5月7日の説教要旨 「主は復活と命」 牧師 平賀真理子

ダニエル書1213 ヨハネ福音書111727

 はじめに

今日の新約聖書箇所は、死んで4日も経ったラザロという男をイエス様がよみがえらせた話の一部から与えられました。この話は、ヨハネによる福音書だけに記された話です。ラザロには、マルタとマリアという2人の姉妹がいて、マリアは、主の十字架の前に、その死を予感して、生前のイエス様に香油を塗った女性として知られています(マタイ26:6、マルコ14:3、ルカ7:36)。また、ルカ福音書10章38節からの段落では「マルタとマリア」と言う小見出しで、対照的な行動をする姉妹としても描かれています。

 イエス様に愛されたラザロ達

ユダヤ地方のベタニア(エルサレムから約3㎞)に住んでいた、この3人の兄弟は、これ以前に、イエス様と良い交わりをしていたと思われます。2人の姉妹がラザロの病気を主に報告する際に「あなたの愛しておられる者が病気です。」と言っているからです。しかし、イエス様は、ラザロの出来事は「神の栄光」のためであるとおっしゃり、すぐには出発されませんでした。一行がベタニアに到着した時には、ラザロは既に死後4日も経っていました。そこで、イエス様を先に出迎えたマルタがイエス様と交わした会話が、今日の箇所です。

 マルタの言葉にならない願いを汲み取り、かなえてくださる主

兄弟を失ったマルタは、イエス様がそばにいてくださったら、兄弟は死ななかったでしょうと、その御力を信頼しています。しかし、次の「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださる」とは、一体どういう意図で言ったのでしょうか。それは、次のイエス様の言葉から理解することができます。「あなたの兄弟は復活する」(23節)という御言葉です。人の心を見抜くイエス様が、マルタの心に秘めた願い「今からでも遅くないなら、神様に願って、ラザロを生き返らせてほしい」という、マルタの心の底にある思いを汲み取ってくださったのでしょう。主と良い交わりを重ねてきた この姉妹の思いをかなえるために、この後に働いてくださることを予め知らせておられるのだと読み取ることができるでしょう。

 「復活」について

主が深い憐れみによる御言葉をくださったにもかかわらず、マルタは、その意味をすぐに正しく理解できませんでした。「終末の日に、死者がいっぺんに復活する。」というのが、ユダヤ人の常識でした。ユダヤ人達は伝統的に「死んだ者が生き返る」ということにあまり関心がなかったようです(今日の旧約聖書箇所は、「死者の復活」を述べた、数少ない箇所の一つです。)。従って、「ラザロが生き返るのは終末を待たねばならない。」とマルタは考えていて、イエス様の御言葉が自分達の身にすぐに実現するのだとは全く期待していなかったでしょう。

さて、一度死んだ人間がどうしたら生き返るでしょうか。それは、命を取り去ることのできる御方が、同じように、命を与える権限を持って、その人に働きかけるという行為がなされなければなりません。その権限を、神の御子であるイエス様が持っているので、「わたしは復活であり、命である」とおっしゃることができ、しかも、御言葉のとおりのことが、ラザロを通して起こったのです。

「わたし(イエス様)は復活である」という中の「復活」とは「立ち上がらせる」という意味が原語にはあります。「死んだ人間を死の世界から立ち上がらせる、生き返らせる力がわたしにはある、その権限を持っている」ということです。

 「命」について

「わたしは命である」とは、「命を生み出し、与える権限がわたしにはある。」とイエス様が宣言なさったわけです。聖書では、この世のすべてのものに命を与えられるのは、神様だけというのが大前提です。その創造主なる神の御子だからこそ、イエス様は、死んだ人間に再び命を与えることがおできになるのです。

また、生物学的な「生」と「死」を越えた次元で、聖書では、「命」がある状態とは「神様と正しい関係にある」状態だと考えます。イエス様を救い主と受け入れて信じるだけで、罪ある人間が神様と繋がることができ、「永遠の命」の状態に入れられるのです!マルタはイエス様の御力の偉大さを「知って」いましたが、イエス様が最終的にマルタに確認なさったのは、イエス様が命をつかさどる神様の権限を持つことを「信じるか」ということでした。マルタのように、私達も御子イエス様への信仰を成長させていただけるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

11月13日の説教要旨 「悪霊を追い出す力」 平賀真理子牧師

ダニエル書52228 ルカ111423

 はじめに

今日の箇所ではまず、イエス様が悪霊を追い出したことによって、口が利けなかった人が、口が利けるようになった奇跡が記されています。そして、群衆、その背後にいる反対勢力からの中傷と要求に対してのイエス様の御言葉が語られています。

