「神の力と知恵であるキリスト」 佐藤義子 牧師

/n[イザヤ書] 29章13-14節 13 主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。 14 それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」 /n[コリントの信徒への手紙一] 1章18-25節 18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」 20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。 21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。 22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様の十字架について、神様の御計画の意図を伝えているところです。神様はこの世界と人間を創られました。しかし人間は罪を犯し、不完全なものとなり、完全なる神様との関係は断絶されました。罪をつぐなうことのできない人間に、神様との和解の道はありませんでした。しかし神様は人間を愛して下さるゆえに、独り子であるイエス様をこの世に送って下さり、イエス様は、父なる神様の御心に従って人間の罪の償いとして十字架にかかり、死をもって神様の赦しを私達人間に与えて下さいました。これによって私達は、もう一度神様につながることができるようになりました。イエス様が<span style="font-weight:bold;">「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」</span>(ヨハネ福音書14:6)と語っている通りです。それゆえに私達は自分の罪を悔い改めて、イエス様を信じることによって救われます。罪が支配するこの地上に身を置く私達ですが、信じる者は神様の支配する神の国の民とされ、神様のご支配の中で生きるのです。 /n伝え続けていること  教会は、この福音を2000年間伝え続けてきましたし、仙台南伝道所でも、神様が天地を創られ、世界を創られ、人間を創られ、生きて働いておられること。神の独り子であるイエス様が地上に遣わされ、目に見えない神様のことを目に見える形で教えてくださり、人間がどのようにして生きるべきかを身を持って示されたこと。そして、私達の罪をあがなうために十字架の死を迎えられたこと。しかし死んだ後、三日目に復活し、天に昇り、神様の右の座につかれ、今は、信じる者に聖霊を送って下さっていること。この聖霊が私達と神様およびイエス様との間をとりなして下さり、日々、導いてくださること・・を使徒信条の告白を通し、説教を通して伝え続けています。 /n<span style="font-weight:bold;">「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私達救われる者には神の力です」(一コリント1:18)</span>  この言葉から、福音が、この世の知恵や知識ではないことが明らかにされます。聖書が伝えているのは、人間の救いについてです。イエス・キリストの十字架が示すものは、人間の罪の赦しであり、神様の愛であり、神様の知恵、力なのです。なぜ神様は、人間にとって最も大切な救いへの道に、「神の子としての崇高な姿」を印象づけるような道ではなく、「十字架」を置いたのでしょうか。その答は<span style="font-weight:bold;">「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」</span>(同1:19 および イザヤ書29:14参照)からです。自分の力で神様を知ろうとする人の知恵や賢さは、神様によって滅ぼされるとイザヤは預言しました。昔も今も、知識人、学者、この世の論客は沢山います。頭脳明晰な、天才、秀才、博士と呼ばれる人達も多くいます。しかし十字架を理解するのは、この世の知識ではありません。目を上にあげ、神様が「私の創り主」であることを知り、自分の小ささを知り、神様の前にへりくだることがないなら十字架を理解することはできません。人間の知恵・知識の進歩と、神様への知識は比例しません。 /n<span style="font-weight:bold;">「神の愚かさは、人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」</span>(同25節)  神様は何でもお出来になります。しかし神様はご自分の力を、人間の目から見れば愚かにしか見えない十字架という形で示されました。十字架にかかったイエス様こそが神の御子であり、救い主であるのです。その十字架を「愚か」としか見ない者は滅びの道に進み、十字架を、「神の力・神の知恵」として信じる者は救われます。私達の取るべき道・・。それは、<span style="font-weight:bold;">わたし</span>の罪の為に十字架にかかって下さったイエス様を<span style="font-weight:bold;">わたし</span>の救い主として信じ、告白し続けることです。十字架には神様の隠された力と知恵と、限りない神様の愛があります。

「新しく造り変えられる」 西谷幸介先生(青山学院大学)

