1月22日の説教要旨 「真の幸い」 平賀真理子牧師

詩編11918 ルカ福音書112728

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、2つ前の段落の「ベルゼブル論争」、その次の「汚れた霊がやって来る」の話の流れの中で、イエス様が2つのことと戦っておられたことがわかります。一つは、悪霊の頭ベルゼブルとその手下という、霊の次元の戦いです。もう一つは、イエス様を信じないことに懸命な人々です。積極的に反対する人は「イエス様の御力は悪霊の頭ベルゼブルからのもの」(11:15)と言っていました。別の人々は、既に悪霊払いのしるしを見たのに、更に、自分達の前でしるしを見せてほしいと要求する人々でした(11:16)。

この2つの段落を通して、2つのことが明らかにされました。1つは、救い主としてイエス様がこの世に来られた故に、神様の霊が悪霊に勝利することが起こっているということです。つまり、「神の国」がイエス様と共に居る人々の所に既に来ている(11:20)ということです。もう一つは、「霊の宿る場所」に今まで悪霊がいた人は、イエス様との出会いによって悪霊を払っていただいた後には、聖霊が住んでいただけるように、留意していかねばならないということです。

 イエス様への賛美の声を上げた女性

まさに、このように語られている時、ある女性がイエス様の素晴らしさに感動して、彼女なりの賛美の声を挙げました。それは女性ならではの感性からくる発言でした。「こんなに素晴らしい話をし、偉大な力を持つ方の母親は、どんなに神様から祝福を受けているのでしょう!」という意味でしょう。同じ女性として、母マリアへの賛美と受け取ることもできますが、最終的にはイエス様への賛美と受け取れるでしょう。ただ、この女性は、イエス様の価値(偉大さ)はよくわかっていたのですが、イエス様の価値観はわかっていなかったのです。イエス様が人々に伝えたいことを理解していなかったのです。3つの点で、イエス様が人々に求めていることと、この女性の言葉はずれていることがわかります。1つは、この女性は、マリアがイエス様を宿し、育てた体をほめたたえていますが、イエス様は「体は神様の霊が宿り、神の栄光を表すためのものだから大事」と伝えようとされていました。2つめは、彼女はイエス様が育たれた過去に目が向いていますが、救いの恵みに気づいて信仰生活をするのは、イエス様に出会っている現在と、そして信じ続ける未来です。過去に拘泥する必要はありません。3つめに、これが一番重要ですが、どのような役割にしろ、イエス様に出会って教えを受け、それを守る思いを与えられた人を、神様はどんな人をも祝福してくださるということです。役割の軽重は関係ありません。救い主の母という役割を与えられたマリアに対しても、イエス様への賛美の声を上げた女性に対しても、信仰者としての未来に期待されているのです。

 「幸い」=「マカリオス(ギリシャ語)」=「アシュレー(ヘブライ語)

聖書は、神様からの祝福を受けることで、人は「真の幸い」をいただくことができると教えています。あえて、新約聖書の原語であるギリシャ語でいうと「マカリオス」という言葉です。有名な山上の説教も、この言葉で始まります。

「幸いなるかな」=神様からの祝福を受けた、本当の幸いという意味です。人間は神様からの祝福を受けて初めて幸いに生きられる、これが聖書全体を通しての基本的な考えです。新約聖書だけでなく、旧約聖書もそうです。旧約聖書の原語はヘブライ語ですが、ヘブライ語で「幸いだ」は「アシュレー」という言葉です。神様からの幸いをいただきたいという思いを謳った「詩編」の第1編も「アシュレー」から始まります。また、詩編119編も「アシュレー」を目指して神様に憐れみを乞う詩になっています。その1-8節(今日の旧約聖書箇所)では、「主の律法」「主の定め」「主の命令」「主の掟」を守ることが「アシュレー」への道だとあります。今日の新約聖書箇所のイエス様の御言葉(11:28)と同じです。

 「神の言葉を聞き、それを守る」恵み

ここで、思い起こすべきことがあります。それは、私達が「神の言葉を聞く(11:28)」機会を与えられているということです。2000年前にイエス様に直接出会った人々は勿論ですが、私達も聖書を通して、「神の言葉を聞く」機会を与えられている、神様が私達をそのように選んでくださっている、その恵みを再び思い起こして、感謝したいものです。「神様はどのような御方か、何を喜ばれるのか、人間はどのようにしたら救われるのか、救われた後、そのように生きるべきか」ということを知らされている、このことも神様が私達を、幸いへの道に導いておられることの証しです。福音に出会う前は、この世の価値観や他人からの評価に苦しめられた人が多いでしょう。しかし、主の救いをいただいた今は、神の御言葉を聞き、それを守ろうという思いが聖霊によって与えられました。神様からの恵みと役割に応えるように歩む、これこそが「真の幸い」への道です。