「キリストの復活」 佐藤義子 牧師

/n[イザヤ書] 25章7-10節 7 主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし 8 死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。 9 その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。 10 主の御手はこの山の上にとどまる。モアブは主の下に踏みにじられる/わらが踏みつけられて堆肥の山にされるように。 /n[コリントの信徒への手紙一] 15章1-11節 1 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。 2 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。 3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。 6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。 7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、 8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。 9 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。 10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。 11 とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。 /nはじめに  アメリカでお世話になったベックさんは、毎年決まってイースターに同じメールを下さいます。それは「<span style="font-weight:bold;">HE IS RISEN!</span>」。今日は全世界で、太陽が昇る順序で、この言葉が駆け巡っていくのではないでしょうか。訳せば、「彼はよみがえられた。」「イエス様は父なる神様によってよみがえさせられた」です。 /n死と葬りと復活  イエス様が十字架にかけられて殺されたのは金曜日でした。午前9時に十字架につけられ、昼の12時に全地が暗くなり午後3時まで続き、午後3時にイエス様は大声で叫ばれて息をひきとられました(マルコ福音書15:25-)。夕方になって議員であったアリマタヤ出身のヨセフが、勇気を出して、総督ピラトに「十字架上のイエス様の遺体を十字架からおろして引き渡して」くれるように交渉し、許可をとり、新しい亜麻布でイエス様の遺体を巻き、岩を掘って作った墓の中に納めました。そして墓の入口には石を転がしてふさぎました。(同15:42-46)。金曜日の日没から始まった安息日が過ぎて、三日目の日曜日の明け方、墓を訪れた女達は、墓の入り口をふさいでいた大きな石がわきに転がされているのを見ます。そして白い長い衣を着た若者から『<span style="font-weight:bold;">ナザレのイエスは復活した</span>』と聞かされました。 /n福音によって救われる  今日の聖書で、著者パウロは「<span style="font-weight:bold;">どんな言葉で私が福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなた方はこの福音によって救われます</span>」と明言しています。この福音とは、「<span style="font-weight:bold;">最も大切なこととして私があなた方に伝えたのは、私も受けたものです。すなわちキリストが聖書に書いてある通り、私達の罪の為に死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてある通り三日目に復活したこと・・</span>」です。パウロが第一に知らせたことは、キリストが死んだということです。この事実は、キリストが私達の罪の為に死んだからこそ、救いの使信となっており、キリストが私達の罪のために死んだからこそ、罪はもう私達を滅ぼすものとはならず、私達は罪と裁きから解放されているのです。第二に伝えたのはキリストが葬られたということです。それによって、キリストは完全に死んだということです。そこに神様が新しい命へのよみがえりの準備をされたということです。第三に伝えたのは、三日目にキリストはよみがえらされたということです。そしてこのことは預言の成就でありました。 /n復活の証人  弟子達は復活されたイエス様に出会い、復活の証人とされました。パウロは自分自身を、その証人の最後に書き連ねます。パウロは生前のイエス様にお会いしていませんが「最後に、月足らずで生まれたような私にも現れた」と断言します。パウロが使徒として歩んだのは、他の弟子達よりもかなり遅れて、キリスト者を迫害している最中に、復活のイエス様の声を天から聞いた時からです。パウロの生涯の前半は、まさにイエス様への反逆の歩みでした。しかし彼はイエス様から過去の罪を、完全な赦しをもって廃棄していただき、恵みのわざを受けたのです。パウロは復活のイエス様に出会った後の感謝と喜びが一つとなって、そこから豊かな実りが生じました。私達も又、パウロに続く者です。イエス様の十字架によって罪が赦され、新しい歩みへと導き出された者です。「<span style="font-weight:bold;">HE IS RISEN!</span>」。死は打ち砕かれました。私達も証人の一人です。

