12月17日の説教要旨 「ザカリアの預言」 牧師 平賀真理子

イザヤ書40:3-11 ルカ福音書1:67-80
*はじめに
イエス様の御降誕に寄せて、ルカ福音書に記録されている3つの賛歌を学んでいます。今日は2つ目のザカリアの賛歌(聖書の小見出しには「ザカリアの預言」と書かれています)を学んでいきましょう。
*主の御言葉を信じられなかったザカリア
ザカリアは祭司であり、その年、主の神殿の聖所で香をたいている時に、天使の訪問を受けて、主の御言葉をいただくことになりました。
その内容は、不妊の女と言われて老齢になった妻エリサベトが子供を産むということ、そして、その子供は「救い主」の前に来ると預言されていた「先導者」であるということでした。しかし、ザカリアはこれを信じられなかったために、そのことが起こるまで口が利けなくされてしまいました。ザカリアの家庭に子供が授かることは、私的な面でも大きな喜びですが、「救い主の先導者」が生まれるということは、イスラエル民族が待望していた「救い主」誕生が近いということの証しであり、公的にも大きな喜びです。祭司ザカリアはそれを一番に知らされたにもかかわらず、信じられなかったのです。
*主の御言葉を信じなかった人間が許されて聖霊に満たされた!
今日の箇所の直前の段落で、ザカリアに息子が生まれ、先導者として「洗礼者ヨハネ」が本当に生まれたことが書かれています。主の御言葉を信じられず、一時的に罰を受けたザカリアは、主の御計画である子供の誕生の直後に、その罰を許され、聖霊に満たされて、今度は神様を賛美する歌を残す役目を与えられました。ここに、人間の救いの形が表されているように思います。まず、神様の御言葉を人間が信じない罪に陥ります。そして、神様の恵みである才能を制限される罰を受けます。しかし、その間も神様の御計画は着々と進み、不信の人間はその経過を黙って見ているしかできなくなります。その人は、神様の偉大さをしみじみ感じるようにされ、一方、我が身の罪深さを思い知り、悔い改めに導かれるようになります。恐らく、ザカリアもそのような体験をしたと推測することも可能ではないでしょうか。
*ザカリアの預言(賛歌)
神様の恵みによって聖霊に満たされたザカリアの賛歌(預言)も、マリアの賛歌と同じように、神様をほめたたえることから始まっています。そして、イスラエル民族を御自分の民として愛し導いてこられた神様=「主」と呼ばれた神様を賛美しています。この預言は内容から見て、3つの部分に分けられます。
第1部の68節―75節では、ザカリアが祭司として学んできたこと、体験したことが反映されていると見ることができます。マリアの賛歌はマリアの素朴な信仰が表れていますが、ザカリアの預言では、ユダヤ教で教えられている内容で溢れています。神様は人間を通して働いてくださることも多いのですが、用いられる人間の才能を充分に生かしてくださる御方であることも見受けられます。
第2部の76節―78節1行目で、ザカリアの息子「ヨハネ」が、イザヤ書40章やマラキ書3章で預言された「救い主の先導者」=救い主の先を歩んで「主の道」を備える者としての役割を担うことが預言されています。このヨハネは、生まれからして特別で、人々に期待されましが、「いと高き方(神様)の預言者」に過ぎないことを父ザカリアはここで預言しました。(一方、イエス様は「いと高き方の子と言われる(1:32)」と預言されており、二人は明確に区別されています。)
このヨハネの「主の道を備える」役割とは、具体的にどういうことでしょうか。それは、彼自身が人々に「悔い改めにふさわしい実を結べ(3:8)」と述べたことからわかります。これまで当たり前だった自己中心の生き方から、神様の基準(神様がご覧になって喜ばれる生き方)に方向転換するように人々に教え導くという役割です。この神様に心を向ける心の準備ができた人の上に、「救い主」が天から来てくださり、本当の意味で「罪の許し」をなさることができるのです。神様を求める心の上に、神様の恵みが降り注いだ時、その恵みは本当に生かされるのです。準備できていない心の上に神様の恵みが降り注いでも、それは無駄にされ、更には、恨み・つらみ・背きを返すことになります。
第3部の78節2行目―79節では、神様がイスラエル民族になさった救いの約束の最終目的「救い主を遣わすこと」について述べられています。「あけぼのの光」(78節)と比喩された「救い主」が天から来られ、絶望にある人々を照らし、本当の平和へ導くという恵みが明示され、救い主御降誕の希望が謳われています。

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