「本当に神の子だった」 東北学院大学 佐々木哲夫先生

/n[申命記] 6章4-15節 4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。 10 あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、 11 自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、 12 あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。 13 あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。 14 他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。 15 あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。 /n[マルコによる福音書] 15章33-41節 33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。 36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。 37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。 38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。 41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。 /nはじめに  イエス・キリストは午前9時にゴルゴタの丘で十字架につけられ、午後3時に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びました。この言葉を聞きユダヤ人達は「預言者エリヤを呼んでいる」と言いました。預言者エリヤが天から降りて来てイエス・キリストを助けるのかと思ったようです。しかしイエスはやがて息を引き取りました。 これがイエス・キリストの最後・十字架の場面です。弟子達は逃げ去っておりました。数人の婦人(マグダラのマリア、ヤコブとヨセの母マリア、サロメ等)達が遠くから見守っているだけです。何とさびしい最後の情景でしょうか。 /n第一の目撃者  しかし一人の人がこの様子を十字架のすぐそばで,つぶさに目撃していました。それはローマの軍隊の現場責任者だった百人隊長です。百人隊長は十字架の出来事の第一の目撃者です。イエス・キリストが息を引き取る様子を見て、彼はまるで自分に言い聞かせるように「本当にこの人は神の子だった」とつぶやきました。「本当にこの人は神の子だった」。この言葉を彼は一体どのような意味でつぶやいたのか。彼の心にどのような変化が起きたのか。しばらくの間ご一緒に考えてみたいと思います。 /n百人隊長  ローマ軍の百人隊長というのは、百人程度の兵をとりまとめる責任者、兵士の命を預かる現場責任者でした。戦いのない時は兵士全体をまとめる等,軍の規律のかなめとなり戦時は最前線に立って指揮をとる勇者でした。百人隊長の戦死率は低くなかったといわれています。 /n聖書に登場する百人隊長  聖書には、部下の兵士が中風をわずらって寝込んでしまった百人隊長のことが記されています。この時、百人隊長はイエス・キリストのうわさを聞き、駆けつけ癒しを頼んでいます。「ただ、お言葉を戴かせて下さい。そうすれば私のしもべは治ります。私も権威の下にあるものですが、私の下には兵士達がいまして、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。又しもべに『これをせよ』といえばその通りにします。」だから言葉をいただければ十分だとこの百人隊長はイエス・キリストに救いを求めたエピソードが記されています(マタイ8:5-)。これが部下に対する百人隊長の姿でありました。 /n百人隊長とユダヤ人の信仰とのかかわり  さて、エルサレムに駐屯するローマ軍、特に現場監督である百人隊長はユダヤ人の信仰についてかなりのことを知っていました。むしろ知らなければエルサレムの治安を維持するという彼らの使命を遂行することが出来ませんでした。ユダヤ人の信仰をあらわす代表的な言葉が申命記に記されています。特に「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」は、今日でも、イスラエルの人々が口ずさむべき言葉として重要視されております。 /n別の百人隊長  カイサリア(地名)に、イタリア隊と呼ばれる部隊が駐屯しておりました。その部隊の百人隊長がコルネリウスという呼ばれる人でした。使徒言行録の証言によれば、コルネリウスは信仰心厚く、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた、と記されています(使徒言行録10:1-2)。このような記述からもわかりますように、百人隊長というのは必ずしも冷徹な戦士というわけではなく、心開かれた一人の人間であったのです。十字架の傍に立っていた百人隊長もそのような一人だったと思います。 /n十字架刑の執行責任者としての百人隊長  なぜイエスが十字架につけられなければならないのか。イエス・キリストは何を語り、何をしたのか。百人隊長はある程度承知していたでしょう。今日私達が聖書から教えられるイエス・キリストの姿をある程度理解していたと想像されます。しかも彼は現場責任者です。十字架刑を命じられて、それを責任をもって遂行しなければなりません。総督ピラトが、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて既に死んだかどうか尋ねた(マルコ15:44)とあるように百人隊長はむごたらしい刑の執行責任者であり、彼を取り囲む群衆の注目を浴びていた者です。おそらく彼は全身の神経を働かせて、イエス・キリストの十字架を見つめていたことでしょう。その百人隊長が十字架上のイエス・キリストが大声で「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになるのですか」と叫び、息を引き取る姿を見るや「本当にこの人は神の子だった」と語ったのです。 /n「本当に」  「本当に」という言葉は強い確信を表す言葉です。別の場面ですが十字架にイエス・キリストがかかる直前のこと、祭司長や民や長老達が遣わした人々が剣や棒をもってイエス・キリストを捕え、裁判を開き、死刑宣告をしようとした時のことです。弟子のペテロは逃げ去りましたが、やがて遠くからついていって事の成り行きを見ようと思い、裁判が行われている中庭に入って潜んだということがありました。ところがそこに一人の女中が近寄ってきてペテロを見て「あなたもイエスと一緒にいた」と叫びます。するとペテロは皆の前で「何を言っているか私にはそんなことはわからない」と打ち消したのです。すると別の人々も来て「確かにおまえもあの連中の仲間だ。言葉使いでそれがわかる」と言いました。ペテロがイエス・キリストを裏切る場面です。 /n「確かに」  人々がペテロを見て「確かにおまえもあの連中の仲間だ」という「確かに」という表現は、百人隊長が使った「本当に」と同じ言葉です。百人隊長は、「『確かに』『本当に』この人は神の子だった」と語ったのです。「本当に」「確かに」という表現は、これ迄聞いてはいた。調べてもみた。知識としては 知っていた。しかし十字架を見た時(イエス・キリストの死にざまを見た時)、これ迄の知識が単なる知識としてではなく納得する事実となった。わかった。腑に落ちた。信じた。というのです。その瞬間を百人隊長は「本当にこの人は神の子だった」と言い表したのでした。 /n「知る」と「合点がいく・わかる」とは違う  さて、百人隊長の心の中に起きた変化についてさらに考えてみたいと思います。1864年(明治維新の4年位前)のことですが、明治維新の代表的な人物で、思想家である横井小楠(しょうなん)という人物が「思う」ということの重要性について次のように語っております。「人はただ単に本を読んで知識を得るということではなく、それを自分自身で思う、というようなことがなくてはならない。多くの本を読むだけで終るならば、帳面調べのようなものである。読んだ後にそれを思うということによって、その内容を自分のものにすることが出来る。いわゆる合点しなければいけない。知ることと合点するということとは違う。」    他方、最近のことですが、2002年に出版された「『わかる』ということはどういうことか」という題の本があります。著者は神経内科医で、大学で教えている「山鳥」という先生であるそうですが「目や耳から入ってくる知識は意識するにせよ、無意識にせよ、どんどん私達の頭や心の中に入って蓄積されていく。しかしそれだけでは本当にわかったということにはならない。経験の中で知ったことが記憶され、蓄積され、整理され、筋が通った時に、人はわかったということになるのだ」と言うのです。そして次のように記しています。「『納得する』という言葉があります。『なるほど』と思うことです。『わかる』の別の表現です。あるいは『合点がいく』とも言います」。  興味深いことに、150年前の横井と同じことを主張しているのです。すなわち「知る」ということと「合点」がいくということとは違う。重要なのは、合点がいく・わかる、ということだと言うのです。 /n百人隊長と十字架  振り返って、百人隊長の姿と重ね合わせたいと思います。彼はイエス・キリストの言葉や行ないを聞いて知っていました。時には実際に目撃したかもしれません。知識は少なからず蓄積されていたのです。しかしイエス・キリストが神の子である。人の罪の救いをもたらす方である、ということに納得し合点していたわけではなかったのです。軍人としての職務を忠実に担い、十字架による死刑執行を遂行しました。だが、イエス・キリストの最後を目の当たりにした時、これまでの知識と経験が整理されて筋が通ったのです。イエス・キリストのそばに立ち尽くす中で「合点した」、「納得した」のです。その彼の口を突いて出てきた言葉が、「本当にこの人は神の子だった」であります。イエス・キリストの十字架が、百人隊長の心を変えたのです。 /n私達の信仰  さて、私達もイエス・キリストを知っています。聖書には次のようにまとめた形で紹介がなされています。 >> 「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、 正しくお裁きになる方にお任せになりました。 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。 わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。 そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(ペテロ一 2:22-25)。 <<  これが私達に示されているイエス・キリストの姿です。そのことを私達は聖書の言葉によって知っています。私達は知る者として毎日の経験を積み重ねています。特に十字架の出来事は、私達の合点すべき事柄として提示されているのです。納得する、信じる、ということによって、十字架のイエス・キリストは、ただ知るだけではなくて私達の内の一部とされます。  聖書に「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ」(エフェソ3:17)と書いてある通り、十字架のイエス・キリストを信じる時、それはイエス・キリストが私達の内に存在する時ともなるのです。 /n信仰は新しい人生の歩みの原動力  ところで,イエス・キリストを合点する・信じるということは新しい私達の人生の歩みの原動力となります。奇しくも先ほど引用した「横井」も「山鳥」の二人も同じことを言っています。横井は次のように言います「合点するいうことは、その理(ことわり)を自分のものにするということで、それによって、別のこと(もの)に接しても、その理は十分に通用する」。又、山鳥も次のように記します「『本当にわかった』ということは応用出来ます。知識はそのこと限りです。しかし知識の裏にある原理が理解出来れば、その知識は他の現象にも応用出来るのです。」まさにその通りです。 /n「キリスト我が内に在りて生くる」(ガラテヤ2:20)  聖書の言葉「イエス・キリストが我が内に生きる」ということ、イエス・キリストを信じる、合点するということは、知識のレベルにとどまらず、私達の生きる原動力として働くのです。どのような場面でそれが働くかに関しては、正解や見本はありません。  イエスキリストに生きる者一人一人において、千差万別のことがらで原動力となるからです。  強いて共通するものを挙げるとするならば、あの百人隊長と同じように、百人隊長と共に「イエス・キリストは神である」、と告白し、共に神を賛美するということではないでしょうか。(文責:佐藤義子)

