11月4日の説教要旨 「いつまでも主と共にいる」 平賀真理子牧師

ダニエル書7:13-14 Ⅰテサロニケ書4:13-18

 *はじめに

 今日は、私達と共に信仰生活を送った後、この世での使命を終えて、天に召された方々、つまり、信仰における兄弟姉妹のことを覚える日です。在りし日のこれらの兄弟姉妹の信仰に基づいた歩みを想起し、この方々に信仰を与えてくださった神様への感謝を深めましょう。

 

 *使徒パウロのテサロニケの信徒への思い

テサロニケはギリシア北部のマケドニア州の町です。使徒パウロが伝道の旅で滞在した結果、福音を信じる人が一定数起こされ、教会ができました。各地で伝道したいと願っていたパウロは、テサロニケに長くはいませんでしたが、この町の信仰者達を、伝道の「良い実り」として心にかけ、愛していたようです。テサロニケの信徒への手紙一の1章から3章を読むと、そのことがにじみ出ていると感じます。更に読み進めると、4章からは「信仰者としてどのような生活をすべきか」について、パウロの教えが読み取れます。3節に「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となること」とありますし、また、7節にも「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるため」とあります。

続いて、パウロが強調しているのは、まだ信仰を与えられていない人達に対する証しとなる生活を信徒達がするようにということです。11節に「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くようにしなさい」とあり、彼らはこれが出来ていなかったか、それを持続するのが難しい状況だったと想像できます。当時、テサロニケは、経済的に潤っていました。景気が良いと人間は、自分で地道に働くことを軽んじ、時流に乗って、楽して儲けることに走りがちになります。人間は、自分の利益や一時的な流行を最優先してしまいやすいものです。おまけに、当時の社会では、労役を奴隷に押し付けていました。「自分の手で働きなさい」という教えは、奴隷制度を当然のこととしていた主人達を信仰的に目覚めさせたかもしれません。また、奴隷とされた人々にとっては、慰めを得ることになったでしょう。11節のような生き方をしなさいというパウロの教えは、この教会の人々に、主の証し人として生きる重要性を思い起こさせたことでしょう。

 

 *既に亡くなった信仰者達の救いについての疑問

ただ、パウロによってテサロニケの教会ができた頃から時間が経過し、既に亡くなった教会員もいるような状況になった時に、生き残っていた信徒達は「救い」について疑問を持ち始めました。彼らの多くが、自分達の生きている間に、イエス・キリストの再臨があると切迫感を持って信仰生活を送っていたのです。自分が生きている間に「主の再臨=終末」が来たら、自分達はイエス様の救いに与(あずか)れるにしても、死んでしまった人々は、その救いに与れないのではないかと心配する人が多くいたのです。

 

 *生死を越えた主の再臨の時に、信仰者達が受ける恵み

既に亡くなった信仰者達は救われないという彼らの思い込みによる嘆き悲しみは、福音の恵みを知らされずに希望を持てない人、主イエスを信じない人達のすることだとパウロは教えます。14節にあるように、主「イエスが死んで復活されたと信じているわたしたち(信仰者)」は、イエス様を死から復活させてくださった「父なる神様」が、イエス様だけでなく、イエス様を信じる者達も復活させてくださるのだと、パウロは証ししています。従って、主の再臨の時には「生死」は関係ないわけです。主の再臨の時に、既に死んでいたら、イエス様を復活させてくださった神様が、その信仰者をも復活させて「再臨の主」に出会わせてくださる(16節)し、その時に生きている信仰者は、生きた状態で「再臨の主」に出会える、しかも、空中に引き上げられ、雲に包まれ、とあります(17節。※「空中」は、神様の御座所である「天」に近づけられることを意味します。雲は、神様の栄光や神様の守りを表現しています)。生死を越えたイエス様から「いつまでも共にいたい」と愛される存在となって恵みを賜るからこそ、信仰者は、死の恐怖から解放され、天から降りてくる「救い」=「再臨の主」を希望の中で待ち望めるのです。生きている間に、主への信仰告白をして洗礼を授けられて「主の証し人」として歩んだ者は、先に召天した信仰者と共に、「再臨の主」に出会い、「神の民」として迎えられる希望が神様から保証されているのです!

