3月4日の説教要旨 「受難の予告」 牧師  平賀真理子

イザヤ書48:6b-11 マルコ福音書8:27-33

はじめに

イエス様と弟子達は、ガリラヤ地方を拠点に伝道活動をなさっていました。この後、この一行がエルサレムへ向かうことも、「後の時代の信仰者」である私達は知らされています。ガリラヤからエルサレムへは南下するはずですが、今日の新約聖書箇所では、イエス様御一行は、逆の方向=北のフィリポ・カイサリアに赴かれたと記されています。

フィリポ・カイサリア地方で

この地方は2つのことで、イエス様御一行が従っている本当の神様とは、本来相容れない性質を持つ所です。一つは、ギリシア神話に出てくる神々の一つである「パーン」という神を崇拝する宮があったということ、もう一つは、ローマ帝国が後ろ盾となって代官に任じられたヘロデ大王の息子フィリポが、ローマ皇帝に献げるため、このフィリポ・カイサリアの都を造ったという経緯があることです。前者は異教の神、後者は権力を持つ人間のために造られた所だったというわけです。しかし、だからこそ、本当の神様とその御力を求めるユダヤの群衆からイエス様達は逃れることができたのかもしれません(ユダヤ教では異教の人々と交際すると汚れると教えていました。)。この静かな環境で、エルサレムに出発する直前に、イエス様は弟子達に大事なことが伝わっているか確認し、更に重要事項を教えようとなさったのです。

ペトロの信仰告白「あなたは、メシアです。」(29節)

イエス様は弟子達に、まず、人々が御自分を何者だと言っているかをお聞きになりました。(恐らく、次の質問の布石だと思われます。)人々はイエス様のことを「洗礼者ヨハネ」「預言者エリヤ」「預言者の一人」と言っていると弟子達は答えました。「洗礼者ヨハネ」とは、神様によって、イエス様に洗礼を授ける役割を与えられた人です。この時点で、既に彼は権力者に殺されていたのですが、人々はイエス様を、立派だった「洗礼者ヨハネ」と同じくらいすごい御方だと感じていたことを示しています。また、「エリヤ」はユダヤ教の中で最高の預言者として敬愛されていて、イエス様はその人に近いと思われていたようでもあります。また、最小の評価としても、イエス様の御言葉や御力は、人々が神様の御力を感じるのに充分だったので、「預言者の一人」と考えて間違いはないだろうと噂されていたことが、弟子達の答えからわかります。

けれども、イエス様が弟子達に一番聞きたかったことは、「人々が」ではなくて、「弟子達が」イエス様のことを何者だと言うのか、でした。主の二番目の質問に、ペトロが「あなたは、メシアです。」と答えました! イエス様を「救い主」として理解し、信じ従う人間がいて、その人が天地に向けて公言できる、この「信仰告白」こそ、イエス様にとって、本当の弟子を立てることができたという証しとなります。そして、同じように信仰告白できる人を増やすことが福音宣教の目的でしょう。ところが、イエス様は、彼らの信仰告白の内容を他の人々に話さないように戒めました。これは、イエス様の本当の弟子達以外に明かされるのは非常に責任が重いので、彼ら以外には秘密にした方がよいと、憐れみ深い「救い主」であるイエス様が判断されたからだと思われます。

「受難の予告」を信頼する弟子達に知らせてくださったイエス様

弟子の代表としてのペトロの信仰告白により、この世にイエス様の福音宣教の基盤ができたことが示され、イエス様は、その信頼できる受け手である弟子達に向けて、御自分の近い将来の定めを告げたのです。即ち、「受難の予告」です。弟子を始めとする人間達は「救い主」と言えば「栄光の主」だと当然予想しますが、イエス様が父なる神様から示された「救い主」の姿は「苦難の僕」でした。これは、人間の思考とは全く逆で、弟子達がこの内容に決して躓いてほしくないとイエス様が願われたと思われます。でも、案の定、「信仰告白」という功績を立てたはずのペトロさえ、主の御言葉とその思いを砕くように、主をいさめ始め、躓いたのです。ペトロだけでなく、弟子達全体に向かい、イエス様は人間の考えではなく、神様の御心を第一に求めるように教えました。それは自分の考えや利益や名声を捨て、自分の十字架を背負い(捨ててではなく)、「十字架の主」に従う道です。しかし、主の十字架の果てに、主の復活があります!私達=主に従う弟子達はその豊かな恵みも賜わるのです!

