詩編 18:26-35・ヨハネ福音書 9:1-12
はじめに
私は学生時代、聖書を読む時の姿勢として、当時の学長から、「私にとって」、「今」、「ここで」という三つの視点を教えられました。それは、聖書を読む時、ここに書いてあることは、この「わたし」にとって、過去でも未来でもなく「今現在」、自分の置かれている「この状況の中で」、何を語っているかを聞きなさいということでした。その後、牧師になってから、有志の集まる牧師会の勉強会で学んだことは、「あなたは今、聖書の出来事の中で、どこに自分を置いて読んでいますか?」という視点です。
(*多くの場合、第三者的な読み方で、そこに自分はいないのでは?)
主役は、いつもイエス様
新約聖書では、それがどのような場面であれ、主役は常に「イエス様」です。私達はイエス様のお言葉に、しっかり耳を傾けます。そのほか、さまざまな人物が登場します。今日の福音書では、イエス様と、同行していた弟子達と、生まれつき目が見えず物乞いをしていた盲人と、この盲人を以前から見ていた人々です。
私はこの出来事を読む時、以前は弟子(イエス様への質問者)の側に身を置いて読んでいました。しかし牧師会で学んだ後では、弟子ではなく盲人として自分をそこに置かなければイエス様には出会えないのではないかと思いました。
弟子達の質問
イエス様と弟子達の一行が通りすがりに物乞いをしていた盲人を見た時、弟子の一人が「ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」と尋ねました。当時のイスラエルの人達は、神様がなさることはすべて神様の正しい秩序のもとでなされるので、悪を行えば苦痛が、罪を犯せば、その結果として苦悩が生れると考えていたからです。特に十戒の中に「神様に対して拒む者には、その罪を子孫の三代、四代にまでも問う」との文言があるため、生まれながら負っている障害は、生まれた子供の両親か、その先祖の罪の結果だと考える人達が多かったようです。弟子達もそのように考えていたのでしょう。
因果応報に対するイエス様のお考え
この盲人は、生まれながら目が見えないという困難を背負っていただけでなく「物乞い」という人の憐れみに頼らなければ生きることが出来ず、又、18節で両親が登場していますから、親の保護も受けられない状況にいたことになります。さらに追い打ちをかけているのは、弟子の問いに見られるような「その不幸をもたらした原因」は、「本人か親か先祖の罪」とする社会からの冷たい目でした。
弟子達の犯人捜しのような質問に対して、イエス様は「本人でも両親の罪のためでもない。」と言い切られました。盲人にとってイエス様のこのひとことは、それまで抱えて来た重苦しい重圧、周囲の人々からの裁くような空気、あるいはどこかで自分を責めるような思いなど、これまで背負ってきたすべてから解放される言葉でした。
「神の業が、この人に現れるためである。」
さらにイエス様は、盲目の理由は「神の業が、この人に現れるため」と言われました。<自分自身を盲人に置き換えるならば>自分の境遇を嘆き、将来に希望が持てず、あきらめの気持が自分を支配している時、イエス様は、私が今ここにいるのは、「神様のみ業が、現れるため」と言われます。わたしという存在を通して神様の偉大さがおおやけにされる。それまで無価値だと考えていた自分の運命が、神様に役立つために用いられる。そうなるために、私は今、ここにいる!と、言われます。
さらにイエス様は「わたしは世にいる間、世の光である」と言われて、安息日であるにもかかわらず、禁止されていた作業(つばきを使って土を作り、盲人の目に塗り、「シロアムの池に行って洗うように」とお命じになりました。その結果、盲人の目は見えるようになりました。
私達は光として来られたこのイエス様を「私の救い主」として信じることにより闇から救い出され、光の道を歩み続けていくことが出来ます。