「主の主権と主の憐れみ」 伝道師 平賀真理子

/nエレミヤ書18:1-10 /nローマ書9:20-24 /nはじめに エレミヤは紀元前7世紀後半から6世紀前半にかけて、主(おも)にエルサレムで活動した預言者です。預言者とは「神の啓示を受け、神の名によって語る人」です。エレミヤ書はエレミヤの「召命」から始まります。エレミヤは、生まれる前から神様に選ばれ、生涯、神様が定められた「預言者」としての人生を歩み続けました。しかしそれは苦難の連続でした。 /n預言の実現 エレミヤが生きた時代、イスラエルの人々は「主」である神様を崇めることを忘れる人々が多く、神様はエレミヤに、多神教の神々ではなく本当の唯一の神であるご自分に立ち帰るように、人々に伝えることを命令されます。しかし、目に見えない神様を畏れることをしなくなった人々には、エレミヤの言葉は単なる人間の言葉にしか聞こえなくなっていました。又、神に立ち帰らなければ「滅び」が待っているとの審きの言葉は、人々には受け入れられないものでした。彼は、孤独な道を歩まされることになります。エレミヤは預言者としての使命を果たして語り続けましたが、結果として、イスラエルの民は「バビロン捕囚」という、祖国を追われ、敵国に連行され、不自由な生活を強いられるという悲劇を目の当たりにします。神様の御言葉は、更にエレミヤに臨み、「主が選んだ一部の人間は70年後に再び故郷に戻れる!」と伝えられます。エレミヤを通して語られた主の預言は、敵国の王の、本当に思いがけない命令で実現するのです。 /n主の主権 「悔い改めよ。そうでなければ滅びる!」との預言は、バビロン捕囚という形で実現しました。しかしそれで終わることなく、その後、「苦境からの解放」という希望の預言を、神様はエレミヤに語らせ実現されました。つまり、「神様がこの世に主権をもっておられる」ことを明らかにされたのです。 今日の聖書でも、「主(神)」の主権がはっきり示されています。エレミヤは、陶工が、「気に入らない作品」を作り直す様子を見て、「陶工」は、人間を創られた神「主」の比喩であり、材料の「粘土」は、人間やその群れとしての比喩であることを、はっきりわかったのです。主は「陶工」が気に入らない粘土を壊すように、今や、不信仰・不従順のイスラエル民族を壊そうとしていることを警告し、民が「悪を悔いる」ならば災いを思いとどまること、逆に、御自分が建てた王国でも、「従わない」ならば、幸いを与える予定を変更する権利を持っていることを告げられました。「主」が、この世のすべてに対して主権をお持ちなのです。私達はこの「主の主権」を忘れすぎているのではないでしょうか。 /n主の憐れみ 「主」が預言者を通して、何度も警告して下さっていることが、実は、主の「憐れみ」によるのです。主は、ご自分の選んだ民(イスラエル)の中から、悔改めて従う者を再び故郷へ戻ることが出来るとの希望を与え、その約束の実現へと導かれました。 さて今、私達は、東日本大震災を経験して価値観の転換という歴史の転換点にいます。神様なしの人間的観点だけで物事を進めていくことの限界を思い知らされました。政治の混乱・科学の限界・自然へのかかわり方など、人間の思い上がりで間違った方向に来ていました。私達が受けたきつい試練を通して、初めて人間は自分達の愚かさ・悪さに思い至り、神様なしでやれるとの傲慢さに気付き始めているのではないでしょうか。 今日読んだロマ書には、ユダヤ人でない私達「異邦人」にも、信じる者には「憐れみの器」として、神の民として召し出して下さったことが記されています。今こそ悔い改めて神様に立ち帰る時、神様はエレミヤに語った希望を、私達にも語って下さいます。神様を知る私達は、これ迄の人間の傲慢に基づいた価値観に迎合することから解放されて、神様の前にある人間として謙虚に生きる姿を示す時ではないでしょうか。 異邦人の私達に救いの道を開いて下さったのは、我らの主・イエス様の十字架による罪の贖いと、栄光の復活によってです。そのことに感謝し、主の御前に義しく歩むことができるよう聖霊の助けを祈りましょう。