2月25日の説教要旨 「悪と戦うキリスト」 牧師  平賀真理子

エレミヤ書2:1-13 マルコ福音書3:20-30

はじめに

今日の新約聖書箇所は、23節以降のイエス様の例え話を端緒とした御言葉が中心です。しかし、その前の記述は、その御言葉が語られた状況が説明されており、そのことをよく知ると、御言葉の意味を、より一層はっきりと読み取ることができます。ご一緒に見ていきましょう。

今までの先生達とは違う圧倒的な御力で人々を救ったイエス様

ここに至るまでに、マルコ福音書では、イエス様のなさったことが、大まかに分けて二種類書かれています。一つは、イエス様の御言葉が「権威ある者としての教え」(1:21-22)として、人々を驚かせたことです。それまでのユダヤ教指導者達とは全然違うものだったと思われます。

もう一つは、悪霊を追い出したり、病いに苦しむ人々を癒したりする御業を行ってくださったことです。これも、それまでそのことに従事していた専門家とは、全く違う次元の、圧倒的な力を、イエス様は示されたと記されています。苦しみに直面していた人々は、イエス様の圧倒的な御力は神様からいただいていると素直に理解し、それに頼ろうとしました。苦しみは人間的に見れば避けたいものですが、しかし、苦しみを通して、人々は更に真剣に神様に頼ろうとするものです。それで、「群衆」がイエス様に押し寄せていると描かれているわけです。

神様から御力をいただくイエス様を認めない二つのグループ

今日の箇所には、そうでない人々が二グループ出てきます。一つは、イエス様の「身内の人たち」、もう一つは「エルサレムから下って来た律法学者たち」です。前者は、ユダヤ人社会の中で、家族の一員が常識と違った言動を取れば、その家族が、常識に戻す責任があると考え、それを第一に考えて行動しています。この「身内の人たち」は、イエス様の御業の内容を率直に見極めようとするよりも、「気が変になっている」という人々の噂を信じて、イエス様の御業を止めさせようとしました。また、後者も、ユダヤ社会での責任、特に「神様を信じる」件での人々の動きには責任があると思っていました。自分達とは違う、圧倒的な神様からの御力で、福音を語り、悪霊を追い出し、病いを癒せる「ナザレ人イエス」を調査するために、中央の都エルサレムから離れたガリラヤに下って来ました。イエス様を排除したいという自分達の思いを第一に実現することが第一の目的だったと思われます。

反対派を論理的に論破なさったイエス様

この「律法学者たち」は、イエス様の御業に現れた神様の御力を素直に認めず、あろうことか、その圧倒的な力の源を、本当の神様とは全く逆の「ベルゼブル(異教の神々の一つ)」と言ったり、イエス様御自身を「悪霊の頭」と呼び、悪評を立てようとしたのです。これに対して、イエス様は例え話によって彼らの主張を完璧に論破なさいました。23節後半から27節までの例え話は、論理的で、誰でも理解できると思えます。

「聖霊を冒瀆する者は赦されない」

では、その例え話と28節から29節までの御言葉が、内容の上で、つながっているように思えるでしょうか?理解するためには、29節に出てくる「聖霊」の働きについてのユダヤ教の伝統的な教えが参考になります。まずは、「神の真理」がこの世に啓示される出来事が起こるということ、次に、その出来事について、それが神様が起こしてくださっていると人間に悟らせること、それが「聖霊の働き」です。「群衆」はイエス様の御業を神様からのものと理解している=「聖霊の働き」を理解し、認めています。一方、「身内の人たち」や「律法学者たち」は、イエス様の御業の上に「聖霊の働き」が確かにあるのに、それを決して認めませんでした。「聖霊」は「神の霊」、つまり、イエス様が最も愛する「父なる神様」の霊であり、父なる神様の御心によっていただく賜物です。それを認めず、他の名で呼ばれることをイエス様は決してお赦しにはなれません。「聖霊」を「汚れた霊(30節)」と言われることはお赦しになれません。イエス様は「聖霊」を認めず、他の名で呼ぶ「悪」と。論理的に、敢然と戦われました。

