「あけぼのの光を待ち望む」 伝道師 平賀真理子

/n[マラキ書] 3章19-23節 19 見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。 20 しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。 21 わたしが備えているその日に/あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。 22 わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため/ホレブで掟と定めを命じておいた。 23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。 /n[ルカによる福音書] 1章67-80節 67 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。 68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、 69 我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。 70 昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。 71 それは、我らの敵、/すべて我らを憎む者の手からの救い。 72 主は我らの先祖を憐れみ、/その聖なる契約を覚えていてくださる。 73 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、 74 敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える、 75 生涯、主の御前に清く正しく。 76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、 77 主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。 78 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、 79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」 80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。 /nはじめに  本日は仙台南伝道所で礼拝が献げられるようになって6周年となりました。これまでの神様の御導きと御守りを、ご一緒に感謝致しましょう。これからも、イエス様の福音を正しく宣べ伝えていく群れとして歩んでいくことができますよう、ご一緒に祈っていきましょう。  礼拝室には立派な大きなリースがかかり、玄関には御降誕の情景が飾られ、今日は「待降節」の第一主日です。一年をイエス様のご生涯に当てはめて、その歩みを思い起こす為の暦(教会暦)がキリスト教の歴史の中で使われてきました。クリスマス、イースター、ペンテコステの三大祝祭日をはじめ、受難節など他にもあります。教会暦の最初は「待降節」から始まります。「待降」とは主イエス様のご降誕を待ち望むという意味です。 /nこよみの最初が「待降節」!  一年の初めの第一歩が、いきなり「御降誕」のお祝いではなくて「主を待ち望む、待降節」であることに深い意義を覚えます。「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得る為である。神が御子を世に遣わされたのは世を裁く為ではなく、御子によって世が救われる為である。」(ヨハネ3:16-17)との御言葉は、毎週「赦しの言葉」として、私達の「懺悔の祈り」の後に戴く御言葉です。イエス様は十字架の死から復活され死に打ち勝たれたので、私達は罪の世界に沈んだままではなくイエス様を通して神様との関係を修復していただけるようになりました。太陽の光から身をひそめれば、その暖かさの恩恵にあずかることはできないように、神様から離れた生活や考えのままでは神様の愛を存分に味わうことは出来ません。神様の豊かな愛にふさわしく歩むために、神様の「聖(きよ)さ」を我が身に帯びさせていただきたいと思うものです。レビ記に「私(神様)は聖なる者であるから、あなた達も聖なる者となりなさい。」(11:45)とあるように、「待降節」を「悔い改め」という準備期間として過ごしたいと思います。 /n洗礼者ヨハネ  神様は、御降誕の準備として特別な使命をもった人をこの世にお送り下さいました。洗礼者ヨハネです。預言通り(イザヤ40:3、マラキ3:1)「救い主到来の直前にやってきて、民の救済の為に主の道を準備する者」です。ある日、祭司ザカリヤに天使が現れ、子供が授かること、その子は救い主の為に準備する者となると告げられます。しかしザカリヤは信じなかったので口がきけなくなります。予言通り、まもなく妻エリザベトは身ごもり男の子を産みます。天使の言葉に従い名前を「ヨハネ」とつけた途端、ザカリアの口が開き(1:64)、神様を賛美し始めます。 /nザカリヤの預言(ザカリアの賛歌)  今朝の聖書は三つに分かれ、①「神様は、多くの預言者が言っていた通り、ダビデの子孫から救い主を立て、敵の手から自分達を救って下さる。それはイスラエル民族の先祖アブラハムと主が契約を結んだことを忘れずにいて下さる憐れみによるのだ」、②「自分の息子として与えられたヨハネの使命が神からの特別なものであることの誇りと感謝と喜び」、③「救い主の到来と平和へ導かれる希望」が語られます。 78節の「あけぼのの光」とはイエス様のことです。抑圧されて希望のない人々を「暗闇と死の陰に座している者たち」と表現し、そこに高い所から希望の光、即ち、救い主が訪れ、平和へ導かれる。それは、天から与えられる救いへの望みです。マラキ書では「義の太陽」(3:20)と表現され、「その翼にはいやす力がある。あなた達は牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る」とあります。昔、「人間は誰でも心に闇を抱えている。他人には言えない闇もある。しかしそれを抱えたままでも自分の闇を闇だと認識して、その暗さを暗闇として認識していればこそ、光の明るさが分かる。闇の暗さを感じなさい。それが深ければ深いほど、光のありがたみが分かる。」と説教の中で聞きました。闇を闇と認識できれば、その戦いは自分一人だけではなくイエス様が共に歩んで下さる。神の御言葉が光の武具となって助けて下さるのです。 (後略)。                   