「実で見分ける」 牧師 佐藤義子

/nミカ書3:1-8 /nマタイによる福音書7:15-20 /nはじめに 私達は、自分に与えられた人生を生きていく上で、導き手が必要です。幼い時は、両親によって導かれ、成長に伴い幼稚園・保育園や、入学以降に出会う教師達、さらには人生の先輩ともいえる人達と出会い、アドバイスや指導を受けながら、今日の自分があるのではないかと思います。 しかし、それらの人々との出会いとは区別される出会い、自分の人生観や価値観に決定的な影響を与えるのは、自分に命を与え、自分を生かして下さる創造主である神様との出会いではないかと思います。旧約聖書に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしには何の楽しみもない』と言うようにならない前に、そのようにせよ</span>。」(コヘレトの言葉12:1)とあります。日本では神道や仏教の影響が強く、聖書が伝える創造主であり、イエス・キリストの父である神様のことを聞く機会が限られています。その中で、若い日を過ぎたあとでも、こうして生きている間に神様と出会うことが出来ることは、本当に素晴らしいことであり、大きな神様の恵みです。 /n偽預言者を警戒しなさい 今日の聖書は、神様のことを知った後の信仰の導き手について、イエス様が「偽預言者を警戒しなさい」と警告している箇所です。私達の社会でいえば、宗教的な指導者(キリスト教会では、牧師・神学教師など)の中に、にせものがいるという警告として聞きます。 旧約の時代には、神様が選び、神様の言葉を聞き、それを人々に伝える預言者がおりましたが、それと同時に偽(にせ)の預言者も存在しました。預言者エレミヤはこのように語っています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">万軍の主はこう言われる。お前達に預言する預言者達の言葉を聞いてはならない。彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ 主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る</span>」。 偽預言者は、人々に空しい希望を抱かせ、神様を信頼しない人々に「平和」を約束し、頑固に自分を変えない人々に「災いは起こらない」と語ります。神様は聖なる方・正しい方ですから、悪を憎み、神様への不従順に対しては怒る方です。しかし偽預言者は、人々の耳に心地良い言葉しか語ろうとしません。真の預言者であれば、聞く人によって語る言葉を変えたり、語る結果を恐れたりせずに、神様の言葉をそのまま伝えるのです。 /n偽ものの内側はおおかみ イエス様は、偽預言者を、羊の皮を身にまといその内側は貪欲な狼であると譬えました。12弟子を伝道に遣わす時にもイエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私はあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送りこむようなものだ</span>」と言われました。聖書で「羊」とは羊飼いであるイエス様に養われるキリスト者のことです。ここで「狼」と言われるのは、イエス様に従おうとする人々をまどわし、イエス様にではなく自分に人々の関心を向けさせ、自分の思想を広めたり、自分に利益がくるように人々を導く人達です。 /nいばらからぶどうは取れない イエス様は「ほんもの」と「にせもの」を区別するために、いばらとぶどう、あざみといちじくを引用します。似ていても一方は実を結ぶ食料となり、他方は障害物となること、又、同じ実を結ぶ木でも良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶこと。その事実から私達は導き手を判断せよと教えられます。マルティン・ルターも「善い義しい人が善い義しい行いをする。どんな場合にも人格が、あらゆる善い行為に先立ってあらかじめ善であり義でなければならない。」と言っています。 /n真の導き手 神様はヨシュアに「<span class="deco" style="font-weight:bold;">律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない</span>」と言われました。真の導き手は聖書の教え、イエス様の教えから右にも左にもそれない人です。又、キリストに結ばれキリストの恵みに与っている人です。さらには御霊の実(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)を結んでいる人といえるでしょう。 私達自身も実を結ぶ木、しかも善い実をならせる木として成長させていただきましょう。礼拝を通して信仰が養われていくように。又、日々の聖書や祈りを通して神様と交わる時を大切に、今週も歩みましょう。

「主の友と呼ばれる」 伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書41:8-19 /nヨハネ福音書15:11-17 /nはじめに  イエス様が十字架の受難を前に、弟子達に向かって語られた「イエス様の遺言」とも言える御言葉が、ヨハネ福音書の14章から16節まで記されていて、「告別説教」又は、「訣別説教」とも呼ばれています。  私達人間は、死が迫ると愛する家族や仕事の後継者に何を託していくかを考えるものです。私達の主・イエス様も同じでした。いえ神の御子だからこそ、そして神様から「人間の救い」という一番大事な使命を託されていたからこそ尚更、この世を去るにあたり、「神の国の拠点としての教会」をたて、神の国を広める使命が与えられている弟子達に告別説教をされたのでしょう。イエス様が地上を去らなければならなかった理由・・・。それは、私達人間の罪の贖いの為に、罪のない神の御子が十字架の受難を引き受けなければならなかったからです。 /n告別説教の背景  イエス様は「神の御子」であるにもかかわらず、天の御座を降りて、この世で人間として生きられました。それは神の御子のみが知る「神の国」「神の愛」などについて人々に知らせる使命を神様から与えられたからです。しかしこの世の人々は、イエス様を「神の御子」として受け入れないこと。そのような中で弟子達は、イエス様の後継者としてイエス様がたどられた苦難の道を歩まねばならないこと。ただしその際には生前のイエス様と同じように弟子達を助ける「聖霊」が共に歩んで下さること。そしてこの世に勝利されたイエス様に従えば、必ず神様の平安が得られること・・等々、イエス様は愛する弟子達に教えようとされました。 /nぶどうの木のたとえ 今日読んだ15章の最初に、イエス様は御自分のことを「私はまことのぶどうの木」と宣言され、その直後に、天の父なる神様が、まことのぶどうを育てて下さる「農夫」(この世を支配されている)と言われています。それは、父なる神様に本当につながっているのは、御心を知っている「神の御子」である自分しかいないことを宣言されていると思われます。イエス様は弟子達に、イエス様につながっているように命じられました。「つながる」とは、御言葉のもとで生きる、イエス様の掟を守る=神様がイエス様を愛した愛、イエス様が弟子達を愛した愛と同じ愛で、互いに愛し合う・・ことです。 /n神の愛 イエス様が教えられた「愛」は、「友のために自分の命を捨てる愛」です。イエス様は弟子達に、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」(15節)と言われました。その直後にイエス様は、人間の罪の贖いのために十字架上で死なれました。神の御子でありながらイエス様は、旧約での「主従関係」を越えて、弟子達と「友人関係」にあると言われたのです!  なぜなら、イエス様が弟子達に、「父から聞いたことをすべて知らせたから」と言われます(同上)。すなわち、2000年前の弟子達だけでなく、現代に生き、イエス様を信じる私達も又、聖書を通してイエス様がご存知のことをすべて知らされているゆえに、「イエス様の友・主の友」と呼ばれることがゆるされているのです! /n選び  もう一つ大切な言葉が語られています。「あなた方が私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」という言葉です。弟子達を最初に招いて下さったのはイエス様です。この世のすべてを支配し、良い方向へ導いて下さる私の救い主イエス様は、この世のすべてに主権を持っておられます。その方が、私に目を留めて下さり、救いの輪に私を招き入れて下さった!その恵みを、私達はただただ感謝して受けるのみです。 そして、神様の愛で、互いに愛し合うことです。私達のスタート地点は「礼拝」です。神様を讃美し、キリストを頭(かしら)とする共同体(=教会)で愛し合い、支え合い、仕え合いましょう。イエス様が教えられた「神の愛」が教会を満たして行くならば、私達は各々の人生に於いても、賜物を用いて、隣人に「神の愛」を広げていくことになるでしょう。救われた恵みを感謝しつつ、今週も聖霊の助けを祈ってまいりましょう。

