2022年8月28日の説教要旨 ミカ書6:1-8・エフェソ書4:17-24

「神に向かう」      加藤 秀久伝道師

*はじめに

 本日のエフェソ書の17節には「そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み・・」と話が進められています。 同じ4章の1節では、「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み・・」とあるように、エフェソの教会の人々に向けて優しく教え、話し方でイエス様を信じることとは、どのようなことかを伝えています。それに比べると、17節からは、強く断言した口調で、「異邦人と同じように歩むな。彼らは愚かな考えに従って歩み・・」と語っています。

*異邦人との違い

パウロはこの手紙で、「神様を知らない者達(異邦人)と、「神様を信じる者達」の歩みを明確に区別して、違いがあることを私達に教えようとしているように思えます。この教え方は、強制的な指示ではなく、神様を信じる者達が、「自分で考える」という彼らの自発性が促されているのです。このことは、現代を生きる私達にとっても、とても重要なことだと思います。それは、私達が自ら責任をもって神様に応答して、神様というお方の重要性を見出すことができるようになるからです。

*求められていること

 まず初めに、古い生き方を捨てる、やめることです。私達の古い生き方とは、神様から遠く離れている状態で生きることを意味します。それらは、「無知とその心のかたくなさ(18節)」によるもであり、「無感覚になって放縦な生活をし、・・(19節)」とあります。神様に対する無知は、無感覚になって勝手気ままな生活をしてしまい、自分の行動に歯止めがきかなくなってしまいます。そして、その人の心は、神様を知ることを拒み、神様 の言葉(聖書)に耳を傾けることを遠ざけてしまいます。

*「古い人を脱ぎ捨て(22節)」「新しい人を身に着け(24節)」

私達神様を信じる者は、イエス様の十字架の死を通してこれ迄の罪が赦されて新しく生まれ、神様の命に与(あずか)った者達です。イエス様を信じることを通して神様を知ることができました。そして、神様を知ることにより、一人ひとりの心に変化が現われ、神様のことをもっと知りたい、神様の霊の中に留まりたい、味わいたいとの願いが生まれます。それが、古い生き方と新しい生き方の違いだと思います。

ロマ書12:2に、「あなたがたはこの世に倣(なら)ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」とあります。この世のならわし、価値観、流行などの流れに流されないということです。私達の心に神様から新たにされる思いが生じなければ(すなわち何が善くて神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえ知ることが出来ないなら)古い人を脱ぎ捨てることも、新しい人を身に着けることもできません。

*「何が善であり・・・かは お前に告げられている。」(6:8)

 本日のミカ書でも、新しい人を身に付けることを主は求めておられます。6章の冒頭で主は、イスラエルの民に対して容赦なく彼らの不正を告発しています。これまで、主が何度もご自分の民であるイスラエルを慈しみ、愛情を注いできたにもかかわらず、彼らはその恵みに応えず、不従順の罪を犯してきたからです。その罪の償い方に対する問いへの答が以下に記されます。それは「正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。(8節)」です。

*わたしたち

本日わたし達は、神様が私達に求めておられることは何かを、改めて学びました。私達は、イエス様を基準(人を敬い、人に仕え、人に与え、人を大事にする)として、新しい人を身に着けて歩んでいるのか、又、正義と慈しみと謙虚さをもって日々神様と共に歩んでいるのか、を考えつつ、今週一週間も、神様に信頼を置き、与えられている信仰の道、祝福の道を、神様と共に歩んで参りましょう。

2022年3月13日の説教要旨 エレミヤ書2:1-13・エフェソ6:10-20

悪との戦い」    加藤 秀久伝道師

*はじめに

エレミヤ書1章4節以下にはこのようにエレミヤが告白しています。

主の言葉がわたしに臨んだ。わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた。』」

 エレミヤに命じられた使命は、諸国民の預言者となることであり、それはすでに、エレミヤが生まれる前から神様が定めた職業でした。これに対してエレミヤは、「私は若者に過ぎません」と応答します。しかし神様は「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と約束されて励まし、語るべき言葉をエレミヤに授けました(同 8-9節)。

*エレミヤの生きた時代

 かつてイスラエルの民がエジプトで奴隷であった時、神様は人々の叫びを聞いて、指導者モーセを送り、エジプトから救い出しました。旅の中でモーセを通して与えられた十戒を聞いたイスラエルの民は、その言葉にすべて従うことを約束しました。彼らは、荒野の40年間の旅を通して主に養われ、成長し、自分達のアイデンティティー(自分が、一人の人格として存在していること、民族としては、他者から区別される独自の性質・特徴)を見出していきました。そしてこの旅を通し、神様は自分達と共におられる唯一の神であることを知り、神様との信頼関係を築いていきました。その時のイスラエルの民について、神様はこう語られています。