「主の御力と私たち」 伝道師 平賀真理子

/n[詩編]107編29-32節 29 主は嵐に働きかけて沈黙させられたので/波はおさまった。 30 彼らは波が静まったので喜び祝い/望みの港に導かれて行った。 31 主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。 32 民の集会で主をあがめよ。長老の集いで主を賛美せよ。 /n[マルコによる福音書]6章45-56節 45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。 46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。 47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。 48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。 49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。 50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。 51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。 52 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。 53 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。 54 一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、 55 その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。 56 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。 /nはじめに  今日の聖書は「5千人に食べ物を与えた」奇跡の出来事の直後の話です。ヨハネ福音書の記述では(6章)、群衆は、イエス様のその凄い御力を知り「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言って熱狂しイエス様を自分達が思い描く「王」として担ぎ出そうとしました。しかし、そのような人々の興奮に巻き込まれることなく、イエス様はご自分のなすべき宣教と人々の救いの為に、一人、山に退かれました。私達の主、イエス様は実に祈りの人です(マルコ1:35、14:32-など)。イエス様の祈る場面に接する度に、いつも祈ることをおろそかにしている自らの姿を思い知らされます。イエス様に罪を赦していただき、主に倣う者として生きることを約束した私達は、イエス様に倣い、毎日の生活の中で神様に向き合う時間を確保しつつ、信仰生活を続けていきたいと思います。 /n逆風の中での弟子達の不信仰  イエス様から、舟に乗って向こう岸まで行くように言われた弟子達は、湖の真ん中まで来た時、逆風が吹いてこぎ悩み、大変難儀していたことが記されています。ガリラヤ湖は、どんなに悪天候でも6時間から8時間で渡り切る距離だそうです。夕方、湖の真ん中にあった船は、遅くても夜中の12時頃には岸に着いているはずでした。しかし夜が明ける頃(原語では午前3時から6時)まで船は嵐の中にありました。陸地に残られていたイエス様は、弟子達の窮状をご覧になり、夜明け頃、湖の上を歩いて弟子達の所に来られました。これは「愛」の現れであると同時に、海の波をも制する御力を抱く、創造主なる神の御子としてのお姿でもありました。(旧約聖書では創造主としての神の御力を「海を制する力をもつ」ことでも表わした:詩編107:29-32、77編、ヨブ記9章など)。湖上のイエス様は、しかし弟子達のそばを通り過ぎようとされました。恐らくイエス様は、ご自身を示しながら弟子達が従って来ることを期待されたのでしょう。しかしイエス様のお姿を見た弟子達は、幽霊だと思って恐れて叫び「おびえ」(50節)ました。 /n「<span style="font-weight:bold;">安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。</span>」  五千人もの人々を満腹させたイエス様の奇跡を見て弟子達は、イエス様の、神の御子としての御力を体感していたのに、それでもまだイエス様のことを理解していなかったといえるでしょう。しかし、イエス様は「<span style="font-weight:bold;">安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。</span>」と言われました。そして、創造主の御力を持つイエス様が舟に乗りこまれると、波は制され、風は静まったのです。マルコ福音書4章で、弟子達は似たような経験を持っていました。しかしそれでも彼らは、まだわかっていなかったのです。弟子達のその姿は、私達信仰者の姿とも重なり合うのではないでしょうか。  困難な時、試練の時、その出来事だけに心を奪われ、主が私達を忘れずに見ていて下さることを、忘れることが多いのではないでしょうか。主が、助かる方へ導いて下さるのに、主にリードしていただくことを忘れていないでしょうか。 /n癒された人々は・・  湖を渡り終えゲネサレトという土地に着いて舟から上がると、一行を待っていたのはイエス様に救いを求める人々でした。イエス様の名前を聞くと、村でも町でも里でも、人々は病人の癒しを求め、病人を運んで懇願しました。イエス様は、ご自身の御力を信じることを表明する者には、憐みの心を持って癒しを与えられました。しかし病人を連れてきた人や癒された人達が、悔い改めてイエス様に従ったという記述はありません。彼らは自分の都合に合わせて「神様の恵み」のみを求め、自分自身は変わらぬまま、罪の世界にとどまっていたのではないかと思います。 /n「<span style="font-weight:bold;">悔い改めて福音を信じなさい</span>」(マルコ1:15)  イエス様によって救われ、新たにされた私達がまずなすべきことは、この世のやり方から決別し、方向転換する決意をすることです。これを「悔い改め」と言います。そしてより具体的な勧めの言葉がロマ書12章にあります「<span style="font-weight:bold;">・・心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、・・何が完全なことかをわきまえるようになりなさい</span>」。