「狭き門より入れ」 牧師 佐藤義子

/n詩編118:13-21 /nマタイによる福音書7:13-14 /nはじめに 今日の聖書は、マタイ福音書5章6章7章にわたる山上の説教の、最後のしめくくりの部分にあたります。イエス様がこれまで語られた教えを前提として、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">狭い門から入りなさい</span>」との、イエス様の招きの言葉です。 私達の社会で「狭き門」と言うと、競争率がはげしい受験などの場合に使われますが、聖書の「狭い門」は意味が全く逆で、人々に人気があり、人々が多く押し寄せるような場所は、ここでは「広い門」となります。 古代都市においては、自分達の町を守る為に、町は城壁で囲まれ、観音開きの扉によって開閉されていたそうです。日の出とともに開門し、日没には閉められたようですが、当時の人々は「門」と聞くと、おそらくエルサレムの町に入る大きな門と、それにつながる広い道と、大勢の人々が出入りしている情景を思い浮かべたことでしょう。 /n滅びに通じる門と、救いに至る門 イエス様の譬えによれば、人々にとってなじみの深い、広々とした道に通じる「大きな広い門」から入ることは、「滅びに通じる道」を歩くことになるので避けなければなりません。それとは反対に、「命に通じる門」は狭く、その道は細いとイエス様は言われています。 そして、私達の前にはこの二つの門(入口)しかありません。人は必ず、どちらかを選んで歩いていることになります。しかし入口が違えば行き着くところは、一方は「滅び」、他方は「命」の世界であると告げています。 /n「命」と「滅び」 命に通じる道とは、死んでも生きる「永遠の命」が与えられて神の国に入る道です。滅びの道とは、イエス様の譬え話に出て来る永遠に苦しむ陰府(よみ)の国につながる道です。それゆえにイエス様は、私たちに、狭い門から入るように招いておられるのです。私達人間は広い門、広い道を好みます。それは広い方が歩きやすいからであり、そこを通る人々が多ければ多いほど、(根拠のない)安心感をもつことができるからでしょう。 /n「神と富」 山上の説教に「神と富」の話があります。悪の力は、イエス様に対して誘惑したように、人間の本能に働きかけて、私達を欲望のとりこにしようと誘惑します。お金・地位・名誉・権力など、この世を生きていく為の強力な手段となり得るものを優先させようと自己中心、自己正当化(自己絶対化)への道へと誘導します。これが広い門から続く広い道を歩く人々の生き方です。「狭い門」に続く細い道とは、「神と富」の区分からすれば、神を選びとる道です。ここを歩く人々の規準は、人間の本能や欲望ではなく、神様に従う道、イエスキリストの教えに従う道です。さらに言うならば、イエス様の歩まれた十字架への道、迫害の道、試みの道でもあります。 /n「それを見いだす者は少ない」 イエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい</span>。」(16:24)と言われました。私達が、キリスト者になろうとする時、日本では少数者であるため迫害があります。今でも教会に行くことを家族から反対されるケースはありますし、家族や親族にクリスチャンはいないなどの理由で、洗礼を認めない家庭も多くあります。狭い門から入る者の最初の試練かもしれません。しかしどちらの門から入るかは、自分の命がかけられている問題です。狭い道を通る者は、これまで持っていたこの世のさまざまのことでふくらんだ荷物を捨てる覚悟・決断も必要です。イエス様の十字架への道は、イエス様ご自身さえ、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">父よ、できることなら、このさかずきを私から過ぎ去らせて下さい</span>」と祈られました。けれどもその直後に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">御心のままに</span>」と、神様に従う準備があることを伝えています。狭い門から入る者は、この祈りに示されるように、自分の思い・願いを神様に申し上げて祈りますが、しかし最終的には神様の御心・御計画を優先させ、すべてを神様に委ねて生きていきます。この狭い門と、続く細い道を「見いだす者は少ない」(14節)現実社会の中で、私達は、神様の導きによって命に通じる道へと招かれて歩むことが出来る恵みを感謝するものです。

「思い悩むな」 牧師 佐藤義子

/n箴言 30:7-9 /nマタイによる福音書 6:25-34 /nはじめに  今日の聖書は、山上の説教の中でも良く知られている箇所です。この中でイエス様は、天地創造主である神様を、「あなたがたの天の父」と呼んでいます。私達の信じる神様は、地上における肉親の父とは区別された、天におられる父・私達の全生涯における保護者・身元引き受け保証人です。 /n天の父  私達の天の父は、天地万物を造られ、太陽と月と星、空には鳥、陸には植物と動物、海には魚を造られ、最後に私達人間を造られたことが創世記に記されています。天の父は、すべてのものに命を与え、生かし、支配しておられます。多くの人達は「命は人間が造り出す」と考えていますが、もし人間が人間を造り出すことが出来るなら、子供が与えられない夫婦も、中絶する夫婦もいなくなるはずです。ところが現実はそうでありません。又、自分の命を自由に延ばしたり縮めたりすることは出来ません。それらすべてを考えますと、命を支配しているのは人間ではないことがよくわかります。命を与え、又、取り去るお方は、命の支配者である天におられる私達の父であることを、イエス様は聖書を通して私達に教えます。 /n思い悩むな  食べることや着ることは、私達にとって生活上、不可欠です。しかしイエス様は、それらについて「思い悩むな」と命じます。命がなければ食物は必要なく、体がなければ体をおおう着物も必要ありません。命と体が、食物や衣服よりも大切であることを示されたイエス様は、その命と体がどこからきたかを教えます。空の鳥を見れば、神様が鳥達の食物を配慮しておられるのを知ります。私達人間は、神様に似せて造られた存在です。鳥より価値のある人間に、神様が配慮しないことなどあり得ません。命を与えた方は、命に必要なものをご存知だからです。さらにイエス様は、「野の花を見よ」と言われます。野の花は自分から何かをするわけでなく、咲いても、その命は短く、やがては枯れて焼かれます。 しかし「花」は、人間の、きらびやかな衣服をもってしても、比べ物にならないほど天の父が着飾って下さっています。まして野の花より価値ある人間に対して天の父は、体に必要な衣服をも備えて下さるお方です。 /n衣食は異邦人が求めているもの 異邦人とは、神様を知らず、信ぜず、自分の力だけで生きていけるとする人達です。私達が衣食のことで思い悩むなら、天の父をもたない異邦人と同じだとイエス様は言われます。「思い悩む・思い煩う」とは、生活のことであちこちに心が向いて、喜びも感謝もない不安と心配に心を向けるという意味があります。衣食の悩みは、天の父のみわざについて悩むことであり、それは神様に期待しない、頼らないということです。 /n新しい生き方 天の父は、信じる者すべての全生涯にわたる保護者です。思い悩む者にイエス様は「信仰の薄い者達よ」と嘆かれます。イエス様は思い悩みから解放される道を示します。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる</span>」。(33節) 神の国とは神様が支配される国のことです。悪が滅ぼされる国です。私達は悪を憎み、嘘・偽りを私達のまわりから追い出しましょう。憎しみや敵意、裁きあうことを捨て、神の国にふさわしく、互いに愛し合い、許し合い、互いに重荷を負い合いましょう。更に、先週学んだように、愛の性質(<span class="deco" style="font-weight:bold;">忍耐深く、ねたまず、自慢せず、高ぶらず、礼儀を失わず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かず、不義を喜ばず、真実を喜ぶ</span>)を神様からいただきましょう。御霊の結ぶ実(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)が私達にも与えられるように、御言葉と聖霊の導きに従って歩みましょう。イエス様はさらに「神の義」も求めるように命じます。神の義とは、神様の目から見て「良し」とされることです。神様の御心にかなう正義と公平の実現です。私達はそれぞれに与えられている賜物と力を、生活の思い悩みで浪費するのではなく、神様が下さるものだけを日々受けて、喜びと感謝の生活が奪われないよう、今週の歩みを、祈りつつ歩んでいきたいと願うものです。