「聖霊の働き」を祈り求めることができるという私達の幸い

今や、私達は、イエス様を救い主と信じる信仰で、主の恵みを賜わること=「聖霊の働き」を祈り求めることが許されています。その源である「主の十字架の贖い」を再び想起し、「復活」の恵みに感謝しましょう。

2月18日の説教要旨 「荒れ野の誘惑」 牧師  平賀真理子

エレミヤ書31:31-34 マルコ福音書1:12-15

はじめに

今日の新約聖書箇所は、イエス様が救い主として歩まれる「公生涯」の初めに、洗礼を受けた後、荒れ野でサタン(悪魔)の誘惑を受けたと記されています。まずは、その順番に従って考えていきましょう。

罪がないのに、罪を清める洗礼を受けたイエス様

イエス様は救い主として「公生涯」を始めるにあたり、洗礼をお受けになりました。罪のない神の御子なら、罪を洗う洗礼は必要ありません。けれども、イエス様は御自分が洗礼者ヨハネから洗礼を受けることは「正しいこと」(神様の御心に適うという意味)とおっしゃって、洗礼をお受けになりました。それは、罪のないイエス様が、救う対象である私達罪深い人間と同じ立場になってくださることを示しています。

それから、“霊”によってイエス様は荒れ野に連れ出されたとあります。“霊”とは「聖霊」「神の霊」「主の霊」という意味です(聖書の初めの「凡例」の三の⑵参照)。だから、神様が、人間と同じ立場で洗礼を受けたイエス様に、荒れ野で悪魔の誘惑を受けるように導かれた訳です。

洗礼の後に、悪魔の誘惑⇒信仰者(受洗者)への試練の先取り

私達と同じ立場になるため、イエス様が洗礼をお受けになって誘惑を受けたなら、その順番が、私達が信仰の歩みと逆だと思われませんか?悪魔の誘惑や人生における試練を経て、人間はこの世の限界や偽りを感じ、真実を求めて教会に来て、福音に出会い、洗礼を受けることになるという順番の方が多いでしょう。しかし、イエス様の歩みは正反対の順番を示しておられます。これは、公生涯の始まりの後に、悪魔が信仰者にも誘惑(試練)を仕掛けてくるということを暗示しています。それは、神様に愛される者を、サタンも狙うからなのです。イエス様だけでなく、信仰者も、洗礼によって「公生涯」が始まると言っていいでしょう。受洗者は、神様の御前に神の国の民として生き方を見守られているのです。サタンは私達受洗者=神の民が神様からの愛を受けている故に、自分側に引き込もうと激しく誘惑するのです。イエス様の洗礼の後の悪魔の誘惑は、洗礼後の「神の民」への悪魔の誘惑の先取りです。

荒れ野の誘惑の内容と撃退法(マタイ4:111、ルカ4:1-13

私達は、イエス様が悪魔に勝利した「荒れ野の誘惑」の内容とその撃退法を知る必要があります。私達にも降りかかる誘惑だからです。その内容を、マタイ福音書の順番で見ると、以下の通りです。①自分の欲望を満たすためにこの世の物を変えたらよいではないか。②自分の願いを叶えるために、神様を試してみたらどうか。③一度だけ、少しだけでいいから、神様でないものを拝んでみたらどうか。以上です。3つ全部が、「神の民」である故になおさら、陥りやすい誘惑です。①の誘惑に対して、イエス様は、欲望(食欲)を満たすこの世の物ではなく、主=本当の神様の口から出る御言葉によって人間は本来生きるものだとお教えになりました(申命記8:3)。②の誘惑は、特に要注意です。神の民が願ったことをすぐ、神様が奇跡を起こして助けてくれるはずだから試してみたら?という誘惑です。私達は祈りでは自分の思いを当然素直に表しますが、神様の御心よりも、自分の思いを叶えるために神様を試すようにその御力を求めるのは本末転倒です。人間が神様を自分の思い通りに動かそうと企てることが罪なのです。イエス様は、再び、御言葉(申命記6:16)により「主を試してはならない」と誘惑を退けました。③も信仰生活でしばしば見かけます。神様に関わること(礼拝等)よりも、自分の都合を優先することを最初は1回だけと巧みに誘い、次第にその回数を増やし、最終的には信仰生活から離れさせる罠を悪魔は信仰者に仕掛けます。イエス様は、3度目も御言葉(申命記6:13)により、悪魔を拝むことを敢然と退け、「主にのみ仕える」と宣言されました。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(1:15)

