4月3日の説教要旨 「弟子たちへの主の愛」 牧師 平賀真理子

詩編22:17-27・ヨハネ福音書20:24-29

 はじめに

イエス様は、金曜日に十字架にかかって息を引き取られましたが、三日目の日曜日の朝に復活されました。その同じ日の夕方、弟子たちの前に、イエス様は「復活の主」として御姿を現わしてくださり、弟子たちは大いに喜びました(ヨハネ20:19-23)。

 「復活の主」との最初の出会いの群れにいなかったトマス

ところが、ヨハネ福音書では、その喜ばしい出来事を体験できなかった弟子がいることを記しています。12弟子の一人「トマス」です。仲間と違い、その方に十字架の御傷があるかを確かめなければ「信じない」とトマスは言いました。自分の感覚を基準に、「主の復活」を測ろうとしました。

 「復活の主」と疑い深いトマスとの出会い

トマスを除いた弟子たちが復活の主に出会った日の8日後の日曜日、今度こそトマスは弟子たちと共にいました。そこへ、8日前と同じようにイエス様が現われ、「あなたがたに平和があるように。」と御言葉をくださいました。そして、イエス様は「何が人の心にあるのか、よく知っておられた(ヨハネ2:25)」ので、トマスに、「十字架の御傷を見たり、釘跡に指を入れたり、手をそのわき腹に差し入れたりすることで信じると言うのなら、そうしなさい。」と御自分の御体に触れて確かめることを許されました。

 イエス様の弟子たちへの愛

それは、トマスの立場に立ってくださった へりくだりの御姿です。これこそ、まさしく、「神様の愛」の特性です。弟子として愛した相手、特に成長が遅いと思われるトマスに、御自分を合わせておられます。きっと「忍耐」が必要だったでしょう。それでも、イエス様は「この上なく弟子たちを愛し抜かれた(ヨハネ13:1)」のです。

 トマスの特徴=人間の弱さと愚かさ

ヨハネによる福音書の中の他の箇所で、トマスの性格を表している所があります。一つは11章です。イエス様が愛したラザロという若者が死んだという知らせが来て、イエス様がラザロの所へ行こうと言われた時、イエス様が死へ赴こうとされていると勘違いして、自分も「一緒に死のうではないか(16節)」と言ったのです。しかし、主と共に本当に死ぬべき十字架への道にトマスが従った記述は、どの福音書にもありません。恐らく、他の弟子たちと同様、逃げ去ったのでしょう。勇敢なことを言っても実行できないという人間の弱さが浮き彫りになっています。もう一つの14章では、イエス様に従うことが救いの道であることが、トマスはわかっていなかったことも明らかになっています(5節)。肝心なことがわからず、愚かなトマスの姿はそのまま私たちの姿です。更に、今日の箇所で、トマスは自分の感覚などを通して確かめる「人間的な判断」=「科学的な判断」を、神様を信じる信仰の世界に持ち込んで、「復活の主」を疑う姿も見せています。

 主の愛を知ったトマスの信仰告白

そのようなトマスは、イエス様の自己犠牲の愛、へりくだる愛に直面し、自分がいかに罪深く、主を苦しめたかを感じ取ったのでしょう。しかも2度も苦しめました。1度目は十字架の時、2度目は「自分の確信のために御傷を見たり手を入れたりしたい」と言った時です。にもかかわらず、イエス様はトマスを見捨てず、「信じる者になりなさい」という励ましの御言葉をかけてくださっている、その深い愛を、トマスはようやく理解して、「わたしの主、わたしの神よ」という信仰告白の叫びが口をついて出たのでしょう。

 「見ないのに信じる」⇒「御言葉を聞いて信じる」

そんなトマスへ、「わたし(主)を見ないのに信じる人は、幸いである(29節)」という御言葉を主はくださいました。トマスを含め、弟子たちは、約二千年前に実際に「復活の主」に出会うという特別な恵みをいただきました。その後、「復活の主」は「四十日にわたって彼ら(弟子たち)に現れ、神の国について話された」(使徒言行録1:3)後、天に上げられました。それ以降の時代に生まれた信仰者たちは「主の復活の証言」だけを聞いて信じた者、つまり「見ないのに信じる人」たちであると言えるでしょう。トマスへ語られた29節の御言葉は、後の時代の信仰者にも主が愛によって語り掛けてくださったと受け取れます。ロマ書10書13節にも「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」とあります。私たちは「見ないのに信じる人」=「福音を聞いて信じる信仰者」として、主に愛され、主の祝福に希望を持ちつつ、歩むことが許されています。