「最も大いなるもの」 佐々木哲夫先生(東北学院大学)

仙台南伝道所開設9周年記念感謝礼拝                     /n申命記6:1-5 /nマルコ福音書12:28-34 /nコリントの手紙12:31-13:13 /nはじめに 本日は三つの聖書の箇所を読んでいただきました。 この箇所について、一つは、イエス・キリストの言葉と旧約聖書を対比させながら見る、二つ目は、使徒パウロが語った言葉を見る、三つ目には、教育学者ペスタロッチの言葉を見る、その三つの側面から御一緒に考えていきたいと思います。 /n律法学者の質問 本日読んでいただいたマルコ福音書には、律法学者が登場します。彼は、イエス・キリストに質問をします。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。 旧約聖書は大変長い大きな書物ですが、その中で、どの掟が最も重要か、ひとことでいえば何か、と質問しているのです。この質問に対してイエス・キリストはすぐに返答をしています。それが12章の29節からです。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">イエスはお答えになった『第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』</span>。 イエス・キリストはこれに続いて、第二の掟も言っております。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない</span>。」そういう議論をしています。 /n律法の専門家 イエス・キリストは、律法の専門家の質問に対して、主を愛すること、そして人を愛すること、この二つにまさる掟はないのだ、と言い切ったのです。もし、私達がその場にいたら、一緒に議論に加わり、それでは、 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということは、具体的にどのようなことをしたら良いのですか?と質問したくなります。実は、律法学者もイエス・キリストに答えています。「先生、おっしゃるとおりです。「『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」と、彼は、真ん中の二つをまとめて「知恵を尽くし」と言い変えています。律法学者というのは、ものを考えて一生懸命神様に仕えようとしていた人ですから、「知恵を尽くして」というわけです。 では私達の場合はどうか。それぞれの持ち場において最善を尽くすということだと思います。が、私達は律法学者のように、自分が都合のよいように言い換えるのではなくて、イエス・キリストが引用した旧約聖書を見てみたいと思います。 /n旧約聖書の申命記には・・ 申命記6章の4節以下には、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っている時も道を歩く時も、寝ている時も起きている時も、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。</span>」とあります。 あなたは、いつも、この言葉を語り聞かせ、自分自身も額(ひたい)につけ、家の門の柱にも書き記しなさいと言っている。神の言葉をいつも身近に置いておく。神の言葉から離れてはならないというのです。(今でも、ユダヤ人はそれを忠実に守り、祈る時は、カバンから四角い黒い小さい箱を出して、この申命記の言葉が書いてあるものを額につけたり腕にまいたりしています。又、同じような四角い箱を家の門に張っています。自分達は神様の言葉から離れない、ということを文字通り今日に至るまでやっています)。 神の言葉をいつも身近に置いておく。神の言葉からは離れないということを、イエス・キリストは、一番最初の大事な掟として語った。そして続いて「<span class="deco" style="font-weight:bold;">自分だけではなくて隣人をも自分のように愛しなさい</span>」と、語った。律法学者もイエス・キリストもこの言葉がレビ記19:18の引用であることを知っていました。そしてその言葉に、律法学者は同意したのです。(ルカ福音書では、この後、律法学者が「隣人とは誰か」と質問し、イエス・キリストの、あの有名な「良きサマリヤ人」の譬えが始まります。10:25-)。 さらにこの言葉に注目するならば、隣人を愛するだけではなくて、自分のように愛する。「自分のように」ということについては、考えなければならない大事なことが込められていると思います。 /n弟子達への継承 イエス・キリストと律法学者の問答を要約するならば、主を愛しなさい。神様の言葉から離れないでいなさい、そして隣人を愛しなさい、自分のように愛しなさい、ということになります。これが大事な掟なんだ、ということを言ったのです。そのことは、イエス・キリストと律法学者との問答だけではなくて、イエス・キリストの教えとして弟子達にも継承されました。しかもイエス・キリストの弟子達は、「イエス・キリストの十字架」をやがて目撃していきます。愛するということは、命がけの生き方になっていくのであります。 特にパウロは、主を愛すること、隣人を愛することについて、コリントのキリスト者達に、手紙の中でそのことをくわしく具体的に論じたのです。 /nコリントの信徒への手紙13章 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">預言する賜物をもっていても、知識的な能力があっても、完全な信仰をもっていても愛がなければ無に等しい。全財産を貧しい人々にほどこし、目立つ活躍をしたとしても、愛がなければ何の益もない。愛というのは、忍耐強く、情け深く、ねたまず、自慢せず、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかず、不義を喜ばず、真実を喜び、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。</span>」パウロは手紙の中で、こう表現したのです。 愛というものをどうにか説明しようとしてさまざまなことを表現しているのです。こんなにいっぱい話をして、何を言いたいのか、ひとことでこれを言うならば何だろう。パウロは、自分自身でもまとめています。8節を見ると、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">愛は決して滅びない。預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれよう。わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう</span>。」とあります。愛というのはすたれない。しかも「<span class="deco" style="font-weight:bold;">信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。</span>」と断じたわけです。どうして三つも立派な徳を挙げておきながら、愛が一番偉大なんだろう。「信仰」や「希望」を押さえて「愛」が一等賞とはなぜか。 /n「愛」によって、「信仰」も「希望」も確かにされる パウロは2節で、そのことについてすでに答えを出しています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無にひとしい</span>」。 山を動かすほどの完全な信仰を持っていたら、もう十分かと思うと、そうではなく、愛がなければ無に等しいといっているわけです。逆に言うならば、愛によって信仰は確かにされる。愛は、信仰をさらに確かなものにする。では、希望はどうか。コリントの手紙には希望については解説がありませんが、ローマのキリスト者達に宛てた手紙に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">希望は、わたしたちをあざむくことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです</span>」(5:5)とあります。私達の希望は、私達を裏切らない。なぜかというと、神の愛が私達の内に与えられているからだ。神の愛によって、愛があるから、希望は希望として私達の内に確かになる。希望も、愛によって確かにされる。信仰も希望も、愛によって信仰者の内に確かなものとされる。愛というのは、そのような意味で偉大なのだ、ということを、パウロは、イエス・キリストから教えられた愛を記して、その考えを継承している、と読み取ることが出来ると思います。 そのことを私達は聖書を通してわかる。しかし最後に考えたい三つ目のことは、私達はそのことをどのようにして実践することが出来るのか。私達は、本当に愛に根ざした信仰なり希望なり、その愛自体を実践することが出来るのかということです。そこで、これまで旧約聖書やイエス・キリストの言葉やパウロの言葉を概観してきましたので、もう少し時代を経て、近代の教育学者のペスタロッチという人の言葉を引用しながら考えたいと思います。 /n人は、神から恵みによって愛が与えられるゆえに・・ ペスタロッチという人は、「教育の父」と呼ばれた人で、次のようなことを語っております。「教育の根本は愛である。愛されて育つ子供は人を愛し、愛を分かち与える喜びを知り、生涯にわたって心豊かな人生を創造し続ける。同じように、人は、神から恵みによって愛が与えられるゆえに、人を愛することが出来る。そして、神を愛することが出来るのだ」。 どういうことかというと「愛を分かつこと・実践することが出来る人は愛を知っている人だ。自分が愛されることを知っていなければ、人を愛することは出来ない。だから、教育というのは、根本は愛が必要なのだ。 愛されて育つ子供は、人を愛することが出来る。そして豊かな人生を生涯にわたって送ることが出来るのだ」。 /n愛の実践 そうはいっても、手遅れだと思う人がいるかもしれませんが、しかし、そんなことはない。神から愛が私達に与えられているから、私達は人を愛することが出来るし、神を愛することができるのだ。すなわち、神から愛が与えられるからこそ私達は愛を知り、愛を実践することが出来るのだ。この愛を、イエス・キリストも、パウロも、ペスタロッチも、偉大なものとして私達に語り聞かせてくれているのです。 ここまでいろいろ教えられるとするならば、私達は自問自答したくなります。「信仰者は何を大事にして生きたら良いのか?」 それは、「愛」、のひとことに尽きるでしょう。 信仰者の集まりである教会は、何を第一として歩むべきか。 それも又、「愛」であります。  それを実践し得る。ある意味で、この世に於いて、まことの愛を実践し得る。それは、「神の愛を知っているわたしたちキリスト者」である、といっても過言ではありませんし、それは、教会の大きな働きの礎(いしずえ)だということを覚えたいと思います。