収穫感謝日 「すべて守るように教えよ」 牧師 佐藤 義子

/n[イザヤ書] 44章1-8節 1 そして今、わたしの僕ヤコブよ/わたしの選んだイスラエルよ、聞け。 2 あなたを造り、母の胎内に形づくり/あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだエシュルンよ。 3 わたしは乾いている地に水を注ぎ/乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ/あなたの末にわたしの祝福を与える。 4 彼らは草の生い茂る中に芽生え/水のほとりの柳のように育つ。 5 ある者は「わたしは主のもの」と言い/ある者はヤコブの名を名乗り/またある者は手に「主のもの」と記し/「イスラエル」をその名とする。 6 イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。 7 だれか、わたしに並ぶ者がいるなら/声をあげ、発言し、わたしと競ってみよ。わたしがとこしえの民としるしを定めた日から/来るべきことにいたるまでを告げてみよ。 8 恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ/告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない。 /n[マタイによる福音書] 28章16-20節 16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 /nはじめに  アメリカの感謝祭(Thanks Giving Day)にならって、私達の属する日本基督教団は11月第4日曜日を収穫感謝日と定めています。アメリカでは11月の第4木曜日に全家族が集まってお祝いし、その週は学校や会社がお休みになります。(イギリスでは昔はLammas8月1日,今はHarvest Festivalを9月の第4日曜日に教会で守る。国によって日時の設定の仕方が異なる。)アメリカの感謝祭は、イギリスから船でマサチュセッツのプリマスに着いた最初のヨーロッパ人達が、原住アメリカ人に助けられながら、1621年、最初の収穫の時を迎え、この収穫を与えて下さった神様の守りに対して感謝を捧げようと自分達を助けてくれた原住アメリカ人を招待し、御馳走を作り、共に豊かな時を過ごしたことから始まりました。  10年以上も前になりますが、アメリカ人宣教師の話を聞きました。この原住アメリカ人など少数民族の人達は、現在、高い割合で貧困、病気、失業、アルコール中毒など社会の底辺に置かれており、彼らは現在「スープ・キッチン」といわれる慈善団体や教会の活動による無料の食堂で感謝祭の夕食をとるということでした。その宣教師は「感謝祭は、神に感謝するという同じ価値観のもとに集まり、感謝し、共に分け合う時である」と言われました。私達の教会も、「恵みを下さり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、私達の心を喜びで満たして下さる神様」(使徒言行録14:17)に感謝する時として共に集い、分け合い、生かされている命を互いに喜ぶ時として、礼拝後には収穫感謝愛餐会を計画しています。 ______________________________ /n大宣教命令 >> 「あなたがたは行って、全ての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 <<  本日の聖書は、イエス様の大宣教命令ともいわれるマタイ福音書の最後の箇所でもあります。マリア達からことづけを聞いた弟子達は、指示されたガリラヤの山に集まり、復活のイエス様からこの命令を受けます。 /n伝える者と信じない者  弟子達は復活のイエス様に会ってひれ伏しました。十字架の死を超えて神様によって復活された神の御子イエス様として礼拝しました。ところが聖書には「しかし、疑う者もいた。」という一文が挿入されます。  弟子達は復活についてイエス様から生前、聞いてはいました。しかし「マリアは・・この事を知らせた。しかし彼らはイエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても信じなかった。その後、・・イエスが別の姿でご自身を現わされた。この二人も行って残りの人達に知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。」(マルコ16章)。とあります。又、復活のイエス様が弟子の前に現れた時、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこでイエスは言われた。『なぜうろたえているのか、どうして心に疑いを起こすのか。』」(ルカ24:37-)と問われました。さらに疑っていたトマスに言われました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)。 /n「すべての民を弟子とし、洗礼を授け、教えをすべて守るように」  十字架と復活。それは死と甦りの信仰です。死とはそれまでの自分が死ぬことです。神様よりも自分の思いを優先順位の先頭に置いてきた過去の自分、罪ある自分がイエス様の十字架と共に死ぬ。そしてイエス様の甦りと共に新しい自分としてよみがえらされる。そのしるしがバプテスマ(洗礼)です。教会は、イエス様を神の子と信じてイエス様に従う決心が与えられたキリスト者の群れであり「信仰告白共同体」です。この信仰は、自分が努力して獲得したものではなく、求める者に一方的に恵みの賜物として与えられたものです。私達は受けるのみで、自分に何の功績もありません。  私達の伝道所は、この十字架と復活の信仰を弟子達から代々の教会を経て受け継ぎ、信じる者に洗礼を授け、「神様を愛し隣人を愛する」というイエス様の教えを守るように伝え続けます。

「わたしの兄弟達に言いなさい」 牧師 佐藤 義子

/n[詩篇] 16章7-11節 7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。 8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。 9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。 10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 11命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。 /n[マタイによる福音書] 28章1-15節 1 て、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。 2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」 11 婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。 12 そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、 13 言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。 14 もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」 15 兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。 /nはじめに  イエス様が十字架上で亡くなられ、アリマタヤ出身のヨセフの手により新しい墓に葬られたのは安息日に入る直前でした。土曜日の日没を迎え、安息日があけた日曜日の明け方に、二人の女性がイエス様の墓を見に行きました(1節)。マルコ福音書とルカ福音書では、女性達はイエス様の遺体に香油を塗る為とその理由を記していますが、マタイ福音書では墓を見にいったとだけ記されています。彼女達はまだ多くの人々が眠っている時間にお墓にやってきたのでした。そこで彼女達は驚くべき出来事に直面します。第一に大地震。第二に天使の出現とお墓をふさいでいた大きな石が転がされてお墓が開いたこと。第三に天使からイエス様の復活が告げられ、そのことを弟子に伝えるように命令を受けたことです。 /n人知を超える体験  私達の想像をはるかに超えるこれらの出来事に、彼女達はどんなに驚いたことでしょう。3節にありますように、天使達は稲妻のように輝く姿と、雪のように真っ白な衣を身につけており、それを見た墓の番兵達は恐ろしさのあまり震えあがり死人のようになった(4節)というのですから身体は恐怖と緊張のあまり硬直状態になったということでしょう。意味がわからない人知を超える体験は、私達人間にとって、まさに恐怖そのものです。 /n恐れと喜び  二人の女性は天使からイエス様が復活なさったという驚くべき知らせを聞き、さらにこの知らせを弟子達に急いで伝えるように命じられます。聖書に登場する天使はメッセンジャーという意味があります。神と人間との仲介者としての役割を担っています(マリアの受胎告知や婚約者ヨセフの夢での出現)。婦人達は恐れながらも大いに喜び、急いで走って行きました(8節)。イエス様の復活は恐れを伴う出来事であると同時に、弟子達(イエス様を信じる者)にとっては人生を左右する決定的な大きな喜びの出来事です。 /nさらに驚くこと  さらに驚くべきことが起こりました。女性たちの行く手に、復活されたイエス様が声をかけてこられたのです。二人はイエス様の足もとにひれ伏しました。イエス様は言われました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟達にガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(10節)。天使から命じられた言葉を、今度は復活されたイエス様ご自身から直接聞きました。 /nわたしの兄弟たち  イエス様はここで、ご自分の弟子のことを「兄弟」と呼ばれています。マタイ福音書12章49-50には次のようなイエス様の言葉があります。「そして、弟子達の方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。誰でも、私の天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。』」天の父(神様)の御心を行なうならば、兄弟姉妹と呼んでいただけることを私達はすでに学びました。でも・・ /n裏切っても?  でも、ゲッセマネでのイエス様の苦しみの祈りの時には三人の愛弟子達は眠ってしまいました(26:40-)し、その後イエス様を逮捕しに来た人々の前に弟子達は皆イエス様を見捨てて逃げ出しています(同56)。ペテロも三度も否んでいます。私達がイエス様の立場であったら、以前と同じ愛を弟子達に抱き続けることは困難です。兄弟と呼ぶ為にはいくつかの条件を必要としたことでしょう。しかしイエス様は二人の女性達に弟子のことを「わたしの兄弟達」と呼んでいます。本来なら赦され得ない者が赦されている。ここに十字架の愛を見ます。何と大きな恵みでしょうか。私達はこの恵みを受けるように招かれているのです。 /n復活とは死に対する勝利  聖書は、イエス・キリストの十字架の死と、三日目に復活したことを、すでに起こったこととして伝えています。死とは何か。全てを否定する力、虚無、絶望、深い闇・・人間の太刀打ちできない相手です。人間が最も恐れている死を、イエス様は神によってよみがえらされたのです。(後略)

