2022年5月8日の説教要旨 レビ記19:9-18・Ⅰヨハネ手紙4:13-21

主の戒め」       加藤 秀久 伝道師

*はじめに

レビ記は17章始めに、「神聖法集(17-26章)」との見出しがあります。

その目的は19:2に「イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」と述べられています。つまり、イスラエルの民が、聖なるお方である父なる神の、主の民となり、聖なる者、聖い者となるための掟が定められているからでしょう。

自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(19:18)

 この隣人愛の戒めで「自分自身を」と訳されている元の言葉では「あなたのように」と訳される言葉です。これら二つの訳は、どちらも同じような意味合いになるかと思いますが、「あなたのように」と訳すと、「あなたと同じ立場にある『人』として愛する」という、微妙な意味になります。

このことから、元の言葉で伝えようとしていることは、「あなたの隣人に対してあなたのように愛しなさい。」「あなたと同じような、もう一人、又は、複数のあなたがいると思って愛しなさい」と告げていると思います。

そして19章では、モーセが神様から与えられた十戒を通して聖なる者となることと、日々の歩みの中で具体的な戒めを記すことで、私達の生活の基盤としてこの戒めを守り、行うことを、民にはっきりと示しています。

*十戒(じっかい)

➀あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

②あなたはいかなる像も造ってはならない。

③あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

④安息日を心に留め、これを聖別せよ。

⑤あなたの父母を敬(うやま)え。

⑥殺してはならない。

⑦姦淫(かんいん)してはならない。

⑧盗んではならない。

⑨隣人に関して偽証(ぎしょう)してはならない。

⑩隣人の家を欲してはならない。

聖なる者となりなさい

元の言葉では、(わたし、まことの神が聖いのだから)「聖なる者となるであろう。」となります。神様がイスラエルの人達に、「父なる神である わたしが聖(きよ)いのだから、あなたもわたしを信じて従い続けることによって、聖い者となるであろう。」と伝えているのです。

これは、今現在もこれからも、将来必ず、あなたを聖い者としますよ」と、預言されている言葉なのです。

私達は果たして聖なる者へと変えられることができるのでしょうか。私達は、私達の力だけでは聖なる者になれないし実現は不可能でしょう。

*神様はご自分の霊を分け与えられた(1ヨハネの手紙 4:13)

 そこで神様は、私達の生活の場へとイエス様を遣わして下さり、イエス様は人として歩んで下さいました。最後は十字架刑で亡くなられましたが、これは神様のご計画によるものでした。イエス様の死は、私達人間の罪を取り除く贖(あがな)いの死(罪の赦しを与えるための、身代わりの死)であり、それによって私達は、神の御国に入る権利を与えられました。このイエス様の死がなければ、私達は神様の霊を受けることは出来ず、聖い者になる権利もありませんでした。イエス様が復活されて天に昇られた後、人々が心を一つにして祈っている時、神様の霊が降り、人々の上に留まることを通して、私達は神様を身近に感じ、神様の霊が私達の心の内に宿っていることを感じることができるようになりました。

この霊によって、私達は神様との関係作りを持ち、神様と個人的な交わり、関係性、信頼関係が深まれば深まるほど、神様からの知恵・知識や神様の御心・ご計画も知ることができると今日の聖書は伝えています。

*わたしたち

 本日のヨハネの手紙の15節では、「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」とあります。ですから私達は、聖なる神様を信じて従い続けることによって、私達の内にとどまって下さる神様からの聖霊の導きと助けのもとで「聖い者」へと変えられていくのです。

2021年10月31日の説教要旨 創世記4:1-10・Ⅰヨハネの手紙3:9-18

「愛するものたちへ」     加藤秀久 伝道師

*はじめに

 アダムとエバはエデンの園を管理する者達でしたが、神様の「園の中央にある善悪を知る木の実を決して食べてはならない」とのご命令に従わず蛇の誘惑により食べたことで、エデンの園から追い出されてしまいました。

その後アダムは、妻によってカインとその弟アベルが与えられ、アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となりました。時が流れて、兄のカインは「大地の実り」を主へのささげ物とし、弟アベルは「羊の群れの中から肥えた初子」を主の献げ物として持って来ました。主は、弟アベルとその献げ物に目を留められましたが、兄カインの献げ物には目を留められませんでした。カインは、激しく怒り、顔を伏せてしまいました。