「聖霊降臨の恵み」伝道師 平賀真理子

/n申命記4:23~24・35~37 /n使徒言行録2:1-13 /nはじめに 聖書の後ろにある「用語解説」で「聖霊」を調べますと、「聖霊」とは「神の霊」の別の名とあります。「神」とは聖書で証しされている神様のことで、「聖霊」はその神様の霊のことです。 イエス様の人間としての歩みは聖霊によって始まり、神の国の宣教を始める「公生涯」も洗礼直後に聖霊が降るところから始まっています。更に弟子達にも「聖霊」が働き、彼らを導き助けてくれることを、イエス様ご自身が預言されています(参照:ヨハネ福音書14章・16章、使徒言行録1:8)。その預言通りのことが最初に、実際に起こった!それが、「ペンテコステ」の出来事です。 /n神様の恵み 神の霊である聖霊が、一人一人に降(くだ)る。そして、私達のそばに来て、共に歩んで下さる。神様の意志に背き、神様に従うことを拒んで、罪の世界で苦しんでいた人間にとって、それはまさしく「神様の恵み」であり、奇跡的な出来事でした。イエス様の十字架による「罪の贖い」と、イエス様の復活に示される「罪への勝利」がなくては、そのような恵みはあり得なかったのです! /n福音宣教のために 今日の聖書では、イエス様を信じる者達が一つになっているところに「聖霊」が降りました。神様からのエネルギー、人間への愛の強さを思わせる、ものすごい音と共に「聖霊」が降り、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と記されています。「炎」は、神様の人間への激しい愛の強さ=「熱情」を表す表現と言えるでしょう。又、「舌」は、いろいろな国や地域の言葉、母国語と読み取れます。それぞれの弟子達が、「神様の救いの業」の一部を担う役割を与えられ、「神の国の福音の宣教」を全世界に広げる役割を与えられたと取ることができます。 /n2000年前から今日まで  この出来事は、2000年前に起こった、私達に関係ない出来事ではありません。聖書で述べられているように、イエス様を救い主と告白するのは、聖霊の御力をいただいて、初めてなされることです。そこに神様の働きが示されるからです。聖霊を受けて、迫害にも負けずに、福音を伝えようとする人々が起こされ続けたからこそ、遠いパレスチナから 日本の、現代に生きる私達の人生のそれぞれの時期に到達したのです!これが単なる偶然の積み重ねでしょうか。そうではありません。イエス様がこの地上を去られてから後、福音伝道をずっと導いてこられたのが「聖霊」です。その聖霊の恵みを受けて、私達は、信仰の喜びを得る ことができた(できる)のです! /n聖霊を受けるにふさわしくなるには? 聖霊を受けたいと願うならば、神様が大事だと思うことを、自分も大事にすることです。神様は、御自分が造られた人間が、本来の姿を取り戻す・・つまり罪の世界に生きている人間が、神の国の民として救われることを望んでおられます。そのために福音が示されました。私達は、福音=「救い主イエス様の御言葉と御業」が、自分自身にとって大きな恵みだということを知ることが大切です。そのために週の初めの礼拝と、日々聖書を読み、祈ることです。それによって私達は、実は、聖霊をいただくための準備をしているのです。聖霊降臨の恵みは2000年前の弟子達だけの特権ではなく、準備をもって信じて祈り求める者なら誰でも、(神様が決められた)その時に、受けることができます。イエス様の愛のまなざしが、信じる者に注がれています。福音の証し人として生きるキリスト者に、いつでも聖霊の助けを求める道が用意されているのです。

「命と息とを与える神」  牧師 佐藤義子

/nイザヤ書42:5-9 /n使徒言行録 17:22-31 /nはじめに  使徒言行録は、イエス様の復活後、弟子達がどのように伝道して福音が拡がっていったのか、ルカによる福音書の続きとして書かれています。前半では、主に弟子のペトロ達の伝道が中心になっていますが、後半は、パウロの伝道活動が中心となっています。パウロは熱心なユダヤ教徒で、イエス様を信じるキリスト教徒を迫害していましたが、ある日、迫害に向かう途上で突然天からの光が彼の周りを照らし地に倒れました。その時、天からイエス様の声を聞いたのです(参照:使徒言行録9章)。パウロは三日間目が見えず、食べることも飲むこともしない時を過ごしました。このイエス様との出会いによって、迫害者パウロは180度変えられ、熱心なキリスト教徒となり三回の伝道旅行を行ないました(聖書の最後の地図参照)。 今日の聖書は、第二回目の伝道旅行中、アテネでの出来事です。 /nアテネでの伝道 パウロの時代のアテネは、かつての繁栄は過ぎ去っていましたが、まだ、ギリシャ文化の中心地でした。18節によれば、人々が集まる広場には、エピクロス派やストア派の哲学者たちが集まり、議論の場となっていました。パウロはそこで福音を語りました。人々は、その内容をくわしく吟味する為、パウロをアレオパゴス(評議所)に連れて行きました。そこで語った内容が今日の聖書箇所で、アレオパゴスの演説として良く知られています。 パウロは、アテネの町におびただしい偶像があるのを見つけ、その中に「知られざる神に」という祭壇を見つけていましたので、アレオパゴスの真ん中に立ち、「あなたがたが知らない神様について、私がお知らせしましょう」と、語り始めました。パウロはこの説教で、三つのことを語っています。 /n神は、天地の創造主・支配者、人間に命と息とすべてを与えられた。  第一に、彼らの知らない神とは、世界とすべてのものを創られた神であり、天と地を支配されている神であること。そしてこの神は、人間の手で作った家に住むかのように造られた祭壇や神殿は必要なく、更に、人間が神の為に何かをお世話するということも必要ないこと。なぜなら、この神は、すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えられる神であるからであり、私達人間が、この神に依存しているということです。 /n神が人間を創られたのは、人間が神を求め、神との交わりを持つため。 第二に、神のみわざは、一人の人から全地上に拡がった民族を造り、季節を定め、国々に境界線を定められました。神が人間を創られたのは、人間が神を求め、神との交わりを持つ為でした。神は私達人間から遠く離れているのではなく、すべての人間の心が、神の目の前にあり、人間が探し求めさえすれば、神を見出すことが出来るように造られており、人間が生き、動き、存在するのは、神のみわざです。 /n神は、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じではない。 第三に、人間は神に根ざしており、神の姿をいただいていること。このことを認める者は、人間の手で造った偶像を神として拝んではいけないこと。これらの偶像は、人間の技や考えでこしらえあげたものであり、神を求めるなら、偶像ではなく生きた神を信じるべきです。 /nパウロの結論 パウロは、人間はまことの神を見出すことは出来なかったけれども、神は御業を完成させるために裁きの日を定められていること。その日が来る前に神は、人間の誤りを赦して、すべての人を悔改めに招いておられること。神は、この世を正しく裁くために、御子・キリストを遣わして、死者の中から復活させたことで、このことを示されたこと。すべての人が、救い主として神から与えられているイエス・キリストに立ち帰り、御心にかなう歩みをするように!と、語りました。    「<span class="deco" style="font-weight:bold;">世の中に偶像の神などはなく、又、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、私達は、知っています</span>。」(コリント第一・8・4)