わたしは、あなたの若い時のまごころ、花嫁の時の愛、荒れ野での従順を思い起こす(2章2節)」と。

けれどもエレミヤが召命を受けて、預言者として活動していた時代は、イスラエルの民は、カナンの地に入り、カナン人の信じるバアル信仰(農耕神)の影響を受けて、主を捨てて他の神々に香をたき、偶像にひれ伏し、主に向かう「初めの愛」から離れてしまっていました。当時の祭司達も「主がどこにいるのか」とは尋ねず、探さず、教育者達も主を知らず、王や指導者達、預言者達までも、無価値のものに心を奪われていました(2章5節~)。 ここに、すべてのイスラエルの罪があります。

*主の語りかけ

 2章の初めには、1章4節と同じ様に「主の言葉がわたしに臨んだ。」と、主の語りかけの言葉から始められています。「主の語りかけ」とはどのようなものでしょうか。私達が心を静めて神様に思いを向ける時、主の霊、聖霊を通して神様の思い、神様の行動を知ることが出来ると思います。神様の霊の中に置かれる時、私達の本来あるべき姿を知らせ、神の子供として自由になり、私らしい輝きを放つことができるようになり、神様との関係が深まることで神様の愛をさらに深く感じていきます。

*神様との関係の回復

 神様とイスラエルとの約束は、自分の意志で選択できるものでした。同時に悪に対しては裁きがあり罰を伴いました。神様から離れた民に残された選択は、犯した罪に目を留め、悔い改め、再び主を知ること、すべてを神様の前に明け渡すことです。これが神様との関係を回復する唯一の道です。エレミヤは人々に神様に立ち帰るように語り続けました。

*悪との戦い

神様を信じる者達が主に拠り頼み、主との関係を築き上げることで主と結ばれて、主の偉大な力を身にまとうことが出来ることを、本日のエフェソ書は教えています。一方で、神様の霊を受けることによって、この世の霊の力、悪の力と戦わなければなりません。私達は悪魔の働きかけに気をつけて、神の武具を身に着けるように教えられています。

それは、私達が神様を信じた時、イエス様を救い主として受け入れた時に、すでに神様の力である聖霊をも受け入れています。この霊の力は日々の生活の中で、祈りをしている時、聖書を読んでいる時、讃美をしている時など、私達が神様とより深い関係、近い関係にあればあるほど大きくなります。それと共に私達には、悪の力から勝利されたイエス様がおられます。私達は、神様との関係づくりを大切にして、神様に愛されている者として、喜びを持ちつつ今週の歩みを始めて参りましょう。

11月3日・召天者記念礼拝の説教要旨

詩編23編・エフェソ書3:14-21 

        「三つの祈り」         佐藤 義子 

*はじめに

日本基督教団では、毎年11月の第一日曜日を「召天者記念礼拝」として守っています。私達の伝道所では3名の方々を覚えての記念礼拝ですが、この方々は、地上の生涯を終えるまで神様を信じて神様に従った方々です。  

私達は、先に召された方々の信仰生活を思い起こすことで時に励まされ、時に慰められ、又、時には「今いらしたら、きっとこう言われるでしょう」と教えられたりします。博子姉が後遺症で身体が不自由になり、つい不満を言いかけた直後、「『そんなことを言うなら、こちらにいらっしゃい』」と神様から言われてしまうわね」と良く言っていました。又、「私達(クリスチャン)は良いことが起こった時、神様に感謝するけれども、神様を知らない人は「運が良かった」と言って、時には威張ったりするのね。神様を信じているからこそ、私達は感謝できるのね」などの言葉を思い出します。 

平野兄で思い出されるのは、最後の日々を非常に穏やかに過ごされていたことです。ああして欲しい、こうして欲しいなどの不満は一切聞いたことはありません。訪問時、待降節の季節でしたのでクリスマスの讃美歌をたくさん、(おそらくご一緒に)歌った楽しいひと時が思い出されます。

石川兄はガンとの闘病生活を送られて63年の生涯でしたが、克明に闘病日記を記され、信仰のことや聖書の御言葉なども残され、看護婦さんにも伝道されていかれました。石川兄の記念礼拝には看護婦さんも福島から出席して下さり、以来「こころの友」を郵送しています。

神様を信じる者は、神の国の民とされて永遠の命をいただいていますので、肉体の死は天の国への入り口に過ぎません。終末の時、神様を信じる者達は、聖書で約束されているように「復活体」という霊の体が与えられます。そして「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3~)。

*異邦人

本日の聖書は、パウロが獄中から、異邦人教会に宛てて書いた手紙です。異邦人(ユダヤ人以外の外国人)は、それ迄、天地創造主のまことの神様を知らず、「律法」もなく生きてきた人達です。けれども神様の大きな愛はユダヤ人だけでなく信じる者すべての人を神の子とするために御子イエス様を遣わしてくださり、十字架で流された血によって、それまでの罪があがなわれ(赦され)、「神の家族」とされたことが、この手紙で語られています。私達日本人も異邦人ですが、「イエス・キリストを信じる」信仰により神の子とされました。これは大きな神様の恵みです。クリスチャンになった(とされた)私達は、神の国の民として新しく生まれ、新しい命が与えられました。新しく生れた者は、乳児から離乳食へ、そして固い物も食べられるように成長していきます。

