2019年7月7日の説教要旨 

詩編133:1-3・フィレモン書8-20

「キリスト者の生き方-立ち直らせた愛」   佐藤義子

*はじめに

今年度の毎月第一日曜日は、パウロの手紙から学んでおり、今朝はフィレモン書から学びたいと思います。この手紙は、「コリントの信徒への手紙」のように、その土地に建てられた教会の信徒達に宛てられた手紙ではなく、内容もイエス・キリストを頭(かしら)とした教会が形成されていくために、信徒達に正しい福音理解と信仰の成長を願い、教えや戒めや励ましや警告などが記されている手紙ではありません。フィレモンさんという個人にあてた手紙であり、パウロが「使徒」という立場を離れて、個人的な問題について書いた私的な手紙です。その私的な手紙が、キリスト教の正典である新約聖書におさめられているのです。聖書が編纂される時、この手紙は、たった一人の人の運命を問題にしているにすぎないと言う理由で、聖書の中に入れることに否定的な意見もあったようです。しかしそのような中でこの手紙が聖書に組み込まれ、本日、私達がこの手紙を読むことが出来るのは、大変幸せなことだと言えるでしょう。

*主人フィレモンと奴隷オネシモ

手紙の受取人であるフィレモンは、富のある豊かな家柄で、おそらくパウロがエフェソで伝道していた時、福音を信じて救われたクリスチャンであると思われます。その後フィレモンは、コロサイ市に住む市民として、家族にも伝道して「家の教会」をつくり、その集会で良き奉仕を続けていたようです。ところが彼の家で働いていたオネシモという奴隷が、家から逃げ出し、オネシモはその後、パウロを頼って訪ねたのか、あるいは逃亡奴隷ということが発覚して投獄され、そこでパウロに出会ったのか、くわしいことはわかりませんが、獄中のパウロから福音を聞いたのです。

やがてパウロの伝道によってオネシモの心が開かれ、悔い改めが起こり、彼はイエス様を救い主と信じてクリスチャンになりました。そして、今や、オネシモはパウロにとっては、なくてはならない良き助け手として働いてくれるようになっていました。

*パウロとフィレモン

当時の法律では、逃亡奴隷は見つけ次第、主人のもとに送り帰すことになっていました。が、パウロにとって一番望ましいのは、これからもオネシモがパウロのそばにいてくれることでした。パウロは年をとり、しかもまだ獄中生活が続きそうだったからです。パウロがこのままオネシモを預かっていても、後で説明すれば、フィレモンはきっと了解してくれるだろうとの思いもありました。しかしこのような状態を続けることは、神様の御心に適(かな)うのかどうか、パウロは熟慮し祈った結果、フィレモンの承諾なしにこのままオネシモを自分のそばに置いておくことはやめて、先ずオネシモを法的所有者であるフィレモンに送り帰す決断をします。しかし、クリスチャンになったオネシモを、フィレモンの家に送り帰すだけで終るなら、フィレモンとオネシモの関係は直ちにもとの主人と奴隷の関係に戻るだけであり、オネシモは「かつて主人を裏切った逃亡奴隷」としての重荷を負いつつ、主人に仕えることになるでしょう。そこでパウロはこの手紙を書いたのです。

*手紙

年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが、あなたの愛に訴えてお願いします。」「わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れて下さい。彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。」「オネシモは特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。」 

*パウロの願い

パウロはフィレモンに、命令でも強制でもなく、クリスチャンとしての義務として要請するのでもなく「お願い」の手紙を書いたのは、フィレモンがパウロとの「関係」に左右されることなく、頼まれた願いを 受けるにせよ、拒むにせよ、自由に自分の考えで、あるべき道へと歩むように願ったからでしょう。愛とは自発的なものであるからです。