「安らぎを与える主」  牧師 佐藤義子

/n詩編95:1-7 /nマタイ福音書 6:5-15 /nはじめに 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである</span>。」   ここで言われている「疲れ」「重荷」は、当時の人々を苦しめていた律法を守ることと関係しています。イスラエル民族は、神様から選ばれた民、「選民」と言われます。民族の祖先にアブラハムを持ち、モーセの時代には、神様から十戒を初めとする「律法」を与えられた民族です。律法の民とも呼ばれ、彼らは律法を守ることによって、高い倫理性をもって生きてきた人々でありました。  しかし、イエス様の時代、律法を重視するあまり、さまざまな弊害も出ておりました。人々は日常生活の中で、律法を守りながら生きることの苦労を強いられていました。ユダヤ教の場合、律法の十戒は10あるだけですが、律法研究者達は、十戒を徹底的に守る為の細則をつくり、たとえば安息日の守り方については、歩くのは何キロまで、物を持つのは何グラムまで、怪我をしても手当はここまで、などと人々に教えました。そのように、神殿への供え物について、宗教的儀式について、すべては細かい規定に縛られていたのです。そして、それらを守らない者達には、「罪人」のレッテルがはられ、神の国に入ることは出来ないと考えられていました。  昔、日本でも、仏教や神道などの諸行事は、伝統にのっとって定められ、人々の生活を支配していました。決められたことをすべて順序に従って執り行うことは、時には犠牲を強いられ、重荷となることは想像できます。イエス様は、神様を信じて正しく生きていきたいと思っている人達が、現実には律法を守ることが困難で、そのことで疲れを覚え、重荷を負う人々に、律法から解放して、休息と平安を与えようと招かれているのです。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい</span>」   「くびき」とは、畑を耕したり車を引かせる為に、牛などの家畜の首に棒をはめる木製の道具で、家畜を服従させ、仕事をしやすくする道具です。イエス様は「私のくびきは負いやすく、私の荷は軽い」と言われます。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは柔和で謙遜な者だから</span>」  柔和な人とは、自分を神様の貧しいしもべとして、神様の意志に完全に従順に従う人、それゆえに、隣人に対しては怒りや傲慢な思いを抱かない人のことです。それは、ほとんど「謙遜(けんそん)」と同じ意味といえます。イエス様は小さい者や弱い者をも大切にして、怒りや傲慢さは全くなく、ゆるす忍耐をもって私達を教え、導いて下さるのです。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる</span>」  「そうすれば」とは、「イエス様のくびきを負ってイエス様に学ぶなら」、ということです。イエス様が約束される休息と平安は、この世の与えるものとは違います。なぜならそれは神様からくる休息と平安だからです。肉体の疲れは肉体を休めることで解決します。しかし、心の重荷、魂の重荷を下ろして休む場所は、この世にではなく、イエス様のところに用意されているのです。 私達は、これまで負ってきたくびき(この世の価値観、伝統、風習、常識・・)を、イエス様のもとで取り外し、イエス様のもとで休息した後に、今度は、イエス様が下さるイエス様のくびきをつけて、イエス様と共に新たな歩みを始めましょう。イエス様は柔和で謙遜なお方ですから、私達の歩む道は険しく辛くとも、イエス様から学ぶ時、そこにイエス様が下さる「安らぎ」が待っています。安らぎを与えて下さるイエス様の招きに、すべての方達が、喜んで応える者になりたいと祈り願うものです。

「み言葉と共に働く聖霊」  倉松功先生(元 東北学院)

