11月15日の説教要旨 「天からのパン」 牧師 佐藤 義子

出エジプト16:9-15・ヨハネ福音書 6:26-33

 はじめに

伝えたいことが相手に伝わらない。伝わらないだけでなく、全く違ったふうに受け取られてしまう。「誤解」は私達の社会の人間関係においても多くみられ、人間関係の亀裂を生じさせるものです。ヨハネ福音書を読んでいきますと、イエス様の生涯において、人々は、イエス様のなさることや、語られた言葉を正しく理解せず(しようとせず)、又、自分達の願望、欲望が先行し、誤解を重ねていく場面を見ます。本日のヨハネ福音書6章は、イエス様の「パンの奇跡」から始まりますが、群衆はイエス様の言動を誤解し、その結果、同じ6章の66節には、「このために、弟子達の多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」と記されているほどです。イエス様のお気持の何分の一も知ることは出来ませんが、誤解する人々の前にあって、イエス様の心の痛みはどれほどであったかを思います。と同時に、人々が抱いたイエス様に対する誤解は、現代においても、私達の伝道所を含む全世界の教会の中でも、起こり続けているといえるのではないかと思います。

 パンの奇跡

今日の聖書は、前日に起こった「パンの奇跡」の出来事を経験した人々が、再び、イエス様を捜し求めて、イエス様を見つけたところから始まります。彼らは、前日の奇跡の後、「この人こそ、この世に来ることになっている約束の預言者だ」と言って、イエス様を王にしようと騒ぎ始めていました。というのは、ユダヤ人の先祖達が、エジプト脱出後の荒れ野の旅の中で、モーセを通して、天から与えられた「マナ」(パンに代わる物)で飢えが満たされたことを思い起こし、さらに旧約聖書には、モーセのような預言者が与えられると約束されていたからです。

 満腹を求めて

群衆の、ご自分をこの世の王にしようとする思いを知られたイエス様は山に退かれました。が、翌日も群衆はイエス様を探し求めて来たのです。イエス様は人々に、「あなたがたが わたしを捜しているのは、しるしを見たからではなくパンを食べて満腹したからだ。」と言われ、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(27節)と、言われました。

 「永遠の命に至る食べ物のために働く」

人々は、この言葉の意味が分かりませんでした。そこで、何をしたらよいのか(神様につながる業とは何か)を尋ねたのです。イエス様は、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(29節)と教えられました。むつかしいことをするのではない。イエス様を信じること、イエス様が神の御子であり、神様から遣わされて来た方であり、神様のことを私達に伝え、罪ある私達を罪の支配から救い出して、神様の支配のもとに移して下さるために来られたこと、イエス様を信じることは神様を信じることであり、永遠の命に至る食べ物を食べることです。

人々の誤解

すると人々は、「自分達が信じるために、どんなしるしをみせてくれるのか」とイエス様に、さらなる奇跡を求めたのです。前日の「パンの奇跡」を見た群衆の、イエス様に対する「誤解」が明らかになります。五千人の空腹が満たされた「奇跡」は、イエス様が神様に祈られた結果です。この時、人々は神様の力を見たのです。神様の力を知ったのです。同時に、神様に祈られたイエス様の祈りが、そのまま神様に受け入れられたことを通して、神様の御意志に適う、そのような祈りがお出来になるイエス様とはどのようなお方であるのかを知ることが出来たはずでした。にもかかわらず、人々は、この世の満腹、地上での物質的幸せを求めて、自分達の欲望・自分達の期待を膨らませ、自分達を満足させてくれるならイエス様を信じても良い、というような、自分の支配下にイエス様を置こうとしたのです。これは、神様の御意志以外には何もしないというイエス様の教えとはまったく逆です。私達の信仰が、「先ず、神様の御意志」を求めて生きる歩みへと導かれるように祈りましょう。

11月8日の説教要旨 「死者のよみがえり」 牧師  平賀真理子

列王記上171724・ルカ福音書71117

 はじめに

イエス様と弟子達と大勢の群衆がナインという町に近づかれた時のことです。(ナインは、イエス様の宣教の拠点カファルナウムから約8㎞の町です。)ちょうど、ある家から棺が担ぎ出されるところでした。

 絶望した母親を憐れむイエス様

一人の若者の死でした。彼の母親は、夫を亡くした「やもめ」でした。母一人子一人で生きてきたのに、その一人息子が亡くなったのです。この母親は絶望して泣き叫んでいます。13節に「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」とあります。この母親の大変深い悲しみや絶望を憐れまれました。この「憐れむ」という言葉は、「腸」という言葉を語源としています。人間の情がこの「腸」から生まれ、存在すると考えられていたのです。表面的にではなくて、心の底から同情するということを言い表しています。深い悲しみや絶望に捕らわれている人々の所に、主が先ず訪れてくださり、その気持ちに寄り添ってくださることを示しています。

