2020年5月31日・ペンテコステの説教要旨

エゼキエル書 36:25-28・ヨハネ福音書 14:15-26

        「現臨する神様を伝える『真理の霊』」   佐藤 義子牧師

*はじめに

 今日は、ペンテコステの記念の礼拝です。社会ではクリスマスとイースターに比べてペンテコステはほとんど知られていません。ペンテコステはギリシャ語であり、日本語で「聖霊降臨日」と呼んでいた方が、もう少し広まったようにも思われます。しかし「聖霊降臨日」と聞いても、日常的な用語ではないことに加えて、イエス様は聖霊について次のように語られました。「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。」(17節)

*「世は・・・受け入れることができない。」

2000年以上も前に、イエス様が聖霊降臨の予告をされた時に、「この世では、真理の霊(聖霊)を見ようとも知ろうともしないので受け入れることが出来ない。」と、すでに言われていたことに注目したいと思います。

 私達は、この世・この世界で、<限られた時間と空間>の世界を生きています。それゆえ多くの人達は、<時間と空間の世界を突き抜けて>天から聖霊が降るという出来事は日常を越えており、関心を持たずに受け入れられない、ということでありましょう。人は何かを見たい、知りたいと思えば、それを実現する為の道を考え実行します。けれども見ようとも知ろうとも思わなければ、どんなにそのものに価値があっても、それに触れることはなく、見ても、聞いても、ただ素通りで終ってしまうことでしょう。

*「しかし、あなたがたはこの霊を知っている。」

「あなたがた」とは、イエス様とまもなく地上の別れを迎える弟子達であり、そして今は、弟子達の信仰を継承している教会の私達クリスチャンのことです。そうです!私達クリスチャンは、世に属さず、聖霊を知っているのです。その証拠に、以下のみ言葉(コリント書12:3)があります。

聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えないのです。

バプテスマを受けたすべての方々は、イエス様を「神の御子・救い主」と信じて信仰の告白をしました。この信仰は自分の力で信じたように思われがちですが、そうではなく、聖霊によって確信が与えられ、告白に導かれたことを、聖書は私達に教えています。

*「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(18節)

 イエス様が地上を去られた後、弟子達は、罪のないイエス様を罪ある者として殺してしまう、この世の勢力に、押しつぶされてしまうのではないでしょうか。実際、復活のイエス様が弟子達の所に来られた時も、弟子達はこの世の権力を恐れて戸には鍵をかけていました。イエス様は弟子達の弱さをご存じでした。それでもなお、この地上に神の国を打ち立てていくためには、イエス様が地上を去った後もこれまで通り、神の国の福音は宣べ伝え続けられていかなければならず、この世の終りが来る迄に、一人でも多くの人達が救われることが神様の御心・御計画であるゆえに、弟子達には(そして勿論私達にも)「助け手」が必要でした。

*「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(16節)

「弁護者」と訳された原語には以下の意味があります。「助ける為にそばへ呼び寄せられた者、支持、弁護する為にそばに呼ばれて来ている者、肩を持ってくれる人、被告の友人で彼の性質について弁明し、同情を持って味方してくれる人、助け主‥等」。(後見人(後ろだて)」と訳す注解書もある。)イエス様は、「弁護者、すなわち聖霊が、あなた方にすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(26節)「この方は真理の霊である」(16節)とも言われました。

*私達の伝道

「聖霊・真理の霊」は、私達の心の内に真理を浸透させて下さいます。私達が真理の霊によって呼び起こされる時、私達の心に「真理」が支配し、それにより私達は罪や堕落から守られます。私達クリスチャンが、与えられた場所で、イエス様の教えを思い起こしつつ日々を歩む中で、その生き方から、何か「世」とは違うと感じられ、「それを知りたい」と、教会に導かれる方がおられたら、それは、共に働く聖霊のみ業です。

エレミヤ書

月曜日・火曜日   

ユダとイスラエルに対する預言

1: 1~ 11:17 悔い改めの呼びかけ

11:18~ 20:18 エレミヤの苦闘

21: 1~ 24:10  王と預言者に対する預言

水曜日 

25: 1~ 25:14 諸国民に対する預言Ⅰ

26: 1~ 29:32 エレミヤの苦難Ⅰ

木曜日 

30: 1~ 33:26  慰めの希望の預言

34: 1~ 39:18 エレミヤの苦難Ⅱ

金曜日  

40: 1~ 45: 5 エルサレムの陥落以後

46: 1~ 51:64  諸国民に対する預言Ⅱ

52: 1~ 52:34  エルサレムとダビデ王朝の最後

【エレミヤ書について】

エレミヤが預言者として神の召命を受けたのは、ヨシヤ王の治世の第13年(紀元前627年)とされ、エレミヤは18歳、ヨシヤ王は21歳であったと考えられています。

ヨシヤ王は8歳で王位に着いたと記され〈列王記下22:1〉、その治世は前640年からエジプト王ネコとメギドでの戦いで戦死〈列王記下23:29-30〉するまでの31年間です。ヨシヤ王の死は、ユダの自立への希望の終焉を意味し、ユダ王国にはエジプトから重い貢税が課せられました。その後ユダ王国は、バビロンの支配下に置かれ、宗教混合が起こるなど様々な問題に直面しますが、最終的には、エルサレムは包囲され、占領されて、ユダ王国は前587年に滅亡したとされています。

預言者エレミヤは、主の神殿であるエルサレム神殿は、決してユダ王国の安全を保証するものではなく、主の神殿が堕落すれば、主によって、それは破壊されるのだと警告していました。エレミヤの第1回のバビロン捕囚となった人々に送った手紙には、バビロンという異教の支配下にあっても、落ち着いて生活し、ユダ王国を復興させる志を失ってはならないとの励ましの言葉が記されています。

エレミヤは苦難の預言者・涙の預言者として知られていますが、その人生は、決して悲しみに打ちのめされたものではなく、苦難の中でも神の言葉を伝え続ける強さと、主の希望に生きる力は、主を愛し、主に従うことによって与えられることを、私たちに伝えています。

(『ATD20 エレミヤ書』、『旧約聖書略解』エレミヤ書参照。) i