9月2日の説教要旨 「世の終末と私達の希望」 平賀真理子牧師

ダニエル書7:13-14 ルカ福音書21:20-28

 

 はじめに

今日の新約聖書の前半は、イエス様のエルサレムについての預言です。神の都と呼ばれたエルサレムが恐ろしい状況で滅亡するいう内容です。しかし、これは、聖書で証しされている神様が「御自分の気分で都を滅ぼす」わけではありません。神様は、ユダヤ人を「イスラエルの民(神の民)」として、選び、愛し、育まれました。そして、約2千年前に、「今だ!」ということで、御自分の御子イエス様を救い主として、この世に送ってくださったのでした。それも、「唐突に」ではなく、ずっと前から「神の民に救い主を送る」という預言を預言者達に授けていました。

 

 前に預言され、後に実現されるに至る「神様による人間の救い」

特に、旧約聖書のイザヤ書以降には、そのような預言が幾つか含まれています。旧約聖書にいつも触れていたのが、ユダヤ教指導者達です。祭司長や律法学者達です。彼らが居るのがエルサレム神殿を中心とするエルサレムという都です。ここで、イエス様が「救い主」として受け入れられれば、このエルサレムは「神様による人間の救い」を受け入れたことになります。そして、それまで人間が受けていた「この世の長サタンの支配」から抜け出て(救われて)、神様がユダヤ人を起点の民として、世界中の人間に御言葉を伝え、全ての民族がそれを信じ、この世の皆が神様の支配を受ける「神の民」となるように、神様は御計画されたのです。

 

 エルサレムのユダヤ教指導者達の頑なな拒絶

ところが、エルサレムのユダヤ教指導者達はイエス様を最初から排除しようとしたことが、ルカ福音書の記述から読み取れます。彼らは、民衆の支持を失わせようと論争を仕掛けましたが、イエス様の「神の知恵」溢れる答えによって負けてしまいました。それでも、彼らはイエス様を「神の御子・救い主」とは認めませんでした。また、それ以前に、イエス様は、憐れみ深い神様の御心を示していないという彼らの罪を指摘なさったこともあって、彼らは悔い改めず、イエス様を拒み続けました。「神の救いの御手」を拒んだ町には、神の裁きが徹底的に降る定めです。

 

 イエス様を救い主として受け入れないという罪とその罰

ユダヤ教指導者達は、目の前の「ナザレ人イエス」を救い主だと受け入れなくても大したことにはならないと油断していたのでしょう。ところが、実は、イエス様の到来で、神様の出来事である「人間の救い」は、既に始まっていました!彼らはそれを見逃しました!更に、指導者の決定的な判断ミスで、「身重の女とか乳飲み子を持つ女(23節)」という社会的弱者が大変苦しめられることになるとイエス様は預言なさいました。本来は、弱者を憐れむ神様がそうしないほど、神様の御子に逆らう罪は非常に重く、その罪への罰を「神の民」は必ず受けなければならないのです。

 

 神様から受ける罰=エルサレム滅亡は、実際に起こった!

神様からの罰を受ける預言は、数十年後に実現しました。紀元66年から70年まで「ユダヤ戦争」となり、エルサレム神殿を含むエルサレムの町全体は、ユダヤ人が「異邦人」と蔑んだローマ人達の強力な軍隊により、徹底的に滅ぼされました。その後、20世紀に入るまで約1900年間、エルサレムは異邦人達に支配され、ユダヤ人達は心の故郷エルサレムを回復できない「離散の民」として、世界中をさまようことになりました。

 

 天変地異の預言が例えていることと私達が持てる希望

更に、所謂(いわゆる)「終末」の預言として、エルサレム滅亡後には、天変地異が起こり、天体や地上や海上で大きな異変が起こるために、神様の御業を知らない「諸国の民」は「なすすべを知らず、不安に陥る(25節)」と、主は預言なさいました。しかし、「そのとき、人の子(救い主なるイエス様)が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、人々は見る(27節)」と続きます。救い主イエス様と出会った時、私はそれまでの価値観が全く覆され、心の中で「天変地異が起きた」ように感じました。天変地異の預言は、福音との出会いで、以前の心の体系が大いに揺さぶられる経験を例えていると言えるかもしれませんし、それだけではなく、「終末の出来事」として実際に起こることかもしれません。ただ、信仰者はその出来事の有無を心配することから解放されています。イエス様を救い主と信じることによって罪を贖われた私達は、どんな状況でも神様につながっているという希望を持ちつつ、主の来臨を待っていられるからです!