/n[コリントの信徒への手紙二]5章17節 17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 /n[コリントの信徒への手紙二]3章17-18節 17 ここでいう主とは、““霊””のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。 18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。 /nはじめに  皆さん!今の自分でいいのでしょうか?  これは誰もが自分と向き合い心の奥底で自問する時に、絶えず発せざるを得ない問いです。学生さんで言えば、「とりあえずは家族に守られている。親から愛してもらい、経済的にも何とか支えられている。だから今の自分で問題はない」。働いておられる方で言えば「職場も何とか無事だ。上司や同僚とも適当にうまくやれているし、部下も何とかリード出来ている。家族もそこそこに幸せに暮らしている。だから今の私の在り方で良いはずだ。」・・と感じておられるかもしれません。しかしそのように何とはなしの確認でごまかしがきかないのが、生身の人間としての「私」という人間です。本当にこれで良いのか?と、深く自分に問うている私がいます。 /n私の告白  私自身も過日、家族と会話をしながら、自分自身の「父親」としての在り方について深く反省させられる言葉を受けました。この年になり、なおしようがないと半分居直り気分で苦笑いしながら聞いていましたが、しかしそれでは済まない自分自身がそこにいることも感じました。この年にこんな言われ方をしなければならない自分自身の人間として又、キリスト教徒としてのあり方・・。その根本においてどこか本筋からずれているところがあるのではないかと思わされました。もう一度洗礼を受け直すことは出来ませんが、日々これではいけない、出来れば変わりたい、いや、ここはどうしても変えなければいけないというのが自分で分かっている。そのことを先ず、私自身が告白をしてお伝えしておきます。 /n新たに変わる  この礼拝で改めて申し上げたいのは、キリスト教は、人は神様から人を生かし造り変える霊の力、御霊(みたま)の力をいただいており、そのことによって自分自身が新たに生まれ変わっていくことが出来るし、又そうでなければならないし、又そのことが許されていることを伝える宗教であることです。  そのことを集約した聖書が、最初に読んでいただいたコリントの手紙二、5:17「だから、キリストと結ばれる人は、誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。口語訳では、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎさった、見よ、すべてが新しくなったのである」です。キリストと結ばれる人は誰でも新しく創造された(る)ものなのです。 /n「新しく造られた」  「新しく」と言われる言葉には、あるニュアンスが込められています。新約聖書原語のギリシャ語では「新しい」という言葉には二つあって、一つは「ネオス」、もう一つは「カイノス」といいます。「ネオス」は英語ではニュー(new)という言葉で受け継がれています。  ニューとは、例えば古いテレビをデジタル放送用の新しい機種に変えるなど、新品に取り換えるというような時、使います。ここでの「新しく」は「カイノス」が使われています。それを表わす英語は「フレッシュ」(fresh)です。著者の使徒パウロは、コリントの教会の人々に向かって「誰でもキリストにあるならば、その人はフレッシュに造り変えられるものです。古いものであっても、見なさい、すべてフレッシュになる存在に変わっていくことができるのです。」との言葉を発したのです。  「ニュー」は古いものから新しい違ったものに取り換えるという意味合いが強いのに対して「フレッシュ」は同じものであるのに、古い状態から新鮮な、真新しい状態に変えられるということを意味します。 /n新しいものへの恐怖  私達人間には、多かれ少なかれ、新しいものに対する恐怖心や、おっくうさや嫌悪感というものが潜んでいます。古いもので慣れ親しんできたものの方を心地良いという感覚、態度があります。しかし古いものに留まるという状態が、それにしがみついて離れられないというところまでいきますと、又、多くの弊害が生じてきます。精神医学では、新奇性恐怖症というのがあって、新しいものに全く対応できない病気として確認されています。それを乗り越えさせる根本的な治癒の力としては、人間は新しく変わることが出来るし、変わって良いのだ、そういう認識があるのだ・・そのように思うことが出来れば乗り越えられます。とにかく、人間は「新しく変わり得る」ということへの無知が、啓蒙(けいもう)されなければならないと思います。 /n古い状態(幼虫)から新しい状態(成虫)への変化  人間が造り変えられる、「カイノス」(フレッシュ)ということをしっかり教えてくれるのは、コリントの手紙二の3:18です。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」。  ここで「造り変えられていく」というギリシャ語は「メタモルフォーメタ」という言葉です。小学校か中学校の頃、理科の時間に昆虫の変体ということを勉強してメタモルフォーゼ(ドイツ語)という言葉を習いました。その動詞が「メタモルフォーメタ」です。  神様の、霊の力を受けて人間が新しく造り変えられるという時に、今迄の自分とは異なる、ニューなものに取り換えられるというのではなくて、この同じ私が、古い状態から全くフレッシュな状態に変えられていくことを示しています。昆虫が成虫になった姿、幼虫の時の姿とは、とても似つかないほど変化(変体)します。メタモルフォーゼをやり遂げるのです。しかし、神様にいただいた元々の命はそのまま同じものです。 /n日本人の感覚  日本人がキリスト教になかなかなじめないという理由の一つに、キリスト教自体がまだ外国の宗教というイメージで、何となくおっかないという感覚があるかと思います。しかしそれ以上に、キリスト教に入信すると、あまりにも突然、自分が自分でない者にさせられてしまうのではないか・・。そういう感覚が日本人の中にあるのではないかと思います。自分離れ、人間離れ、日本人離れにさせられてしまうのではないか、という恐怖感につきまとわれていることがあるのではないかと思います。  教会で40年以上、キリスト教大学では30年近く、学生・教職員を含めた未信者の方々に接してきて、日本人はそういうイメージが強いのではないかと思わされました。しかしキリスト教の教えは決してそのように怖がらせるものではないことをご理解いただきたいと思います。 /nキリスト教は「接ぎ木型」宗教  聖書にありましたように、私達は「自分である」ということを失うことなく、それでも、その自分が新しく造り変えられていくということが約束されている。変わっていってよい、と許されている。それを言う宗教がキリスト教です。しかもそれは突然の変身ではなく、ゆっくりとした変化や成長でも良い。その意味で日本人にとっては、キリスト教は「根こそぎ取り換え型」の宗教ではなくて、「接ぎ木型」の宗教だと言ってよいかと思います。日本人であれ何人であれ、その人が培ってきた良い人間性が、神様に繋がった後も祝福され、キリスト教信仰の中に受け止められて生かされていくのです。 /n新生  私は青山学院に繋がることになりましたが、青山学院はメソジストと呼ばれるキリスト教の流れにあり、その流れを切り開いたのがイギリス人牧師ジョン・ウェスレーです。実は、私自身がこのウェスレーが強調した「新生」「新しく生まれ変わる」を強調したアメリカの福音的な宣教師の先生から洗礼を受けました。そのウェスレー自身が「新生というのは短い時間に起こる第一の大切な神様の業であって、その後、信じた者が神様によって聖化、清められていく過程は、徐々に魂の中で行われていく全身的な業である」(新生は神様がその人にさっと与えてくれる新しい変化だが、清められていく過程は、徐々にゆっくりでよろしい)と言っています。 /n「主と同じ姿に・・」  コリントの手紙二の3:18に、私達は造り変えられていくけれども、その目標、お手本に、主イエス・キリストのお姿があると述べられています。「私達は・・主と同じ姿に造り変えられていきます。」 ここが難しいと思います。  私は洗礼を受けて40年以上、按手礼を受けて牧師になって30年以上になりますが、先ほど申しましたように家族から意見されてぐうの音も出ない。深く反省させられるのは、私達が造り変えられ得るその先にある理想の姿、主イエスと同じ姿がそこにあるからぐうの音も出ない。私達の現実の姿は、この主イエス・キリストから何とかけ離れているのでしょうか。 /n主イエス・キリスト  主イエスは愛の人であられました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ福音書15:13)とおっしゃって、これを文字通り実践して下さり、私達罪人を友として、その罪からの救いの為に、その贖いの為に自らの命を投げ出して下さった方であられました。  生身の人間である私達が、この愛を行うことがいかに不可能であるか私達は知っています。人間はいかに罪深い者か・・どんなにそれを語っても語り切れません。そういう現実があります。しかし主イエスのお姿と私達の落差にばかり気をとられて、ため息をつくばかりでは、神様が望んでおられる生き方ではないのです。  変えられることに怯み(ひるみ)、変えられることを怠ることは、やめなければいけないのです。今、私に出来ることから始める。たとえば、私の周りにいる、私が気になっている人への態度を変える。思いやりを持つ。いつもその人に投げかけている言葉使いを変えてみる。そういうことから始めなければいけない。確かに、十字架の死に至るまで罪人への愛を貫徹された主イエスと同じ姿に変えられていくということは至難の業です。しかしそれでも尚、私達はその姿を目標に、それに一歩でも近づくように神様の、その霊の力によって変えられたい、変えていただきたいと祈りたいと思いますし、ほんのちょっとした変更を加えていくことをしたいと思うのです。  それが神様の私達への恵みのお招きであるからです。この恵みのお招きは、立場・年齢にかかわらず、一切区別・差別はありません。  相当な年齢であったはずのユダヤの国会議員ニコデモが、「年寄りがどうして生まれ変われましょう。」と言った時に、主イエスの返事は、「『人は、新たに生まれねばならない』と言ったことに驚いてはならない。」「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と、言われました(ヨハネ福音書3章)。 /n未見(みけん)の我  岡山の聖心女子大学学長をされたシスターの渡辺和子先生の文章の中に「80歳を越えました。それでも尚、私は日々、未見の我が現れるのを日々楽しみにして生きている」とありました。年齢に拘わらず、未だかつて見たことのない自分への期待を持つというわけです。これこそ「神様の御霊の働きへの、キリスト教徒の信仰」ということになるかと思います。この、新しい生き方への希求、そういう望み、これは個人の範囲にとどまるものではなく、その個人を取り巻く周囲にも広がるものです。一人が変われば周りも変わる。  ウェスレーは、「キリスト教は社会的宗教である」といいましたが、社会活動するということだけではなくて、一人が変われば周りも変わっていく。そうして社会全体がキリスト教的に良い方向に造り変えられていくことを彼は望んだのです。  自分でありながら、今までの自分になかったような新しいものが自分の中から現れてくる。そしてそれは人を喜ばせ、神様にも喜んでいただける。だからつい自分も楽しくなる。嬉しくなる。こういう人間の救いの経験を私達は味わわせていただかなければならないと思います。 /n「これは主の霊の働きによることです」(3:18)。  神様の霊の働きを受けるということは、そういうことが可能になる、許されている、ということをウェスレーは強調したわけです。 かつて銀座教会で牧会された旧約学者の渡辺善太先生が「今の俺 俺は俺でも この俺は キリスト知りし後の 俺でない俺」と歌いました。私達は、変わることに躊躇してはいけない。周りの人が驚いても、そんなことに躊躇してはいけない。変わるべくして、変わっているのです。  幼虫が成虫に変わる時に、今迄と全然違う形になるように、そういう鮮やかな変身をとげることが許されている、ということがキリスト教の福音のメッセージだということを覚えていただきたいと思います。