洗礼と試練の後、イエス様は「救いの時の到来」を天地に宣言なさいました。「時は満ち、神の国は近づいた。」という業をなさるのは神様です。神様が御計画して人間を救う時が押し寄せています。それを受ける側の人間がなすべきことは、悔い改め=自己の欲望中心の生き方を止め、神様の御心に従う生き方に変えることです。その準備ができた者の心に福音が入り、それを信じて生きる信仰を神様が与えてくださるのです。

2月12日の説教要旨 「わたしたちの帰る場所」 吉田 新 先生(東北学院大学)

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 祈りの二つの目的

本日は、「祈り」について皆さんと共に考えたいと思います。祈りには、二つの目的があると私は思います。最初の祈りの目的とは「退く」ことです。大切なときに気持ちが焦り、冷静さを失ってしまう。それは誰しも経験することです。そうならないために、どうしたらいいのか。まずは「退くこと」です。大切なことを前にした時、重要な決断をしなければならない時、人生の節目にあった時、その場からひと時、退くことです。キリスト教ではそれを「リトリート(retreat)」と呼んでいます。「リトリート(retreat)」というのは、「退く」「後退する」「退却する」という意味ですが、キリスト教では普段の生活を離れ、神様との交わりを深める時間のことを指します。そのようなリトリートの起源はイエス・キリストに遡ります。本日の聖書箇所に記されたイエスの姿です。イエスは人々に教えを宣べ伝える活動の前に、一人で人里離れたところに行き、祈ったとあります。イエスはまず「退いた」のです。本当に自分にとって大切な決断を下す時、自分の向かうべき道がわからない時、焦って前のめりに進むのではなく、一歩後ろに退いてみる、神様と静かに対話する時を持ってみるのです。その時を少しでも持てば、私たちは私たちがなすべきことが自ずと知らされると思います。最初の祈りの目的とは「退くこと」です。

 荒野、神の声を聴く場所

聖書の箇所には「人里離れた場所で祈っていた」とあります。マルコ福音書ではこの箇所だけでなく、イエスが活動の合間に一人で祈られる姿がしばしば記されています。祈りとイエスの活動は不可分に結びついています。

新共同訳では「人里離れた場所」と訳されておりますが、原文では「荒れた場所、耕作されていない荒地」という意味だと思います。「人里離れた」という形容詞を名詞にしますと「荒野」です。ちょっと人ごみから離れて休息を取るといった意味ではなく、厳しい場所にあえて身を置いたことを意味すると思います。おそらく、このようなイエスの祈りの姿が、後々、過酷な環境に身を置き、祈りに専念する修道生活の伝統を生み出していったと考えます。

では、なぜ祈るために厳しい場に身を置くのでしょうか。先ほどイエスは「荒れた場所、耕作されていない荒地」に向かったと言いましたが、聖書において「荒野」とは単に荒れた土地という意味ではなく、荒野は「神の声を聴く場所」でもあります。実際、旧約聖書の預言者たちは荒野で「神の声」を聴きます。ですから、荒れた地に赴くとは、神の声を聴くために、「出向く」ということです。ここに祈りの二つ目の目的があります。「自分から神の方に向かうこと」です。日々、私たちは様々な場面で祈りますが、どれくらい「神の方に向くこと」を意識して祈っているでしょうか。それを自分に問いかける必要があるかもしれません。