 「ベルゼブル」

イエス様の御力がどこから来るかを反対勢力の人々は問題にし、その源は「ベルゼブル」と中傷しました。私達には耳慣れない「ベルゼブル」は、元々はユダヤ人に敵対してきたペリシテ人の町で崇められていた神々の一つだったようです。ユダヤ人の間では、いつの間にか、「異教の神」から変化し、「悪霊の頭」の名前として認識されていたようです。私達は、悪霊の頭と言えば「サタン」という名が思い浮かびますが、ここでは、私達は15節にあるとおり、「悪霊の頭」と受け取ればよいでしょう。

 預言されていた「救い主」の御業への中傷と要求

イエス様が悪霊から苦しめられている人から悪霊を追い出すことをたくさんしてくださったことが、福音書には書かれています。これこそまさに、イザヤ書61章1節に預言されている「救い主の御業」の一つ「捕らわれている人には自由を」の実現です。だから、口の利けない人が、イエス様の御業ゆえに口が利けるようになったことは、その事実だけでなく、それが「救い主」の証しだと多くの人が思い至り、驚嘆しました。それ以上に危機感を持ったのが、ファリサイ派という反対勢力の人々です。イエス様の御力は「悪霊の頭」から来ていると中傷し、また、試すために「天からのしるし」と見せてほしいと要求したのです。

 悪霊と「悪霊の頭」は正反対の働きはしない

反対勢力の心根を見抜かれたイエス様は、彼らの中傷の矛盾点を指摘なさいました(17節以降)。ある悪霊が頑張って一人の人間を思いどおりにしているのに、そのボスの「悪霊の頭」が全く逆の働き(悪霊を追い出す)をして、悪霊の努力を無駄にするはずがありません。イエス様は、悪霊やその頭が、神様に対抗して人間を支配して悪の国を作ろうと働いていることをよくご存じです。この世の出来事(最近の世界情勢)をみても、一つの国が正反対の働きをする派閥の抗争によって、勢力を失います。悪霊の国「悪の国」も同じことが言えると、イエス様は教えておられます。

 ベルゼブルの力で悪霊を追い出すという論理は、仲間からも訴えられる 

おまけに、ファリサイ派の人々の中には、悪霊払いをしている者達もいたのです。イエス様ほど完璧ではなかったのでしょうけれども、いささか実績があったことが、イエス様の御言葉の御言葉からも読み取れます(19節後半)。同じように悪霊を追い出していて、それがすべて「ベルゼブル」からの力なら、イエス様を中傷するファリサイ派の仲間達も「ベルゼブル」の力をいただいていることになります。「そんなことを言われた仲間は納得しないでしょう。それなら、わたしの力もベルゼブルからの力ではない」とイエス様は論理的に結論付けました。

 「イエス様の御力は神様から来ている」⇒「神の国はあなたたちのところに来ている」(20節)

イエス様はファリサイ派の中傷が非論理的で、誤りであることを指摘なさいました。更に発展させれば、「イエス様の御力は神様から来ている」という結論になります!悪霊を追い出す御力は、「悪霊の頭」からではなく、「悪霊の頭」を悠かに凌ぐ「神様」からいただいている御力です。御自分の憐れみによって神の御力をいただける、これこそ、神様から遣わされた「救い主」にしかできないことです。その救い主イエス様が「神の国はあなたたちのところに来ている」と宣言してくださいました!そして、この世は、22節にある「強い人」としての「悪霊の頭」の支配から、23節にある「もっと強い者」としてのイエス様の支配へとすでに移っていることが宣言されています!

 「神の指」

ルカ福音書では、イエス様は「神の指で悪霊を追い出している」と言われたとあります。「神の指」とは、人間の手やその指のように神様が働かれる譬えです。恵みとしては、天地創造の御業(詩編8:4)、十戒を石版に記した御業(申命記9:10)等が挙げられます。一方、神様の御心に従わない人々への災いとして「神の指」が働かれたと言われることもあります。出エジプト記8:15、ダニエル書5章全体がその例です。神様の御心に従えば恵み、従わなければ災いを賜わるのです。

 イエス様に味方し、一緒に集めるとは?

福音を信じる者がすべきことは、イエス様に味方し、主を信じる者を集めること、即ち、信徒が一同に会し、主に礼拝を献げることです!神様が大変喜ばれるのです!私達は勝利者イエス様を信じ、勇気を出し、信仰生活を続けましょう。