詩編133:1-3・フィレモン書8-20
「キリスト者の生き方-立ち直らせた愛」 佐藤義子
*はじめに
今年度の毎月第一日曜日は、パウロの手紙から学んでおり、今朝はフィレモン書から学びたいと思います。この手紙は、「コリントの信徒への手紙」のように、その土地に建てられた教会の信徒達に宛てられた手紙ではなく、内容もイエス・キリストを頭(かしら)とした教会が形成されていくために、信徒達に正しい福音理解と信仰の成長を願い、教えや戒めや励ましや警告などが記されている手紙ではありません。フィレモンさんという個人にあてた手紙であり、パウロが「使徒」という立場を離れて、個人的な問題について書いた私的な手紙です。その私的な手紙が、キリスト教の正典である新約聖書におさめられているのです。聖書が編纂される時、この手紙は、たった一人の人の運命を問題にしているにすぎないと言う理由で、聖書の中に入れることに否定的な意見もあったようです。しかしそのような中でこの手紙が聖書に組み込まれ、本日、私達がこの手紙を読むことが出来るのは、大変幸せなことだと言えるでしょう。
*主人フィレモンと奴隷オネシモ
手紙の受取人であるフィレモンは、富のある豊かな家柄で、おそらくパウロがエフェソで伝道していた時、福音を信じて救われたクリスチャンであると思われます。その後フィレモンは、コロサイ市に住む市民として、家族にも伝道して「家の教会」をつくり、その集会で良き奉仕を続けていたようです。ところが彼の家で働いていたオネシモという奴隷が、家から逃げ出し、オネシモはその後、パウロを頼って訪ねたのか、あるいは逃亡奴隷ということが発覚して投獄され、そこでパウロに出会ったのか、くわしいことはわかりませんが、獄中のパウロから福音を聞いたのです。
やがてパウロの伝道によってオネシモの心が開かれ、悔い改めが起こり、彼はイエス様を救い主と信じてクリスチャンになりました。そして、今や、オネシモはパウロにとっては、なくてはならない良き助け手として働いてくれるようになっていました。
*パウロとフィレモン
当時の法律では、逃亡奴隷は見つけ次第、主人のもとに送り帰すことになっていました。が、パウロにとって一番望ましいのは、これからもオネシモがパウロのそばにいてくれることでした。パウロは年をとり、しかもまだ獄中生活が続きそうだったからです。パウロがこのままオネシモを預かっていても、後で説明すれば、フィレモンはきっと了解してくれるだろうとの思いもありました。しかしこのような状態を続けることは、神様の御心に適(かな)うのかどうか、パウロは熟慮し祈った結果、フィレモンの承諾なしにこのままオネシモを自分のそばに置いておくことはやめて、先ずオネシモを法的所有者であるフィレモンに送り帰す決断をします。しかし、クリスチャンになったオネシモを、フィレモンの家に送り帰すだけで終るなら、フィレモンとオネシモの関係は直ちにもとの主人と奴隷の関係に戻るだけであり、オネシモは「かつて主人を裏切った逃亡奴隷」としての重荷を負いつつ、主人に仕えることになるでしょう。そこでパウロはこの手紙を書いたのです。
*手紙
「年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが、あなたの愛に訴えてお願いします。」「わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れて下さい。彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。」「オネシモは特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。」
*パウロの願い
パウロはフィレモンに、命令でも強制でもなく、クリスチャンとしての義務として要請するのでもなく「お願い」の手紙を書いたのは、フィレモンがパウロとの「関係」に左右されることなく、頼まれた願いを 受けるにせよ、拒むにせよ、自由に自分の考えで、あるべき道へと歩むように願ったからでしょう。愛とは自発的なものであるからです。