「話をさせてください」 牧師 佐藤 義子 

/n[コヘレトの言葉]3章1-8節 1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 2 生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時 3 殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時 4 泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時 5 石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時 6 求める時、失う時/保つ時、放つ時 7 裂く時、縫う時/黙する時、語る時 8 愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。 /n[使徒言行録]21章27-40節 27 七日の期間が終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動して彼を捕らえ、 28 こう叫んだ。「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」 29 彼らは、エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。 30 それで、都全体は大騒ぎになり、民衆は駆け寄って来て、パウロを捕らえ、境内から引きずり出した。そして、門はどれもすぐに閉ざされた。 31 彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、守備大隊の千人隊長のもとに届いた。 32 千人隊長は直ちに兵士と百人隊長を率いて、その場に駆けつけた。群衆は千人隊長と兵士を見ると、パウロを殴るのをやめた。 33 千人隊長は近寄ってパウロを捕らえ、二本の鎖で縛るように命じた。そして、パウロが何者であるのか、また、何をしたのかと尋ねた。 34 しかし、群衆はあれやこれやと叫び立てていた。千人隊長は、騒々しくて真相をつかむことができないので、パウロを兵営に連れて行くように命じた。 35 パウロが階段にさしかかったとき、群衆の暴行を避けるために、兵士たちは彼を担いで行かなければならなかった。 36 大勢の民衆が、「その男を殺してしまえ」と叫びながらついて来たからである。 37 パウロは兵営の中に連れて行かれそうになったとき、「ひと言お話ししてもよいでしょうか」と千人隊長に言った。すると、千人隊長が尋ねた。「ギリシア語が話せるのか。 38 それならお前は、最近反乱を起こし、四千人の暗殺者を引き連れて荒れ野へ行った、あのエジプト人ではないのか。」 39 パウロは言った。「わたしは確かにユダヤ人です。キリキア州のれっきとした町、タルソスの市民です。どうか、この人たちに話をさせてください。」 40 千人隊長が許可したので、パウロは階段の上に立ち、民衆を手で制した。すっかり静かになったとき、パウロはヘブライ語で話し始めた。 /nはじめに  今日の聖書箇所の前に、パウロについての誤解ある噂(パウロが律法に背くように教えている)を取り除く為の、エルサレム教会指導者達の提案が記されています。パウロはその提案を受け入れて、律法に従い、誓願を立てた四人の人達と共に神殿に入りました。ところが七日の清めの期間が終わろうとしていた時、アジア州から来たパウロに敵意を抱いていたユダヤ人達がパウロを見つけ、しかもパウロが神殿のおきてを破って、ギリシャ人(=異邦人)を神殿の中に入れてしまったと叫び、群衆を扇動してパウロを捕えてしまいました。この新たな誤解はたちまちうわさとなって、町中に拡がり、町は大混乱に陥りました。 /nローマの軍隊によって死を免れたパウロ  パウロが神殿のおきてを破って異邦人を神殿に連れ込んだとの、うわさの真偽が確かめられないまま、パウロは神殿の境内から引きずり出され、裁判にもかけられず、リンチが行われ、殺されそうになりました。この時丁度、五旬祭というユダヤ教の大きな祭りの時期に入っていたので、警戒中のローマの軍隊がこの騒動を聞き、千人隊長および百人隊長と兵士達が神殿に駆けつけ、パウロの身柄を拘束しました。千人隊長は、パウロが何者で何をしたのかを群衆から聞き出そうとしますが、群衆は叫び続け、真相をつかむことは出来ませんでした。 /n「どうか、この人達に話をさせてください」  千人隊長は兵士達に、パウロを兵営に連行するよう命じますが、興奮した群衆の暴力が止まず、兵士達はパウロを担がなければならないほどでした。パウロが四人を連れて神殿に出かけたのはパウロの意志からではなく、エルサレム教会の指導者達の考えから始まったことです。その結果、大事件へと発展してしまったのです。しかしパウロは、これまで常に考え、祈り、大胆に行動してきました。思うような結果にならなくても、彼は「<span style="font-weight:bold;">神を愛する者達、つまり、ご計画に従って召された者達には、万事が益となるように、共に働くと言うことを、私達は知っています</span>」(ロマ書8:28)と語っています。パウロは今、 殴られ、傷だらけの中で、さらには、ユダヤ人の憎しみと怒号を受ける中で、近くにいた千人隊長に「一言お話しても良いでしょうか。」と話しかけたのです。そして自分がタルソス出身でユダヤ人であることを話し、自分の願いを申し出ます。「どうか、この人達に話をさせてください」。 /n「福音のためなら、どんなことでも・・」  パウロは、普通なら考えられない場面で「話をさせてくれ」と頼んでいます。それは「<span style="font-weight:bold;">福音のためなら、わたしはどんなことでもします</span>」(一コリント9:23)と語るパウロが、自分を捕えようと集まって来た群衆の何人かでも、救われる人が起こされるための行動でした。私達はここに、パウロの一貫した伝道者として生きる姿を見ます。 /n神様のご計画  パウロは、外国でもエルサレムでも、どこにいても全く変わることのない一人のキリスト者として、福音を伝える使命を帯び続けて歩みました。それゆえ神様はパウロが願い望んでいたようにローマ伝道への道をこの事件から開かれるのです。  私達も又、目に見える状況がいかにあっても、すべては神様がご存じであり、神様のご計画の中に置かれていることを信じて歩み続けたいと思います。そして今、自分がなすべきことを神様から教えていただき、肉体の限界の中でもなお「話をさせて下さい」とのエネルギーを神様が用意されていることを覚えたいと思います。