「本当に神の子だった」 東北学院大学 佐々木哲夫先生

/n[申命記] 6章4-15節 4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。 10 あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、 11 自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、 12 あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。 13 あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。 14 他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。 15 あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。 /n[マルコによる福音書] 15章33-41節 33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。 36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。 37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。 38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。 41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。 /nはじめに  イエス・キリストは午前9時にゴルゴタの丘で十字架につけられ、午後3時に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びました。この言葉を聞きユダヤ人達は「預言者エリヤを呼んでいる」と言いました。預言者エリヤが天から降りて来てイエス・キリストを助けるのかと思ったようです。しかしイエスはやがて息を引き取りました。 これがイエス・キリストの最後・十字架の場面です。弟子達は逃げ去っておりました。数人の婦人(マグダラのマリア、ヤコブとヨセの母マリア、サロメ等)達が遠くから見守っているだけです。何とさびしい最後の情景でしょうか。 /n第一の目撃者  しかし一人の人がこの様子を十字架のすぐそばで,つぶさに目撃していました。それはローマの軍隊の現場責任者だった百人隊長です。百人隊長は十字架の出来事の第一の目撃者です。イエス・キリストが息を引き取る様子を見て、彼はまるで自分に言い聞かせるように「本当にこの人は神の子だった」とつぶやきました。「本当にこの人は神の子だった」。この言葉を彼は一体どのような意味でつぶやいたのか。彼の心にどのような変化が起きたのか。しばらくの間ご一緒に考えてみたいと思います。 /n百人隊長  ローマ軍の百人隊長というのは、百人程度の兵をとりまとめる責任者、兵士の命を預かる現場責任者でした。戦いのない時は兵士全体をまとめる等,軍の規律のかなめとなり戦時は最前線に立って指揮をとる勇者でした。百人隊長の戦死率は低くなかったといわれています。 /n聖書に登場する百人隊長  聖書には、部下の兵士が中風をわずらって寝込んでしまった百人隊長のことが記されています。この時、百人隊長はイエス・キリストのうわさを聞き、駆けつけ癒しを頼んでいます。「ただ、お言葉を戴かせて下さい。そうすれば私のしもべは治ります。私も権威の下にあるものですが、私の下には兵士達がいまして、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。又しもべに『これをせよ』といえばその通りにします。」だから言葉をいただければ十分だとこの百人隊長はイエス・キリストに救いを求めたエピソードが記されています(マタイ8:5-)。これが部下に対する百人隊長の姿でありました。 /n百人隊長とユダヤ人の信仰とのかかわり  さて、エルサレムに駐屯するローマ軍、特に現場監督である百人隊長はユダヤ人の信仰についてかなりのことを知っていました。むしろ知らなければエルサレムの治安を維持するという彼らの使命を遂行することが出来ませんでした。ユダヤ人の信仰をあらわす代表的な言葉が申命記に記されています。特に「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」は、今日でも、イスラエルの人々が口ずさむべき言葉として重要視されております。 /n別の百人隊長  カイサリア(地名)に、イタリア隊と呼ばれる部隊が駐屯しておりました。その部隊の百人隊長がコルネリウスという呼ばれる人でした。使徒言行録の証言によれば、コルネリウスは信仰心厚く、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた、と記されています(使徒言行録10:1-2)。このような記述からもわかりますように、百人隊長というのは必ずしも冷徹な戦士というわけではなく、心開かれた一人の人間であったのです。十字架の傍に立っていた百人隊長もそのような一人だったと思います。 /n十字架刑の執行責任者としての百人隊長  なぜイエスが十字架につけられなければならないのか。イエス・キリストは何を語り、何をしたのか。百人隊長はある程度承知していたでしょう。今日私達が聖書から教えられるイエス・キリストの姿をある程度理解していたと想像されます。しかも彼は現場責任者です。十字架刑を命じられて、それを責任をもって遂行しなければなりません。総督ピラトが、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて既に死んだかどうか尋ねた(マルコ15:44)とあるように百人隊長はむごたらしい刑の執行責任者であり、彼を取り囲む群衆の注目を浴びていた者です。おそらく彼は全身の神経を働かせて、イエス・キリストの十字架を見つめていたことでしょう。その百人隊長が十字架上のイエス・キリストが大声で「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになるのですか」と叫び、息を引き取る姿を見るや「本当にこの人は神の子だった」と語ったのです。 /n「本当に」  「本当に」という言葉は強い確信を表す言葉です。別の場面ですが十字架にイエス・キリストがかかる直前のこと、祭司長や民や長老達が遣わした人々が剣や棒をもってイエス・キリストを捕え、裁判を開き、死刑宣告をしようとした時のことです。弟子のペテロは逃げ去りましたが、やがて遠くからついていって事の成り行きを見ようと思い、裁判が行われている中庭に入って潜んだということがありました。ところがそこに一人の女中が近寄ってきてペテロを見て「あなたもイエスと一緒にいた」と叫びます。するとペテロは皆の前で「何を言っているか私にはそんなことはわからない」と打ち消したのです。すると別の人々も来て「確かにおまえもあの連中の仲間だ。言葉使いでそれがわかる」と言いました。ペテロがイエス・キリストを裏切る場面です。 /n「確かに」  人々がペテロを見て「確かにおまえもあの連中の仲間だ」という「確かに」という表現は、百人隊長が使った「本当に」と同じ言葉です。百人隊長は、「『確かに』『本当に』この人は神の子だった」と語ったのです。「本当に」「確かに」という表現は、これ迄聞いてはいた。調べてもみた。知識としては 知っていた。しかし十字架を見た時(イエス・キリストの死にざまを見た時)、これ迄の知識が単なる知識としてではなく納得する事実となった。わかった。腑に落ちた。信じた。というのです。その瞬間を百人隊長は「本当にこの人は神の子だった」と言い表したのでした。 /n「知る」と「合点がいく・わかる」とは違う  さて、百人隊長の心の中に起きた変化についてさらに考えてみたいと思います。1864年(明治維新の4年位前)のことですが、明治維新の代表的な人物で、思想家である横井小楠(しょうなん)という人物が「思う」ということの重要性について次のように語っております。「人はただ単に本を読んで知識を得るということではなく、それを自分自身で思う、というようなことがなくてはならない。多くの本を読むだけで終るならば、帳面調べのようなものである。読んだ後にそれを思うということによって、その内容を自分のものにすることが出来る。いわゆる合点しなければいけない。知ることと合点するということとは違う。」    他方、最近のことですが、2002年に出版された「『わかる』ということはどういうことか」という題の本があります。著者は神経内科医で、大学で教えている「山鳥」という先生であるそうですが「目や耳から入ってくる知識は意識するにせよ、無意識にせよ、どんどん私達の頭や心の中に入って蓄積されていく。しかしそれだけでは本当にわかったということにはならない。経験の中で知ったことが記憶され、蓄積され、整理され、筋が通った時に、人はわかったということになるのだ」と言うのです。そして次のように記しています。「『納得する』という言葉があります。『なるほど』と思うことです。『わかる』の別の表現です。あるいは『合点がいく』とも言います」。  興味深いことに、150年前の横井と同じことを主張しているのです。すなわち「知る」ということと「合点」がいくということとは違う。重要なのは、合点がいく・わかる、ということだと言うのです。 /n百人隊長と十字架  振り返って、百人隊長の姿と重ね合わせたいと思います。彼はイエス・キリストの言葉や行ないを聞いて知っていました。時には実際に目撃したかもしれません。知識は少なからず蓄積されていたのです。しかしイエス・キリストが神の子である。人の罪の救いをもたらす方である、ということに納得し合点していたわけではなかったのです。軍人としての職務を忠実に担い、十字架による死刑執行を遂行しました。だが、イエス・キリストの最後を目の当たりにした時、これまでの知識と経験が整理されて筋が通ったのです。イエス・キリストのそばに立ち尽くす中で「合点した」、「納得した」のです。その彼の口を突いて出てきた言葉が、「本当にこの人は神の子だった」であります。イエス・キリストの十字架が、百人隊長の心を変えたのです。 /n私達の信仰  さて、私達もイエス・キリストを知っています。聖書には次のようにまとめた形で紹介がなされています。 >> 「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、 正しくお裁きになる方にお任せになりました。 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。 わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。 そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(ペテロ一 2:22-25)。 <<  これが私達に示されているイエス・キリストの姿です。そのことを私達は聖書の言葉によって知っています。私達は知る者として毎日の経験を積み重ねています。特に十字架の出来事は、私達の合点すべき事柄として提示されているのです。納得する、信じる、ということによって、十字架のイエス・キリストは、ただ知るだけではなくて私達の内の一部とされます。  聖書に「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ」(エフェソ3:17)と書いてある通り、十字架のイエス・キリストを信じる時、それはイエス・キリストが私達の内に存在する時ともなるのです。 /n信仰は新しい人生の歩みの原動力  ところで,イエス・キリストを合点する・信じるということは新しい私達の人生の歩みの原動力となります。奇しくも先ほど引用した「横井」も「山鳥」の二人も同じことを言っています。横井は次のように言います「合点するいうことは、その理(ことわり)を自分のものにするということで、それによって、別のこと(もの)に接しても、その理は十分に通用する」。又、山鳥も次のように記します「『本当にわかった』ということは応用出来ます。知識はそのこと限りです。しかし知識の裏にある原理が理解出来れば、その知識は他の現象にも応用出来るのです。」まさにその通りです。 /n「キリスト我が内に在りて生くる」(ガラテヤ2:20)  聖書の言葉「イエス・キリストが我が内に生きる」ということ、イエス・キリストを信じる、合点するということは、知識のレベルにとどまらず、私達の生きる原動力として働くのです。どのような場面でそれが働くかに関しては、正解や見本はありません。  イエスキリストに生きる者一人一人において、千差万別のことがらで原動力となるからです。  強いて共通するものを挙げるとするならば、あの百人隊長と同じように、百人隊長と共に「イエス・キリストは神である」、と告白し、共に神を賛美するということではないでしょうか。(文責:佐藤義子)

