2017・3月19日の礼拝説教要旨 「交わりの回復」 佐藤 義子

創世記 127フィリピ2311

はじめに

今朝の聖書・創世記には「神はご自分にかたどって人を創造された」とあります。文語訳では「其の像(かたち)の如くに我ら人を造り」となっています。それで人間は「神の似姿」として造られたと言われます。キリスト教主義学校の聖書の教科書には「人間を見れば神を思わずにいられないような神との深い関係に創られている。つまり人は、機械のような神のロボットや物ではなく、神に『応答するもの』すなわち人格的な存在として造られている」と説明しています。神学者ニーバーは「計画し、創造する魂と、自由に選択する意志」を挙げています。創世記2章7節では、「主なる神は、土のちりで人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。「」と「」は同じ原語であることから、人間には「霊性」が与えられていることは良く語られるところです。そして「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1:31)と記されています。

「罪」が世界を変える

しかし、この世界に罪が入り込んだ時、神様が創られた世界と人間の、「極めて良かった」状況は失われていきます。神の「似姿」として創られた人間は、与えられた自由意志で、神様に従う道ではなく従わない道、つまり、神様の御命令よりも自分の欲望を優先させる道を選んでしまったことが、3章のエデンの園の出来事として記されています。それは、人間と神様との境界線(創造主と被造物の関係)を踏み越えてしまったということです。この神様への不従順は、神様を知らなかった時の 私達自身の生き方(自分が良いと思えば良い、という自己中心的な考え方)でもあります。今も多くの人々は神様を忘れ、無視し、人間中心主義の罪が 世界を覆っています。この罪ゆえに私達人間と神様との関係は、長いこと絶たれてしまいました。

修復への道

聖であり義であり愛である神様と、罪ある人間との断絶関係に終止符を打って下さったのは神様でした。本来なら、断絶の原因となった人間から願い出て、人間社会で行われているように「罪の償い」をして、罪の赦しを願い出るべきであったでしょう。しかし私達の罪(創造主の御意志より自分を優先させて生きる、神様をないがしろにしてきた罪)は、測り知れず、罪に見合った罰・・は、死罪のほかにあるでしょうか。神様は私達を愛するがゆえに、神様と私達との「交わりの回復」の道を用意して下さいました。しかし、「義」である神様の「赦し」の前提には、「罪の償(つぐな)い(贖(あがな)い)」がなければなりません。それがお出来になるのは罪のない方(他者の負債を負えるのは、負債のない者)だけなのです。

御子キリスト

ロマ書にあるように、人間には、「正しい者はいない。一人もいない。」のです(3:10)。罪のないお方は御子キリストしかおりません。神様の救いの御計画に対して、今日のフィリピ書では「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(6-11節)と伝えています。

教会の一致

パウロは今日のフィリピ書で、私達の教会が一つとなるためにイエス様の生き方を手本とするように勧めます。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たして下さい。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分の事だけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」(同2-4節)。 元神学校の学長は、「畏れをもって捧げられる礼拝こそが、初めに神が人間を創られた時の、神と人間との応答関係の基本的姿なのです」と言いました。私達はこれからも礼拝を第一とする信仰生活を続けていき、キリストを頭(かしら)とした キリストの体である教会の一員として、御言葉に養われつつ、キリストに倣って歩みたいと願っています。