2021年3月7日の説教要旨 詩編90:1-12・ヨハネ福音書6:60-71

「命の言葉」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

今、お読みした詩編90編は、1節に「祈り。神の人モーセの詩」とあり、人は、神様の戒めから離れることで罪深い者となり、神様なしの生活が無力で空しいものとなり、特に人に与えられた命のはかなさ、短かさを語っています。神の人モーセは神様との出会いを通して変えられ、導かれ、守られました。なぜなら「山々が生まれる前から 大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神」(2節)だからです。

神様を信じる者に主は、今もこれから先も、いつまでも変わらぬお方であり、主は「わたしたちの宿るところ」(1節)、私達の住まいであると告白し、さらに神様にとって千年は、きのうから今日へと移る夜のひとときにすぎず、「朝が来れば花を咲かせ、夕べにはしおれ・・・(6節)と、人間の生は、永遠に生きる神様とは比べることができないと告白します。人の命のはかなさは、私達人間が神に背を向けて罪を犯した結果の神様からの怒りによるものであり、神様は、人が心の中に隠した罪さえも明らかにされます。それゆえ私達人間は、神様を畏れ、神様を敬い、神様の前にへりくだることです。90編の終りには、「私達の神、主の喜びが 私達の上にありますように。私達の手の働きを 私達のために確かなものとし 私達の手の働きをどうか確かなものにして下さい。」(17節)と祈っています。

私達も与えられた人生の日々を、このように祈りつつ歩みたいと思います。

*「わたしは命のパンである」(6:48)

本日のヨハネ福音書には、イエス様の話を聞こうと集まった群衆に、イエス様がご自身のことについて譬えを用いて語った、その話の後の出来事が記されています。イエス様は「神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるものである。」(33節)と教えたので、群衆はそれを聞き「主よ、そのパンをいつも私達に下さい」と頼みました。それに対するイエス様のお答えは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(6:35)です。

 イエス様は続いて、人々がイエス様を見てはいるものの永遠に続く命のパンを食べようともせず、信じようともしないことを指摘し、“天から降り、生きたパンである”イエス様を食べる(=イエス様を信じて信仰を持つ)者は、永遠の命を得て終わりの日に復活させられると、伝えました。

*「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(6:56)

この言葉を聞いた人々は「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言い、そこにいたユダヤ人だけではなくイエス様に惹かれてきた人達(広い意味での弟子達)も、この言葉につまずき、イエス様から離れ去って、共に歩むことをやめてしまいました。

イエス様は、イエス様を信じる信仰は人間の決心や努力ではないことを明らかにしています。イエス様は人々に、「わたしが命のパンである」と言っただけであり、又、出エジプト記では、神様はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言っただけでした。どちらの場合も神様が告げた言葉、真実の言葉がそこにあります。しかし人はその言葉を聞くと驚きや恐れを抱き、真実の言葉、命の言葉がそこにあることに思いを寄せず、ためらい、その意味を理解せずに、つぶやきました。

イエス様の言葉は“霊”であり、“命”(63節)

イエス様は彼らを戒めるように、“肉”は何の役にも立たないと言われます。私達はどうでしょうか。私達の想いや口では「イエス様を信じて従います」と言いながら、どこかでイエス様にではなくこの世の生活に身を任せてイエス様との関係を疎(おろそ)かにしていないでしょうか。神様はこの世を造られ、イエス様というお方を私達の犯した罪を取り除くために地上に人として遣わされ、私達に永遠の命を与えるために十字架にかかり亡くなられました。私達はどのようにしてこの言葉に答えをだしますか。私達がイエス様を信じて一歩前に踏み出さない限り神様は心の中に入って来ることができません。私達は聞いて信じて従う者となりましょう。私達のどんなに小さな願いや思いでも聞いて下さる神様がここにおられます。私達には命の言葉が与えられているのです。

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