「キリストの墓」 牧師 佐藤義子

/n[ヨブ記] 1章14-21節 14-15ヨブのもとに、一人の召使いが報告に来た。「御報告いたします。わたしどもが、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」 15 [前節に合節] 16 彼が話し終らないうちに、また一人が来て言った。「御報告いたします。天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」 17 彼が話し終らないうちに、また一人来て言った。「御報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」 18 彼が話し終らないうちに、更にもう一人来て言った。「御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。 19 すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」 20 ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。 21 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」 /n[マタイによる福音書] 27章57-66節 57 夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。 58 この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。 59 ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、 60 岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。 61 マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。 62 明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、 63 こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。 64 ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」 65 ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」 66 そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。 /nはじめに  本日は召天者記念礼拝です。信仰の先輩たちの写真を前にして、地上での生涯を信仰をもって走りぬいたその姿を思い起こし、記念する日です。私達の教会は歴史も浅く、私達の群れから天に送った方々はおりません。写真にある方々は私達会員の家族であり、又、会員と深い関係にあって信仰に影響を与えた方達です。私達はいずれこの方々と同じように神様から召される時を与えられます。その時、私達は地上での生涯を神様に深く感謝し、神様のもとに召されることを喜んで受ける者になっていたいと思います。あるクリスチャンのご主人が亡くなる少し前に、奥様がいつものように(?)悩み(つぶやき)を口にすると、病床のご主人は「ごたごたいうな。私はまもなく神様の所にいく。だからそのことを考えて心の準備をしているのだ。いつ迄もこの世のことで私を悩ますな」と叱られたそうです。人は生きてきたように死んでいくという言葉があります。ヨブのようにすべては神様からいただいたものであることを覚え、日々感謝しつつ歩み続けたいと思います。神様は私達の身元引受人です。どんなことがあっても、何があっても、私達の命の与え主である神様が守って下さる限り心配することはありません。与えられた分に応じて、与えられた賜物に従って、誠実に忠実に歩むものでありたいと思います。 ______________________________ /n弟子の名前がない  今日の聖書に登場するのはイエス様の遺体とそれにかかわる人々だけです。その中にあるべき筈の11人の弟子の名前はありません。愛し尊敬する先生が死刑になることだけでも耐えられない苦痛であったでしょう。そして自分達も又、死刑囚の弟子ということで命の危険にさらされるかもしれないという不安。メシアとして信じてきた信仰の一方で、イエス様の死という現実を前に、先が見えない動揺などが想像されます。弟子の名がない代わりに聖書は、十字架の死をみとった人々として遠くから見守っていた大勢の婦人達と具体的な数人の女性の名前を挙げています。彼女達は「ガリラヤからイエスに従って来て世話をして」いました。この彼女達がイエス様の十字架の死を見届け、そこから離れなかったが故に、イエス様の遺体を納めた場所を見届け、弟子達より先に復活のイエス様に会うことが赦され、弟子に伝える役割が与えられるのです。 /nアリマタヤ出身のヨセフ  イエス様の遺体は、アリマタヤ出身のヨセフの申し出により引き渡されました。彼は金持であり(マタイ)、身分が高く議員であり、勇気を出してピラトの所に行きました(マルコ)。善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意せず、神の国を待ち望んでいました(ルカ)。その一方で、「イエスの弟子でありながらユダヤ人達を恐れて、そのことを隠していたヨセフ」(ヨハネ)とあります。「勇気を出して」とあるのは、このことによって自分のイエス様への信仰が公けになるからでしょう。つまりヨセフはイエス様の死をめぐって、それ迄の生き方を転換させ、イエス様に自分の出来る最善を尽くすため、自分の信仰が明らかになる道を歩む、その決心が与えられたのでしょう。「ヨセフは遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、自分の新しい墓に納め」ました(59-60)。こうしてイエス様は、神の御子としてふさわしい葬りを受けられました。 /nイエス様の葬りの意味  ロマ書は記します。「私達は洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それはキリストが父の栄光によって使者の中から復活させられたように、私達も新しい命に生きるためなのです。もし私達がキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」(6:4-5)。私達はそれゆえに、毎週使徒信条で、十字架と復活の間に[死にて葬られ]と告白するのです。(後略)