「主イエスこそ、神から遣わされた方」 佐藤義子 牧師

/n[詩篇] 16章7-11節 7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。 8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。 9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。 10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 11 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。 /n[使徒言行録] 2章14-36節 14 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。 15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 16 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。 17 『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。 18 わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。 19 上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。 20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。 21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』 22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。 23 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。 24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。 25 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。 26 だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。 27 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。 28 あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』 29 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。 30 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。 31 そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。 32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 33 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 34 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。 35 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』 36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 /nはじめに  今日の聖書の見出しには「ペトロの説教」とありますが、この説教は、ユダヤ教の五旬祭(ごじゅんさい)の祭りに集まっていたユダヤ人に向けて語られた、聖霊降臨(せいれいこうりん)後の[世界最初のキリスト教] 説教です。 「聖霊降臨」という神様の約束の実現を目の当たりにした人達の反応は、しかし、二つに分かれました。一つの反応は、驚きとまどいながらも、なぜこのようなことが起こっているのか、と、その意味を知ろうとした人々です。そしてもう一方の反応は、外国語で話す弟子達を「酒に酔っている」とあざけり、それで片づけようとした人達でした。理性を重んじる人達にとって理性で理解できないことは、自分の側にではなく相手の側に問題があると考えます。聖霊を受けた弟子達の状況を見た時、彼らはそのことが理解できないゆえに、弟子達を酒に酔っていると判断したのです。 /nしるしの解き明かし   そこでそれまで座って語っていた弟子の一人ペトロは、他の11人の弟子達と一緒に立ち上がり、そこにいたすべての人々に声を張り上げて話し始めます。ペトロは、今が朝の9時であることに注目させました。敬虔なユダヤ人は朝の祈りの前には飲食をしないからです。  ペトロは「聖霊降臨」という不思議なしるしについて解き明かしました。14節で「ユダヤの方々、又エルサレムに住むすべての人達、知っていただきたい」と呼びかけ、22節でも「イスラエルの人達、これから話すことを聞いてください。」と呼びかけ、最後に29節で「兄弟達」と、この説教の結論を語っています。三回にわたる呼びかけによってペトロが語り伝えたことは、一つには、弟子達が外国語で語ったのは神様の霊が注がれたしるしであり、今、ここで聖書の預言が成就したこと、二つには、イエスこそ神から遣わされた方であること、三つには、十字架で殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったこと、です。 /n聖霊降臨は預言の成就  神様の霊が注がれることについては、旧約聖書のヨエル書3章で預言されています。この出来事はその実現だったのです。17節に「<span style="font-weight:bold;">終りの時に、私の霊を・・注ぐ</span>」とあります。この時、終末の時代に入ったということです。(今も終末の時代・ヨハネ?2:18参照)。終末は裁きの時です。救いに招かれる者と滅びに至る者が分けられる時です。21節には「<span style="font-weight:bold;">主の名を呼び求める者は、みな救われる</span>」とあります。聖霊は私達にイエス・キリストの名を知らせ、その御名によって神様に祈り求める教会(信仰告白共同体)を形成します。教会は祈ることができ、終末の為に備えます。 /n「<span style="font-weight:bold;">ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。</span>」(22節)  第二に語られたこの「イエスこそ、神から遣わされた方」は、説教の中心でもあります。これこそキリスト者の信仰です。続いてペトロは、「<span style="font-weight:bold;">神は、イエスを通してあなた方の間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなた方に証明なさいました。あなた方自身が既に知っているとおりです。</span>」と語りました。ここにいたユダヤ人はイエス・キリストがどのように生き、何をなさったかを見聞きしてきた人達でもあります。イエス・キリストの十字架の死と三日目に復活してその後40日にわたって弟子達に現れたことも、うわさとして広まっていたことでしょう。この日はイエス様が殺されて、わずか50日後のことでした。 /n主イエスは復活された。イエスこそ主・メシア(救い主)です。  最後にペトロは、詩編を引用してイエス様の復活を語りました。神様は、御子イエス様の魂を死の中に留めておくようなことはなさらない(27節/詩篇16:10)とあるように、「<span style="font-weight:bold;">神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。</span>」(32節)そして、「<span style="font-weight:bold;">だから、・・・はっきり知らなくてはなりません。あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。</span>」(36節)。  世界最初のこのキリスト教メッセージは、2000年後の今日も、全世界のキリスト教教会で、力強く宣べ伝えられています!

