7月8日の説教要旨 「神の訪れてくださる時」 平賀真理子牧師

申命記32:39-43 ルカ福音書19:28-44

はじめに

イエス様と弟子達一群が、エリコの町からエルサレムに入っていく、そのことが記されているのが、今日の新約聖書の箇所です。

 

「ムナのたとえ」を踏まえた上での「エルサレム入城」

まず、最初に、直前の段落の「ムナのたとえ」をイエス様が語られてから、エルサレムに向かって出発したと、このルカ福音書は前置きしています。イエス様がお建てになる「神の国」は、ユダヤの民が期待したものとは、全く別次元のものであるということを「ムナのたとえ」を想起させつつ、主のエルサレム入城の話が進んでいきます。「ムナのたとえ」で意味されていることは、「神の国」とは、イエス様を憐れみ深い救い主として信じる者達は、主の僕としてその恵みを増やすように働く国であるし、一方、イエス様を救い主として全く受け入れる気のない者は、その恵みから完全に締め出される国であるということです。イエス様を救い主とする信仰があるか否かで分けられる国なのです。例え話にあるように、そこでは、主人が一度不在となり、僕達が恵みを増やす時間が必要です。ここで、イエス様がこの世で人間として生きて歩む「恵みの時」が近々終わることが暗示されています。人々の罪を贖うために、主は命を捨てる定めを全うせねばなりませんでした。

 

ゼカリヤ書の預言どおりのことが実現した!

30節から35節までは、ゼカリヤ書にある「救い主についての預言」が、「エルサレム入城」の時に、本当に実現したということを意味しています。子ろばの手配に選ばれた二人の弟子は、当時は、はっきりと意味がわかって行動したわけではないでしょう。イエス様に命じられたままに行動したら、そのとおりのことが次々と起こり、主の死後に「あれは預言の実現だ!」と思い至り、語り継いだのだと思います。人間には理解できないことも、神の御子であるイエス様には、神様の御計画として、御自分が「子ろばに乗る救い主」としてエルサレムに入っていくとわかっておられ、粛々と実行なさったのだと思われます。

 

 ルカ福音書における「エルサレム入城」の特徴

イエス様が救い主としてエルサレムに入られたことを、教会では「エルサレム入城」と呼び、4つの福音書全てに記されているように、重要視しています。その中でも、ルカ福音書における「エルサレム入城」では、他の福音書の記述とは異なる特徴が2つあります。一つは「弟子達の歓喜と反対派の反感が対比して書かれていること」であり、もう一つは、「結局はイエス様を受け入れなかったエルサレムが近い将来崩壊することをイエス様が預言なさっていること」です。

前者では、他の福音書とは違って、エルサレム入城について、歓喜の声・賛美の声を上げるのは「弟子の群れ」(37節)です。それを止めさせるように、イエス様に要求したのがファリサイ派の人で、彼らは、イエス様が現れる前には民衆の尊敬を受けていた宗教指導者達でした。イエス様に反感を持つ彼らは、エルサレム入城も面白くなかったでしょうし、エルサレムの人々が、主の弟子達の歓喜に影響され、イエス様への人気が燃え上がることは避けたいと思っていたのでしょう。しかし、イエス様は、「エルサレム入城」は神様の御計画の実現だから、天地全体の喜びであり、弟子達を黙らせても、石が叫び出すと表現されたのです。

後者では、ファリサイ派をはじめとする宗教指導者達と、彼らに扇動された民衆とによって、イエス様が救い主として受け入れられなかったことが原因で、エルサレムの町とその住民が滅ぼされるという事態を、イエス様は先取りしてご覧になっていたことが示されています(約40年後、エルサレムはローマ帝国により、預言どおりに徹底的に破壊されました。)。エルサレム崩壊の様子が、大変悲惨だとイエス様は予めおわかりになり、泣き叫ぶほどに悲しまれたのです。

 

「神の訪れてくださる時」をわきまえる

破滅を逃れるには「神の訪れてくださる時をわきまえる」必要があると記されています(44節)。これは時空を超える神様の法則なので、私達にも該当します。信仰者には「神の訪れてくださる時」があります。過去には「洗礼を受けたい思いが与えられた時」、現在では「礼拝を献げる時」です。その恵みを理解して感謝する信仰者となれるよう、祈りましょう。