宗教改革記念礼拝 「万事が益となる働き」 倉松 功先生

/n[エゼキエル書] 18章30-32節 30 それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。 31 お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 32 わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。 /n[ローマの信徒への手紙] 8章23-28節 23 被造物だけでなく、““霊””の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。 26 同様に、““霊””も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、““霊””自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 27 人の心を見抜く方は、““霊””の思いが何であるかを知っておられます。““霊””は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。 28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 /nはじめに  今から491年前、1517年10月31日に、マルティン・ルターが95の文章をヴィッテンベルク大学のある町の領主の居城の教会堂の扉に貼り付けたというこの事件をきっかけとして、宗教改革が始まりました。それから150年後、ドイツ、フランス、スイスなどのプロテスタントの教会が、10月31日を宗教改革の記念の日と取り決めて今日に至っております。 /n95カ条の提題  この冒頭すなわち第一カ条に記されているのが「私達の師にして主であるイエス・キリストが『悔い改めよ』(マタイ4:17)と言われた時、主はそれによって信じる者の全生涯(洗礼を受けた時から地上の生涯を終えるまで)が悔い改めであるべきことを求めておられたのである。」というものです。ですから宗教改革は悔い改めから始まったと言って良いでしょう。95カ条そのものは、当時のカトリック教会の信仰、神学、教会生活、教会の制度そのものついての批判(批判だけではなく、こうあるべきとの改革の提案、主張)をしています。 /n95カ条の提題を出さざるを得なかった理由  95カ条の提題を出す以前に、ルター自身の中に宗教改革的な体験・思い・認識があったということです。それがあって始めて単なる批判ではなくて主張・提言を含む提題を出すことが出来ました。ルターはどのようにしてイエス・キリストと新しく出逢ったのでしょうか。当時彼は、厳格な修道士としての生活をしながら、ヴィッテンベルク大学で聖書の講義をしていました。ルターの宗教改革的体験というのはこの大学での聖書講義(詩篇、ロマ書、ガラテヤ書、ヘブル書等)、聖書の取り組みから起こったといえます。「キリストを信じる信仰によって義と認められる」という信仰義認の体験は、新しいキリストとの出逢いでした。 /nルターの体験  体験のきっかけとなった聖書は、ロマ書1章17節「神の義は福音において示された」です。福音とは1章の初めにあるように「キリストに関するもの」(3節)「キリストそのもの」です。ですから「神の義は、イエス・キリストにおいてあらわされた」ということになります。神の義は、哲学や道徳や倫理で語るような論理ではなく、神の子であられる主イエス・キリスト、この方が「神の義」であるということです。それまでのルターは、「神の義」とは正しい、罪や悪を裁くと考えていました。神の義しさで罪や悪を裁くのですから、徹底的に裁くということになります。彼は最も厳格な修道会(アウグスティヌス修道会)に属し、日夜修道的な生活をしていました。しかしどのように厳しく修行しても神の義の前で裁かれるのですから安心は出来ず、苦悩しておりました。そういう時に「神の義とはそういうものではない。そういう部分もあるけれどもそれが本来の神の意図ではない。本来の神の義とは、福音において現れている。イエス・キリストにおいて現われている。そのイエス・キリストを受け容入れる、信じる。そういうことしかない。」そこに行き当たりました。そういう体験でした。 /n体験に基づく聖書の読み方  この体験によってルターの聖書の読み方がすっかり変りました。福音から聖書を読む。聖書に出てくる神の平安とか、神の宥(なだ)め、神の憐れみとは、イエス・キリストにおいて現れた神の平和・平安、憐れみです。山上の説教に「柔和な者は幸いである」とありますが、私共が柔和な者である、というのではなくて、キリストによって私共が柔和な者とされる、ということです。イエス・キリストによって、私共が平和を作り出す者になり、私共に平安が与えられる。私共が生まれながらのままでは、平和を作り出したり柔和な者であるということは神の前ではあり得ない。私共は、福音によって(キリストによって)創り変えられる。受け身です。そのように読まなければならないということをルターは体験によって学びました。「神の義」を通して「私達を義とする」「義しい者に作り替える」。 それは、キリストがキリストを通してそうさせて下さる。キリストを信じることによってのみ義とされる(神が見て義(ただ)しい者とされる)ということです。私達が義を行っているのではありません。 /n私達の罪が、キリストに転嫁された!  キリストを信じることによって私共が義とされるのは、神の義から見て義しいとされるのですからこれは大変なことです。それがどうして起こるかというと、キリストが私達の罪を負う。その時キリストの持っている神の義を与えて下さる。私達の罪とキリストの義を交換する。信仰によって義とされるという「義」は、キリストの持っておられる神の義であり、私達の外(側)にある義です。ルターは「外側にある義が私達に与えられ、私達の罪がキリストに担われる」と説明しています。この説明はカルヴァンにも受け継がれ、宗教改革者たちは信仰義認のことを「罪が転嫁される」と表現しました。神の義がキリストによって私達に与えられる。私共の罪がキリストに担われる。私共自身が持っている神の義ではありません。ですから「全生涯悔い改める」というのが信仰の告白として出てくるのではないか。私共が神を満足させる義を行っているのではない。それゆえに「恩寵(おんちょう)のみによって」「恵みによって」私共は救われるということが明確になります。 /n三つのキーワード  今朝の聖書には三つのキーワードがあります。1「霊の初穂」(23節)。2「体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(同)。3「万事が益となる」(28節)です。  「霊の初穂」。これは、キリストを信じることによって義とされることを受け入れ、自らを省み、罪の告白をして義と認められ、洗礼を受けることでしょう。これは終生私達に与えられるものです。洗礼を通して、洗礼のしるしを通して、終生その道を歩むものです。日本基督(きりすと)教団の信仰告白においても、「この変らざる恵みの内に」という言葉があります。「この変らざる恵みの内に」とは、信仰によって義とせられる。洗礼を受ける。ということを言っています。神の御霊が、洗礼を受け、キリストを受け入れることによって与えられている。その御霊は御言葉(説教と聖書)を通していつも私達を守っている、導いているということです。「体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」パウロは同じことをロマ書7:18「善をなそうという意志はありますが、それを実行できない」。7:23「わたしは何と惨めな人間なのでしょう」と言っています。これはパウロのうめきです。そしてすぐあとで「私達の主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」と感謝し、再び「このように、私自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」とうめきの原因を繰り返しています。これはパウロが神の子となること(体のあがなわれること)を待っている表れでしょう。同じことがガラテヤ書5:17にもあります。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」肉とは身体のことです。身体があがなわれるのを待つとは死ぬことです。死ぬことによって私達は肉の誘惑(ルターは肉の攻撃と表現)から解放されるわけです。私共は洗礼を受けることによって、父なる神を「アバ,父」と呼ぶ神の子としての初穂が与えられている。しかし体が贖われて復活のキリストにあずかるという状況ではありません。にもかかわらず、霊の導きによって聖霊の果実(良い果実)を生み出すことが赦されています。きよい生活をすることが赦されています。しかし自分で「これがきよい生活である」ということは出来ません。それはまさに感謝をもって受け入れるか、あるいは信仰の告白(ざんげの告白)と裏腹にあるものでしょう。 信仰によって義と認められるということが、キリストにおいて表れた神の義であり、キリストの義である以上、私共はキリストの持っている義を行うことは出来ません。これは95カ条の提題を出した時のあの悔い改めに通じるルターの考えでもあります。 /nアウグスティヌスの御言葉とのかかわり  あの有名なアウグスティヌスは、死の病床に横たわりながら、壁に七つの悔い改めの詩編を書き並べて貼っていたと愛弟子ポシディウスは書いています。それはアウグスティヌスにとって大きな感謝、大きな安心の拠り所であったと思います。同時に自らを悔い改めながら、その神の御言葉に心を委ねて死んでいったと思われます。 /n私達の生きる枠  私達は霊の初穂を与えられ、信仰によって義と認められ、御霊である神の言葉<聖霊が働く聖書と説教という神の言葉>によって守られている、ということの中で聖化の歩み、聖霊のもとに導かれる歩みをすることが赦されています。これは大きな私達の枠です。私達の生きている大きな支えです。船といってもいいかもしれません。その中で私共は生きている。それは、ルターの信仰義認の体験や、アウグスティヌススの死の床における御言葉とのかかわり、そういうものによって示されるように思います。「万事が益となる」ということは、御言葉によって守られ、御言葉を通して御霊によって支えられている、ということに尽きると思います。 /n最後に聖書をお読みします。 >> 「“霊”も弱い私達を助けて下さいます。私達はどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成して下さるからです。霊は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成して下さるからです。神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って、召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私達は知っています。私達すべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私達に賜らないはずがありましょうか。だれが、キリストの愛から私達を引き離すことができましょう。」(ロマ書8章26・28・32・35) << (文責:佐藤義子) _________________________________________________________________________________ /n<参照> -日本基督教団信仰告白の引用箇所 –・・神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信じる信仰により、我らの罪を赦して義としたもう。この変らざる恵みの内に、聖霊は我らを潔(きよ)めて義の果(み)を結ばしめ、その御業を成就したもう。・・」 -七つの悔い改めの詩編 –6編、32編、38編、51編、102編、130編、143編を指す。