長く、教会生活を送っている方々は、習慣として祈っていると思います。しかし、いま一度、祈りの最も基本的な姿勢を味わっていただきたいと思います。「祈り」とは「退くこと」、そして「自分から神の方に向かうこと」、つまり「神の方に帰る」ことです。

 神の方に帰る

では、神の方に帰り、私たちは何をすべきでしょうか。自分のお願いや希望を述べるべきでしょうか。そうではありません。日常生活を退いて、神の方に向き直し、神の方に帰り、私たちは私たちを差し出すのです。飾らない、ごまかさない、嘘のない自分を神に差し出しましょう。神が求めているのはありのままのあなたです。いまのあなたを差し出すことこそが本当の祈りです。そうすれば、あなたの心は確実に楽になると思います。

一日の生活の中でひと時の祈りの時に、神の方に向き直ることを意識すれば、私たちの世界はまた違って見えてくるはずです。それを通して、私たちが帰る場所も見えてくると思います。そして、そこで私たちは自身を神に差し出しましょう。

11月20日の説教要旨 「どこから来て、どこへ行くのか」 佐々木勝彦先生 (東北学院大学名誉教授)

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 はじめに

本日の収穫感謝礼拝の説教を依頼された時に、若い人達は収穫の経験があるのかと疑問に思いました。しかし、収穫の経験がなくても、今日の聖書箇所は、収穫のことだけを語っているのではないとわかります。このマルコ福音書4章を読んでいくと、人間の心の問題や人間の生き方の問題を例えているということがわかります。「収穫」とは勿論、自然の恵みのことを言っていると同時に、私自身の収穫について語られている、つまり、「私がどんな実を結ぶのか」ということが語られています。

 聞くための聖書

私達にとって聖書を読んでいるかが問題になりますが、元々、聖書は聞くものでした。聞くためには語ってくれる人が必要です。礼拝でも、聖書朗読が一番大事です。聖書を聞くことについて最近聞いたのですが、間もなく、新しい聖書が出るそうです。今の新共同訳聖書は、朗読されても、心に響かないと感じます。聞くに堪える聖書が求められています。私達は「聞く喜び」を求めています。人々は聞くことに飢えているのです。

 「種を蒔く人のたとえ」⇒「蒔かれた種」

マルコ福音書4章1節―9節は「種を蒔く人のたとえ」という小見出しがついていますけれども、なぜ、道端や石地や茨の中に落ちるように種を蒔くのでしょう。日本では、土を耕して種を蒔きます。しかし、イエス様が生きた地域「パレスチナ地方」の農法では逆に「種を蒔いて、土をかける」順番で種が蒔かれていたのです。この「種を蒔く人のたとえ」の話では、4章13節からイエス様の説明があるのですが、蒔かれた種が鳥に食べられる、その鳥とはサタンであると言われています。種を蒔く人の話から、蒔かれた種の方に話が移っています。更に読み進むと、石地だらけの土地に種が蒔かれたという表現があります。石地だらけとは「人の心」の状態の例えでしょう。石地だらけの土地に落ちた種が苦労するように「人間は苦しむ」ということを問題にしていると思われます。

 「サタンによって人間は苦しめられる」

人間の苦しみについて、サタンの仕業と考える場合が多いのですが、その「サタン」とは、私達人間を苦しめるものであり、人間の力を超える力を持っており、しかも人間を破滅させる力があり、人間から見たら「悪い」としか思えない存在と言えるでしょう。例えばパチンコにはまってしまう場合、それを聖書では「サタンが働いている」という訳です。人間の意志を越えて悪に引きずりこむ力を持つのがサタンと言われています。例にしたパチンコに最初にはまってしまう時、パチンコはその人にとって大変魅力的だったのです。「サタンは笑顔で来る」と言われています。

 苦しみに襲われる人間⇒「私はどこから来て、どこへ行くのか」

私事ですが、半年ほど前に、私達夫婦は住み慣れた仙台から広島へ行きました。仙台への未練を断つために仕事を辞め、家を売って広島へ行きました。私は信仰によって故郷を旅立った「アブラハム」になったつもりでした。ところが、広島で病気になって痛むために歩くのが困難になりました。新しい土地に来たのに、5か月間も外出できませんでした。そこで私の苦しみが始まりました。「自分は何をやっているのか?何かの罰か?」という疑問に襲われ、苦しみの原因を考え、「私はどこから来て、どこへ行くのか」をしみじみ考えるようになりました。