今週のみことば

 ★ サムエル記下
月曜日         サムエル記上(予備日・復習日)
火曜日  1: 1~ 6:23 ダビデ,イスラエルの王として油を注がれる
水曜日  7: 1~12:31 ダビデの治世
木曜日 13: 1~19: 8 アブサロムの反逆
金曜日 19: 9~24:25 ダビデの治世の最後の時代
【サムエル記について】
サムエル記上・下は、七十人訳聖書(LXX・ギリシア語訳)では、「王国1・2」と呼ばれています。また列王記上・下が「王国3・4」となり、この4書に「イスラエル(イスラエルとユダ)」王国の歴史が記されます。
士師記までの時代には、イスラエルに王様はなく、主ご自身が王として、イスラエルの民を導きました。また士師や祭司、預言者を通して語ってくださいました。しかし人々は、周りの国々と同じような王制を求め、主はサムエルに、ベニヤミン族のサウルに王として油を注ぐことを許します(油を注がれた者=メシア=キリスト・民の贖いの為に神に任命された者という意味を持つようになります)。サウルがイスラエルの最初の王様として統治します(年代に関しては諸説ありますが、キリスト教学校教育同盟編『旧約聖書の教え』創元社2015ではBC1020~1000です)。しかし、サムエルが献げるべき犠牲をサウル自身が献げてしまったことにより、主はサウルを王位から退けて、サムエルは、ダビデに油を注ぐことになります。主は、ダビデとダビデの子孫を祝福することを約束し、イスラエルには、ダビデ以上の王様は現れなかったと言っても過言ではありませ。しかしそのダビデの人生でさえも、失敗と悔い改めが繰り返され、主の憐れみを受け続けた人生でした。ダビデの歌とされる詩編の中には、絶望の中においても、主の真実に希望を見いだす信仰があります。
またサムエル記には、ハンナの祈り、少年サムエル、ダビデとゴリヤテ、ダビデとヨナタンなど教会学校では良く読まれる物語が記されています。
(マクグラス、158-178頁参照。)


【イスラエルとユダについて】
イスラエルは時代によって、様々な意味を持っています。たとえば、①ヤコブの別名が〔イスラエル〕創32:29であり、②ヤコブの子孫が「イスラエル」の12部族であり、「イスラエル」の共同体とされてきました。「イスラエル」の12部族は、神様の約束の土地であるカナンの地に入ると、③約束の地全土を『イスラエル』と呼んでいました。
しかし、北の土地に住む部族(サウルの支持者)と南の土地に住む部族(ダビデの支持者)の間に戦いが起こった為、④北の土地と北部の部族を{イスラエル}⑤南の土地と南部の部族を{ユダ}と呼ぶようになります。
しかしダビデとソロモンの時代は、⑥{④イスラエル}も{⑤ユダ}も、「②イスラエル」/『③イスラエル』という一つの国(統一王国)でした。
その後「イスラエル」王国は分裂して、⑦《北王国イスラエル》と⑧《南王国ユダ》となります。
またイスラエル人とは現在のイスラエルの人々のことを指すと同時に、聖書の時代では、アブラハム・イサク・ヤコブの子孫、つまり「イスラエル」の人々を指します。またユダヤ人とはユダ部族だけを指す言葉ではなく、北王国イスラエルの滅亡後に南王国ユダだけが残ったために、やはり「イスラエル」の人々を指す言葉として用いられます。ヘブライ人/ヘブル人とは「向こう側から来た者」という意味で、異国民としての「イスラエル」を指し示すために、イスラエル人=ユダヤ人=ヘブライ人/ヘブル人であり、文脈の中で何を強調しているかによって使い分けていると考えると分かりやすいかもしれません。

【サムエル下7章から】
「主なる神よ、取るに足りない私と、私の家を、ここまで導きくださるのは、なぜでしょうか。主なる神よ、あなたの目には、これさえも小さなことにすぎません・・・それゆえ、僕はこの祈りをあなたに献げる勇気を得ました。」

今週のみことば


 ★ レビ記:幕屋・礼拝についての律法、規則
月曜日  1: 1~ 7:38 犠牲の制度
火曜日  8: 1~10:20 祭司の聖別
水曜日 11: 1~15:33 清いものと穢れたもの
木曜日 16: 1~16:34 贖罪日
金曜日 17: 1~27:34 イスラエルの民の生活についての規定

【レビ記について】
◎レビ記とは、幕屋での礼拝についての律法や規則について書かれ、レビ族(アロンとその子孫に与えられた幕屋の礼拝を執り行う任務やイスラエルの民の間で聖性を維持する責任が与えられた部族)に由来する。またレビ族に関しては、出エジプト記6:14-26、民数記26:57-62に記されている。

◎レビ記の中心的主題は「聖性」であり、神が聖であるように、神の民は聖でなければならない。レビ記は神の民の側の聖性がどれほど重要であるかを伝え、神との関係を損なう人間の罪の深さ、その罪の贖いが必要であることを教える。