/nエゼキエル書36:26-28 /n使徒言行録5:27-32 /nはじめに  本日は、ペンテコステの礼拝を共に守っております。ペンテコステというのは、五旬節(ごじゅんせつ)のことで、50番目・50日目という意味があります。いつから数えて50日目かというと、ユダヤの三大祭りの一つである「過越(すぎこし)の祭り」から数えて50日目です。五旬節も過越祭もユダヤ教のお祭りですが、キリスト教徒の私達にとっても大切なのは、キリストが十字架の上で死を遂げ、三日目に復活された・・この出来事は、すべてこの「過越祭」の準備の時から始まっており、この祭りと関係しているからです。 キリストが三日目に復活して昇天し、神のみもとにいらして御霊と共に三位一体の神であられるわけですが、このペンテコステの日に、「御霊(みたま)」が降(くだ)ったのです。これは、父なる神とキリストが、私達に聖霊を送って下さったのです。 どうして御霊が降ったのか。そのことが、今日、私達の思い起こすべきこと、記念すべきことだと思います。 /n過越の祭り 過越の祭りとは、イスラエルの人々が、苛酷な奴隷の労働を強いられていたエジプトから脱出する時のこと、神は、エジプト人を懲らしめなければイスラエル人のエジプト脱出は不可能であったことから、さまざまな災いを下しました。その最後の災いがエジプトに下された時、神は、イスラエル人に、小羊の血を鴨居に塗ることによって、その災いを避ける(過ぎ越す)ことを定められました。これによって、イスラエル人のエジプト脱出が可能となりました。この出来事を記念するのが過越祭です。 /n神の小羊 キリストは、弟子達と共に、過越の祭りを祝って食事をします。その後、父なる神から与えられている、救い主としての最後のわざ=十字架にかかり復活なさる=を遂行していくわけであります。 そのキリストが、ヨハネ福音書によれば「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と呼ばれています。エジプト脱出の時、イスラエルの人々が神の下した災いを避けるために犠牲となった小羊にたとえて、その後、新約聖書において、キリストのことを「神の小羊」と呼ぶようになりました。ヨハネの黙示録5章では、「ほふられた小羊」・「あなたは、ほふられて、・・ご自分の血で、神のために人々をあがなわれ、」(参照:6-14節)とあり、7章では、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである</span>。」(10節)と記されています。 キリストは、全人類の罪の贖い、罪の赦しの身代わりとしての「神の小羊」であるとヨハネ福音書は説いています。そういうわけで、「過越の祭り」は、キリストの救い主としてのわざと密接に関係しています。 /nみ言葉 以上のことを前提として、今朝の主題である「み言葉と共に働く聖霊」の、「み言葉」とは何かを考えます。 創世記冒頭に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神は言われた。『光あれ。』こうして光があった</span>。」とあります。ここで神が言葉を発しています。ここに明確に神の語る言葉があります。それを受けて、ヨハネ福音書の冒頭に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。</span>」とあり、更に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた</span>。」(14節)と丁寧に、キリストが神の言葉であると説いています。神の語る「言葉」は神であり、その「言葉」が肉(体)をとったのがキリストです。 したがってキリストを語る言葉、キリストを証しする言葉(説教)も、神の言葉であると、パウロは次のように言っています 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私達から神の言葉を聞いた時、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです</span>」  (テサロニケ2:13)。 /n今日の聖書  今朝読んだ聖書の箇所は、使徒言行録2章1節以下の、ペンテコステの聖霊降臨後に、弟子達が語った説教、小説教、弁明の最後の部分であり、大祭司の尋問に対するペトロの弁明、答えです。 その話の内容は三つあります。 /n第一は、旧約聖書の約束 第一は、イスラエル民族、族長達、とりわけ詩編やイザヤ・エレミヤ・エゼキエルなどの預言者達によって、神の救いの約束が語られています。旧約の預言、旧約の約束、イスラエルを悔改めさせ救うという、神の救いの約束が語られています。たとえば、イザヤ書61:1には「<span class="deco" style="font-weight:bold;">主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。 わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために</span>。」とあります。ここでは、救い主・キリストが語られており、伝道者のわざの中に聖霊が働くことを言っています。 ペトロはここで、旧約聖書においてどのように救いが約束されているかを語ります。たとえば私達が良く知っている、イザヤ50章―53章に記されている「苦難の僕」としての苦しみは、十字架にかけられるキリストの、救い主であることが語られています。 