「パウロとアグリッパ王」 牧師 佐藤 義子

/n[イザヤ書]1章2-4節 2 天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。 3 牛は飼い主を知り/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず/わたしの民は見分けない。 4 災いだ、罪を犯す国、咎の重い民/悪を行う者の子孫、堕落した子らは。彼らは主を捨て/イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。 /n[使徒言行録]26章24-32節 24 パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」 25 パウロは言った。「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。 26 王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。 27 アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」 28 アグリッパはパウロに言った。「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」 29 パウロは言った。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」 30 そこで、王が立ち上がり、総督もベルニケや陪席の者も立ち上がった。 31 彼らは退場してから、「あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない」と話し合った。 32 アグリッパ王はフェストゥスに、「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに」と言った。 /nはじめに  総督がアグリッパ王の願いを受けて、町の主だった人々も集めてパウロを鎖をつけたまま引き出し話をさせた時、パウロはまず、自分がユダヤ人として幼い時から旧約聖書を学び、厳格なファリサイ派の一員として律法に忠実に従い信仰生活を送ってきたこと、そしてキリスト教徒達をひどく迫害してきたことを告白します。その迫害している最中に、天からイエス様の声を聞き、イエス様が神の御子、救い主であることを伝える使命を与えられたこと、彼はこの使命を受け入れて、それに従ったことを語りました。彼がしてきたことは、人々に、今の生活を悔い改めて神様のもとに立ち帰り、神様に喜ばれる行いをするようにという勧めでした。彼の宣教は「救い主は苦しみを受け、又、死者の中から最初に復活して、全ての人に光を語り告げることになる」ということを伝えたのであり、自分は、聖書に書かれていること以外は何も語らなかったと、堂々と伝道したのです。 /n短い時間で・・  ところが話を聞いていた総督が大声で、「お前は頭がおかしい」と話を中断しました。パウロは総督に、自分は真実で理にかなったことを話していると答えた後、今度はアグリッパ王に向かって、「ユダヤ人なら誰でも知っているイエス・キリストの十字架と復活、又、聖書に書かれているメシア(救い主)の預言のことなど、王様、あなたなら知っている筈だ」と語りかけました。「預言者達を信じておられますか。信じておられることと思います。」と、突然パウロからほこ先を自分に向けられた王は、心の準備もないまま、「短い時間で私を説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」と、パウロの問いから逃げてしまいました。 /nパウロの訴え  私達も又、この王のように、真理の言葉を聞きながら、そして自分に問われているのに他人事のように聞き流してしまうことが多くあるのではないでしょうか。根拠のない安心感の中にいた王は、「短い時間で・・」と、答えないことの弁解をしましたが、パウロはすかさず、「短い時間であろうと長い時間であろうと・・」と、救われる信仰に「時間の長さ」は関係ないこと、パウロの願いと祈りは、王様はじめその場に集まったすべての人達が、自分のように光の世界で生きてほしい、悔い改めて神のもとに立ち帰って欲しい、そして悔い改めにふさわしい行いをして欲しいことだと訴えました。 /n救いのチャンスを無駄にしないためには  このあと、アグリッパ王は席を立ち、パウロの話は終りました。王は、パウロの語る真理の世界(光の世界)から逃げて、再び暗闇の世界に帰ってゆきました。「あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない」と評論家のように語り、自分が救いのチャンスを逃したことに気づいていません。パウロの説教を聞きながら、彼は、闇の世界と光の世界について一瞬でも考えたことでしょう。今のままでよいのか、と自分の心に問うたかもしれません。しかし彼は自分の心の奥を、深く見つめることをやめて、神のもとに立ち帰り悔い改めにふさわしい新しい生き方を選ぶチャンスを逃してしまったのです。せっかく心に救いの種が蒔かれたのに、その種は、鳥に持っていかれ、跡形もなくなってしまいました(マタイ13:18)。  私達は、大切な問いから逃げることなく、蒔かれた種が実を結ぶ土壌にしていただけるよう、救いの道を励んで歩みたいとねがうものです。

「主として受け入れる」    伝道師 平賀真理子

/n[詩編]25編12-21 主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。その人は恵みに満たされて宿り/子孫は地を継ぐであろう。主を畏れる人に/主は契約の奥義を悟らせてくださる。 わたしはいつも主に目を注いでいます。わたしの足を網から引き出してくださる方に。 御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。 悩む心を解き放ち/痛みからわたしを引き出してください。御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください。 御覧ください、敵は増えて行くばかりです。わたしを憎み、不法を仕掛けます。 御もとに身を寄せます。わたしの魂を守り、わたしを助け出し/恥を受けることのないようにしてください。 あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら/そのことがわたしを守ってくれるでしょう。 /n[マルコによる福音書]9章30-37節 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」 /nはじめに イエス様一行は、フィリポ・カイサリア地方から南の方に移動を始められました。フィリポ・カイサリアは、ペトロが初めてイエス様を「救い主」と告白した場所です。その事でイエス様は、神様の大事なご計画「神の御子が多くの苦しみを受け、殺され、三日後に復活する」ことを、弟子達に明かされました。「イエス様の十字架と復活による人類の救い」が、いよいよ具体的に動き始めてきたのです。 /n弟子達の無理解 その道中で、イエス様は弟子達にご自分の「受難の死と復活」について二度目の預言をされ、「(わたしは)人々の手に引き渡され、殺される」と付け加えられました。それでも弟子達はイエス様が「苦難の僕としてのメシア(救い主)」であることを理解せず、イエス様は「ダビデ王のような栄光のメシア」であるとの先入観の中にとどまっていました。「イエス様は、神様への従順を通して復活という栄光を得られる」との奥義を理解した弟子は一人もいませんでした。さらに誰ひとり「詳しく教えて下さい!」と頼むこともしませんでした。「弟子達はこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(32節)からです。 <当時の弟子達だけでなく、私達も又、主の御心が分からないといって、ただ恐れるのでは、その距離は広がるばかりではないでしょうか。> 弟子達が、カファルナウムにある家に到着するまでの間、議論していたことは、仲間内で誰が一番偉いかということでした。「何を議論していたのか」とイエス様に問われ、弟子達は答えられませんでした。それが主の御心に添わないことだと分かっていたからです。 /n「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える人になりなさい。」 そこでイエス様は、再び神の国の人間の価値について教えられました。 神の国は神様が共におられる世界です。神様の愛は、弱い者や力のない者に注がれます。そして打ち砕かれ、へりくだる霊の人にご自分の命を得させると語られます。(イザヤ書57:15)。 イエス様は、一人の小さな子供を弟子達の前に立たせ、抱き上げて言われました「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。 子供は社会的に見て、最も弱く、力のない存在です。この世の損得や、大人の目線で考えれば、子供を受け入れることは損を被ることになります。しかし神様の目では、子供は最も愛すべき歓迎すべき対象であり、喜びです。 「わたしの名のために子供を受け入れる」とは、イエス様の十字架と復活を通してイエス様が贖い主であられることを知った上で、弱さ、不利益を抱える者を受け入れることです。それは、「苦難の僕としてのイエス様」を受け入れることであり、同時に、イエス様を遣わした父なる神様を受け入れることでもあります。 /n受け入れる 「受け入れる」という言葉は「ウェルカム」という歓迎の意味を含んだ言葉です。 私達はイエス様を「主」として歓迎しているでしょうか?生活の中心として仰いでいるでしょうか? イエス様が子供を抱き上げられたように、その弱さ・小ささ・無力さゆえに子供をいとおしんで大事にすることこそ、「主」を「主」として歓迎して生きることになるのでしょう。 神の国の民として、ふさわしくへりくだって生きる者とは、主に救われたことを感謝して生きる者です。 日常生活において、イエス様より自分自身の欲望を歓迎して受け入れてしまった時は、神様の前に懺悔し、変えていただけるように、特に礼拝の中で祈り求めていきましょう。 今週も、聖霊の助けを祈りつつ、本当の弟子の道を歩んでまいりましょう!