「十字架の始まり」 平賀真理子 伝道師

/n[イザヤ書] 53章4-6節 4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。 5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。 /n[マルコによる福音書] 3章1-6節 1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。 3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。 4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。 5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様に対する反対勢力がその反感をますます高めて、いよいよ大きな決断をするところです。イエス様が会堂に入られると、そこに片手の不自由な人がおりました。イエス様を陥れようとするファリサイ派の人々は、イエス様が安息日にこの人をいやされるかどうかを注目していました。もしもいやされたら、「安息日の治療行為は労働に値する」との律法違反として訴える口実になります。彼らの意図を十分ご存じの上で、イエス様は彼を憐れまれました。「真ん中に立ちなさい」。原語では「立ち上がって真ん中へ(来なさい)」です。この言葉は「救いのない『悪』の世界に留まらず、そこから立ち上がって、神様がお創りになった世界の真ん中にいる、本当に救うことの出来る『私』の前に来なさい。」との招きの言葉として聴くことが出来ます。 /nイエス様の招き  この招きは私達にも向けられています。「罪の世界から 抜け出て立ち上がり、救い主イエス様の前に進み出る」その決意と実行を主は求めておられます。この世は罪に覆われ、罪は神様からそれ、的はずれの生き方になります。「罪の世界」は神様との関係が壊れている為、最終的には人間関係を破滅させ、人は孤独の淵に追い込まれ、死に向かいたくなるのです。「罪の世界から立ち上がって、あなたを救おうとする救い主の前に来なさい」。求められているのはそれだけです。手の不自由な人にイエス様がかけた御言葉「立ち上がって、真ん中へ」。それは救いの恵みを与えようとされる神様からの愛のメッセージです。 /n「安息日」の本来の意味  「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」イエス様は人々にこう問われました。「安息日には『善』が行われ、『命』は救われるべきもの」という答えは明白でしたが、そのことを公けに言い表す勇気・素直さを持つ人は、一人もいませんでした。イエス様は怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみました。ファリサイ派の「自分達の考えに捕われる自己中心性」・「闇の中で画策する不正」、人々の「神様の本性である『善』や『命』や『正義』を知りながら、公然と言い表せない臆病さ、沈黙で逃げるずる賢さ」・・。これらはすべて神様側と全く逆の「悪魔の特性」です。イエス様を信じる私達は、「神様の御心を尋ね、御言葉に従う意志を持ち、信仰を公然と告白し、恵みとして与えられる神様の愛を感謝し、救いの御業を賛美し、何が神様に喜ばれることなのか、祈り求める」。そのような特性を持つ神様側に入れていただいています。一方的に与えられた恵みを心から感謝したいと思います。 /n神の御子イエス・キリストの十字架  イエス様は、イザヤ書に預言されたご自身の苦難と死を事前に知りながら、この地上では父なる神様の救いの業を成し遂げる為に御心に適うようにと働かれました。しかし人々はイエス様の示される「神様へ、その生き方の方向を改める-悔い改め」をしませんでした。イザヤ書の通り「道を誤り、それぞれの方角へ向かって行った」(53:6)のでした。この罪の特性は、神様を信じきれない不信仰、自分中心に流されて生きてしまう弱さ・醜さ、御子を十字架につける大罪へと又もや自分をおとしめていくことになります。しかし恵みと愛に満ちた神様は、私達のぬぐい難い罪を、イエス様の十字架の尊い犠牲によって救って下さいました。 /n十字架への道  今日の聖書は「神様の御心を求めず自分達の価値観を第一に考えてしまう自分勝手さ」、「イエス様を遣わされた神様を信じきれない、かたくなな不信仰」など、主の十字架への道の背景や状況が記されていました。しかし同時に「真ん中に立ちなさい」と、苦難も救いの栄光に変えて下さる全能の神様の招きの言葉をききます。その招きに感謝し、罪の世界から立ち上がり、主の御前に出て神様側の世界の真ん中へ入れていただきましょう!そして神様への信仰を告白し信仰の喜びを宣べ伝える者へと変えていただけるように聖霊の助けを祈り続けていきましょう。

「回心後のパウロ」 佐藤義子 牧師

/n[詩編] 3編2ー9節 2 主よ、わたしを苦しめる者は/どこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい 3 多くの者がわたしに言います/「彼に神の救いなどあるものか」と。〔セラ 4 主よ、それでも/あなたはわたしの盾、わたしの栄え/わたしの頭を高くあげてくださる方。 5 主に向かって声をあげれば/聖なる山から答えてくださいます。〔セラ 6 身を横たえて眠り/わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。 7 いかに多くの民に包囲されても/決して恐れません。 8 主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち/神に逆らう者の歯を砕いてください。 9 救いは主のもとにあります。あなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。〔セラ /n[使徒言行録] 9章19bー31節 19b サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、 20 すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。 21 これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」 22 しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。 23 かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、 24 この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。 25 そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。 26 サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。 27 しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。 28 それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。 29 また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。 30 それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。 31 こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。 /nはじめに  パウロは自分を、「アブラハムの子孫であり、生まれて8日目に割礼を受け、ベニヤミン族の出身でヘブライ人の中のヘブライ人です」(フィリピ3:5)と紹介し、更に、「私は先祖からの伝承を守るのに 人一倍熱心で、同胞の間では同じ年頃の多くの者よりも、ユダヤ教に徹しようとしていました。」(ガラテヤ1:14)と記しています。ヘレニズム文化の都市・タルソスで成長し、ギリシャ語に堪能でローマの市民権をもつ彼は、エルサレムの有名な律法の教師ガマリエルの門下生として、熱心なユダヤ教徒でした。 /nパウロの回心  その彼がダマスコ途上で復活の主イエスに出会い、主イエスを自分の主として受け入れたのです。パウロは変えられた自分を「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選びだされ、召されて使徒となったパウロ」(ロマ1:1)と記しました。彼はそれ迄の考え方「人が救われるのは律法を守るという行為による」のではなく「イエス・キリストを信じることによる」ことを知り、神の愛・キリストの愛が自分を見出してくれたことを知りました。自分には誇るものが何もないことを知ったのです。 /nダマスコで  回心したパウロは、ダマスコにあるユダヤ教の会堂で、「イエスこそ神の子である」と、旧約聖書のメシア預言がイエス・キリストにおいて成就したことを大胆に宣べ伝えました。 すぐさま驚きの反響が広がり、今度はパウロがユダヤ人から命をねらわれるようになります。ユダヤ人はパウロを殺そうと昼も夜も町の門で見張りましたので、キリスト者の仲間が夜の間にパウロを籠に乗せて城壁づたいに外へつり下ろしました。 /nエルサレムで  キリスト者パウロとして、彼は主イエスの弟子達に会いにいきますが、迫害者として名が知られていた為、弟子達はパウロに対して不信と恐れを抱きました。しかしバルナバはパウロを信じ、受け入れ、使徒達の所へ案内し、神様がパウロになさった出来事を説明しました。それによってパウロはエルサレムの使徒達と交わり、ユダヤ人伝道を続け、再びユダヤ人から命をねらわれます。そこで仲間達は彼をタルソスへ向かわせました。 /n「こうして教会はユダヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えて」(31節)   私達の伝道所の、祈りの目標がここにあります。聖霊は、父なる神と子なる神(キリスト)と並んで永遠の神です。この聖霊が慰め主であり、真理の霊としてイエス様がご自分の代わりに送って下さった霊です。聖霊の働き無くしては教会の存続も信仰者の誕生もありません。使徒言行録時代に豊かに注がれた聖霊が、私達の伝道所にも、そして私達一人一人にも豊かに与えられるよう、祈り求めましょう。