6月3日の説教要旨 「すべてを捨てて主に従う」 平賀真理子 牧師

申命記5:5b-21 ルカ福音書18:18-34

はじめに

今日の新約聖書箇所の前半の段落は「金持ちの議員の話」として、教会の中ではよく知られた話の一つで、3つの共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ福音書)すべてに書かれています。

 

「善い」という言葉を聞き逃さなかったイエス様

ユダヤ教指導者達が大事だと教えてきた律法順守に忠実だと自負する「金持ちの議員」が、イエス様に向かって、「永遠の命を受け継ぐ方法」を聞いたのです。話の内容に入る前に、イエス様は、御自分への「善い先生」という呼び掛けを聞き逃しませんでした。「善い」という修飾語は、当時は神様にしか使わない言葉だったそうです。これを聞き逃すことは、イエス様が御自分を神様と同列に並べることを許したとして、反対派にイエス様を攻撃させる一因を作ることになったのではないかと思われます。イエス様は質問者の悪い心を一掃なさいました。

 

 律法順守してきた「金持ちの議員」に欠けていたこと

更に、この男の心を見透し、イエス様は彼が律法の大切さを知っているはずだと指摘なさいました。この男の律法順守の姿勢を決して軽んじてはおられませんが、その行動の根本にある心を問題視なさっています。神の民として新しく必要とされる行動をイエス様は指示なさいました。持っている物を売り払い、貧しい人々に分け与えることでした。この世でいただいたものを神に感謝し、それを隣人に分け与える謙虚な心があるかどうか、また、それを命じた御言葉に従えるかどうか、それをイエス様は問われたのです。イエス様は、彼に、そのような心になったら、「わたしに従いなさい」、つまり、「わたしの弟子になりなさい」と「金持ちの議員」に呼び掛けてくださいました。しかし、この「金持ちの議員」はイエス様のこの御言葉に従うどころか、立ち去り(マタイ19:22、マルコ10:22)、救いから遠ざかりました。

 

自分の物やこの世への未練を捨てて主に従う弟子達への報い

このことにより、イエス様は「金持ちが神の国に入ることは難しい」とおっしゃっいました。この世で様々に豊かな人間は、持っている物を捨ててイエス様に従うのは難しいということです。そこで、弟子のペトロが、自分達はそれを行ったと主張し、これに対し、イエス様は、この世での充分な報いと、後の世での永遠の命の授与を約束なさいました。

 

「主の弟子」である私達が、主に従った後に受けた報い

当時の弟子達だけでなく、後の時代の弟子としての私達の多くが、信仰生活に入る前に、自分にとってこの世への未練を生む物を断ち切った経験があると思います。特に、私達が生きる、今の日本では、周りの人と同じであること(「同調圧力」)が幅を利かせています。キリスト教信仰に入ることは、この同調圧力を打破することです。家族や友人から「自分達と考えや行動が同じでない者とは絶縁する」と反対を受けた方も多くおられるでしょう。しかし、それでも、私達は信仰を与えられました。人間的な見方をすれば、実に勇気のいる決断でしたが、イエス様はこの決断を祝して御自分に従う者の気持ちに寄り添ってくださり、この世でも、後の世でも大きな報いを保証してくださっているわけです。また、神様側の視点で捉えるならば、恐らく、神様は信仰者を「神の民」として選んでくださり、聖霊によって「信仰」を与えられたのでしょう。その結果、私達信仰者は今、どうでしょうか。この世だけしか知らなかった時に未練を感じていた物の価値はなくなり、信仰に入った後に神様から与えられたものによって、真の平安が与えられていると実感している方が多いと確信します。この世において「神の民」とされている喜びを知った者こそ、永遠の命を主から授かる喜びもわかるのです。

 

 12弟子さえ「主の死と復活の予告」を理解できないようにされた!