     「叫び続ける」   伝道師 平賀真理子

/n[エレミヤ書] 29章11-14節 Tわたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。 そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。 わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、 わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。 /n[マルコによる福音書]10章46-52節 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。 /nはじめに  イエス様が、十字架という受難を受けるべき場所・エルサレムを目的地として、一行は旅をしています。そしてあと20数キロという町エリコに来ていました。町を出ようとしていた時、一人の盲人バルティマイが、イエス様一行が来ていることを人々から伝え聞きました。「過越の祭」を前に、エルサレム神殿には多くの人々が参拝のため集まり、その手前の町、エリコも賑わっていたことでしょう。そのざわめきの中から、「ナザレのイエス様一行のお通りだ」との声を聞いた時、バルティマイは千載一遇のチャンスととらえました。恐らく彼は、人々の噂になっていたイエス様の癒しの力や奇跡の業、語られる御言葉を通してイエス様のことを「来るべきメシア(救い主)」と素直に信じていたと推測されます。 /nバルティマイの信仰 「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」(47節)との彼の叫びは、彼の信仰告白です。ユダヤ人達は預言者の言葉を通して「メシアはダビデの子孫から生まれる」と信じていました。バルティマイの、イエス様への呼びかけは、「メシアであるイエス様!」との信仰告白でもあります。そして「私を憐れんでください」の叫びは、苦しみを共感して下さる全能の神様に対して、救いを求める祈りと言えます。バルティマイの叫びを聞いた弟子や群衆は、「叱りつけて黙らせようと」(48節)しました。盲人で物乞いの「取るに足りない人間」の願いを無視してもよいと考えたのか、或いは、イエス様の道行きをさえぎるほどのことはないと判断したのかもしれません。彼らの態度は威圧的だったことでしょう。この世の価値基準が、イエス様の価値を直感でわかって信じるバルティマイの妨げになっています。しかし彼は屈することなく、一層大きく叫び続けたのです。 /n「あの男を呼んで来なさい」 バルティマイの叫びをイエス様は聞かれ、「あの男を呼んで来なさい」と言われました。そこで人々は、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」と、今度は招きの仲介をしています。バルティマイは、その言葉に喜び、上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエス様のところに来ました。救いにあずかるのにふさわしい姿といえるでしょう。イエス様の「何をしてほしいのか」の問いに、「目が見えるようになりたいのです。」と訴えました。 /n「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」 彼は癒されました。すぐ見えるようになったのです。彼は自分の何が問題であるかを知っていました。彼はイエス様を救い主と信じ、治して下さると信じて呼びかけに喜んですぐ応じました。そして自分の願いをはっきりと言い表し、治していただきました。そして、イエス様が「行きなさい」と促したのに帰らず、イエス様が行かれる道に従いました。イエス様の憐れみを受けたことへの感謝を表したい、救い主と共にいられることの幸いがいかに大きいかを知り、離れたくないとの思いからの行動だったのでしょう。彼は一瞬の出会いと癒しで決意したのでした。 /n信じ、求め、憐れみを受け、感謝し、主を愛し、主に従う。 バルティマイは、長年、盲人ゆえに物乞いをして生きることを強いられ、苦しみと絶望、困窮に対して忍耐を続ける中で、救いを求めていました。叫び続けることができたのは、自分の苦しみはイエス様によって絶対救われる、との信仰を持ち続けることが出来たからです。 私達も又、「あなた方が私につながっており、私の言葉があなた方の内にあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(ヨハネ15:7)と約束されています。神様が先に私達を愛して下さり、招いて下さったことを忘れてはなりません(同16節)。福音やその力の素晴しさを知らされた私達は、イエス様を信じる信仰によって救われたことを認識し、感謝し、それに応えて主を愛し、主に従っていきたいと思います。又、「二人又は三人が私の名によって集まる所には、私もその中にいる」(マタイ18:20)」との約束の下で、教会の会員の間で互いに愛をもって祈り合い、神様の助けを希うことも赦されています。イエス様の御名によって、必要な救いは必ず与えられる恵みを感謝したいと思います。

「ぶどう園と農夫のたとえ」  伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書5:1-7 /nマルコ福音書12:1-12 /nはじめに   ユダヤ教指導者達は、イエス様のなさった「宮清め」だけでなく、神の御子にしかできないイエス様の力ある業や説教や癒しによって、群衆の尊敬が、自分達からイエス様へと移っていくことへの嫉妬や敵意がうずまいていました。しかも群衆は、イエス様を通して神様の力の偉大さを知り、神様を心から讃美していたのです。 神様がイスラエルの民を御自分の民として選んだのは、彼らが他のどの民よりも貧弱であったからだと聖書に記されています(申命記7:7)。神様は弱い者を憐れまずにはおれない御方です。その御心こそ第一に尊重されるべきでした。その神様の愛を分かりやすく人々に示したのがイエス様です。しかしユダヤ教指導者達は、律法の細々した規定や解釈に気を取られ、それが分からず、イエス様をどうにか追い払おうとしています。又、自分達から離れていった民衆の心を再び取り戻そうとしています。 イエス様は、真実に対してはっきり従う決断をしない彼らに対して、きっぱりと線を引きました。しかし憐れみの心を持って真実を理解させ、救いに入ってほしいと思われて、彼らの姿を知らせるために、本日の「ぶどう園と農夫」の話をされたのではないかと思います。 /nぶどう園 「ぶどう園」と言えば、イスラエルの人々はイザヤ書5:1~7を思い出したことでしょう。「ぶどう園を心をこめて造った人」とは「神様」です。「ぶどう」は、「イスラエルの民」です。「ぶどうの良い実」とは「イスラエル民族の神様(ヤハウェ)への信仰」であり、「実が酸っぱい(ぶどう)」は、「神様への不信仰」のことです。具体的には「偶像礼拝」です。 主人が「ぶどう園を見捨てる」とは、不信仰の民全体を裁かれることで、悲しみや苦しみに民全体を引き渡すというたとえです。   /n農夫  イエス様は、旧約聖書と同じ背景を使いながらユダヤ教指導者達を、「ぶどう園の農夫」にたとえました。最初にぶどう園の主人が、いかに智恵を使い愛情をかけてぶどう園を造ったのか、手順を挙げて表現しています。「主人」はこの世を造られた神様と考えて良いでしょう。「ぶどう」はイスラエルの民と考えて良いでしょう。「農夫」はそれを管理し育てる役割を託されています。そして良い実りをもたらし、その収穫を渡すように主人から期待されています。この農夫の役割こそ本来、民の信仰を育て上げ、それを神様に捧げるはずのユダヤ教指導者=大祭司・律法学者・長老達が担うはずでした。しかし彼らは、その役割を担うことなく、自分達の権威を保持する為に預言者達にひどい仕打ちをします。 /n「捨てた石が隅の親石となる」 たとえでは、農夫達は送られてくる主人のしもべを殺してしまいます。主人は自分の息子なら敬ってくれるだろうと思い、最後に息子を送ります。これこそ父なる神様が人間を救いたいという愛ゆえに、この世に送った御子イエス様のことです。ところが自分達の利益に目が眩んだ農夫達によって息子も殺されるという描写は、イエス様がユダヤ教指導者達の働きかけによって十字架にかけられる受難の道のりを示しています。主人の忍耐も息子の死迄で、そこから徹底した裁きが始まります(9節)。   イエス様は詩編118編を引用し、「捨てられた石が隅の親石となる」という神様の業を語られます。それは、ユダヤ教指導者達がイエス様を排除しても、神様は排除されたイエス様をメシアとして用いられるということです。神様の業は人間には理解しがたく、不思議としか言いようがないと詩編は告白します。私達が信じるイエス様は、人によって捨てられ、神様によってメシアとされた「神の御子・イエス様」です。