「アダムとエバと私たち」 元東北学院 院長 倉松功先生

/n[創世記] 3章1―13節、16―19節 3:1―13 1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」 2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」 4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。 5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。 8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、 9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」 10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」 11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」 12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」 13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」 3:16―19 16 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」 17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。 18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。 19 お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」 /n[ローマの信徒への手紙] 7章15―20節 15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。 16 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。 17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 /nはじめに  創世記一章の26節から28節にかけて、大変、重要な記事があります 「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』」そして、この人間以外のもの、海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うもの全てを支配し、治めと命じられました。人間が神にかたどり、似せて創られたことは、ユダヤ教やキリスト教が主張する「人間の尊厳」の根拠となっています。更に、人間以外のものを支配させようとの人間に対する支配の委託・命令は、「人間の尊厳」を強く固くしていると言えるでしょう。 /n創世記三章  ところが第三章では一転して、そのような人間が罪を犯し、罪に陥ることが記されています。最後の所で「(主なる神は)こうしてアダムを追放し」(24節)とあります。この追放というのは、アダムとエバが神に背いたということ、罪に陥ったという言い方も出来るでしょう。神に似せて神にかたどって創られ、人間以外のものを支配させようといわれたその人間が、神に背いて追放されるというのが、三章の内容です。  ご存知のように、イギリスの17世紀の詩人であるジョン・ミルトンが、失楽園(パラダイス・ロスト)という題で長い詩を書き、それにより、ここが失楽園と呼ばれるようになりました。人間が罪に陥り、楽園を追放されたその理由は何であったかということが、一つの問題点であると思います。 /n追放された理由  二つの理由が記されています。一つは、善悪を知る知恵の木の実を食べたからであること、もう一つは、神が取って食べるなといわれた木の実を食べたからということです。善悪を知る知恵の木の実を食べた。食べるなといわれたものを食べた。それで楽園を追放された、あるいは罪に陥る始まりだった・・なぜ知恵の木の実を食べて、罪に陥ることになったのか。 /n善悪を知る  幼稚園から大学-生涯、知恵の木の実を食べる、善悪を知ることは大事で、人間にとって最も必要なことです。現代社会において幅広い教養が必要であるし、更に、善悪を教え、善悪を知るということは重要です。 /n「それを食べると、目が開け、神のように・・なる」(1:4)  なぜそれを食べたのが悪かったかということは分かりにくいのですが、考えて見ますと「これを知ると神のようになる」との言葉が重要だと思います。人間は知恵が深まり知識が増え、善悪を知るようになったことによって、人間の世界・社会が、神のように何でも出来る、何でも行なう、いろいろなことをする。そういうことから危険をはらんでいく・・そういうことを含めているのかと想像します。いずれにしても、なぜ知恵の木の実を食べてはいけなかったのかということは、一つの問いとして残るように思います。それに対して、食べるなと言われた禁止命令に背いたと。これはもっと単純で分かりやすいように思います。 /n楽園追放の二つの理由  この話を主題としたミルトンの「失楽園」という詩の中では、食べるなと言った神の命令があることを知りながら、食べる方を選んだ「自由意志」を問題にしています。これを選んでこれを選ばない・・。これは人間の自由意志です。その選択の自由意志、これを問題にしています。ミルトンは、人間が自ら自由に神の命令に反することを選択した。ここに罪の原因があるというわけです。ミルトンによりますと、神に似せて造られた人間は、神について、あるいは善とか義とか、神の定めた律法について充分に知っていました。しかしそれを知っている理性に人間の意志は従わなかった。選ばなかった。これを問題にしています。そして私共は、ミルトンよりはるか前に使徒パウロが、人間の自由意志について、選択の意志について、同じようなことを語っているのを知っています。「善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ロマ7・18-)。パウロはさらに続けて「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(同24節)と嘆いているのです。このパウロの自由意志の無力についての嘆きを、宗教改革者ルターは「不自由な奴隷的意志」と呼んでいます。 /n神に感謝する  しかしパウロもルターもこの嘆きを覚えながら、キリストによる救いを与えて下さった神に感謝しているのです。「私達の主イエス・キリストを通して神に感謝しています」(25節)。自分の罪に嘆くその中で、パウロは神に感謝しています。ルターについて言えば、この奴隷意志・・意志が奴隷的だといった文章はルターの代表的な著作の一つになっています。一方では、人間の意志の奴隷的な性格を言いながら、他方では、神と人間が協力して、この世界を導いていくという思想を展開しています。パウロもルターも、選択の自由意志の罪ということを問題にしながら、しかし同時に救いを語っております。 /n選択の自由の限界  そのパウロやルターの時代よりも、17世紀のミルトンの時代よりも今日の私達の知識は豊かになり、情報が複雑、多様になり、善悪についても広く知るようになっています。それだけ私達の意志の選択が難しくなっている面があります。その難しさはとりわけ、企業や所属団体、国の内外の社会問題や政治問題における、善と悪・正と不正に見られます。しかし人間関係、宗教や信仰の問題において、あるいは人間の生活に関する局面において、パウロと私達とはあまり変わっているとはいえません。善意と悪意、愛と憎しみ、謙遜と高慢、何よりも自分自身の方に曲がっている自己愛・我欲などは、今日も聖書の時代と変わっているとはいえません。そうした日常生活の実態に目を向けますと、選択の自由の限界は明らかです。さらに選択の自由の不自由のみならず、欲する善を行なわない自由意志はどうなるのでしょうか。神はそのような私達の救いの為に、キリストを与えて下さっていることを私共は思わずにはおれません。それと共に、欲する善を行わずにいる生活に、救い、赦し、癒しがないとすれば、私達はどうなることでしょう。神の赦し、救いがないままで、自由意志の動くままに、自分の選びたいものを選んでいることになれば、知らないうちに心は荒廃し、神を畏れることもなくなるでしょう。私達はパウロと共に、神に感謝する生活を歩まなければならない、歩みたいと思います。そういう生活を与えられていることに感謝したいと思います。これが一つです。 /n悪の起源  もう一つ、ここで明らかにしておきたいのは、「自分の欲する善を行わず、望まない悪を行う」人間が、なぜ神によって造られたのか、です。悪の起源についての人間の問いは昔からあり、神は人間を創造する時、悪を行わず神に従って善を行うような意志をもつ人間を造るべきではなかったかという問いです。その問いに対する答えは長い歴史があります。結論だけを申しますと、例えば20世紀に出現したスターリンやヒトラーの全体主義の国家がしたように、いかなる反論も許さない。政治・信教・結社の自由がない人形のような人間と社会を、神は欲しなかった、ということがいえると思います。まさに人間に与えた自由意志によって、神は人間に尊厳を与えたのではないでしょうか。人間に選択の自由意志を与えることによって、初めて個性、その人自身の人格などが与えられたのではないかと思います。神が一律にスターリンやヒットラーのように、神の命令に一斉に従い、一斉になびくような、選択の自由意志のない人間を造ったとすれば、これこそ大変な社会-人形の社会になったと思います。選択の自由意志を持つ人間として造られたことは、そこに良心の自由、自由意志があり、それによって人間の尊厳、私自身の性格・特性・人格など・・が与えられていると見ることが出来ます。 /n救う自由はない  ただ、この自由意志は、選ぶことは出来ますが(善悪について)、自分の救いについて、救いを選び出す自由は持っていません。ですから選択の自由を誤った時は、心が荒廃し、神を畏れなくなりますが、しかしそれを救う自由というのは私共にはない。これがルターのいう「奴隷的」ということです。他方、今日の世界は、この「救いの自由」ではなく、人間の尊厳と選択の自由、信教の自由、結社の自由、良心の自由、それぞれの理由に基づいて、教会を作り、又、自分達に必要な団体を作っていくという事柄は、今日の世界文明の共通の価値になっています。それだけにアダムとエバに与えられていた「意志の選択の自由」という問題は今日も重要であるといえます。 /nアダムとエバへの罰則  第一の罰はへびに与えられました。蛇が人間に嫌われ、呪われるものとなっていることは、古代も今日も一般的なことかもしれません。第二の罰はエバに与えられたものです。女性の出産の苦しみと、男性に従えという男性への従属性です。女性の男性への従属性が罰となっている一つの起源は、創世記2章の、男を助ける者として、男のあばら骨の一部を抜き取って女を造ったという箇所によるでしょう。新約聖書でパウロは「女の頭は男。男は神の姿と栄光を映す者。女は男の栄光を映す者。」(1コリント11:3・7)と言っています。そのパウロが「主においては、男なしには女なく、女なしには男はない」と言っています。「キリストにおいて」ということによって価値の転換を言っているのです。 第三の罰は、男に対して、食べ物を得ようとして苦しむ。汗を流してパンを得る。労働の苦しみが神の命令に違反した罰として描かれます。日本を代表する新聞のフランス特派員が、フランス人のキリスト教徒は、労働は罪の罰だと捉えて、働くことをマイナスイメージで考えているとの報告を読んだことがあります。それはここからきているのでしょう。 /n新約聖書では・・  パウロは「働きたくないものは、食べてはならない」(2テサロニケ3:10)と語っています。東北を代表する思想家の一人、安藤昌益は「耕さざるもの、食うべからず。」と言い、福沢諭吉が、裕福な家庭に生まれてもぶらぶら暮らして衣食するのは道理に反すると戒めています。パウロはそれに続けて「自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対しても品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう」(1テサロニケ4:11-12)。つまり独立と品位を言っています。そして「労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」(エフェソ4:28)と言います。自分のお金で寄付し、困っている人を助けなさいというのです。パウロは働くことの意義を、1.働くことの尊さ 、2.独立と品位 、3.必要な援助、の三つをあげます。 /n神によって召しだされていることが天職  新約聖書では、働くことについて、結果を生む働きや職業ということだけでなく、それ以前に「一人の人間としてある」という意味で、天職(コーリング)と言っています。パウロはそれを「召された自分」(1コリント7:17)と呼んでいます。神が与えている使命、役割、それが「働く」ということにあるというのです。一人の人間が職業(定職につくかつかないかは別として)・・男であり、女であり、妻であり、夫であり、子供であり、両親である・・こういうことが、それ自体の中に神の召命、神の使命が与えられていることが、コリント第一の7章に記されています。 /n互いに仕えなさい  その上、人間のあり方として、自由を得るために、自由を与える為に、互いに仕えなさいと勧めています。一人一人のかけがえのない自由を、「奉仕する自由として用いなさい」が結論です。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。」(ガラテヤ5:1)。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。」(同13節)。 /nおわりに  失楽園の選択の自由意志の問題は、一人一人の人間の尊厳にかかわり、世界文明の価値です。他方この選択の自由は、欲しない悪を選ぶゆえに、赦しと救いを必要としています。 キリストによってそのような赦しと救いと、奉仕への自由という使命と課題を私共に与えて下さっています。そのことを覚えて、感謝しつつ、歩む者でありたいと思います。(文責:佐藤義子)