*神様への献げ物

神様は、なぜ弟アベルの献げ物だけに目を留められたのでしょうか。

考えられるのは、それぞれの礼拝の姿勢、向き合い方です。

この神様への献げ物に関して、ダビデの、次のような言葉があります。

いや、私は代金を支払って、あなたから買い取らなければならない。無償で得た焼き尽くす献げ物を私の神、主に、ささげることは出来ない」(旧約聖書サムエル記下24:24)。

この言葉は、ダビデ王が神様の前に大きな罪(人口調査)を犯して、その結果、民衆に大きな災いが降った時に、その罪の赦しを得るために祭壇を築き、いけにえの献げ物を捧げようと、土地の所有者に売買を申込んだ際、所有者から「祭壇を築く土地も、犠牲の動物も、すべてをダビデ王に無償で差し上げる」と言われた時の、ダビデ王の返事です。「神様を礼拝する」ということは、神様に向けた正しい心が伴っていなければなりません。

神様を礼拝する人の心が正しくなければ、神様は、その人にかかわりのある他の人達までも巻き込んで、滅ぼしてしまう裁きを行うことを私達に教えていると思います。又、神様は、「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16:7)とあり、神様の御前では、どんなに小さな罪、悪い行い、考えをも隠すことはできません。それらはいつか神様によって全てのものが明らかにされてしまいます。神様は、アベルとその献げものに対して、神様に対する礼拝の心・信仰・姿勢をご覧になり、目を留められたと考えられます。

*怒りで顔を伏せたカイン

 神様はカインに、「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」と言われます。心にやましいことがなければ、私達は神様の前にしっかり顔を上げられるはずです。仮に、これまでカインの行動が正しくなかったとしても、今、悔い改めればすぐにでも受け入れられることを伝えようとしたのかもしれません。しかしカインは、「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。」と告げられた通り、野原に弟アベルを誘い出して殺してしまいました。

私達も、小さなきっかけから心に怒りを抱いてしまうことがあり、その感情を放置していると、やがてその感情が大きくなり、自分でコントロールできなくなり、大きな罪に発展してしまう可能性があります。

神様はカインに、罪を犯したことを自らの口で告白し悔い改める機会を与えましたが、カインは「知りません。私は弟の番人でしょうか?」と神様に応えた結果、彼は地上をさまよい歩くさすらい人になりました。

仮に私達が罪を犯してしまったら、素直に悔い改めることが大切です。

神様は必ず赦して下さいます。実際に神様は、「私の罪は重すぎて負いきれません」と言ったカインを見捨てることなく、逆に神様はカインをあわれみ、誰も彼を襲うことのないよう、約束しています(4:13~15)。

*宗教改革記念日

本日は宗教改革記念日です。私達は、「聖書のみ」、「恵みのみ」、 「信仰のみ」との宗教改革の三大原理を受け継ぎ、「神様を第一」として、ルターが掲げた「95ヶ条の提題」のように、神様の前に真実な者、正しい者であり続けていく者たちへと変えられていくことを祈りましょう。私達は、私たちの外側を立派に見せるのではなく、私たちの内側が、いつも神様に喜ばれるように礼拝を献げていきましょう。

2021年8月29日の説教要旨 列王記上3:4-15・Ⅰヨハネ5:13-21

「主の御心に従う」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

ダビデ王の後を継いだソロモン王は、ある夜 夢の中で主の言葉を聞きます。「あなたはどんなことでも求めなさい。わたしはあなたに与えよう」。その言葉にソロモンは次のように答えました。「・・・わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません・・・どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕(しもべ)に聞き分ける心をお与えください・・・(6-9節)。」

ソロモン王が主に願ったことは、主の目に適(かな)い、主は、このソロモンの願いを喜びました。神様は、私達にも同じように、このような主の目に適う願いごとを求めることを願っています。

*主の御心に適う願い

 本日の、ヨハネの手紙一 5:14では、神様は、イエス様を信じる者達の祈りや願い、望みを聞き入れて下さると約束されています。そして私達は、神様からの祈りの応(こた)えによって、信仰が強められ、神様への讃美へと導かれていきます。

しかし、ここで私達が注意しなければならないことは、私たちの願い、望みが応えられるのは、「神の御心に適(かな)うことを願うなら」と、記されていることです。私達が何か望みを持って神様に願う時、その祈りが、神様の御心にかなうのかどうか、神様に喜ばれるものであるのかどうかと、少し立ち止まって考えることも大切です。