   「最も重要な掟についての問答」    伝道師 平賀真理子

/nホセア書6:1-6 /nマルコ福音書12:28-34 /nはじめに  イエス様のご生涯の最後の一週間の中で、「論争の火曜日」と呼ばれている日に起こった一つの出来事から、御一緒に学びたいと存じます。   イエス様への,論争に挑んだ人に対するイエス様の応答を聞いていた人々の中には、一般庶民の他にイエス様の噂を聞いてイエス様の教えやその力を自分の目で確認したいと思う「学問の先生」のような「律法学者」がいました。「律法」は、イスラエル民族が、モーセを通して神様から直接いただいたと信じる「十戒」を基本としています(律法は更に、「旧約聖書」の最初の5巻を指す場合や、「旧約聖書全体」を指すこともあります)。  イエス様の、それ迄の質問者への答えが立派だったことを見た一人の律法学者が、前に進み出てイエス様に尋ねました。 /n「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」  沢山ある律法の中で一番重要なものを教えてほしいとの質問に、イエス様は、まず申命記6章4~5節を挙げられました。それは、ユダヤ教徒が毎朝毎晩 口にする「シェマー(聞け)」から始まる御言葉で、神様を唯一の方として尊敬し、信頼し、人間が「全身全霊で愛する」ことが求められている聖書の箇所です。イエス様は、「第一の掟」に続けて更に、第二の掟、「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19:18)を教えられました。 /n「神様の愛=アガペー」  創世記には、神様が「世界」を創り、「人間」を創られたことが記されていますが、人間は神様に絶対的な信頼を貫くことが出来ず、又、悪の力・サタンに惑わされて神様の命令を守れず、神様の祝福を受けられなくなりました。そのような人間を切り捨てずに責任をもって救うという固い意志が「神様の愛」の特徴です。 人間の愛は、感情に基づいているので一時的であり、相手の反応次第でその度合いは変化します。一方、神様の愛は、一時的な感情に基づくことなく、長く続く意志に貫かれています。又、私達人間の反応に左右されず、御自分が愛すると決めたら、責任をもって愛し抜くご性質です。そして愛する対象に対しては100パーセント真剣で、片手間に愛する愛ではありません。 /n全身全霊で愛する  だからイエス様は、「神様を愛する」時、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい</span>」と、おっしゃっているのです。原語では、「心のすべてから、精神のすべてから、思いのすべてから、力のすべてをもって愛しなさい」です。  神様が人間を(私たちを)、そのように愛しておられることを、神の御子イエス様だけが理解しておられ、教えて下さっています。  神様に先に見出され、先に愛していただいている私達は、同じように、その憐れみに感謝して神様を愛したいと願うものです。 /n隣人を自分のように愛する 第二の掟である「<span class="deco" style="font-weight:bold;">隣人を自分のように愛する</span>」ことは、「神様の愛」によって初めて可能だといえます(神様の愛については第一コリント書13:4~7参照)。「神様の愛」は無尽蔵で、100パーセント真剣で、永続的で、主体的な愛です。この「神様の愛」を知り、私達がその恵みに満たされる時、自ずとその愛は誰か対象を求めて流れ出すでしょう。だからイエス様は、この二つを連動するものとして重要な掟として挙げられました。 /n掟を守る道  神様と私達人間が愛によってつながるためには、断絶の原因となった罪が取り除かれねばなりません。そのためにイエス様は遣わされ、神の御子として死ぬ定めにおかれました。私達人間は、自分の罪を悔い改め、イエス様を自分の贖い主と信じる信仰が与えられる時、神様とつながることが出来、最も重要な「第一と第二の掟」を守る者とされるのです。

 「真理を知り、自由になる」  牧師 佐藤義子

/n詩編65:6-14 /nヨハネ福音書8:31-36 /nはじめに  先週の礼拝で、イエス様の「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ</span>」との御言葉を学びました。イエス様を信じて従う者は、光であるイエス様といつも一緒に、明るい中を歩むことが出来るという約束でした。今日の聖書は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしの言葉にとどまるならば、あなた達は本当にわたしの弟子である。あなた達は真理を知り、真理はあなた達を自由にする。</span>」というイエス様の約束の言葉です。 /n約束の条件  先週と同じように今日の御言葉の約束も、条件付き(?)です。もし、「イエス様の言葉にとどまるならば」、そうするなら、「私達は真理を知ることが出来、自由になる」のです。「とどまる」とはどういうことでしょうか。それは途中でやめないで、初めから終りまで同じように信頼し続けるということです。イエス様の言葉の中に根をおろして、そこにとどまり続けることです。イエス様の言葉の中に根をおろした時、イエス様の言葉が私達の行動を導きます。イエス様の言葉が私達の思いや私達の意志を動かします。そして私達のイエス様への愛を大きく成長させて下さるのです。 /n私達の行動原理  イエス様を知らなかった時、私達は自分の行動を決定するのは、それ迄、親や教師、友人・知人を通し、又、さまざまの情報などにも影響を受けながら形成した自分なりの価値基準に基づく判断でした。しかし聖書は今、「イエス様の言葉の中に根を下ろして真理を知るように」と招いています。私達の思いや意志の決定が、自分が作り上げて来た価値基準や行動原理によらずに、イエス様の言葉によって決定するように招いているのです。 なぜならイエス様に信頼し続けるならば、私達は真理を知ることが出来るからなのです。真理とは、嘘・偽り・にせものではなく、本当のこと、本当のもの、真(まこと)のこと、絶対的な真理です。 イエス様は、同じヨハネ福音書で「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私は道であり、真理であり、命である</span>」と語られました。真理とはイエス様ご自身の中にあるものです。 /n誰かの奴隷になったことはない(?)  イエス様は、「真理はあなた達を自由にする。」と言われました。ここにおられる方は、御自分のことを「自分は不自由である」とは感じておられないでしょう。聖書に登場するユダヤ人達も、イエス様にこう答えました。「私達はアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。あなた達は自由になるとどうして言われるのですか。」と逆に質問を返しています。 /n罪の奴隷  イエス様は、自分達は自由な者だと主張するユダヤ人に対して「<span class="deco" style="font-weight:bold;">罪を犯す者は罪の奴隷である。</span>」と断言しました。この場にいたユダヤ人は幼い時から「律法」を教えられ、おそらく、きびしく律法を守ってきたとの自負があったでしょう。しかしイエス様は、あなた達は罪の奴隷となっているから、真理を知ることによって自由になりなさいと言われたのです。パウロが「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私は自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする</span>」と告白しているように(ロマ7:15)、愛そうと思っても愛せない。赦そうと思っても赦せない。裁くのをやめようと思っても裁いてしまう。これは自由を失って、罪の力につながれている状態です。イエス様は、そういう私達を、「罪の奴隷」と表現されているのです。 /n罪の鎖を断ち切る「十字架の死」  この私達をつなぎ止めている罪の鎖を切り離し、私達を罪の奴隷から解放して下さる唯一のお方がイエス・キリストです。イエス様こそ私達人間を罪から解放して私達を自由にするため十字架にかかられました。「十字架の死による、私達の罪の赦しと贖いを信じる」信仰によって、私達がつながれていた罪の鎖が断ち切られるのです。その時、御言葉が、罪に支配される行動原理を打ち破り、イエス様の教えに従う新しい行動原理を打ち建てるのです。御言葉にとどまり続けましょう!