ペンテコステ礼拝 説教要旨  「約束の聖霊が降る」 佐藤義子 牧

/n[ヨエル書] 3章1-5節 1 その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。 2 その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。 3 天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。 4 主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。 5 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。 /n[ヨハネによる福音書] 14章15-26節 15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。 20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」 22 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。 23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。 25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。 26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 /nはじめに  本日はペンテコステ「聖霊降臨日」の記念礼拝です。聖霊降臨とは聖霊が私達人間の間に降ることです。今から約2000年前のユダヤ教の五旬節という祭りの日に、エルサレムで弟子達の間に降りました。この時の様子が使徒言行録2章に記されています。弟子達をはじめ、イエス様を信じる人々が集まって祈っていた朝、突然激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、家中に響き、炎のような舌が一人ひとりの上にとどまり、弟子達は聖霊に満たされて、エルサレムに来ていた大勢の人々に、彼らの出身地の言葉で、神様の偉大なわざについて語り出しました。この日、弟子達の言葉を聞いて信じてバプテスマを受けた人々が3千人にのぼり、このペンテコステが教会の誕生日といわれています。 /n預言の成就  聖霊降臨については紀元前5世紀に記されたヨエル書に「私はすべての人にわが霊を注ぐ」(3:1)と預言されていました。「わが霊」とは、神様の息・神様の力を意味します。「人」は神様が命の息を吹き入れられて生きた者になりましたが、その「神様の息」が「霊」という言葉です。 ヨハネ福音書でも、イエス様の告別の説教と呼ばれる14章から16章で、聖霊を与えて下さる約束と、聖霊の働きについて、語られています。さらに、イエス様が十字架で死なれ、三日目に復活されて天に昇られる前、使徒言行録1章4節で、イエス様は再び聖霊が降る予告をされています。そして、ついに約束は成就して、五旬節に弟子達の間に聖霊が降りました。 /n聖霊の働き  この時から今に至るまで、聖霊はたびたび信仰者の間に働かれています。特に使徒言行録では、使徒達が説教をした後で信じる人々が起こされること、神様への讃美と信仰告白が生れることを通して、聖霊の働きを見ることができます。今の時代においても、聖霊が働く時はいつもそこに、讃美と信仰の告白が生れるのです。 /n「聖霊」は、教え、キリストの言葉を思い起こさせる  今日の聖書で、イエス様は、「<span style="font-weight:bold;">あなた方は、私を愛しているならば、私の掟を守る</span>」(15節)。「<span style="font-weight:bold;">私の掟を受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である</span>」(21節)。「<span style="font-weight:bold;">私の父はその人を愛され、父と私とはその人の所に行き、一緒に住む</span>」(23節)。「<span style="font-weight:bold;">父がお遣わしになる聖霊が、あなた方にすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせて下さる。</span>」と語られています。聖霊は、私達がイエス様を愛し、互いに愛し合う時に私達と一緒に住んで下さり、私達を教え、イエス様の言葉を思い起こさせて下さいます。そして聖霊は「すべての人に」与えられる約束です(ヨエル書)。 /n応答としての信仰  ヨハネの手紙に、「私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛して、私達の罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者達、神がこのように私達を愛されたのですから私達も互いに愛し合うべきです。」(4:10-)とあります。信仰とは、神様の呼びかけに応答することです。私が神様を求める以前に、神様がすでに私達を見いだし、愛し、私達に呼びかけておられます。又、信仰とは、神様を信じ、イエス・キリストを信じることです。しかし、聖霊の働きなくしては、誰も「イエス様は私の救い主です」と告白できません(一コリント12:3)。それゆえ、イエス様は私の救い主である、と信じることができたならば、そこに聖霊の働きがあったことを知り、感謝して受けましょう。 /n聖霊の働きを見る  イエス様の約束通り、神様はイエス様の名によって「聖霊」を私達に送って下さっています(26節)。仙台南伝道所の歩みを振り返る時、数多くの神様の業を見ます(何よりも、教会のないところに教会の群れができたこと)。そこには、聖霊の働きがあったと告白せざるを得ない恵みが数多くありました。これからもあり続けるでしょう。  今日の聖霊降臨日にあたり、ここにいるすべての方が、聖霊を豊かに受けて、神様の業が私達を通しておこなわれますよう、祈るものです。