*イエス様の祈り

 イエス様は十字架にかかる前の夜、弟子達を連れてゲッセマネに行き、父なる神様に祈りを献げるために一人になりました。

その時イエス様が父なる神様に祈った言葉は、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように(マルコ14:36)。」です。

イエス様は、神様への信頼の言葉と自分の願いを祈りながらも「しかし」と続け、神様の御心に適うようにと願い求めました。

*神様に御心に適う生き方

 私達は、神様の御心が行なわれることを祈り、神様に自分の思いを委ねて、信頼して、日々お祈りをささげているでしょうか。

人は、自分に与えられている能力や時間・お金を、自分の所有物のように自分の欲しい物、自分のやりたいことに使います。しかし本来、私達に与えられているものは、神様に献げるためのものです。神様と話をするため、神様を礼拝するため、神様の言葉に向かうためのものなのです。

ソロモン王は、神様に礼拝するために多くの時間やお金、能力を使い、神様に真剣に向き合いました。神様の御心に適(かな)う者とは、自分の欲望に左右されることなく、神様との時間や神様との関係作りを優先する者を意味します。神様は、御心に適う者に永遠の命を与えます。

*永遠の命を受けるものへ

ヨハネの手紙では、「死に至らない罪」と「死に至る罪」があることが告げられています。人の犯す罪が、「死に至らない罪」であるならば、たとえ今、イエス様を信じることが難しくても、神様のご計画の中で、神様の子供とされることができます。私達は希望をもって主の救いを祈り続けて良いのです。しかし「死に至る罪」を犯す者については、私達は神様にお委ねするしかありません。それはとても厳しい現実ですが、神様の義です。

私達はイエス様を信じて受け入れた時に、罪が赦されて死に至る者から、永遠の命を受けた者へと変えられます。永遠の命とは、神様と人間が永遠に共に生きることが出来るということ、神の国、天国に入ることが出来ることを意味しています。

私達は、日々イエス様が、私の救い主であることを感謝して、信仰を新たにしていきましょう。

そして神様に呼ばれて応(こた)えた者として、安心して、神様の大いなる祝福を期待して、今週一週間の歩みを始めて参りましょう。

12月8日 待降節第2主日の説教要旨

詩編27:1-6・ヨハネ1:14-18   「神を示された御子」佐藤 義子(協力牧師)

*はじめに

待降節に入り、2本目のローソクに火が灯りました。今朝はイエス様が私達の住むこの世界に来て下さったことについて、ヨハネによる福音書の1章から学びたいと思います。

 ヨハネ福音書は、ほかの三つの福音書とは違い、その書き出しは非常に強烈な、インパクトのある表現で始まります。

初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。」

一瞬、何を言っているのか、わからずに読み進んでいきますと、言(ことば)とは、イエス様のことであることが分かります。そして「初めに」という言葉も、初めの初め、まだ天地が造られる前の、「初め」だというのも分かってきます。創世記1章1節に、「初めに、神は天地を創造された」とある、この「初め」に、イエス様はすでに神様と共におられた、ということです。

私達は「見える世界」に住んでいて、しかも時間(歴史)の中の、ほんのわずかの一時期しか、この地上に存在することは出来ません。けれども、聖書は、私達に見えない世界のこと、時間、空間を越えた「永遠の世界」があることを教えてくれます。

 ここで、言(ことば)と表現されている神の御子イエス様は、天地創造以前、永遠の世界で、父である神様と共におられました。ところが、今日読んでいただいた1章14節に「(ことば)は、肉となって、私達の間に宿られた」とあるように、「永遠の世界」から、「時間と地上の世界」に、神様から遣わされて来られました。

肉となって」との表現は、肉体を取る・・私達と同じ人間になるということです。永遠の、見えない世界におられた神の御子イエス様が、見える時間の世界に来られた、人間として誕生されたのです。人間は、肉体を持つゆえの誘惑があり、罪も宿り、さらには「死ぬ」定めを負っています。

神の御子イエス様は、人間になられたことにより、罪と死のある領域の中に、住まわれたのです。

ヘブライ人への手紙5章7節以下に、こう記されています

キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」さらに、フィリピ書2章6節以下には「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と記されています。

*御子イエス様が地上に来られた目的

神の御子が私達と同じ人間として生まれられた、その目的は何だったのでしょうか。12節以下に書かれています。

言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

 イエス様が来られたのは、この地上の暗闇に、「光」としてすべての人を照らすため、そして一人でも多くの人々を「神の子とする」ためです。この、イエス様の働きを引き継いだ弟子達によって教会が生まれ、私達の小さな群も又、弟子達と同じように、まことの光として来られた救い主イエス様のことを、そして愛する御子を私達の為に遣わして下さった神様のことを伝え続けています。