2月4日の説教要旨 「神の国が来る」 牧師  平賀真理子

ダニエル書2:44 ルカ福音書17:20-37

はじめに

今日の新約聖書箇所は、前半=20節-21節が、イエス様に反対するファリサイ派の人々からの質問への答えということで述べられた御言葉で、後半=22節―37節は、イエス様を信じて従う弟子達への御言葉です。イエス様を中心に2つのグループは、全く逆の立場にありますが、イエス様は、各々の理解度や心の向きに応じてお話をなさいました。

その中心にある事柄、つまり、イエス様が一番大事になさっていたことは、天の父なる神様のことを証しし続けることです。今日の箇所もまさしく、「天の父なる神様が、人間に対して御計画してくださり、人間にくださるはずの『神の国』」について語られています。

 

ファリサイ派の人々の「救い主待望」の内容

ファリサイ派の人々はもちろん「救い主」を待ち望んでいましたが、彼らのイメージする「救い主」は、「王様」のイメージです。きらびやかに、派手に登場し、自分達の国をあっという間に建てられるイメージであり、それは大変この世的で、人間的な考え方の範囲を越えられないものでした。彼らは、自分達の想像どおりの「救い主」によって、自分達が優遇される「神の国」が来るものだと思っていたのです。

当時、ユダヤ人達は、異邦人であるローマ人達の支配に苦しめられていたので、「救い主」の登場を一刻も早く望んでいました。だから、待ちきれないという思いで「いつ?」と尋ねたのです。

 

「神の国は見える形では来ない。(中略)あなたがたの間にある」

しかし、ファリサイ派のイメージする「救い主」や「神の国」とは、全く異なる「救い主」「神の国」が来るということをイエス様は御存じだったのです。だから、ファリサイ派の「いつか?」という問いには直接お答えにならずに、そもそも彼らの言う「神の国」の姿の想定がまちがっていることを気づかせようとなさっています。「神の国は見える形では来ない。(中略)あなたがたの間にある。」と聞いて、神の国は地理上に存在するのではなく、一人一人の人間同士の関係性において神の国は成り立つ、だから、一人一人が神の民としてふさわしくあらねばならないというふうにも解釈できると思います。

しかし、もっと深く読み取ることが出来ます。イエス様に反対しているファリサイ派の人々に向かい、「実は、あなたがたはすでに『救い主』であるわたし(イエス様)と同席している、待ち焦がれていた『神の国』の始まりの中にあなたがたは入れられているのです」という内容が語られているのです。彼らが理解するかしないかに関わらず、神様の御計画が彼らに押し寄せていることを、イエス様は意味しておられるのです。

 

「神の国」の恵みを既に知っている弟子達に、主が更に望むこと

一方、弟子達は「救い主」であるイエス様の招きを受けて従っているのですから、彼らは「神の国」の始まりの中に入れられていることを理解しているはずです。その前提に立った上で、イエス様は「神の国」について、近い将来の出来事に備えて弟子達を教えようとなさいました。

人間のイメージでは「栄光の姿」のはずの「救い主」が、近い将来に「苦難の僕」として十字架にかかることは、いくら弟子であっても、つまずきの石となりかねないことをイエス様は見抜いておられました。しかし、弟子達は御自分がこの世を去った後、この世に「神の国」を広めるための働き手となってもらわなくてはなりません。弟子達が「主の十字架」により、「神の国」がこの世に来るという「神様の御計画の成就」を信じられなくなっては困るのです。その先に、主の復活があり、その後に「主の再臨」が御計画されていることを弟子達は信じ続けていかなくてはならず、それに備えて、イエス様は教えておられるのです。

 

「人の子」=「再臨の主」によって「神の国」は完成する!

後半の「人の子」とは、イエス様が再臨の主として来られる時の御自分を指す言葉です。主と共に居て「神の国」の恵みを知った弟子達も、十字架、復活、昇天という一連の御業の後、主の再臨を信じて待つという忍耐の時を過ごさねばならないことを、主は教えてくださっていたのです。必ず来る「主の再臨」に備え、私達は、人の言葉に惑わされず、いつどこで主の再臨の時を迎えてもいいように、主の約束を信じ、求め続けましょう!再臨の主によって「神の国」は完成するのです!