「神の国を広めるために」 伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書] 61章1節 1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。 /n[マルコによる福音書] 1章35-45節 35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。 36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、 37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。 38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。 40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。 41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、 42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。 43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、 44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」 45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。 /nはじめに  「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(35節)。その光景を想像して下さい。私はこの箇所で、いつも心洗われる心地がして胸がふるえます。神の御子たるイエス様が父なる神に祈られている。人里離れた、寂しい所で・・。その前日(安息日)に会堂で人々に教え、悪霊を退治し、その後すぐ弟子シモンの姑の病を癒し、日没とともに安息日が終るやいなや押しかけてきた多くの人々の癒しや悪霊退治をなさり、その興奮がまだうずまいている場所を抜け出して・・です。 /n弟子達の思い   弟子達は、神の国を広めるイエス様のお働きの大切さを理解することは出来ませんでした。多くの人がイエス様を賞賛し,権威あるお姿に感動し,その癒しに感謝している。これが続いてほしい・・。「皆が捜しています。」(37節)の言葉の背後には、弟子達が輝かしい成功を目の当たりにして「戻って、癒しや悪霊退治を再開してほしい」という願望があったかもしれません。そこには「神様」より「自分の名誉」の方が大事という「罪」の姿があります。 /nイエス様のお答え  イエス様は、「近くの他の町や村に行こう。そこでも私は宣教する。その為に私は出てきたのである。」(38節)と言われました。イザヤ書に「私を遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせる為に・・」(61:1)と、ありますが、この「貧しい人」とは経済的なことではなく神様の救いを渇望する人のことです。御自分のなすべきことは「弱い立場の人々や苦しめられている人々など神様からの恵みをひたすら待ち望む人々に神の国の到来を告げ知らせること」であるとのイエス様のゆるぎない決意をこのお答えから窺い知ることができます。 /n重い皮膚病  40節以下に「重い皮膚病」(以前はらい病)の人がイエス様のもとにやってきたことが記されています。皮膚病は、他と比べると見た目で分かりやすく明らかに普通と違います。さらに当時のイスラエル社会においては重い皮膚病患者は「聖なる民族」にふさわしくなく、罪で汚れていると考えられ、症状の辛さだけでなく律法で不浄の者とされ、社会から除外され、町や村から離れた場所に隔離され、誰かが近づいてきたら「私は汚れた者です」と言って相手に汚れが移らないようにするよう求められるという辛い仕打ちが待っていました。清さを保つ為とはいえ、これが律法主義の限界です。 /nイエス様との出会い  彼は治りたい一心で、神様から来るその癒しの力に全幅の信頼を寄せ信仰を表明しました。イエス様は「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ。』と言われ」(41節)ますと、たちまち皮膚病は癒されました。病が癒される3つの要素(1神様の憐れみが注がれていること、2手を差し伸べて触れるとの治療行為、3励ましの言葉)がここにあります。重い皮膚病を癒された人にイエス様は「誰にも話してはならない。ただ・・自分自身を証拠として祭司に見せ、律法に従い清めの献げものをするように。」と言われました。 /n神の国を広めるために  しかし彼は自分の喜びを話す事を優先します。彼の行動でイエス様の御働きに支障が出ました。評判がいよいよ広まり人を避けねばならなくなったことです。町の外の,人のいない所に退かれるイエス様。人が神様の言葉に従わない結果をイエス様が受けておられるのです。(私達の罪の贖いを引き受けられる立場に立たされておられます)。「それでも人々は四方からイエスのところに集まってきた」(45節)。イエス様が全身全霊で求めた神の国を広める為に学びたいことは、神様の愛と力を満たす為に静かな所で祈ること。神様の御心を第一に考え行動する決意。そして高ぶらず、一時の感情に流されず御言葉に従うことです(後略)。