「夜中まで続く宣教」牧師 佐藤 義子

/n[詩編]78編1ー8節 1 わたしの民よ、わたしの教えを聞き/わたしの口の言葉に耳を傾けよ。 2 わたしは口を開いて箴言を/いにしえからの言い伝えを告げよう 3 わたしたちが聞いて悟ったこと/先祖がわたしたちに語り伝えたことを。 4 子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう/主への賛美、主の御力を/主が成し遂げられた驚くべき御業を。 5 主はヤコブの中に定めを与え/イスラエルの中に教えを置き/それを子孫に示すように/わたしたちの先祖に命じられた。 6 子らが生まれ、後の世代が興るとき/彼らもそれを知り/その子らに語り継がなければならない。 7 子らが神に信頼をおき/神の御業を決して忘れず/その戒めを守るために 8 先祖のように/頑な反抗の世代とならないように/心が確かに定まらない世代/神に不忠実な霊の世代とならないように。 /n[使徒言行録]20章1ー16節 1 この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。 2 そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシアに来て、 3 そこで三か月を過ごした。パウロは、シリア州に向かって船出しようとしていたとき、彼に対するユダヤ人の陰謀があったので、マケドニア州を通って帰ることにした。 4 同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコとセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった。 5 この人たちは、先に出発してトロアスでわたしたちを待っていたが、 6 わたしたちは、除酵祭の後フィリピから船出し、五日でトロアスに来て彼らと落ち合い、七日間そこに滞在した。 7 週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。 8 わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。 9 エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。 10 パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」 11 そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。 12 人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。 13 さて、わたしたちは先に船に乗り込み、アソスに向けて船出した。パウロをそこから乗船させる予定であった。これは、パウロ自身が徒歩で旅行するつもりで、そう指示しておいたからである。 14 アソスでパウロと落ち合ったので、わたしたちは彼を船に乗せてミティレネに着いた。 15 翌日、そこを船出し、キオス島の沖を過ぎ、その次の日サモス島に寄港し、更にその翌日にはミレトスに到着した。 16 パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである。 /nはじめに パウロは、エフェソの町のキリスト者達に別れを告げた後、海を渡り、マケドニア州に向かい、信仰者達を励ましながらギリシャにやってきました。ここで3カ月を過ごし、この期間の多くを実際はコリントの町で過ごしたと考えられています(この時パウロはロマ書を執筆したと伝えられています)。 そしてエルサレムに向かうパウロに、又も彼に対するユダヤ人の陰謀があったので、パウロはマケドニア州に戻りトロアスで同行者7名と合流し、別の道からエルサレムへ向かうことになりました。この同行者達はエルサレム教会の貧しい人々を助ける為に、それぞれ異邦人教会からの献金を託されてきた各教会の代表でした。(一コリント16:1-、二コリント8:1-参照) /n「騒ぐな。まだ生きている。」 パウロ達一行はトロアスで一週間滞在します。出発の前日の日曜日に聖餐式を行う為、キリスト者達が集まりました。階上の部屋には沢山の灯火がともされ、そこで、パウロの説教が夜中まで続きました。出窓に腰かけて聞いていたエウティコという青年は、説教の途中から眠ってしまい、三階から落ちて「起こしてみると、もう死んで」いました(9節)。 しかし、パウロは彼の上にかがみ込み、抱きかかえて「騒ぐな。まだ生きている」 と言いました。 パウロの行動は、旧約聖書の預言者エリヤやエリシャ(列王記上17:17-、同下4:18‐)、更にイエス様(マルコ5:35-)のなさった奇跡を思い起こさせます。私達の心は燃えていても肉体は弱いのです。伝道がなされる時、必ずといっていいほど伝道を妨げる出来事が起こります。しかしその時こそ、私達は全てに勝利されたイエス様の御力を信じて歩みたいと思います。 この出来事が起こっても、集会は妨げられることなく予定通り聖餐式が行われ、話は夜明けまで続けられ、青年は生き返りました。 /nパウロの話の内容 パウロはそんなに真剣に、眠ることも忘れて、何を語ったのでしょうか。 この後、エフェソの教会の長老を集めてこのように語る場面があります。「<span style="font-weight:bold;">役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなた方に伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、私達の主イエスに対する信仰とを力強く証ししてきたのです</span>」。つまり、彼の知る限りのすべて、体験を通して今も生きて働いておられるイエス・キリストの復活の力、神様に対する悔い改めを迫り(神に立ち帰るように)、困難に負けず、イエス・キリストへの信仰を守り抜くよう勧めたことでしょう。 /n私達の信仰 私達はパウロのように、自分の全存在をかけて、もし可能なら夜中迄、明け方までも、愛する家族に友人に、神に対する悔い改めとイエス・キリストに対する信仰を語り伝えたいと願っているでしょうか。或いは又、パウロの話に熱心に耳を傾ける群れの一員として、その時代に生きていたら、自分も明け方までパウロの話を聞きたかった!と願う、御言葉に対する熱心さがあるでしょうか。   ヨハネの黙示録に良く知られている言葉があります。「<span style="font-weight:bold;">私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている</span>」(3:16)。「<span style="font-weight:bold;">私は愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、私は戸口に立って、たたいている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼も又、私と共に食事をするであろう。</span>」(同19-20) /nパウロの一人旅 この後、パウロは一人、徒歩でアソスに向かいました。神様と向き合う静かな時を必要としたのでしょう。とどまることのない、疲れを知らないパウロの伝道は、「<span style="font-weight:bold;">生きるとすれば主の為に生き、死ぬとすれば主の為に死ぬ</span>」(ロマ14:8)彼の信仰からくるものですが、その源は、主イエスと同じように、一人、神と過ごす祈りの時でした。 信仰は「<span style="font-weight:bold;">求めよ、そうすれば与えられ</span>」ます(マタイ7:7)。私達も、神様から力をいただいて、愛する人達に、イエス様のことを力強く証ししていきましょう。