「救いの道に働く神の導き」  牧師 佐藤義子

/n エレミヤ書 31:15-17 /n マタイによる福音書 2:13-23     /nはじめに イエス様ご降誕を祝う降誕節に入りました。今年の降誕節は2月12日までで、2月13日の水曜日から受難節に入ります。日本では、クリスマスが終ると、すぐ、年末年始の準備に入り、クリスマスの喜びをじっくり味わい続けるという風習は育ちにくい環境にあります。 しかし、救い主が来られたという喜びと、救い主が私達にもたらして下さった「救いの中身」について、私達はもっともっと多くのことを知ることがあるように思います。約50日にわたる降誕節の間、私達が、自分自身と救い主イエス様とのつながり、更に、そのイエス様を私達に送って下さった神様とのつながりを深める時として過ごしたいと願っています。 /nエジプト避難・幼児虐殺・ナザレに住むこと 今日の聖書は、三つの出来事が記されています。一つは、イエス様がベツレヘムでお生まれになった後、ヘロデ王がイエス様を殺そうとしていることを夢で知らされた父ヨセフは、一家で、エジプトに避難したこと。二つ目は、ヘロデがイエス様を殺すべくベツレヘムとその周辺にいた2歳以下の男の子を殺したこと。三つ目に、エジプトに避難していた父ヨセフは、夢でヘロデ王が死んだことを知らされ、一家はイスラエルに戻って来たこと、しかしユダヤ地方を支配していたのは、悪名高きヘロデ王の息子アルケラオであることを聞いたヨセフは、再び夢で、ガリラヤ地方のナザレの町に導かれ、そこでの生活を始めたということが記されています。 /n預言の言葉の実現 この三つの出来事に共通しているのは、いずれも、旧約時代の預言者の言葉が「実現するため」、「実現した」、と記されていることです。最初の出来事は、旧約聖書のホセア書11章の1節、二つ目の、ヘロデ王による幼児虐殺の出来事も預言者エレミヤの言葉が引用されています(31:15-)。最後の句は、おそらくイザヤ書11:1の、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる</span>」という、メシアが、切り倒された木から若枝の如く出て来るという言葉の、旧約聖書原語のヘブライ語「若枝」が、新約聖書のギリシャ語に訳される時に「ナザレの人」への転化が起こったと考えられています。   /n「彼はナザレの人と呼ばれる」 イエス様の時代「ナザレ人」といえば、ユダヤ人が侮蔑を込めて呼んだ名称(ナザレ出身者は「いなかもの」)で、その人の低さを表すあらわす言葉)でした。イエス様は高くそびえる木ではなく、切り倒された株から出た新鮮な若枝のように、救い主イエス様の低さをあらわす「しるし」となった「ナザレ人」の名称でありました。馬小屋で生まれたことも、低さを象徴するものでしたが、ナザレに住み、そこで育ち、「ナザレ人」と呼ばれるようになったことも、イエス様の低さを表し、その生涯も常に、低く見られた人達の良き友となり、そして人々が最も忌み嫌う十字架による最期を迎えられたイエス様の、その目的は何であったかといえば、それは私達人間を、罪の支配から救いだす為でありました。 /n救いの道に働く神の導き 私達は、イエス様が来られたことによって神様を知り、神様の愛を知り、イエス様を信じて、悔い改めることにって、神様とつながることが出来るようになりました。約2000年前に、その救いの道を開くべく、神様は幼子イエス様を私達の住む世界に誕生させ、ヘロデ王の手から守る為にエジプトに避難させ、ヘロデ王の死によって再びナザレの町へと導かれました。すべては神の御子イエス様が、救いの道を開いていく為の、神様の御計画であり、導きでした。そのプロセスを見る時、多くの困難や苦しみ、悲しみが伴いましたが、救いへの道は確実に準備されて、今日の私達の祝福された歩みがあります。私達はともすると目に見えることだけで一喜一憂し、そこに隠された意味があることなど、あまり考えません。しかし全ての事には、神様の御計画、神様の意図、神様の導きがあることを覚え、新しき年の歩みが、御言葉を通して神様の御声を聴きつつ歩む日々となれるように、祈り求めていきたいと願うものです。 /n エレミヤ書 31:15-17 /n マタイによる福音書 2:13-23     /nはじめに イエス様ご降誕を祝う降誕節に入りました。今年の降誕節は2月12日までで、2月13日の水曜日から受難節に入ります。日本では、クリスマスが終ると、すぐ、年末年始の準備に入り、クリスマスの喜びをじっくり 味わい続けるという風習は育ちにくい環境にあります。 しかし、救い主が来られたという喜びと、救い主が私達にもたらして下さった「救いの中身」について、私達はもっともっと多くのことを知ることがあるように思います。約50日にわたる降誕節の間、私達が、自分自身と救い主イエス様とのつながり、更に、そのイエス様を私達に送って下さった神様とのつながりを深める時として過ごしたいと願っています。 /nエジプト避難・幼児虐殺・ナザレに住むこと 今日の聖書は、三つの出来事が記されています。一つは、イエス様がベツレヘムでお生まれになった後、ヘロデ王がイエス様を殺そうとしていることを夢で知らされた父ヨセフは、一家で、エジプトに避難したこと。二つ目は、ヘロデがイエス様を殺すべくベツレヘムとその周辺にいた2歳以下の男の子を殺したこと。三つ目に、エジプトに避難していた父ヨセフは、夢でヘロデ王が死んだことを知らされ、一家はイスラエルに戻って来たこと、しかしユダヤ地方を支配していたのは、悪名高きヘロデ王の息子アルケラオであることを聞いたヨセフは、再び夢で、ガリラヤ地方のナザレの町に導かれ、そこでの生活を始めたということが記されています。 /n預言の言葉の実現 この三つの出来事に共通しているのは、いずれも、旧約時代の預言者の言葉が「実現するため」、「実現した」、と記されていることです。最初の出来事は、旧約聖書のホセア書11章の1節、二つ目の、ヘロデ王による幼児虐殺の出来事も預言者エレミヤの言葉が引用されています(31:15-)。