「イエス・キリストの死」 牧師 佐藤 義子

/n[マタイによる福音書] 27章45-56節 45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 47 そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。 48 そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。 50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 51 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。 53 そして、イエスの復活の後、墓から/出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。 54 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 55 またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。 56 その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。 /nはじめに  本日は、日本キリスト教団が定めた伝道献身者奨励日であり、神学校日です。伝道者奨励日とは、神様があなたを伝道者として召しておられるかもしれないということを考えていただく日であり、又、献身して神学校で学んでいる神学生や神学校を覚えて祈り、応援する日でもあります。 イエス様の言葉に、「収穫は多いが、働き手が少ない」「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう。」があります。聖書の言葉は信仰の決断を促す時や、迷いの中から大きな決断をする時に、私達を後ろから押してくれます。また、決断に確信を与えてくれます。 日本のクリスチャン人口は1パーセントに満たず、ほとんどの家庭はキリスト教に無理解であるといっても良いでしょう。牧師、伝道者になるといえば、家族・親族からの猛反対を受けるのが常です。しかし、反対される中で伝道者は神様からの召命を信じ、十字架の福音を語り続けます。かつて迫害の中で伝道が続けられた結果、福音はユダヤから全世界へ、日本へ、仙台へ、この山田の地まで届けられています。キリスト教は自分だけに留めておく宗教ではありません。伝えて初めて生きた宗教となります。 /n何を伝えるか  福音の内容は、私の罪(そしてすべての人の罪)が神に赦されたということです。私達人間は生まれながらに罪人です。「私達には創り主なる神様がおられる」ということを聞いても信じようとしない。聖書で語られる罪とは、神に対する不信仰と不従順です。人間と神様の間に横たわっていた罪という断絶を、イエス・キリストが十字架にかかり、罪のない命を犠牲として神に献げられました。それゆえに神様の赦しが与えられました。自分に罪がないという人でも、イエス様の教えに従い得ない現実があります。愛しなさいといわれても愛せない。赦しなさいといわれても赦せない。イエス様の教えを頭で理解していても、そのように生きることが出来ない。そういう私達のすべてが十字架によって赦されたのです。(コリント15:3参照) /n「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」  今日の聖書の箇所は、十字架上のイエス様を伝えている個所です。昼の12時に全地が暗くなり3時に及んだとあります。暗闇は悪の力の最後の時であり、神様がこれまでの世界秩序に終止符を打つしるしといわれます。3時頃、イエス様は「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。これは詩編22編2節です。詩篇22編は、神に見捨てられた信仰者が、敵対者に取り囲まれながらなお 神に信頼の祈りをささげる悲痛な叫びです。 /n十字架の意味  歴史的に見るならば、罪のないイエス様を十字架につけたのはイスラエルの宗教指導者達であり、ピラトであり、十字架につけよと叫んだ群衆であるといえるでしょう。しかしその一方で、イエス・キリストの受難と十字架による死は、すでにイエス様ご自身の口から予告されていました(マタイ16:21)し、神の御子イエス様が地上に来られたのは、「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マタイ20:28)というイエス様ご自身の言葉があります。さらに最後の晩餐でイエス様は、「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である。」(マタイ26:27-28)と言われました。十字架の死は、私達に罪の赦しを与える為の、神様の救いのご計画が最初にありました。 /n神殿の幕  イエス様は再び叫び声をあげられ、息を引き取られました(50節)。その時、神殿の幕が上から下まで裂けたとあります。これはエルサレム神殿の一番奥にある至聖所と聖所を隔てる幕のことで、至聖所には一年に一度だけ大祭司が人々の罪のあがないの為に入ることが許されていました。神様のおられる聖なる場所と考えられていた至聖所の、その隔ての幕が破られたということは、聖なる神様と罪ある人間との断絶の時代が終わり、大祭司によるとりなしの時代も終り、神様への道がイエス様を通して私達の前に開かれたという象徴的な出来事でありました。(後略)。