 「死」から若者を解放された主

主の憐れみによって、更に偉大なことが起こります。この母親の悲しみ・絶望の源が取り除かれたのです。主は「息子の死」を取り除き、この若者を生き返らせてくださいました。イエス様が、「死」から若者を解放するという御業をなさったのです。この姿はまさしく、イザヤ書で預言されていた「救い主」の姿です。「打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」(61:1)この町の大勢の人々がこの母親のそばにいたとありますから、多くの慰めの言葉がかけられていたことでしょう。しかし、本当の慰めを与えることができるのは、「死」に打ち勝つ御力を持つ御方、つまり、神の御子・救い主であるイエス様しかいないことが知らされています。直前の段落では、イエス様は瀕死の病人を元気になさるという御業をなさいましたが、今回は完全に死んで棺に入っている若者をよみがえらせたということで、イエス様の御力は「命」をお与えになることのできる素晴らしいものだということが明確になっています。

 神様を讃美した人々の言葉

イエス様の御業を目撃した人々の、神様を讃美した言葉が16節に書かれています。最初の言葉は「大預言者が我々の間に現れた」です。大預言者とは、この場合、もちろんイエス様のことです。ただ、ユダヤ人達は、「大預言者」という言葉の奥に、列王記上17章以降に記されている「預言者エリヤ」を思い浮かべているのです。預言者は、神様の言葉を受け取って、人々に伝える使命を神様によって与えられた人です。また、神様の言葉だけでなく、更に神様の御力も与えられることもあります。だから、エリヤのように、死者さえもよみがえらせることもできたのです。イエス様も神様の言葉を語り、神様の御力もいただいている御方ですから、大預言者と言われれば、そういう一面もあります。けれども、それ以上の御方です。次の讃美の言葉「神はその民を心にかけてくださった」の奥には、歴史上の出来事「出エジプト」の記憶があるのです。そして、出エジプトと言えば、当時のリーダー「モーセ」が思い出されているのです。人々は、イエス様のことを、偉大なモーセのような、凄い御力を持つリーダーだと思ったのでしょう。人々は、自分達の理解や過去を通して、ナインでの出来事から、イエス様の偉大さを感じているようです。しかし、例えているのは、エリヤやモーセのような「尊敬する人間」です。しかし、イエス様は、人間としての歩みをなさいましたが、本当は全く次元の違う「神の御子」、つまり、神様です。一方、イエス様の「死者のよみがえり」の御業に対して、人間は人間の範囲でしか、理解できない、表現できないという限界が示されています。(そこに聖霊が働いてくださらない限り、神の御子については、人間の力だけでは理解できないのでしょう。)

 我が身に起こる「救い」

ナインの人々は神様の御業を讃美しましたが、イエス様をメシア=救い主とまでは言い表せませんでした。人間に対しての「救い」の出来事がその場で即座に理解されることはむずかしいことがわかります。しかし、「救い」は私達一人一人に、自分の理解を越えた所で我が身に起こります。そのことを知らされている「後の時代の者」として、主に心を向けて目を覚ましてい続けたいと願います。

11月1日の説教要旨 「百人隊長の信仰」 牧師 平賀真理子

箴言29:23・ルカ福音書7:1-10

 はじめに

百人隊長の信仰をめぐる話を読みましたが、この百人隊長は、イエス様に直接会っていません。同じ内容を記したマタイ福音書8章やヨハネ福音書4章では、イエス様に直接会って懇願しています。しかし、このルカによる福音書では、主に会わずに、重んじている部下の瀕死の病いを癒してもらっています。それが特徴です。イエス様に直接会っていないのに、心からの願いを叶えてもらいました。この百人隊長は私達と重なるところがあります。その信仰から学ぶべきところがたくさんあります。

 異邦人である百人隊長

「百人隊長」とは、ローマ帝国の軍隊組織の中での地位で、50~100人程の歩兵を統率する下士官です。その管轄する歩兵達に命令できる人であり、同時にまた、上にいる千人隊長(将校)から命令される立場にある人です。また、ローマ軍の組織をまねて、ガリラヤ地方を代官として治めていたヘロデ・アンティパスも軍隊を持っていて、「百人隊長」がいたようです。今日の話の百人隊長がどちらの軍隊の百人隊長だったかわかりませんが、重要なことは、この百人隊長が異邦人だったことです。恐らく、この百人隊長は、ユダヤ教を通して、本当の神様を信じるようになっていたようです。そして、神の選びを尊重し、神の民として選ばれたユダヤ人と、自分を含めた異邦人との間に違いがあることを自覚していました。だから、ユダヤ人であるイエス様に対し、神様から遠い異邦人の自分は直接会えないと思って、まず、ユダヤ人の長老達に願いを委託したのでしょう。