◎レビ記の重要な主題である「犠牲」は、新約聖書において、イエス・キリストが人間の罪をあがなう完全な犠牲になったことへとつながっている。(cf.ヘブライ人への手紙、8章、10章など)

(A.E.マクグラス『旧約新約聖書ガイド』本多峰子訳、教文館、
2018年、96-97頁より引用・要約。)

【レビ記10章説教 関連聖書箇所】
① ロマ書14章「・・・主の為に重んじ・・・主の為に食べ・・・主の為に 食べない・・・主の為に生き・・・主の為に死ぬ・・・私たちは主のもの」

② 2テモテ4:2
「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい・・・。」

③ 詩編119:105
「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」

④ ヨハネ1:1,17 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた・・・」

⑤ ヨハネ14:6,26-27 「イエスは言われた。『わたしは道であり、  真理であり、命である。』わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」・・・『父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和を あなたがたに残し、わたしの平和を与える。』

⑥ ヨハネ20:31 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、 イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

⑦ ヘブ11:1「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

2019年4月7日説教要旨

詩編19:2-15/ Ⅰテサロニケの手紙5:12-22       

「教会形成の原動力」    佐藤 義子

*はじめに
もう、30年も前になりますがイギリスに滞在していた時、ショックを受けたことがあります。それは、都合によりいつも行っている教会ではなく、近くの教会で礼拝を守ろうと計画した時のことでした。前日にその教会の礼拝時間を調べに行ったところ、中に入る庭の木戸には鍵がかけられ、広い柵をぐるりと一周回ってもほかに入口はありませんでした。そこでバスに乗り、近くの他の教会を探そうと試みたのですが、教会らしい建物を 見つけても礼拝している雰囲気はなく、後で知人に尋ねますと、木戸に鍵が掛けられていた教会は現在閉鎖中であること、バスから見つけた教会は、今は図書館になっていること、ほかにもレストランとして使われている教会もあるということでした。古い大きな建物のゆえなのか、教会維持が困難となり、教会が売りに出されるという大変衝撃的な現象が起きているのを知りました。かつては確かに、その場所で礼拝が守られてきた「生きた教会」であったはずなのに、歴史の流れと共に教会が教会でなくなって しまった(=その地域で、神様を礼拝する場所が失われてしまった)姿に、私は大変心が痛みました。


*教会が、教会として、歴史の中で生き続けていくために・・・
教会は本来、この地上が存続する限り、終末の時まで存続していくことを祈りつつ歩むべきと考えています。100年でも1000年でも2000年でも教会が教会であり続けるためには、そこで礼拝をささげているクリスチャンが、「教会は何を根拠として立ち続けているのか」、「宣教すべき内容の中心は何か」、「何があれば教会であり、それがなければ教会でなくなるのか」を正しく知り、理解し、信仰の確信をもって、次世代へと継承し続けていかなければならないと思わされました。 そこで今日は、聖書を通して教会の基盤について、ご一緒に学びたいと思います。

*教会成立の基礎は「聖霊」
教会が地上に成立したのは「ぺンテコステ」の出来事によります。
ペンテコステはイエス様が生前約束されていた「聖霊」が、イエス様の復活の50日後に、弟子達にくだった出来事です。その日3000人の人々が信じてバプテスマ(洗礼)を受けたことにより、キリスト教会では、ペンテコステを教会の誕生日として祝っています(使徒言行録2章を参照)。「聖霊」は、神様から送られてくる霊であり、教会が教会として立ち続けていくためには、この聖霊の導きが不可欠です。教会はイエス・キリストが頭(かしら)(エフェソ4:15)であり、信仰を与えられたキリスト者はキリストの体(Ⅰコリント12:27)として教会を形成しています。そして宣教の実りとして与えられるバプテスマは、聖霊の働きによるものです。「聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないのです。」(コリント第一12:3)


*教会の土台はイエス・キリスト
教会の頭であるイエス様は、同時に、教会の土台でもあります。「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、誰もほかの土台を据えることは出来ません」(Ⅰコリント3:11)。 キリストを土台とするとは、以下の信仰の上に立つということです。
① イエス様の受肉=神様の御子が人間として、私達を救うために
この世に誕生された。
② 贖罪=イエス様の十字架によって流された血潮によって、神様が私達の罪を赦して下さった。「キリストは、ご自身の血によって、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル9:12)。十字架によって私達の罪が贖(あがな)われた(ゆるされた)。
③ 復活=イエス様の死からの甦(よみがえ)り。「死は勝利に のみ込まれた」(コリント15:54)、「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現して下さいました」(Ⅱテモテ1:10)。死は私達の終りでも絶望でもなく、信じる者には、死に勝利して永遠の命に至る約束が与えられています。

