5月28日の説教要旨 「主の昇天」 牧師 平賀真理子

ホセア書6:1-3 ルカ福音書24:44-53

 はじめに

先週の木曜日5月25日は、教会暦において特別な日=「主の昇天を覚える日」でした。事前にお知らせできずに申し訳ありませんでした。来週の日曜日がペンテコステ(聖霊降臨)なので、今回はその前に「主の昇天」のことを深く学んでおきたいと存じます。

 復活の主の御姿

ルカによる福音書の最終章24章には、イエス様は十字架の死の後、復活なさり、その事実を弟子達が次第に理解していく様子が記されています。「弟子たちに現れる」という見出しの段落では、「復活の主」との出会いを体験した弟子達が話し合っていると、そこへ復活したイエス様が現れたことが証しされています。ここで改めて思わされたのは、復活の主は肉も骨もあり、食事もできたことです。主の御言葉から、復活の御姿は、私達の知識を越えた存在であることが推測できます。

 「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」(46節)

理解の範囲を越えた「復活の主」と出会い、「うろたえ、心に疑いを持ったりした弟子達」に、イエス様は御自分のことを証しなさいました。即ち、十字架に至る御受難と、この時点で起こっている復活について、それは聖書に預言された「神様のご計画」どおりであることをもう一度伝えているわけです。この告知を、十字架の前に、イエス様は3度も弟子達になさっていました。でも、聞いた当初、弟子達は、あまり理解できなかったと思われます。でも、そのとおりのこと=「十字架と復活」が起こった直後ならわかるだろうとイエス様は思われて、弟子達に、忍耐強く、更に教えようとなさっていると感じられます。主の十字架と復活は、私達の信仰の要です。だから、説教の中でも、強調されてきたことです。ただ、それを聞くことに慣れてしまってはならないと思います。罪のない主が、私の為に大変な痛みと苦しみを代わりに担われたことを痛感し、心静めて掘り下げる必要があります。

 罪の赦しを得させる悔い改めを、全世界に宣べ伝える役割の弟子達

更に、復活の主は、この時新たな内容を告げられました。それは47節の前半の御言葉=「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということです。「イエス様の十字架(贖いの御業)と復活(神様から賜った栄誉)を『自分が罪赦されて救われる為に行われた』と信じること」が、ここで言われている「悔い改め」です。それによって、神様から「罪の赦し」をいただける、そして、そのような「主の御名による救い」が全世界に広がる、そして、その役目を弟子達が任せられるようになる、そこまでが「神様のご計画」に入っていると、復活の主は新たな真実を知らせてくださったのです。そのような弟子達に対し、「あなたがたは(救いの御業の)証人となる」(48節)とおっしゃいました。「証人」とは裁判用語ですが、ここでは第三者として語るだけではなく、「当事者」、しかも、神様の救いのご計画の一部を担う者としての「当事者」であることを意味しています。

「弟子達を祝福されたイエス様」と「主を初めて伏し拝んだ弟子達」

50節からは、「主の昇天」が証しされています。イエス様は手を上げて弟子達を祝福されました。そして、弟子達は、この時初めて「イエス様を伏し拝んだ」のです。復活だけでなく、昇天の御姿をお見せになることにより、弟子達はイエス様の偉大さを更に思い知ったのでしょう。弟子達は、この後、大喜びで神様をほめたたえる生活をすることになりました。そうしながら、主の御命令のとおり、「父が約束されたもの聖霊(神の霊)」を待っていたのです。

昇天後のイエス様と弟子達

昇天後のイエス様については、私達が礼拝で信仰告白している使徒信条に「天に昇り、全能の父なる神の右の座し」ておられるとあります。神様と同じ存在になったのです。しかし、イエス様はそこに安穏と座っておられる御方ではなく、信じる者が助けを祈るなら、この世に必ず働きかけてくださいます。イエス様は「聖霊」を送って、この世の人や出来事を動かせる力をお持ちです。

一方、弟子達は、集まって祈る日々を過ごし、今後の福音伝道の準備を行った(12人目の使徒の選定)と使徒言行録1章にあります。2章では、五旬節(ペンテコステ)に初めて「聖霊」が降った出来事が記され、福音伝道が開始されました。信仰者は心が祈り等によって神様の御心と一致した時、神様のご計画に用いられます。私達も主の御心に自分の心を合わせられるよう、祈りましょう。