 「どこから来て、どこへ行くのか」を指し示すのが教会

外出できなくなる少し前に、広島のクリスチャンの会合に呼ばれて話をするように頼まれたので、来年迎える宗教改革500年記念に関する話をしようと提案しました。しかし、そこで拒絶に遭いました。今すぐにできる実践的な話をしてほしいと言われたのです。クリスチャンは、良い話を知っていて口で言うばかりで、実行しないという批判をよく聞きます。それで何か実践したいと思いがちです。それは正しいことです。しかし、もっと本質的な話、クリスチャンは「どこから来て、どこへ行くのか」という本筋を押さえた上で行う方が良いと切実に思いました。具体的に言えば、教会は福祉施設でしょうか?そうではありません。教会は、教会でなければできないことを大事にすべきです。私達は「どこから来て、どこへ行くのか」、その根っこを確認すべきです。「人間はどこから来て、どこへ行くのか」ということを、教会は指し示す役割があります。

 苦しみの中でも、神様の目で見つめる

今日の聖書箇所に戻ってみると、人間の苦しみについて、具体的に書かれています。人生とは思い煩いとの戦いであり、人間はお金(富)や権力、欲望との戦いに明け暮れます(仏教用語で「煩悩」と言い変えられるものです)。人間は思い煩いに負けてしまう時、良い土地にならねばならない!土地改良すべき!という目標を立ててしまいがちです。しかし、私はこう考えています。「自分は時には道端、時には石地、時には茨」と自分の状態をわかりながらも、「そんなことに目を止めなくてよい」と。それは今日の聖書箇所として挙げた2つ目の箇所「『成長する種』のたとえ」(マルコ福音書4章26節-29節)から わかります。土がひとりでに芽を出させるのです。人間は自分がどうかを見つめる傾向にあります。「隣人を愛しなさい」と言われるけれども、できない自分を見つめます。内側向きです。しかし、敢えて思い切って内側に向いている目を放し、外側から見る、つまり、私をお造りになった神の目で見ることをお勧めします。内側と外側が交差するところに人間が見える、それが「信仰」です。私が見ているのであり、同時に見られているのです。「信仰」とは複眼で見ることとも言えます。それがクリスチャンとクリスチャンでない人との違いです。クリスチャンは、自分の目と神様の目で見ることができます。「神様の目で見る」のは大変なことです。それを教会では、「聖書に聞く」、つまり、「神様の言葉を聞く」ことで行ってきました。別の言い方では、「私が読むことでもあり、読まれること」でもあります。見ることと見られること、これを合わせて、英語でhappening(出来事という意味)と言います。happeningが起こる、これが神様に出会うことと言えます。私が、聖書を、神様の御言葉を読んでいるうちに、実は、神様に読まれているとも言えます。

 「一粒の麦」

さて、聖書でもう一か所「種」と「麦」が出てくる話として忘れられないのが「一粒の麦」の話(ヨハネ福音書12章24節-26節)です。「一粒の麦」は死なねばならないと記されています。「一粒の麦」に例えられる私達は死なねばならないのです。「何のためにどのように死ぬのか」を考えなければならないでしょう。最初に述べたように、私達の人生は麦の収穫に例えられ、「実を結ぶ」ように求められています。先述した、私的な体験で、「私達は、このままでは実を結べない」と考え、「実を結ぶ」ために、自分達の年齢から推測して、働ける年数を「あと10年」と予想し、仙台に帰ってきました。「終わりの時」を考え始めたのです。「終わりの時」を考える時、人間は自分に何が出来るか、出来ないかを真剣に考え始めるのではないでしょうか。今まで話してきたとおり、信仰者は、土地は神様のものだと知らされています。土地が種を成長させてくれる、つまり、神様が私達「種」を成長させてくださると信じて感謝しつつ歩みましょう。以上