7月16日の礼拝説教要旨 「救いの授受」 佐藤 義子

 詩編119105106・フィリピ21216

はじめに

「あなたはなぜ、今、ここに(この礼拝に)おられるのですか?」と質問されたら、クリスチャンは、「イエス・キリストを信じて救われたからです」と答えるでしょう。クリスチャンは、イエス・キリストの父である神様によって救いを授けていただいた者です。救いに与った(あずかった)私達は、その後、救いの道をどのように歩んでいるでしょうか。

教会は、「救い」が語られる場所です。教会でなければ聞けない言葉は、「神様の救いの御計画はイエス・キリストの出来事(十字架による罪の赦しの福音)によって実現された」ということです。そして救われるためには、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒言行録16:31)との約束があることです。

「ただ信ぜよ」(新生讃美歌91番)

十字架にかかりたる救い主を見よや。こは(これは) 汝が犯したる罪の為。(繰り返し)ただ信ぜよ、ただ信ぜよ、信ずる者は誰もみな救われん

2節:「死よりよみがえりし生命の主 知らずや。罪に死せる人よ、今 仰げ。

3節:イエスは 罪の為に苦しめる者をば憐れみて 救わんと招きたもう。

4節:罪より救われて、限りなき生命を望むものは、イエスに今 すがれ。

救い

すべての人は、罪に落ちていて救われなければならず、しかし人間は自分の力で救いを得ることは出来ません。それゆえ神様は、救いの御計画を立ててくださり、神の御子イエス・キリストを地上に送って下さった。この御子イエス様が、私達に代わって罪の裁きを受けて下さり、これによって私達の罪は赦された。これが福音であり、これを信じることが信仰です。私達人間は、自分の罪を悔い改め、福音を信じることによって救われます。人が救われるのは、まったく神様の恵みによるのであり、人間の知恵や知識や善行を積むことにはよりません。(なぜなら、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。*1コリント1:29)

神様の一方的な恵みによって救われた時、私達は次の段階すなわち、救われた後の信仰生活へと進みます。

信仰生活

わたしの愛する人達、いつも従順であったように、私が共にいる時だけでなく、いない今はなおさら従順でいて」(フィリピ2:12)

「従順」の模範は、2:6-8に記されているイエス様の在り方です。イエス様は、「父である神様の御心に従って、人間の救いの為に自分を捨て、神の立場に固執せず、へりくだり、十字架の死に至るまで従順」でした。しかし私達にとって、「従順」は、夫と妻、親と子などの身近な関係を考えてみても決して簡単ではありません。まして神様の御心に、従順に従う生活をしていくことは、自分の力だけでは出来ません。

恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」(同)

聖書は私達に、「従順」に加えて「恐れおののきつつ」と言葉を続けます。これは目に見える人やものに対する「恐れおののき」ではなく、自分の存在、自分の生と死すべてが神様の御手の中にあることを自覚する時、最終段階の、「神の御国に入り、永遠の恵みが与えられるという、救いの完成」を見上げることからくる「恐れおののき」です。「永遠に神様のもとで憩うという恵みの約束」の、その目標が偉大であるゆえに、私達の信仰生活は、神様の助けなしには歩むことが出来ないことを認めて、小さな誤りでも神様の前に「恐れおののく」真剣さを言っています。

あなたがたの内に働いて,御心のままに望ませ、行なわせておられるのは神です。何事も不平や理屈を言わずに行いなさい。」(13・14)

私達が信仰生活の中で、「神様に従順でありたい。自分の救いを達成したい」という願いが与えられるならば、その願いは、神様が働いて私達に与えて下さったのであり、そうである以上、救いを達成していくのに必要なすべてのことは、神様が実現へと導いて下さいます。 私達は時に、このことを忘れ、神様の働きのみに感謝すべきところ、自分の決心や努力を評価するような、サタンの誘惑を受けます。だから日々祈り、神様の力をいただき、助けていただきながら、神様に従順に、何事も「不平や理屈をいわずに」、救いを達成する道を歩みましょう!

6月4日の説教要旨 「キリストはわたしの主」 有馬味付子先生(成増キリスト教会協力牧師)

創世記112  フィリピ書2111

 はじめに

本日はペンテコステ礼拝と仙台南伝道所の開設13周年記念感謝礼拝を献げる日です。大切な礼拝に用いていただき、感謝いたします。昨年伺った時は、この伝道所の最長老の佐藤博子姉が御存命でした。その十日後に博子姉は天に召され、今はこの世にはいらっしゃいませんが、博子姉の存在が確かにあると感じます。すべてのことは神様のご計画であり、「神のなさることは時にかなって美しい。」(コヘレトの言葉3:11・新改訳)という御言葉のとおりだと思います。

この伝道所は、神様が佐藤牧師に開拓伝道の思いを与えてくださり、皆様と一緒に形成されたのですが、その志と力を与えてくださったのは「聖霊」であり、皆様の後押しをしてくださるのも聖霊の働きなのです!