「神の前で生きる」 牧師 佐藤 義子

/n[イザヤ書]41章8-16節 8 わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。 9 わたしはあなたを固くとらえ/地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。 10 恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。 11 見よ、あなたに対して怒りを燃やす者は皆/恥を受け、辱められ/争う者は滅ぼされ、無に等しくなる。 12 争いを仕掛ける者は捜しても見いだせず/戦いを挑む者は無に帰し、むなしくなる。 13 わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う/恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。 14 あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ/イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。 15 見よ、わたしはあなたを打穀機とする/新しく、鋭く、多くの刃をつけた打穀機と。あなたは山々を踏み砕き、丘をもみ殻とする。 16 あなたがそれをあおると、風が巻き上げ/嵐がそれを散らす。あなたは主によって喜び躍り/イスラエルの聖なる神によって誇る。 /n[使徒言行録]23章1-11節 1 そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」 2 すると、大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた。 3 パウロは大祭司に向かって言った。「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか。」 4 近くに立っていた者たちが、「神の大祭司をののしる気か」と言った。 5 パウロは言った。「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています。」 6 パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」 7 パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂した。 8 サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。 9 そこで、騒ぎは大きくなった。ファリサイ派の数人の律法学者が立ち上がって激しく論じ、「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか」と言った。 10 こうして、論争が激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵士たちに、下りていって人々の中からパウロを力ずくで助け出し、兵営に連れて行くように命じた。 11 その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」 /nはじめに  パウロが、自分を襲ったユダヤ人達に話をさせてほしいと、千卒長から許可をもらい、ヘブル語で話した内容は自分についてでした。自分がどのような環境の中で、どのような教育を受け、どのように生きてきて、どのように主イエス・キリストと出会い、その後どのように主イエス・キリストに従ってきたのか・・。それが彼の信仰の証しであり「伝道」でした。 /n伝道  「伝道」は、救われた者の全てに与えられている「恵みの使命」です。パウロのように自分の生涯を語ること、自分の生涯にどのようにイエス様がかかわって下さったか、そして今もかかわり続けて下さっているか、イエス様をまだ本当に信じていない時の私はこうだったけれどもイエス様と出会ってからは、自分はこのように変わった、変えられたということを伝えることが出来たら幸いです。伝え方はいろいろあるでしょう。言葉で語ることが苦手でも、イエス・キリストを信じて従う中で働いて下さる神様の力があり、信仰によって変えられていく姿は、すばらしい伝道です。パウロの証しは、自分に働いた神様の恵みとイエス・キリストとの出会いを伝えることが目的でした。しかし話が「異邦人伝道」に及んだ時、再び群衆は、わめきだし上着を投げつけ騒乱状態に陥りました。 /n選民ユダヤ人意識  ユダヤ人にとって「律法」は、神から自分達選民に与えられた特別なものでしたから、その律法を、異邦人(ユダヤ人以外の律法を持たない民)伝道をしているパウロが、ないがしろにし、異邦人に律法を守らなくても良いと教えているとのうわさが広まって、パウロはユダヤ人から殺意を持たれていたのです。事実は、「律法に縛られていたパウロが、律法の精神を失うことなく、律法から自由にされた・・律法では救われず、信仰によって救われる・・」ということですが、律法主義に生きる者達には受け入れ難いことでした。それで話が異邦人伝道のことに及んだ時、騒ぎ出したのです。 /nローマの市民権  この騒乱状態を抑える為に千卒長はパウロを兵営に連れて行き、なぜ群衆がこれ程騒ぎ立てるのかパウロを訊問することにしました。訊問は拷問の後に行われていたので、パウロにもむち打ちが命じられました。パウロは、そばにいた百人隊長に「ローマの市民権を持つ自分に対して、裁判にもかけずにむち打ちをしても良いのか」と言いました。百人隊長はすぐ千人隊長に報告し、千人隊長はあわててそのことを確かめ、むち打ちと訊問を取り下げ、翌日、ユダヤ人議会が招集されました。 /n議会で  パウロは鎖を外され、議会で弁明の機会を与えられました。パウロは冒頭で、「兄弟達、私は今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」と語りました。人は生まれながらに「良心」をもっていますが、その良心は時にマヒし、或いは働かなくなる時があります。パウロが語る良心は、「神の前で生きる者としての良心」、「完全にはっきりとした、正しい良心」などと訳されます。パウロは次の章でもこう言っています「私は、神に対しても人に対しても、責められるところのない良心を絶えず保つように努めています」。キリスト者は、人の前で生きるより先に神の前で生きる者としての良心が与えられており、その働きが鈍らないように、パウロは日々努めていたのです。  この議会ではパウロが、ファリサイ派に目を向けて、自分は同じ復活の信仰をもつキリスト者であることを訴えました。その為、復活を信じないサドカイ派と、復活を信じるファリサイ派との間で論争がはげしくなり、千卒長は議会に軍隊を入れて、パウロを力ずくで助け出しました。 /n主の励まし  その夜、主の言葉がパウロに臨みました「勇気を出せ。エルサレムで私のことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」  今日、この世の荒波を受けつつキリスト者として生きている私達にも、イエス様は同じように「勇気を出しなさい」と励まして下さいます。今週も、この励ましの下で、良心に従って神の前で歩んでいきましょう