 今日の新約聖書箇所の後半の段落は、イエス様御自身の「死と復活」についての3度目の予告です。34節の説明が特徴的です。「救い主の死と復活」という神様にとって最も重要な御計画を、弟子と言えども、人間はすぐには理解できないように、神様がなさったのです。神様の御心を求めるのは大切ですが、それを人間の知力や心で、すぐには理解できないこともありえます。そんな時も、信仰者の私達は、この世への未練をすべてを捨てて主に従う決意を持ち続けるように求められているのです。

9月11日の説教要旨 「神の民として生きる」 牧師 佐藤 義子

申命記 10:12-14・マタイ福音書 6:6-10

 はじめに

神様から信仰を与えられてバプテスマを受けた私達は「クリスチャン」又は「キリスト者」と呼ばれます。それは同時に、「神の民」・「神の国の民とされた者」と言うことができます。なぜなら、私達は見える世界では、「日本」という国に属して生きていますが、見えない世界では「神の国」に属して生きているからです。見える世界では、日本の国土の中で、国の守るべき法律のもとで日本人として生きていますが、見えない世界では、神様の支配のもとで、「神の国」のルールに従い、(従うことを目標として)生きているからです。

今朝は「神の民」として生きることについてご一緒に考えたいと思います。

 「個人」でなく「民」として生きる

旧約聖書の歴史は、神様とイスラエルの民との契約関係の中で歩んだ、人々の歴史です。「神の民」といえば、神様から選ばれた民(選民)としてのイスラエル民族(ユダヤ人)のことです。神様の救いの御計画は、預言者達の言葉通り、救い主イエス・キリストの誕生によって実現しました。

ところが、イスラエルの人々は一部の人を除いて、イエス様をメシア(救い主)として受け入れませんでした。彼らが待望する「救い主」の期待像と、(富も地位も名誉もない)現実のイエス様が、大きく違っていたからです。

その為、イエス様を受け入れないイスラエル民族(ユダヤ人)に代わり、「神の民」は、新約聖書の時代からイエス様を救い主と信じる「キリスト教徒」をさします(ヘブル書・黙示録)。それゆえ私達キリスト教徒は、個人として信仰生活を過ごすのではなく、「神の民」として歩んでいるのです。

 「神の民」としての教会

「神の民」は、イエス・キリストを「私の救い主」と告白する信仰告白共同体であり、「教会」です。「教会」とは建物を意味するのではなく、イエス様を頭(かしら)とした、イエス様の体を構成している信仰者の群れです。私達が洗礼を受ける時に告白する「信仰告白」は、初代教会以来2000年以上、今日まで告白し続けてきた「教会の信仰告白」です。そして私達もその同じ信仰告白を自分自身の信仰の告白として告白し、キリストの体の一部に組み込まれています。

「天におられる私達の父よ、」

今朝の聖書は、イエス様が教えて下さった「主の祈り」の前半です。日本人の多くは無宗教だと言いながら「祈っています」と良く言います。その場合、誰に向かって祈るのか、その対象は漠然としています。

それに対して私達「神の民」が祈る対象は明確です。対象は、いつも、常に、天におられる私達の父である神様です。天とは私達が手を伸ばしても決して届かない、私達をはるかに越えた高い高い所です。この天におられるお方が、私達の住む世界を創り、私達人間を創られました。

私達はこのお方によって生き、私達が迎える死も、このお方の御計画の中に置かれています。イエス様は私達に、このお方をイエス様と同じように「父よ」と呼ぶことを許されました。何と大きな恵み!でしょうか。

 「御名が崇められますように」

「み名」は、神様のお名前、「崇める」は、「聖とする・聖別する」ことです。聖別するとは、通俗的、日常的なものから引き離す、別扱いにする、区別することです。神様と人間とを混同しない。神様のお名前が神様として取り扱われますように、という祈りです。旧約聖書の中で、人間と神様との関係を「陶器師と陶器」の関係でたとえています。

創った方と、造られたものとの逆転は、決してあり得ません。

 「御国が来ますように」

御国とは目に見えない神の国です。神の国は神様が支配なさるので、その支配に人が服従するところに神の国が存在します。神様の支配は、人間が喜んで従うように求められます。神様に創られた人間は造られたものらしく神様に従う時に初めて幸せになることが約束されています。