「受難」 牧師 佐藤 義子

/n[マタイによる福音書] 27章27-44節 27 それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。 28 そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、 29 茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。 30 また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。 31 このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。 32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。 33 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、 34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。 35 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、 36 そこに座って見張りをしていた。 37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。 38 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。 39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、 40 言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。 42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」 44 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。 /nはじめに  今日の聖書では、イエス様が二度の裁判を経て十字架刑が決定し、刑が執行されるまでの過程が描かれています。一度目の裁判では、同じユダヤ人である大祭司が神の代理人としてイエス様を裁きました。そして神を冒涜したとして、死刑にすべきとしました。二度目の裁判は異邦人であるローマ総督ピラトが、ローマ皇帝の代弁者としてイエス様を裁きました。イエス様が「ユダヤ人の王」と自称しているとの訴えから、ローマ皇帝以外の王を認めないローマに対する反逆罪にあたるかどうかを裁きました。ピラトは、この裁判がユダヤの宗教指導者達のねたみによって起こされたことを知っており、死刑を避けようと恩赦などを提案をしましたが、宗教指導者達に説得された群衆の『十字架につけろ』との叫び声と、暴動が起こりそうな状態を見た時、裁判の正しさよりも自分自身の利益を守る事を優先し、この判決の責任をユダヤ人に押し付け、死刑が確定したのでした。 /n虐待  こうしてイエス様の身柄はローマ総督の率いる兵士達に託されました。兵士達はローマの支配下にあるユダヤ人死刑囚として、イエス様を好きなように扱いました。「ユダヤ人の王と自称した」ゆえに、王のマント代わりにローマ兵の赤い上着の軍服、冠の代わりにいばらで編んだもの、しゃくの代わりにはあしの棒を持たせ、その前でひざまづきました。そして、「ユダヤ人の王、万歳」といって侮辱し、イエス様につばを吐き、あしの棒を取り上げて頭をたたき続けた・・と聖書は記しています。人間は、力が背景にある時、自分より弱い立場に置かれた者に対しては何をしても構わないとの傲慢に陥り、虐待という「罪」を犯すのです。 /n刑場への道  侮辱を加え終えた兵士達は、十字架刑が執行される刑場にイエス様を連行します。当時の十字架刑は、刑場にたての棒が用意され、死刑囚は横木を自ら背負って刑場まで歩かなければなりませんでした。その300メートルほどの道は、今日「苦しみの道」(又は「悲しみの道」)(ビア・ドロローサ)と呼ばれて、多くの巡礼者が訪れているそうです。むち打ちの刑などで弱っていた死刑囚は途中で倒れることも多かったようで、32節にあるように、イエス様の横木は、たまたま出会ったキレネ人シモンが無理に担がされました。 /nシモン  ある神学者はシモンについて、「強いられた恩寵」という言葉を使います。いやいやながら負う重荷が、結果として恵みに満ちた力に触れることになるという意味の深い言葉です。パウロの手紙にはシモンの息子や妻がキリスト者として登場します(参照:マルコ15:21・ローマ16:13)。 /n十字架を取り巻く人々  ゴルゴタの刑場に着いたイエス様は、兵士の差し出した苦い葡萄酒を飲みませんでした(苦みは感覚を麻痺させる物質)。そして残酷な十字架につけられたのでした。兵士達はイエス様が身につけていた衣をくじで分け合い、座って見張りをしました。刑場を通りかかった人々は、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」とあざけりました。祭司長、律法学者、長老達も同じように侮辱した言葉を浴びせます。「他人を救ったのに、自分は救えない。今すぐ十字架から降りるがよい。そうすれば信じてやろう。」十字架上の強盗達まで同じでした。 /n私達人間の罪  「お前が本当に神の子なら・・してみろ」との言葉は荒野の誘惑の、サタンの言葉でもあります。命の与え主である神に、そして人間を愛し、私達を罪から救う目的で遣わしたイエス様に、人間は罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせます。十字架を取り巻く人々の中には、神を畏れ敬う信仰はありません。現代を生きる私達人間も同じです。神を神とも思わない不信仰の罪・傲慢の罪がイエス様を十字架につけたといえるでしょう。

「神の権威」 伝道師 平賀真理子

/n[列王記上] 17章17-24 17 その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。 18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」 19 エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女のふところから息子を受け取り、自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。 20 彼は主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか。」 21 彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」 22 主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。 23 エリヤは、その子を連れて家の階上の部屋から降りて来て、母親に渡し、「見なさい。あなたの息子は生きている」と言った。 24 女はエリヤに言った。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」 /n[マルコによる福音書] 1章21-34節 21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。 22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。 23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。 29 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。 30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。 32 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。 33 町中の人が、戸口に集まった。 34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。 /nはじめに  今日の聖書には、汚れた霊や病で苦しむ人々に対するイエス様の癒しの奇跡が初めて出てきます。神様の力がイエス様を通してはっきりと示されています。それは選民として自負していたイスラエル民族の人々でさえも、今まで見たことも聴いたこともない、神様の凄い力でした。 /n預言者を超える神の御子の権威  歴史の中で神様は、御自分の意志や人間への祝福・約束を必ず言葉で表明され、指導者や預言者を通して必ず実行されてきました。ここでは神様の権威をそのまま引き継ぐ御子イエス様の業の力が、会堂で教える御言葉と悪霊退治や病気の癒しという行為で、はっきりと公けのものとされます。 /nイエス様の説教と汚れた霊  カファルナウムで「安息日に会堂に入って教え始められた」イエス様は、それ迄ユダヤの民が慣れていた律法学者の説教のようではなく、神の国の到来を、神の権威のもとに語られました。その力は溢れており、「人々は非常に驚いた」のも無理はありません。そのとき、汚れた霊に取りつかれた男が「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体はわかっている。神の聖者だ」(24節)と、叫びました。「構わないでくれ」の直訳は「あなたと我々の間に何があるのか。(何もない)。」です。 /nエリヤと寡婦  今日の旧約聖書でも、預言者エリヤによって恵みを受け、日々の糧を得られるようになっていた寡婦が、最愛の息子の死を前にしてエリヤに「あなたは私にどんなかかわりがあるのでしょう。」と言ってしまいます。そして「息子を死なせる為にきたのか」と食ってかかります。(エリヤは、主に願ってその息子の命を元に返し、その親子を救います。) /n人間の愚かさ  寡婦も汚れた霊も、神様の清さを認識し、それと一線を画して我が身を守ろうとしました。しかしその清さの前に自分達が滅ぼされる存在であることを告白して、愚かにも最後の悪あがきをしてしまうという醜い姿が露呈されています。悪の試みを受ける時、悪の最後の無様な姿を知っておくことは私達の強みになります。神様につく者は勝利します。 /n汚れた霊の敗北とイエス様の熱病の癒し  汚れた霊はイエス様から出て行くよう叱りつけられて、必死の抵抗も空しく命令に従わされます。神様の権威の下では汚れた霊は従わざるを得ません。この後イエス様はシモンの姑の熱病を癒されました。イエス様は神様からいただいている力を惜しみなく弱っている女性に与えられました。病が癒され、もてなしができるほどの回復は、神の力によるものです。しかしそばに寄り添い、手をとって、立てるように支え促されたイエス様の姿は、それだけで人を勇気付けるものだと思います。 /n「悪霊にものをいうことをお許しにならなかった」(34節)  神様と悪霊は「何のかかわりも」ありません。神様は、悪霊から証しされる立場では決してありません。神の御子イエス様が中心の神の国は完全な善なる世界であり、悪は完全に打ち滅ぼされなくてはなりません。実際イエス様はその後の歩みで、十字架の後、復活されたことにより「死」という悪の最たるものに打ち勝たれました。それは、父なる神様の側の絶対的勝利をもたらし、神の権威があまねく地上にも行き渡ることになったのですから、そこに悪が主体となる隙はないのです。 /n神の権威  イエス様がお持ちの「神の権威」は多くの人々を納得させ、最も反抗的な悪霊をも沈黙させると同時に、「助けたい」人をすぐに助けられる力(愛から生まれた意志をすぐ行動に移すことのできる力)でもあります。(ギリシャ語で「権威」は『…する権利・自由がある』という言葉から生まれた)。(中略)。イエス様は「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい。」(8:34)と言われました。御跡に従うことが重要です。あなたが生かされていること、あなたが生きることの本当の意味の問題と解答が、神様の権威によって与えられます。