 ペンテコステ=ヘンテコなものを捨てる日

さて、ペンテコステは「ヘンテコなものを捨てる日」と、教会学校の教師から学びました。「ヘンテコなもの」とは、 人を憎む心・イエス様に従わない心・神様に反抗する心であり、別な言い方をすれば、「罪」とも言えます。「罪」は私達の心にへばりついていて、自分では決して捨てられません。それは、イエス様によって捨てられるのです。

 罪を悔い改めて、新しく生きる

「ヘンテコなものを捨てる」とは、「自分の罪を深く悔い改め、新しく生きる」ことでもあります。「悔い改め」をするには、「罪の自覚」が無ければ出来ません。「罪の自覚」をさせてくださるのも、「聖霊」のなさる業であり、この罪の自覚によって、人は洗礼へと導かれるのです。

「悔い改めて、新しく生きる」とは、「自己中心を捨てて、イエス様中心に生きる」ことです。イエス様に従うことで、罪の奴隷である自分から解放されるわけです。自分から解放される時、喜びに満ち溢れ、感謝の思いが沸き上がります。更に「平安」「安心」が与えられます。

 困難・艱難(かんなん)

とは言うものの、私達の主イエス様は十字架の道、即ち、困難・艱難を経験されましたから、イエス様に従う道では、困難・艱難が増えることになります。自分の好きなように生きるか、イエス様に従って生きるかが、自分の生活の上でも、また、色々な社会問題(貧困や差別問題、子育て等)でも問われてきます。

 聖霊による助け

イエス様に従う者は、困難な道、厳しい道を歩くことになりますが、しかし、聖霊による力づけ・助けをいただくことができ、必ず勝利します!なぜなら、イエス様は復活された御方だからです。そして、私達も主にあやかって、「復活する」=「永遠の命をいただける」ことが約束されています。

 聖霊が降ると「奇跡」が起きる

今日は聖霊降臨日ですが、聖霊を受けた弟子達は、語らずにはいられませんでした。そうして、男の数だけで3千人、女の数も入れると、たぶん6千人も、洗礼を受けることになったのです(使徒2:41)。それはまさしく「奇跡」です。聖霊を受ける時に、イエス様を信じる者は「奇跡」を起こせるのです!教会は「聖霊を受けた人、またはこれから聖霊を受ける人の集まり」です。

「聖霊を受ける」ことについては、「体験すればわかる」ものです。そして、それは、個人個人に働くだけでなく、イエス様の体である教会に働くと言えます。私達は、聖霊を与えられるように祈ることができます。

 「創世記」=イスラエルの人々の信仰告白

今日は、旧約聖書箇所として、創世記1章1-2節を読んでいただきました。創世記は、今から約2600年前に、イスラエルの人々がバビロニア帝国の侵略を受けて多くの指導者達がその都バビロンに連れていかれた時、多神教を信仰するバビロニア人と区別して、自分達のアイデンティティーを守るために記録した「信仰告白」と言えるものです。神が創造者であり、私達人間は造られたものであること、私達の命を支配なさっているのは神様であることを宣言しています。つまり、私達人間は神様の前に謙遜であるべきだと示しています。しかし、これが私達には難しいのです。ついつい思い上がって、自分が神になるのです!

 教会一致のために、利己心や虚栄心を捨てる

今日の新約聖書の箇所は、フィリピの教会に宛てて書かれたものです。この時、フィリピの教会では、問題が起こっていました。一つは、2人の婦人達が何かの勢力争いをしていたこと、もう一つは、偽教師が出現して、福音から人々を離そうとしていたことです。この教会分裂の危機的状況の時、パウロは牢獄に繫がれていて、フィリピに直接行くことができずに、代わりに手紙を書きました。パウロは「わたしの喜びを満たしてください」(2:2)と記していますが、これは、自分勝手な喜びでなく、イエス様を喜ばすことに留意するよう、熱望しています。教会の人々の思いが一つになることを願ったのです。この時、この教会が一つになれない原因が2つありました。一つは利己心(3節)=自己中心の心です。自分が正しいと考え、押し通そうとすることです。熱心のあまり、自分の思うとおりに教会がならないとやってられないと思う心でもあります。もう一つは虚栄心(3節)=人に尊敬されたい、または目立ちたいと願う心です。二つとも「自分が、自分が」という心ですし、「清められていない心」とも言えます。信仰者は自分が褒められるのでなく、神様がほめたたえられるように、教会に仕えていくことが求められています。

