三人の弟子に向かって「私は死ぬばかりに悲しい」「ここを離れず私と共に目を覚ましているように」(38節)と言われます。そして三人から少し離れた所でイエス様はうつ伏せになり祈られました。 /n三度の祈り  イエス様は三度にわたって祈られました。山上の説教で「あなた方が祈る時は異邦人のようにくどくどと述べてはならない。あなた方の父は願う前からあなた方に必要なものをご存知なのだ」(マタイ6:7)と教えられた、そのイエス様が三度祈られたのです。 /n第一の祈り    「<span style="font-weight:bold;">父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の願い通りではなく、御心のままに</span>」。  杯とは十字架の死のことです。イエス様は十字架を出来るなら避けたいと願われました。しかし神様のご計画が全てにまさって優先されることをイエス様はよくご存知でした。この祈りは、神様の御計画の中に「十字架の死」以外の道は用意されているのかどうかを最終的に問い、確認するという大きな目的のもとに捧げられた祈りであるといえるでしょう。 /n第二・第三の祈り  少し離れた所で、苦しみを共にして祈って欲しいと願った3人の弟子達は、イエス様が戻られた時、眠っておりました。イエス様は「<span style="font-weight:bold;">誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても肉体は弱い。</span>」と声をかけられ、再び祈りに行かれました。「<span style="font-weight:bold;">父よ、私が飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように</span>」(42節)。そして「<span style="font-weight:bold;">三度目も同じ言葉で祈られ</span>」(44節)ました。弟子達は眠ったままでした。 /n「御心が行なわれますように」  神様のご意志がそのままなされるようにとの祈りは、「汗が血のしたたるように地面に落ち」(ルカ22:44)ながらささげられた祈りでした。まさに苦闘の祈りでありました。なぜこれ程までに苦しみ祈られたのでしょうか。 /n罪が支払う報酬は死(ロマ6:23)   それは、死の恐怖からではなく、この死が神様に裁かれる罪人の死であったからです。コリント第二の手紙には、「罪と何のかかわりもない方を、神は私達の為に罪となさいました。 私達はその方によって神の義を得ることが出来たのです。」(5:21)とあります。イエス様の全生涯は、神様を父として、全てのことは父なる神様を通してなされました。神様の支配の下で親しく歩んでこられました。今、その関係が変わろうとしています。神様に従順に歩んできたイエス様が、神様に敵対して不従順に歩んできた者にされて裁かれようとしています。つまり不従順な者すべて(全人類)の罪を引き受けられて、神様の怒りを受け神様との交わりは断絶するのです。十字架の死は罪に対する裁きとして目の前にあります。 /n私の罪   本来なら私達がそれぞれ「自分の罪」に対する「裁き」をうけるのです。一般社会では法律を犯せばその罪に見合った裁きを受けます。私達が神様の前で犯す罪についても同じです。一番の罪は神様を神様とせず、自分を神として自己中心・自己絶対化の道を生きてきたことでしょう。さらに神様が律法を通して教えておられる人間の生き方に大きく違反してきたことです。人を愛することが出来ず、憎み、嫉妬する、復讐する。あるいはうそ・偽りを言う。真理に従わない等、罪がないといえる人は一人もいません。にもかかわらず、私達は自分の罪に見合った裁きを受ける覚悟はあるでしょうか。「十字架」はイエス様が負うのではなく、私達一人一人が負わなければならない罪の結果の死なのです。考えただけでも恐ろしいことです。すでに忘れてしまったことも含めて、私達はどれほど神様に逆らってきたでしょうか。しかも私達には自分の罪を赦していただく為に神様に差し出せるものは何一つありません。 /n私達の代わりに・・   このような私達に対してイエス様が代わりに神様の裁きを受けて下さったのが十字架です。ゲツセマネでの苦闘の祈りが、イエス様を、自ら進んで十字架の死・罪の裁きを引き受ける道へと導いたのです。共に祈ることを求められながら、眠りの中に過ごして祈る時間を空しく終らせてしまった弟子達の姿は私達の姿でもあります。 /nゲツセマネの祈りの後に・・   イエス様は力強く言われました。「立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た。」と。 翌日の金曜日朝9時に十字架につけられたイエス様は午後3時に息を引き取られました。(マルコ15:25‐参照) ヘブル書にはこうあります。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」 /n私達の祈り  私達が毎日、「天の父なる神様」と、親しく祈ることが出来るのは、イエス様が十字架への道を引き受けて下さり、それによって私達の罪が赦されたから・神様との断絶の中に道をつけて下さったからであることを、しゅろの日曜日の今日、特に心に覚えたいと願うものです。

定期集会・行事

/n定期集会 -日曜礼拝            毎週日曜日 午前10時半-11時半 -子供の礼拝           毎週日曜日 午前 9時半-10時 -成人クラス           毎週日曜日 午前 10時 -10時20分 -祈祷会・聖書の学びと祈り  毎週木曜日 午後 13時- 14時 -全体祈祷会            毎月第一日曜日の礼拝後、共に祈ります。(自由参加です。) -キリスト教入門(いずみ会)   毎月第二水曜日 午前10時半-12時頃     /n行事  2月 スキー教室  8月 サマー・スペシャル・プログラム(一泊2日) 10月 芋煮会(野外礼拝) 12月 クリスマス礼拝・祝会     子供クリスマス ※東北学院、宮城学院と同じキリスト教です (ものみの塔、モルモン教、統一教会とは関係ありません)