  
*教会の信仰
こういうわけで、教会の信仰は、聖霊の導きと、イエス・キリストの
受肉と贖罪と復活を信じる信仰が中心に在ります。また、教会は、「見える教会」と「見えない教会」から成り立つといわれます。同じ信仰を告白する「信仰告白共同体」とか、「信仰者の群れ」とか言われるのは、見える教会の部分です。

 見えない教会としては、信仰者の国籍は天にあり、信仰者は、主イエス・キリストが救い主として来られる再臨の時を待っている群れでもあるということです。又、教会は、神様によって聖なるものとされている団体であり、この聖性も見えない教会の部分です。

 私達は、旧約時代(BC・キリスト誕生以前)ではなく、救い主イエス様が「既に」この世に来られた時代(AD・主の年・紀元)に生きていますが、「未だ」再臨の時を迎えていません。私達は「既に」と「未だ」という中間時代を生きています。それだからこそ「今や恵みの時、今こそ救いの日」Ⅱコリント6:2)なのです。信じる者が救われる時です。しかし信仰は自分の力で獲得するものではなく、求める者に聖霊が働いて与えられるものです。私達は、愛する家族、友人、知人の救いの為に、聖霊の導きを切に祈り、この今の恵みの時を無駄にすることなく祈り求め続けていきたいと願っています。

 *テサロニケ書から学ぶこと
さて、今日の聖書には、私達の信仰共同体の目指す姿が記されています。この手紙は、パウロがテサロニケの教会の信徒達に宛てて教え勧めている手紙です。12節には、教会のリーダーに対しては愛をもって心から尊敬するようにと教えています。リーダーは常に目を覚まして自分自身と群全体とに気を配らなければなりません。又、罪と戦うように忠告することも時には必要です。又、不安や恐れの念をもって動揺している人がいれば、その弱さを共に担う立場に置かれています。それゆえパウロは、そのような教会の為の働きをする人達に、特別な愛を持つことを望んでいるのです。そして、勧めは以下のように続きます。

 <平和に過ごしなさい> 教会の中が平和であれば、リーダーは心おきなく、教会の仕事が出来ます。教会にとって一番警戒しなければならないことは分裂です。パウロはさらに、怠けている人達を戒め、気落ちしている人を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して忍耐強く接しなさい。悪をもって悪に報いることのないように、お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うように努めなさい。と教えています。 
これらは教会の中が教会らしく、いつも平和であるための道しるべのように思います。相手がどうであれ相手の態度に影響されることなく、「すべての人に対して」「いつも」が大原則です。教会に導かれて、イエス様の十字架によって罪が赦された信仰者に向かって、「あなた方にはそれが出来るはず」とのパウロの願いと期待をここに見ます。


*「常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのこと感謝せよ。」
時に実践は困難のようにも思えます。しかし「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」だと言っています。私達の愛する神様が、私に対して、このように生きることを望まれているのです。注目すべきは、「キリスト・イエスにおいて」です。イエス様が私の為に、こんな私の罪が赦されるために十字架で死んで下さった。それ故、私の罪は赦され、神の子とされ、永遠の命をいただき、この地上にいながら、神様のご支配のもとで生かされている。
この現実に目を留める時、私達は救われていることの喜びと、愛されていることへの感謝が内から沸き起こり、いつも共にいて下さる神様への祈りへと向かわせられるのではないでしょうか。信仰生活は「このようにしなさい」ではなく、そのようにさせて下さるお方と結びついているゆえに、そのように生きる道が用意されているのです。
19節「霊の火を消してはいけません」。聖霊の火が消えた時、教会は教会でなくなります。聖霊の火を勢いよく燃え続けていただけるよう共に祈りましょう。21節「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。」22節「あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」これら、すべての教えは、2019年を信仰者として生きる今の私達に語り続けています。