 教会一致のために必要な「謙遜」の源

そのために、私達には「へりくだる」=「謙遜」が求められています。自分は神様に造られた者であることを忘れないでいる必要があります。このように自分を低くできれば、他の人を上に置くこともできるでしょう。謙遜の逆の「傲慢」は罪の現われです。パウロは「謙遜」の源について、「イエス様が究極なまでに御自分を低くされたこと」を挙げています。イエス様は神の御子であられるのにもかかわらず、神の栄光を捨てて人間となられましたし、更には、「僕の身分」(7節)=奴隷の立場になられました。人間は誰もこれほどまでに謙遜にはなれないでしょう。

 「わたしの主はイエス・キリスト」

主の謙遜の極致の「十字架の死」は、神様のご計画ではありましたが、「この杯(十字架の運命)を取り去ってください。」と主は祈った後に、「御心のままに」と祈られました(ルカ22:42)。この従順ゆえに、神様はイエス様に「あらゆる名にまさる名」(フィリピ2:9)をお与えになりました。それは「主」という名です。「主」とは、神様・生きている者の支配者・所有者との3つの意味があります。「イエス・キリストは主である」が私達の信仰です。つまり「わたしの主はイエス・キリスト」なのです。

2017・3月19日の礼拝説教要旨 「交わりの回復」 佐藤 義子

創世記 127フィリピ2311

はじめに

今朝の聖書・創世記には「神はご自分にかたどって人を創造された」とあります。文語訳では「其の像(かたち)の如くに我ら人を造り」となっています。それで人間は「神の似姿」として造られたと言われます。キリスト教主義学校の聖書の教科書には「人間を見れば神を思わずにいられないような神との深い関係に創られている。つまり人は、機械のような神のロボットや物ではなく、神に『応答するもの』すなわち人格的な存在として造られている」と説明しています。神学者ニーバーは「計画し、創造する魂と、自由に選択する意志」を挙げています。創世記2章7節では、「主なる神は、土のちりで人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。「」と「」は同じ原語であることから、人間には「霊性」が与えられていることは良く語られるところです。そして「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1:31)と記されています。

「罪」が世界を変える

しかし、この世界に罪が入り込んだ時、神様が創られた世界と人間の、「極めて良かった」状況は失われていきます。神の「似姿」として創られた人間は、与えられた自由意志で、神様に従う道ではなく従わない道、つまり、神様の御命令よりも自分の欲望を優先させる道を選んでしまったことが、3章のエデンの園の出来事として記されています。それは、人間と神様との境界線(創造主と被造物の関係)を踏み越えてしまったということです。この神様への不従順は、神様を知らなかった時の 私達自身の生き方(自分が良いと思えば良い、という自己中心的な考え方)でもあります。今も多くの人々は神様を忘れ、無視し、人間中心主義の罪が 世界を覆っています。この罪ゆえに私達人間と神様との関係は、長いこと絶たれてしまいました。

修復への道

聖であり義であり愛である神様と、罪ある人間との断絶関係に終止符を打って下さったのは神様でした。本来なら、断絶の原因となった人間から願い出て、人間社会で行われているように「罪の償い」をして、罪の赦しを願い出るべきであったでしょう。しかし私達の罪(創造主の御意志より自分を優先させて生きる、神様をないがしろにしてきた罪)は、測り知れず、罪に見合った罰・・は、死罪のほかにあるでしょうか。神様は私達を愛するがゆえに、神様と私達との「交わりの回復」の道を用意して下さいました。しかし、「義」である神様の「赦し」の前提には、「罪の償(つぐな)い(贖(あがな)い)」がなければなりません。それがお出来になるのは罪のない方(他者の負債を負えるのは、負債のない者)だけなのです。

御子キリスト

ロマ書にあるように、人間には、「正しい者はいない。一人もいない。」のです(3:10)。罪のないお方は御子キリストしかおりません。神様の救いの御計画に対して、今日のフィリピ書では「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(6-11節)と伝えています。

教会の一致

パウロは今日のフィリピ書で、私達の教会が一つとなるためにイエス様の生き方を手本とするように勧めます。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たして下さい。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分の事だけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」(同2-4節)。 元神学校の学長は、「畏れをもって捧げられる礼拝こそが、初めに神が人間を創られた時の、神と人間との応答関係の基本的姿なのです」と言いました。私達はこれからも礼拝を第一とする信仰生活を続けていき、キリストを頭(かしら)とした キリストの体である教会の一員として、御言葉に養われつつ、キリストに倣って歩みたいと願っています。