*「わたしたちはその栄光を見た」(14節)

地上でのイエス様は「飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子」(ルカ2:12)の姿が象徴しているように、この世の権威や権力から離れた世界に身を置き、最後は、十字架で殺されるという悲惨な最後で地上での生涯を終えられました。しかしヨハネ福音書の著者は、イエス様に隠されていた「栄光」を見たと証言しています。その栄光は父(神)の独り子としての栄光であって、「恵みと真理とに満ちていた」と伝えています。

イエス様は生涯、父である神様と霊で結ばれて、神様と共に歩まれました。神様はイエス様を通して自らを現わされました。イエス様の中には、偽りも憎しみもなく、真理の明るい光の中にすべての思いと言葉がありました。

*「私達は皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(16節)

「恵み」とは、それを受けるのに十分な理由も、価値もないのにもかかわらず、神様から一方的な愛、神様からの全く自由な愛が与えられることです。本当ならば受けるに値しない「神様からの恵み」です。讃美歌271番の最初で「功(いさお)なき我を、血をもて贖い(あがない)」と歌いますが、神様の前に、功績といえるものを何も持たない私達が、一方的な神様の愛によって、イエス様の流された血潮により罪が赦された、というこの讃美歌は、神様の大いなる恵みを讃美している讃美歌です。

*救いの恵みに与った(あずかった)者の歩み 

そして、救いの恵みに与った私達の、その後の歩みに於いて、恵みは、私達を立ち上がらせ、生き生きとさせてくれます。私達の人生には苦難がいろいろな形で押し寄せてきます。経済的困難、思いがけない病、自然災害、又、愛する人との別れ、人間関係におけるさまざまな問題などなど・・。それにもかかわらず、神の子とされた信じる者達の歩みは、一つの恵みに、やがて新しい恵みが加わり、恵みから恵みへと導かれていくことが語られます。

異なった環境で、異なった恵みがいつもそこにあるのです。順境の時と、逆境の時、青年時代と老年時代、自分の重荷を負う時と人の重荷を負う時、それぞれの時に、信じる者には、16節にあるようにイエス様の満ち溢れる豊かさの中から、恵みをいただき続けます。神様の恵みは、同じところにとどまっているのではなく、私達が生きる現場に応じて次々と形を変えて注がれます。そして、どのような困難の時にも押しつぶされない勝利が約束されているのです。聖書は真実です。恵みが途切れることはありません。もし、神様が用意されている恵みがわからず、苦しい時には、神様に、「信仰の目を開かせて下さい」と祈ることも良いでしょう。私達が受ける試練が、あとになってからその意味を知ることもあります。

*私の証し

私は、主人の母の介護を通して、神様の恵みを感じることが多々ありました。が、ある時期、神様の恵みを感じることが困難でした。それは母に幻視(ないものが見える)が起こっていた時期でした。母は昔、幼い娘を亡くした体験からか、小さい女の子がそばにいたのにいなくなったと捜す症状でした。何日も続くと私自身も寝不足になります。もう家での介護は限界かなと考え始めていた時です。母は別の症状に移ったことがきっかけで、小さい女の子を捜し回ることは終りました。困難な仕事と思えることでも神様は必ず助けて下さり、どんなに大変なことでも、ぎりぎりになって「神様、もう出来ません」と祈ると、必ずそこから又、新しい状況が開かれていくという経験を何度もしました。それ以来、何か大変なことが起こっても、私が引き受けられるから、神様はそのような状況に私を置かれていると自然に思えるのです。そして、その場その場で「ああ、守られている」と神様の恵みを実感し、感謝の日々です。

*「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」(18節)

 イエス様が十字架にかかられる前に、弟子達に「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない」と言われました。その時、弟子の一人が、「私達に御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言いました。イエス様は、「私を見た者は父を見たのだ。なぜ、『御父をお示しください』と言うのか。私が父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなた方に言う言葉は、自分から話しているのではない。私の内におられる父が、その業を行っておられるのである」と答えられました。 イエス様は永遠の世界から、私達の住む世界に、私達を神の子とするため、私達に神様を示すために来て下さった!のです。クリスマスの本当の意味を一人でも多くの方達に知って欲しいと心から願うものです。