5月7日の説教要旨 「主は復活と命」 牧師 平賀真理子

ダニエル書1213 ヨハネ福音書111727

 はじめに

今日の新約聖書箇所は、死んで4日も経ったラザロという男をイエス様がよみがえらせた話の一部から与えられました。この話は、ヨハネによる福音書だけに記された話です。ラザロには、マルタとマリアという2人の姉妹がいて、マリアは、主の十字架の前に、その死を予感して、生前のイエス様に香油を塗った女性として知られています(マタイ26:6、マルコ14:3、ルカ7:36)。また、ルカ福音書10章38節からの段落では「マルタとマリア」と言う小見出しで、対照的な行動をする姉妹としても描かれています。

 イエス様に愛されたラザロ達

ユダヤ地方のベタニア(エルサレムから約3㎞)に住んでいた、この3人の兄弟は、これ以前に、イエス様と良い交わりをしていたと思われます。2人の姉妹がラザロの病気を主に報告する際に「あなたの愛しておられる者が病気です。」と言っているからです。しかし、イエス様は、ラザロの出来事は「神の栄光」のためであるとおっしゃり、すぐには出発されませんでした。一行がベタニアに到着した時には、ラザロは既に死後4日も経っていました。そこで、イエス様を先に出迎えたマルタがイエス様と交わした会話が、今日の箇所です。

 マルタの言葉にならない願いを汲み取り、かなえてくださる主

兄弟を失ったマルタは、イエス様がそばにいてくださったら、兄弟は死ななかったでしょうと、その御力を信頼しています。しかし、次の「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださる」とは、一体どういう意図で言ったのでしょうか。それは、次のイエス様の言葉から理解することができます。「あなたの兄弟は復活する」(23節)という御言葉です。人の心を見抜くイエス様が、マルタの心に秘めた願い「今からでも遅くないなら、神様に願って、ラザロを生き返らせてほしい」という、マルタの心の底にある思いを汲み取ってくださったのでしょう。主と良い交わりを重ねてきた この姉妹の思いをかなえるために、この後に働いてくださることを予め知らせておられるのだと読み取ることができるでしょう。

 「復活」について

主が深い憐れみによる御言葉をくださったにもかかわらず、マルタは、その意味をすぐに正しく理解できませんでした。「終末の日に、死者がいっぺんに復活する。」というのが、ユダヤ人の常識でした。ユダヤ人達は伝統的に「死んだ者が生き返る」ということにあまり関心がなかったようです(今日の旧約聖書箇所は、「死者の復活」を述べた、数少ない箇所の一つです。)。従って、「ラザロが生き返るのは終末を待たねばならない。」とマルタは考えていて、イエス様の御言葉が自分達の身にすぐに実現するのだとは全く期待していなかったでしょう。

さて、一度死んだ人間がどうしたら生き返るでしょうか。それは、命を取り去ることのできる御方が、同じように、命を与える権限を持って、その人に働きかけるという行為がなされなければなりません。その権限を、神の御子であるイエス様が持っているので、「わたしは復活であり、命である」とおっしゃることができ、しかも、御言葉のとおりのことが、ラザロを通して起こったのです。

「わたし(イエス様)は復活である」という中の「復活」とは「立ち上がらせる」という意味が原語にはあります。「死んだ人間を死の世界から立ち上がらせる、生き返らせる力がわたしにはある、その権限を持っている」ということです。

 「命」について

「わたしは命である」とは、「命を生み出し、与える権限がわたしにはある。」とイエス様が宣言なさったわけです。聖書では、この世のすべてのものに命を与えられるのは、神様だけというのが大前提です。その創造主なる神の御子だからこそ、イエス様は、死んだ人間に再び命を与えることがおできになるのです。

また、生物学的な「生」と「死」を越えた次元で、聖書では、「命」がある状態とは「神様と正しい関係にある」状態だと考えます。イエス様を救い主と受け入れて信じるだけで、罪ある人間が神様と繋がることができ、「永遠の命」の状態に入れられるのです!マルタはイエス様の御力の偉大さを「知って」いましたが、イエス様が最終的にマルタに確認なさったのは、イエス様が命をつかさどる神様の権限を持つことを「信じるか」ということでした。マルタのように、私達も御子イエス様への信仰を成長させていただけるよう、聖霊の助けを祈りましょう。

11月13日の説教要旨 「悪霊を追い出す力」 平賀真理子牧師

ダニエル書52228 ルカ111423

 はじめに

今日の箇所ではまず、イエス様が悪霊を追い出したことによって、口が利けなかった人が、口が利けるようになった奇跡が記されています。そして、群衆、その背後にいる反対勢力からの中傷と要求に対してのイエス様の御言葉が語られています。