*とりなしの三つの祈り

今朝の聖書箇所には、パウロが神様にささげた、「新しく生れたクリスチャン」達に対して「とりなしの祈り」が祈られている箇所です。

祈りの一つは、「あなたがたの内なる人を強めて下さるように」です。この祈りにつけ加えられて、「信仰によって心の内にキリストを住まわせ」「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として下さるように」と祈られます。二つ目に、「キリストの愛を理解し、キリストの愛を知るようになるように」。です。三つめに「神様の満ち溢れる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」との祈りです。

*強めて下さい

新しく生まれたクリスチャンが、神様の霊により、力をもって、「内なる人を強め」てくださるようにとの祈りですが、別の訳では「あなたがたのうちに与えられた新しい命を強くして下さるように」と訳しています。そして「キリストが心の内に住んで下さるように」とは、心の状態を、イエス様をお迎えして住んでいただける部屋に整えること、それには心を荒立てたり、怒りや憎しみの感情などは、外に吐き出しておかねばならないでしょう。

この箇所を、「イエス様があなた方の心に住み、喜んでそこに住み続けて下さいますように」と訳している聖書もあります。続いて「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として下さるように」とあります。イエス様が心の内に住んで下さるならば、私達は、神様の愛という土壌の中に深く根を張ることが出来、そのしっかりした愛の土台に立ち続けて成長していけるのです。私達は、神の国の民として新しい命が与えられた(クリスチャンとされた)ことにとどまるのではなくて、成長していく道(=強くされていく道)が大きく開かれています。

*キリストの愛を理解し、キリストを知る道

パウロが捧げた二つ目の祈りは、神の子とされた者は、「キリストの愛を理解」するように、「キリストを知るようになる」ことを祈っています。パウロは、信仰の成長の為には、このことが不可欠であると考えているのです。神様の愛、キリストの愛は、広さ、長さ、高さ、深さでも、測ることが出来ない無限大であるゆえに、言葉で説明することは不可能です。

しかし私達は福音書を通して、その愛の一端に触れることが出来ます。

*イエス様の愛に触れる

たとえば姦淫の現場を捕えた女性を、律法により石打ちの刑で裁こうとしていた群衆に対して、イエス様はただひとこと「罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げよ」(ヨハネ8:7)と、持っていた石を手離させ、ご自身もこの女性を罪に定めず、「これからはもう罪を犯してはならない。行きなさい」と女性をその場から去らせたイエス様の愛を思い起こします。ザアカイもイエス様の愛に触れた人でした。人々から「罪人」呼ばわりされ嫌われて、お金はあっても孤独であったザアカイに対して、イエス様から声をかけ、彼の家の泊り客となられました(ルカ19:5)。又、イエス様が自ら、私達を羊に譬えて、迷子になった、たった一匹の羊の為に、ほかの99匹を置いてでも見つかるまで探し続ける羊飼いであることを語られています(ルカ19:4)。又、善きサマリア人は犬猿の仲であったユダヤ人が強盗に遭い半死の状態で倒れていたのを見つけて、その人の傷の手当だけでなく宿に連れて介抱し、宿の主人に、治るまで宿において欲しいと宿賃を渡し、足りない時は、仕事帰りに払うと言いました(同10:25)。最後まで見捨てることのないこの愛こそイエス様の愛です。

さらに、地上で最後の十字架で息を引き取られる時、イエス様を死へと追いやった宗教指導者や群衆、総督ピラトはじめ多くの兵士達のために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と、神様に執り成しの祈りを捧げられました。

パウロが手紙で、キリストの無限の愛の大きさを理解するように、そして、人間の知識をはるかに超えたこの愛を知るようにと祈った祈りは、信仰による新しい命が強くされていくこと、心の内にキリストに住んでいただくこと、神様の愛という土壌の中に深く根を張り、愛にしっかりと立つ者になることと、すべてがつながっています。

*「ついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」

この祈りは、愛と恵みと力で満ちている父なる神様のもとへ、イエス様の愛が私達を導いて下さり、私達も又、神さまの豊かさで満たされますようにとの祈りです。

ある注解者は「もし、この祈りを教会が祈り、教会が神様から、この祈りの答を受けるならば、教会は神様の賜物によって満たされ、完成される」と言っています。具体的には、神の義が私達に与えられ、神の愛が私達に注ぎ込まれ、神の栄光が私達を照らし、神の平和が私達の心の中に住むようになる」と説明しています。

*私達の祈り

私達の日ごとの祈りは、置かれた立場にあって祈る課題もさまざまです。しかし日ごとの祈りは、私達の信仰を形づくり信仰の成長をも導いてくれます。私達は、パウロの執り成しの祈りを通して、先ず神様に何を祈り求めていくべきかを教えられます。内なる人が強められ、どんなことにも動揺せず、心にイエス様に住んでいただき、愛に深く根を張り、イエス様の愛の大きさを理解し、人知を越えたこの愛を深く知り、神様の満ち溢れる豊かさで満たされていくように共に祈っていきましょう。