最後の句は、おそらくイザヤ書11:1の、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる</span>」という、メシアが、切り倒された木から若枝の如く出て来るという言葉の、旧約聖書原語のヘブライ語「若枝」が、新約聖書のギリシャ語に訳される時に「ナザレの人」への転化が起こったと考えられています。   /n「彼はナザレの人と呼ばれる」 イエス様の時代「ナザレ人」といえば、ユダヤ人が侮蔑を込めて呼んだ名称(ナザレ出身者は「いなかもの」)で、その人の低さを表すあらわす言葉)でした。イエス様は高くそびえる木ではなく、切り倒された株から出た新鮮な若枝のように、救い主イエス様の低さをあらわす「しるし」となった「ナザレ人」の名称でありました。馬小屋で生まれたことも、低さを象徴するものでしたが、ナザレに住み、そこで育ち、「ナザレ人」と呼ばれるようになったことも、イエス様の低さを表し、その生涯も常に、低く見られた人達の良き友となり、そして人々が最も忌み嫌う十字架による最期を迎えられたイエス様の、その目的は何であったかといえば、それは私達人間を、罪の支配から救いだす為でありました。 /n救いの道に働く神の導き 私達は、イエス様が来られたことによって神様を知り、神様の愛を知り、イエス様を信じて、悔い改めることにって、神様とつながることが出来るようになりました。約2000年前に、その救いの道を開くべく、神様は幼子イエス様を私達の住む世界に誕生させ、ヘロデ王の手から守る為にエジプトに避難させ、ヘロデ王の死によって再びナザレの町へと導かれました。すべては神の御子イエス様が、救いの道を開いていく為の、神様の御計画であり、導きでした。そのプロセスを見る時、多くの困難や苦しみ、悲しみが伴いましたが、救いへの道は確実に準備されて、今日の私達の祝福された歩みがあります。私達はともすると目に見えることだけで一喜一憂し、そこに隠された意味があることなど、あまり考えません。しかし全ての事には、神様の御計画、神様の意図、神様の導きがあることを覚え、新しき年の歩みが、御言葉を通して神様の御声を聴きつつ歩む日々となれるように、祈り求めていきたいと願うものです。 /n エレミヤ書 31:15-17 /n マタイによる福音書 2:13-23     /nはじめに イエス様ご降誕を祝う降誕節に入りました。今年の降誕節は2月12日までで、2月13日の水曜日から受難節に入ります。日本では、クリスマスが終ると、すぐ、年末年始の準備に入り、クリスマスの喜びをじっくり 味わい続けるという風習は育ちにくい環境にあります。 しかし、救い主が来られたという喜びと、救い主が私達にもたらして下さった「救いの中身」について、私達はもっともっと多くのことを知ることがあるように思います。約50日にわたる降誕節の間、私達が、自分自身と救い主イエス様とのつながり、更に、そのイエス様を私達に送って下さった神様とのつながりを深める時として過ごしたいと願っています。 /nエジプト避難・幼児虐殺・ナザレに住むこと 今日の聖書は、三つの出来事が記されています。一つは、イエス様がベツレヘムでお生まれになった後、ヘロデ王がイエス様を殺そうとしていることを夢で知らされた父ヨセフは、一家で、エジプトに避難したこと。二つ目は、ヘロデがイエス様を殺すべくベツレヘムとその周辺にいた2歳以下の男の子を殺したこと。三つ目に、エジプトに避難していた父ヨセフは、夢でヘロデ王が死んだことを知らされ、一家はイスラエルに戻って来たこと、しかしユダヤ地方を支配していたのは、悪名高きヘロデ王の息子アルケラオであることを聞いたヨセフは、再び夢で、ガリラヤ地方のナザレの町に導かれ、そこでの生活を始めたということが記されています。 /n預言の言葉の実現 この三つの出来事に共通しているのは、いずれも、旧約時代の預言者の言葉が「実現するため」、「実現した」、と記されていることです。最初の出来事は、旧約聖書のホセア書11章の1節、二つ目の、ヘロデ王による幼児虐殺の出来事も預言者エレミヤの言葉が引用されています(31:15-)。最後の句は、おそらくイザヤ書11:1の、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる</span>」という、メシアが、切り倒された木から若枝の如く出て来るという言葉の、旧約聖書原語のヘブライ語「若枝」が、新約聖書のギリシャ語に訳される時に「ナザレの人」への転化が起こったと考えられています。   /n「彼はナザレの人と呼ばれる」 イエス様の時代「ナザレ人」といえば、ユダヤ人が侮蔑を込めて呼んだ名称(ナザレ出身者は「いなかもの」)で、その人の低さを表すあらわす言葉)でした。イエス様は高くそびえる木ではなく、切り倒された株から出た新鮮な若枝のように、救い主イエス様の低さをあらわす「しるし」となった「ナザレ人」の名称でありました。馬小屋で生まれたことも、低さを象徴するものでしたが、ナザレに住み、そこで育ち、「ナザレ人」と呼ばれるようになったことも、イエス様の低さを表し、その生涯も常に、低く見られた人達の良き友となり、そして人々が最も忌み嫌う十字架による最期を迎えられたイエス様の、その目的は何であったかといえば、それは私達人間を、罪の支配から救いだす為でありました。 /n救いの道に働く神の導き 私達は、イエス様が来られたことによって神様を知り、神様の愛を知り、イエス様を信じて、悔い改めることにって、神様とつながることが出来るようになりました。約2000年前に、その救いの道を開くべく、神様は幼子イエス様を私達の住む世界に誕生させ、ヘロデ王の手から守る為にエジプトに避難させ、ヘロデ王の死によって再びナザレの町へと導かれました。すべては神の御子イエス様が、救いの道を開いていく為の、神様の御計画であり、導きでした。そのプロセスを見る時、多くの困難や苦しみ、悲しみが伴いましたが、救いへの道は確実に準備されて、今日の私達の祝福された歩みがあります。私達はともすると目に見えることだけで一喜一憂し、そこに隠された意味があることなど、あまり考えません。しかし全ての事には、神様の御計画、神様の意図、神様の導きがあることを覚え、新しき年の歩みが、御言葉を通して神様の御声を聴きつつ歩む日々となれるように、祈り求めていきたいと願うものです。