3月31日の説教要旨 

エレミヤ書31:31-34 ルカ福音書24:36-53

「主の十字架と復活と昇天の証人」平賀真理子牧師

 *はじめに

ルカによる福音書の最終章24章の35節までを振り返りましょう。まず、復活なさったイエス様について、天使の証言「あの方(イエス様)は復活なさった」という「御言葉」がありました。しかし、弟子達の多くは、それだけではすぐには信じられませんでした。次に、復活のイエス様は、エマオへ向かう二人の弟子達に現れましたが、彼らも弟子でありながら、「復活の主」にすぐには気づけませんでした。主の死で絶望していた彼らに対し、「復活の主」自らが、聖書の御言葉と生前の御自身の教えを思い起こさせ、「主は復活なさった」と二人を導き、希望を与えられました。エルサレムに引き返した彼らは、自分達だけでなく、一番弟子の「シモン・ペトロ」も「復活の主」に出会ったことを知らされました

*今の御自分は「復活の主」だと弟子達に悟らせようとなさるイエス様

神の都エルサレムで、イエス様の弟子達が「主が復活された」と確信を持ち始めたその時、何と当の「復活なさったイエス様」が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と挨拶なさったことが36節にあります。これは、かつて、72人の弟子達を福音宣教に派遣する時、イエス様が弟子達にまず、そう挨拶しなさいと教えた御言葉です(ルカ10:5)。主がかつて教えた御言葉を聞いて、弟子達は、この現れた人が「復活したイエス様だ」と悟れるはずだったとも思えます。ところが、彼らはすぐには悟れず、「亡霊だ」と恐れおののき、うろたえ、心に疑いを持っているとイエス様に見抜かれました。ここでイエス様は、人間の亡霊に対する「肉も骨もない」という思い込みを逆手に使い、御自分の今の姿には「肉も骨もある」とお見せになりました。更に、「食べ物を食べる」様子をお見せになり、御自分の今の姿は、人間が今まで見たこともない「復活の主の姿だ」と悟らせようと導かれました。

*神様の出来事を悟らせるために弟子達の心の目を開いた「復活の主」

そして、「モーセの律法と預言者の書と詩編」と表現される「旧約聖書」に書かれたことは、神様から派遣された救い主である御自分のことであり、神様の御計画は必ず実現するとお語りになりました。十字架は人間的な目で見れば敗北に見えても、神様の目では勝利であり、それは神様の御栄光を現わす「復活」につながり、今、「復活の姿」でイエス様が現れたことは、これまで実現してきたことが神様の御計画であることの証明だと説明なさいました。けれども、無限なる神様の出来事を理解する知恵を、有限なる人間は持っていません。主から助けていただかなければ、悟れないのです。それで、イエス様は弟子達の「心の目を開いて」(45節)、自ら、聖書の解き明かしをしてくださったのです。

*罪の赦しを得させる悔い改めがイエス様の御名によって広まる

 旧約聖書は「救い主の受難と死と復活」を預言しているが、そのような父なる神様の御心に従ったイエス・キリストの御名のゆえに、悔い改めた全ての人間の罪の赦しが可能になり、それが世界に確実に広がるのだとイエス様は預言なさいました。同時に、「復活の主」に出会った弟子達こそがイエス・キリストの御名による救いの証人となると預言されました。しかし、そのために、弟子達は、人間的な力を出して頑張る必要はありません。イエス様による救いは、神の都エルサレムにいる弟子達が、父なる神様から与えられると約束されたもの「神の霊=聖霊」を受け取った後に広められるようになるとイエス様は預言なさいました。これは、ルカ福音書の続編である「使徒言行録」の1章―2章に証しされています。そして、約二千年かけて福音が世界に広まった歴史、その中でも特に、時間も距離も離れた私達が、イエス様の御名によって救われた事実を見れば、主の預言が確かに実現していると理解できると思います。

*主の十字架と復活と昇天の意味を知り、主の証人として用いられる
最後に、イエス様は天に昇る姿を当時の弟子達に見せ、御自分が「神様と同じ地位に帰る」と示されました。これらの証言を信じる私達皆(みんな)が「主の十字架と復活と昇天の証人」として福音伝道を託された弟子なのです!


 最後に、イエス様は天に昇る姿を当時の弟子達に見せ、御自分が「神様と同じ地位に帰る」と示されました。これらの証言を信じる私達皆(みんな)が「主の十字架と復活と昇天の証人」として福音伝道を託された弟子なのです!