 ユダヤ人の長老達が百人隊長の願いを取り次ぐ

選民意識の強いユダヤ人の長老達が、軽蔑していた異邦人である百人隊長の願いを取り次いだ姿には、2つの驚くべきことがあります。1つは、異邦人の代わりに熱心にお願いしていることが、珍しいことだったということです。もう一つは、長老達の願いの相手が、彼らが歓迎していなかったイエス様だったということです。もちろん、この百人隊長が、ユダヤ教の教えを尊重し、それを奉じているユダヤ人達を敬愛して、ユダヤ教の会堂まで私財で建てたことが、ユダヤ人の長老達の心を動かしたのでしょう。けれども、もっと大きく考えれば、神様が、百人隊長の願いを通し、主に敵対する長老達に、イエス様を認めさせるように働きかけられたと見ることができます。

 「心の低い」百人隊長

頑ななユダヤ人の長老達さえ動かした百人隊長の願いを受けて、イエス様は彼の家に向かわれました。しかし、その到着を待たずに、再び、百人隊長は、自分の願いを友達に託したのです。自分は、本当の神様が救い主としてこの世に派遣された救い主イエス様に直接会いに行ったり、お迎えしたりする価値のない異邦人だとへりくだる思いからでした。その謙虚な思いこそが、主の祝福を受ける礎です。今日の旧約箇所でいうなら「心の低い人は誉れを受ける」ということでしょう。

 自らの職務から「主の権威」を知る百人隊長

更に、この百人隊長は、自分の職務=軍隊の命令を受けたら遂行する使命を担うことを知っていました。人間界における権威でさえ、そのように絶対的な権威を持つのであるから、天から遣わされた神の御子、救い主イエス様の権威は比べものにならない程、とてつもない大きいことを百人隊長は推測することができました。自分の仕事や役割から、神の国を思い描いているのです。この姿勢は私達も学ぶことができると思います。主の権威に服従することは当たり前、もっと言うと、喜びであると示されています。

 百人隊長の信仰と愛 

また、主から「部下は癒される」というひと言さえもらえれば、癒されると信じていることも素晴らしいことです。ユダヤ教(イザヤ書55章)で教えられている「主の御言葉は必ず実現する」ことへの絶対的な信頼=信仰が表されています。神様の前に謙虚な姿勢の百人隊長でしたが、また、同時に、ユダヤ人を愛して会堂を建てたばかりでなく、部下を重んじて、その癒しのために親身になって手を尽くした百人隊長の愛の深さも、ここに見ることができます。

 異邦人の信仰を喜ばれた主

主への絶対的な信仰を、イエス様は大変喜ばれ、百人隊長の願いを叶えてくださいました。主の救いは民族や場所や時間を越え、同じように私達にも与えられています。

10月25日の説教要旨 「わたしたちの救い」 倉松 功 先生(元 東北学院 院長)

エレミヤ書23:5-6・ルカ福音書19:1-10

 はじめに

私達の教会、プロテスタント教会が再出発したのは、1517年です。キリスト教会は礼拝を始めて500年ほどは一つでしたが、その後、ギリシア正教会、ローマ・カトリック教会に分かれていきます。一つだった元々の教会に回帰する、元々の教会の流れを受け継いで再出発する、これが宗教改革の精神です。宗教改革を最初に行ったのは、マルティン・ルターであり、1517年10月31日に、ローマ・カトリック教会が「免罪符を買うことで救われる」と教えたことなどへの95箇条の問題提起をしたのでした。