今朝の申命記に、「イスラエルよ。あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただあなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。」とありました。

私達は、イスラエルから引き継いだ「神の民」の一員としてふさわしく、神様を畏れつつ、神様に従い、神様を愛し、神様の戒めと掟を守り、神様が下さる幸いへの道を 共に歩んでいきたいと思います。

しかし御国は、毎日、私達のところに来なければなりません。今日ここに神様の支配が行なわれているなら、ここが神の国となります。

私達は毎日、御国がくるように、私は勿論、すべての人が、神様の支配を受け入れるように祈っていくことを、この祈りは教えています。

 「御心が行なわれますように。天におけるように地の上にも。」

第一の祈り、神様の「み名」をすべての人間が崇めるようになれば、第二の祈り、神様の支配は受け入れられ、神様が完全に支配される所では、第三の祈り、神様の御心が行なわれることになるでしょう。「神様の御心が行なわれるように」とは、「神様がお望みになるようになりますように」ということです。私達人間は、罪人です。しかし「神の民」とされた私達は、神様の導きにより罪の世界から引き上げられ、救いの恵みにあずかっています。私達は、神様への感謝として、少しでも神様の愛に報いたいと願い、神様の御心を行う人間になりたいと願っています。それゆえ、この祈りは、「神様が望まれるように私も又、生きることが出来ますように」という祈りにつながります。

神様が望まれることの第一は、罪の支配のもとで苦しんでいる人々を救うことですから、人々が救いの恵みにあずかるために、少しでも自分を用いて下さい、との祈りが、この祈りから生まれてくるように思います。

 御心がわからず悩む時に

私達クリスチャンは、神様を「父」と呼び、いつでもイエス様のお名前によって祈ることが許されている「神の民」の一員ですが、しかし、信仰生活を送る中で、時々、神様が自分に何を求めておられるのか、又、この出来事を通して、神様は私に何を言おうとされているのかわからないことがあります。最後に、S牧師が書いておられたことをご紹介します。

 御心は成る。私達はそれに従う。

S先生が昔アメリカに留学していた時、大学食堂のアルバイト仲間にダン君がいました。彼は誠実な学生で、秋には神学校への入学も決まっていました。夏休みに入った翌日、彼はクリスチャンキャンプで奉仕をするため出かけましたが、途中、道路上の事故で即死してしまいました。

S先生はその時、ダン君の死の衝撃にもまして、キリスト者として「神の御心は何か」という問題が自分に突き付けられたと言います。ダン君は信仰の人で、伝道者になる道も与えられ、その夏を主の為、子供達の為にささげていました。S先生は、「御心は何か」と考える中で「人の心には多くの計らいがある。しかし主のみ旨のみが実現する」(箴言19:21)との御言葉から、「主の御心は必ず成る。」「私達は主の御心に忠実に従わなければならない」との結論の中で、ダン君の死は御心であったことになる。では何の為の御心だったのか?それは、ダン君の死を通して、みんなが、「御心を」「生きる意味を」「死の意味を」深く考えさせられたことではないか。ダン君は自分の死を予期しておらず、知らないまま、主の御心を行わされた。知らないままでも、主は御心を行って下さる。だから御心を知らなければならないという思いの中には人間の傲慢もあり得るのではないかと思ったS先生は、摂理の神様の最善の御計画の中で、主は、自分を御心に従うように位置付けて下さるのではないか、と考えた時、S先生の心に不思議な平安と感謝が与えられたそうです。

  「神の民として生きる」

私達は、自分達の理解をはるかに越えた大きな恵みの中に置かれています。毎週の礼拝で、創り主である父なる神様を称え、懺悔の祈りと主の祈りをささげ、2000年来の使徒信条を自分の信仰として告白しています。それはすなわち、そう祈り、そう告白する者として生きている、(そのように生きようと日々、心がけて歩んでいます)との表明です。

「神の民」として生きる私達は、見える世界での実際の生きる姿勢を御言葉によって軌道修正し、新しく始まる一週間が、礼拝でささげた祈りや信仰告白を反映する誠実な歩みとなりますように、と祈ります。