 「我は、主を見たり」 牧師 佐藤義子

/n[イザヤ書]55章6-9節 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。 天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。 /n[ヨハネ福音書]20章11-23節 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 /nはじめに イースターおめでとうございます。 今から約2000年前、イエス様は十字架につけられ殺されました。先週は、イエス様の地上での苦しみの足跡をたどり、その意味を改めて心に刻む時として受難週の黙想会を持ちました。 イエス様が十字架で殺されたのは、目に見える世界の出来事からみれば、ユダヤ人による「ねたみ」のためでした。しかし聖書はもう一つの、神様の御計画を伝えています。この十字架の意味を知ることこそ私達が本当の意味で「生きる」ことが出来るようになることを心に覚えたいと思います。 /n人間の罪 聖書が私達に語る第一のことは、神様がおられるということです。神様はこの世界(空・陸・海)を造られ、鳥や動物や魚を創造され、最後に人間を、神様に似せて創られました。神様に似せて創られた人間は、神様に従順に従って生きている限り平和が約束されていました。ところが最初の人、アダムとエバは、神様の言葉に逆らって自分の欲望を満足させました。これが「罪」の始まりです。 神様は、人間が神様に従い、幸せに生きていけるようにモーセを通して「律法」を与えられました。律法は、神様を愛し隣人を愛することを命じています。「神様を愛する」とは、神様を神様とする。神様でない偶像を拝まない。神様の名前を自分の為に勝手に使わない。神様を礼拝する聖日(日曜日)を大切に守る。そして神様が与えて下さった両親を敬うことです(両親は子供を正しく教え導く責任を持つ)。「隣人を愛する」とは、隣人の命を守る。隣人の家庭を守る。隣人の自由を守る。隣人の名誉を守る。隣人の財産を守ることです。ところが人間は、「律法」を守ることが出来ませんでした。人間は、神様の言葉よりも自分の感情や欲望を優先する生き方(罪の世界)へと堕落していきました。その結果、神様と人間の間には深い断絶ができ、人間は、神様の怒りの前に滅びるしかありませんでした。 /n目に見えない神様の御計画 しかし神様は、滅びるしかない人間に対して、救いの御計画をたてて下さいました。罪を犯していない神の御子の流す血によって、人間の罪をあがなうという道(滅びるしかない人間の罪を赦すという和解の道)を用意されたのです。この神様の救いの御計画を、人間が信じることができるように、神様は旧約時代から預言者たちを通して予告されました(イザヤやミカなど)。この預言の実現が、イエス・キリストの誕生と生涯・十字架の死と復活です。私達はイエス様の十字架の死によって罪が贖われ赦されたのです。この福音、この喜びのニュースを信じる信仰が与えられ、信じるものとされた時、私達は「神の民」の一員とされるのです。 /nイエス・キリストの復活 それは、十字架の死から三日目の朝、まだ暗い内のことでした。マリアはお墓に行き、イエス様の遺体がなくなっていたのを目撃してペトロともう一人の弟子に知らせました(2節)。二人の弟子はすぐ走ってお墓がからであることを確認して家に帰っていきました。ところがマリアはこの後もお墓の外で立ったまま泣き、泣きながら身をかがめてお墓の中を覗きました。中には二人の天使がいてマリアに声をかけますが、マリアは遺体がなくなったことだけを嘆いています。その時復活されたイエス様がお墓の外から(マリアの後ろから)「なぜ、泣いているのか。誰を探しているのか」と声をかけられました。マリアは、その声が誰かを知ろうともせず、遺体が戻ることだけを願っていました。イエス様が、「マリア」と呼ばれた時、初めてマリアはイエス様に気付きました。 /n「わたしは主を見ました」   絶望の中で泣いていたマリアに、イエス様は新しい使命を与えられました。それはイエス様の復活と、復活後、父なる神様のもとへ昇天されることを弟子に知らせることでした。  イエス様を復活させた父なる神様こそ、死に対して勝利した私達の父なる神様です。復活の出来事は私達を絶望から希望へ、空(から)の墓から天へと私達の目を向けさせます。

「律法を完成される方」 伝道師 平賀真理子

/n[申命記]10章 17-22節 あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。 あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。 この方こそ、あなたの賛美、あなたの神であり、あなたの目撃したこれらの大いなる恐るべきことをあなたのために行われた方である。 あなたの先祖は七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを天の星のように数多くされた。 /n[マルコによる福音書]10章 17-31節 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」 /nはじめに 今日の新約聖書は、二つの段落に分かれています。前半部は、金持ちの男の質問で、二つのことが問題となります。一つは、イエス様に対して「善い先生」と呼びかけに使った「善い」という言葉です。イエス様は「善い者」は神様お一人だけに当てはまる言葉であると彼を諭します。この金持ちの男は、「神様」を大事にしていると言いながら、実は、自分が有利になることで頭が一杯です。 /n金持ちの男の質問 もう一つは、「永遠の命を受け継ぐには何をするべきか」との問いについてです。聖書では、「永遠の命を受け継ぐ」と「神の国に入る」は、ほとんど同じ意味と捉えられています。罪に陥った人間を救ってくださったイエス様につながることで、「永遠の命が与えられる」=「永遠の命を受け継ぐ」と考えられています。 又、イエス様の十字架と復活の出来事によって、神様とつながることが可能になりました。神様の性質を受け継ぐことができ、神様の愛に満たされて過ごすことが出来る世界に入ることを「神の国に入る」と言います。 /n神の国に入る条件 イエス様は金持ちの男に、神の国に入る第一条件を示されました。それは、ユダヤ人なら誰でも知っている「十戒」の後半部分を守ることです。それを聞いた彼は、「そういうことはみな、守ってきました」と答えます。イエス様は彼をみつめ、慈しんで言われました。「欠けているものが一つ」と言われ、要求されたのは「持っている物を売り払い、そのお金を貧しい人々に寄付すること」で、その後で「イエス様に従う」ことでした。 「金持ちの男」は、このイエス様の招きに従いませんでした。彼は「永遠の命」を受け継ぐことに関心があり、イエス様に走り寄って質問したにもかかわらず、最終的には行動しませんでした。それどころかイエス様の指示に気を落とし、悲しみながら立ち去ったのです。 /n神様の愛 神様は、この世で弱い立場にある者を愛される方です。今日の旧約聖書(申命記)では、そういう人々の代表として、孤児、寡婦、寄留者(外国人)が挙げられています。彼らの人権、必要な食べ物や衣服への配慮が明確に記されています。弱い者を愛される性質、彼らに心を配り、助けようと行動される性質、それこそが、私達をも捉えて下さった神様の真髄です。イエス様が愛情を懸けられたのは、全て弱い立場にあった民衆や心身の障害を抱えた人々、障害ゆえに差別を受けていた人々でした。イエス様は、神様の本質を教えられ、福音の為に全身全霊を傾けられ、「律法を完成させる」という御自分の使命にあった答えをされたのです /n「人間にできることではないが、神にはできる。」(27節) 「金持ちの男」は、弱い(貧しい)人を愛するという神様の御性質に倣って、神の御子に従うという内容が、自分の欲求に合わず立ち去りました。 イエス様は、愛情を懸けたこの「金持ちの男」が離れていく様を見て、富に対する人間の執着が、神の国に入ることを阻止していると指摘されました。富だけでなく、人をこの世に縛るのは、安易な愛情、名声、簡単に手に入る楽しみなどが考えられます。その未練を捨てることの難しさは、「ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」ほどです。「金持ちの男」が求める、この世に合わせた基準や、悔い改めのないまま、神の国に入ることは絶対に無理であり、「人間にできること」ではありません。 悔い改めは、自分中心の生き方から神様中心に生きる生き方に方向転換することです。 この世の執着を捨てることは「出来ない」と考えている人間でも、悔い改めをもって真剣に救いを願うならば、「何でもお出来になる神様」は、どのような者でも「お救いになることが出来ます」。 「世界の主権は神様にある」ことを再確認し、そのような神様に、私達は眼を懸けていただいている、その恵みに感謝して歩みたいと思います。(後略)。