 「ベルゼブル」

イエス様の御力がどこから来るかを反対勢力の人々は問題にし、その源は「ベルゼブル」と中傷しました。私達には耳慣れない「ベルゼブル」は、元々はユダヤ人に敵対してきたペリシテ人の町で崇められていた神々の一つだったようです。ユダヤ人の間では、いつの間にか、「異教の神」から変化し、「悪霊の頭」の名前として認識されていたようです。私達は、悪霊の頭と言えば「サタン」という名が思い浮かびますが、ここでは、私達は15節にあるとおり、「悪霊の頭」と受け取ればよいでしょう。

 預言されていた「救い主」の御業への中傷と要求

イエス様が悪霊から苦しめられている人から悪霊を追い出すことをたくさんしてくださったことが、福音書には書かれています。これこそまさに、イザヤ書61章1節に預言されている「救い主の御業」の一つ「捕らわれている人には自由を」の実現です。だから、口の利けない人が、イエス様の御業ゆえに口が利けるようになったことは、その事実だけでなく、それが「救い主」の証しだと多くの人が思い至り、驚嘆しました。それ以上に危機感を持ったのが、ファリサイ派という反対勢力の人々です。イエス様の御力は「悪霊の頭」から来ていると中傷し、また、試すために「天からのしるし」と見せてほしいと要求したのです。

 悪霊と「悪霊の頭」は正反対の働きはしない

反対勢力の心根を見抜かれたイエス様は、彼らの中傷の矛盾点を指摘なさいました(17節以降)。ある悪霊が頑張って一人の人間を思いどおりにしているのに、そのボスの「悪霊の頭」が全く逆の働き(悪霊を追い出す)をして、悪霊の努力を無駄にするはずがありません。イエス様は、悪霊やその頭が、神様に対抗して人間を支配して悪の国を作ろうと働いていることをよくご存じです。この世の出来事(最近の世界情勢)をみても、一つの国が正反対の働きをする派閥の抗争によって、勢力を失います。悪霊の国「悪の国」も同じことが言えると、イエス様は教えておられます。

 ベルゼブルの力で悪霊を追い出すという論理は、仲間からも訴えられる 

おまけに、ファリサイ派の人々の中には、悪霊払いをしている者達もいたのです。イエス様ほど完璧ではなかったのでしょうけれども、いささか実績があったことが、イエス様の御言葉の御言葉からも読み取れます(19節後半)。同じように悪霊を追い出していて、それがすべて「ベルゼブル」からの力なら、イエス様を中傷するファリサイ派の仲間達も「ベルゼブル」の力をいただいていることになります。「そんなことを言われた仲間は納得しないでしょう。それなら、わたしの力もベルゼブルからの力ではない」とイエス様は論理的に結論付けました。

 「イエス様の御力は神様から来ている」⇒「神の国はあなたたちのところに来ている」(20節)

イエス様はファリサイ派の中傷が非論理的で、誤りであることを指摘なさいました。更に発展させれば、「イエス様の御力は神様から来ている」という結論になります!悪霊を追い出す御力は、「悪霊の頭」からではなく、「悪霊の頭」を悠かに凌ぐ「神様」からいただいている御力です。御自分の憐れみによって神の御力をいただける、これこそ、神様から遣わされた「救い主」にしかできないことです。その救い主イエス様が「神の国はあなたたちのところに来ている」と宣言してくださいました!そして、この世は、22節にある「強い人」としての「悪霊の頭」の支配から、23節にある「もっと強い者」としてのイエス様の支配へとすでに移っていることが宣言されています!

 「神の指」

ルカ福音書では、イエス様は「神の指で悪霊を追い出している」と言われたとあります。「神の指」とは、人間の手やその指のように神様が働かれる譬えです。恵みとしては、天地創造の御業(詩編8:4)、十戒を石版に記した御業(申命記9:10)等が挙げられます。一方、神様の御心に従わない人々への災いとして「神の指」が働かれたと言われることもあります。出エジプト記8:15、ダニエル書5章全体がその例です。神様の御心に従えば恵み、従わなければ災いを賜わるのです。

 イエス様に味方し、一緒に集めるとは?

福音を信じる者がすべきことは、イエス様に味方し、主を信じる者を集めること、即ち、信徒が一同に会し、主に礼拝を献げることです!神様が大変喜ばれるのです!私達は勝利者イエス様を信じ、勇気を出し、信仰生活を続けましょう。