これが神の言葉として、神の言葉を語る人達が語ったものです。そしてそこで聖霊が働くものの一つであります。 /n第二は、神の約束がキリストに於いて実現された! 旧約で預言されていた「苦難の僕」としてイエス・キリストは十字架にかかって、お亡くなりになった。そして復活して昇天された。そのキリストが、実際に行なったキリストの救い主としてのわざ、救い主としての 生活・歩み。それが使徒達の語った二番目のことです。キリストが教えられた山上の説教とか譬え話などは、実は、キリストが十字架におつきになり死んで復活された・・そのことなくしては実際には起こらなかった。キリストの死と復活が、私達にとってどういう意味を持っているかが、譬え話であり山上の説教であるわけです。ですから、キリストの十字架と復活なしに、山上の説教を理解することは出来ません。たとえば、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたは地の塩・世の光である</span>」と言われた時、その根拠は、キリストが、私達一人一人の為に十字架におつきになり、そのキリストが持っておられる「救いのわざ」によって保証されています。どんな身分の人でも、どんな職業の人でも、「キリストの十字架の苦しみと復活という救いのわざ」に与って(あずかって)います。与ることが許されています。救いのわざから見れば、全ての人は、地の塩・世の光である。こういうわけです。何か良い業をしたから、地の塩・世の光であるわけではありません。キリストがおっしゃった言葉の背後には、キリストそのものが一人一人に与えられています。キリストの、救いのみわざがあるから「あなたがたは地の塩・世の光である」と言えるのであり、キリストが保証したわけです。キリストのみわざ、キリストの救い主としての歩み、これが、御霊が降り、御霊が働く神の言葉の内容の二つ目であります。 /n第三は、「キリストの証しを語るみ言葉」を確信させる聖霊 三つ目は、福音(キリストによる救いの出来事・事件)を私達に悟らせ、その言葉を私達に確信させる=それを信じる、信じる気持が起こる、告白をする。それを受け入れさせる力、働きをする聖霊です。これは、私達の力ではありません。信じようと思って信じられるものではありません。何度も何度も繰り返し神の言葉を聞くことによって、私共は信じるように持っていかれる。そこに促されていく。これは私共の力ではなく聖霊の働きであります。 パウロは、神の、キリストによる救いを宣べ伝えるために「<span class="deco" style="font-weight:bold;">十字架に付けられたキリスト以外には何も知るまいと心に決めていた</span>」(1コリント2:2)ほどです。又、「このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖い(あがない)となられた」(同1:30)と言っています。 ところがそのパウロは、復活について、「キリストが復活しなかったのなら、私達の宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」と言っています。これも、キリストが復活したことによって保証されています。あるいは、キリストの十字架と復活を離れては福音はない。ほかに福音があるわけではない。ということもパウロは言っています。 /nみ言葉と共に働く聖霊  第一に、聖霊が共に働く御言葉は、神の、旧約聖書における約束・預言です。そして第二に、旧約の約束が実現された福音です。そして第三に、その福音を私達に悟らせ、受け入れさせ、告白させる。 これらの三つの「み言葉」と共に働く聖霊によって、教会は生れ、つくられました。今後もそのようにして、教会は形成されていくでしょう。 福音とはキリストそのものであり、キリストによる救いの出来事が事件となりました。そのキリストの十字架と復活を明らかにしてゆくのが聖霊です。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない</span>」とパウロ自身が告白しています。 旧約の預言や約束、キリストの救い主としてのわざと共に、聖霊がどういう形で働くか、そのことを顧みてみたいと思います。聖霊について、キリストご自身が、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教える</span>」(ヨハネ14:26)と言われました。父なる神のもとから出る聖霊がくる。その聖霊が、キリストについて証しをする。証言する。しかもキリストは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">父なる神がキリストの名によって遣わす聖霊が、あなたがたにすべてのことを教える</span>」と語り、父なる神と、御子キリスト、そして聖霊の三つが一つであることを告げておられます(三位一体)。   教会暦では、ペンテコステの次の日曜日から、「三位一体の主の日」となります(たとえば今日は、三位一体後の第何番目の主の日というふうに)。そういう生活の中に、私達はいます。 主の日(聖日)の説教は、キリストの十字架の死と復活を語り、それを根拠にして、そこを後ろ盾にして、そこを元にして、キリストの教え、キリストのなさったさまざまな奇跡、弟子達が語っている聖書の言葉、そういうものが語られ、又理解されている、ということでなければなりません。 今日のペンテコステの礼拝を共に守ることがゆるされましたことを心から感謝いたします。