 「救い」とは何か-ザアカイの「救い」の物語

私達は教会に救いを求めて来るし、また、救いを確かなものにするために来るわけです。私達が理解している「救い」とは何か、それを大変わかりやすく記してあるのが、ザアカイの救いの物語だと思います。主イエスがエリコの町に入られました。エリコはエルサレムから東へ50キロ、エルサレムの出入り口にあります。そこに、ザアカイという徴税人がいました。エリコは通商が盛んで、徴税人は通商税を取っていたことでしょう。また、支配されていたローマ帝国への税金も集めていました。ローマ帝国のために、ザアカイは、自分と同じユダヤ人達から税金を取り立てたので、ユダヤ人からすれば、ザアカイは喜ばしい人ではなかったでしょうし、また、徴税人の頭として、手下の徴税人達の給料分や家族の生活費も上乗せして、人々からお金を取り立てていたでしょう。だから、ユダヤ人からは憎まれ、疎外された人間だったと言えるでしょう。ザアカイ自身も自分に嫌悪感があったかもしれませんし、主イエスが来られると聞いて、キリストに対して好奇心もあったと憶測いたします。ザアカイはイエス様を見ようと思ったけれども、背が低くて、見えなかったので、建材に使うような丈夫ないちじく桑の木に登ったわけです。そこへ、突然、事が起こりました。キリストの方から、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」という声がかかりました。これは、ザアカイにとって大変な驚き、大変な喜びでした。自分のような者にイエス様の方から声をかけてくださった!だから、急いで降りて来ました。そして、イエス様は、次の御言葉「今日はぜひ、あなたの家に泊まりたい。泊まらなければならない!」とおっしゃり、ザアカイに更に大きな喜びを与えたのです。ザアカイは喜んでイエス様を迎えました。

 ザアカイの感謝と懺悔(ざんげ)

そして、ザアカイは「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します」と言います。これは、喜び、心からの感謝の表れです。まだ、続きます。「だまし取っていたら、四倍にして返します。」これは旧約聖書で、羊を四倍にして弁償する規定から来ていたかもしれませんし、ユダヤ人のしきたりともなっていたようです。この後半の言葉は、悔い改めです。前半の感謝に対して「四倍にして返す」は、悔い改め、もしくは懺悔のしるしと言っていいでしょう。キリストがまず、ザアカイを迎え、受け容れてくださったことへの感謝のしるし、その後に悔い改めのしるしがあるのです。順番が大事です。決して、懺悔と感謝ではありません。私達人間がキリストをまず受け入れたのではなく、イエス様の方からザアカイ、即ち、神様から人間の救いへと働きかけられると、この物語は伝えます。9節の「人の子」とは主イエスご自身を指す言葉であり、「失われたものを捜して救うために」とは、キリスト以外のすべてが失われている、救われねばならないことを意味しています。救い主を通してすべてが救われなければならない、それが神様から与えられたイエス様ご自身の使命であることを示しています。

 新約聖書の「救い」

新約聖書の救いはそれだけではありません。Ⅰコリント書1章30節に「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」とあります。これは、神様の方から見た「私達の救い」です。「神の方からみて、救いが起こる」とは、キリストに結ばれることです。キリスト・イエスに結ばれるというと、洗礼を思い起こしますけれども、キリストが私達にとって、神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたわけです。神様から遣わされたキリストによって、私達人間側からは「救われる」のですが、神様側から言えば、「キリストが義と聖と贖い」となるというのです。

 神の国に入る

主イエスが最初に語られたのは、「神の国は近づいた」(マルコ1:15)とという御言葉ですし、また、「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17:21)ともおっしゃいました。「神の国」は領土や領民があるわけではありません。「神の国」はキリストが義と聖と贖いとなる、つまり、キリストが支配する国です。キリストが王となり、祭司となる国です。だから、キリストの国となるということです。だから、神の国は近づいたのです。そして、キリストのものとなった人々の集まりができる、これが教会、そこが神の国です。「救われる」とは「神の国に入る」ことです。

 ルターが発見したこと

それが宗教改革と密接に関係があります。1517年の95箇条の問題提起が掲げられる数年前に発見されたこと=「キリストを受け容れることによって、キリストが王となって、私達を支配する」という発見です。ルターは、このことを詩編31編、70編、71編の研究によって発見し、宗教改革を決意しました。これが私達につながることであります。神の国とは、キリストが王として、祭司として、私達を治めてくださるということです。信仰によって、キリストが王として私達を支配してくださるということを、ルターが、第一回目の詩編講義の時に発見したわけです。一方、当時のローマ・カトリック教会は、免罪符を売って人々に救いを保証するだけでなく、死者さえも免罪符購入で救われると教えていました。それはおかしいとして、ルターは、95箇条の問題提起をしたのです。だから、ルターが宗教改革を始めることになったのです。

 信仰=キリストに結ばれる

ザアカイのお話から、まず、キリストに受け入れられ、キリストによって与えられる信仰のことが知らされましたが、信仰は、だんだん純粋になり、キリストとの結びつきが強められます。説教や洗礼によって、キリストと更に結ばれ、また、聖餐によってキリストの御身体に与るという、様々な形でキリストに結びつくことを、私達の教会は許されています。そのことをキリストに感謝して歩みたいと存じます。