説教要旨「優れたいけにえ」東北学院大学 佐々木哲夫  

/n[創世記]4章1-7節 1 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。 2 彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。 3 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。 4 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、 5 カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。 6 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。 7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」 /n[ヘブライ人への手紙]11章4節 4 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。 /nはじめに  本日の聖書の箇所は史上初の殺人、兄が弟を殺した出来事を記しています。殺人は、弟と比較された怒りによって引き起こされ、嫉妬心も絡んでいたと推測されます。神が、弟アベルとその献げ物に目を留められたが、兄カインとその献げ物には目を留められなかったということを告げています。自分の献げ物が顧(かえり)みられなかったことに、カインは激しく怒ったのです。カインは自分について思い巡らすことをせずに、期待していた反応を神が示してくれなかったことに腹をたて、その怒りのほこ先を、八つ当たり的にアベルに向けたのです。ずい分身勝手なことだと思いますが、私達の日常においても十分に起きうる出来事ではないかと思います。カインもアベルも神を信じていた者であり、献げ物を献げる信仰を有していました。その二人の間に一体なぜ殺人という悲惨な事件が起きたのか。聖書を読みながら ご一緒に考えたいと思います。 /n神がアベルに目を留められたことについての、さまざまな見解  カインではなく、アベルとその献げ物に主の目が留められたことの理由について様々な見解が提起されています。例えば、神様は穀物ではなくて羊の献げ物を好まれたとの見解です。これは農耕民族の周辺のカナン人ではなくて、牧畜をなりわい(生業)としていたユダヤ人の神であることを暗示する、そのことを示していると考える見解です。しかしそれは推測の域を脱しない見解であると思います。別の見解は、出エジプトの時に神が示された価値観(人であれ、家畜であれ、全ての初子は神のものであるとの価値観)に対してアベルはそれに適ったと考えるのです。これも推測の域を脱することは出来ません。更なる見解として、弟が長男にとって代わるというモチーフが投影されたという説明です(例えば、兄エサウではなくて弟ヤコブに祝福が与えられたこと。長男のエリアブではなくて弟のダビデに油が注がれ王として選ばれたこと。新約聖書では、弟の放蕩息子の方が大事にされるような状況に兄が怒ったという、先のものと後のものとが逆転するテーマがこのカインとアベルにおいても表れている)。いささかこれは乱暴な見方であると思います。 /n不条理  どの見方をとるとしても聖書の説明自体は、明示的ではありません。ただ結論として、「<span style="font-weight:bold;">もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。</span>」(7節)と結果論的に記すだけです。原因と結果の連鎖が不明瞭な出来事というのは、私共の中にしばしば起きます。すなわち不条理と思われるような現象です。正しいことをしているのに正しい結果が与えられない。正しい者が苦しい目に会う。どうしてか。原因と結果が、連鎖が逆になっているというような問題です。「ヨブ記」や「コヘレトの言葉」の主題となっているものです。 /n不条理に対しても、顔を上げて生きる生き方  この不条理に関して、神様の取り扱いに対して、どうしてこんな事をするのだと異議を感じて八つ当たり的に鬱憤(うっぷん)晴らしをするということではなくて、不条理においても尚、罪が入り込む余地を与えず、あくまでも正しい道を歩む信仰。顔を上げて生きる生き方というものが教えられているということで、この箇所を読むことが強いられるのです。 /nヘブライ人への手紙  創世記のこの箇所だけに限定しますと、見解はそこ迄であるとしても、新約聖書の解釈はさらに踏み込んだものとなっています。 今日お読みしたヘブライ人への手紙11章4節に目を転じたいと思います。ヘブライ書の著者は「<span style="font-weight:bold;">信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。</span>」と説明しています。  キーワード的に二つの言葉をあげるならば「<span style="font-weight:bold;">信仰によって</span>」と「<span style="font-weight:bold;">優れたいけにえ</span>」です。ヘブライ書の著者はこの二つを創世記に加えて説明しています。一体これは何を言おうとしているのでしょうか。 /nアベルは「優れていたもの」を献げた   カインもアベルも信仰を有し、尚、献げ物さえしました。しかし新約聖書は「アベルは信仰によって献げた」と語るのです。即ち、「ただ献げた」というのではなくて「信仰をもって献げた」と記すのです。その献げ物は「優れたいけにえであった」と記していますから、どのような点においてかと問いたくなります。「優れた」の訳語を直訳すると「大きい・多い」と言う意味ですが、アベルの方が沢山・大きい物を献げたという外側の意味ではなくて、内的な質的な意味において大きい・多いという意味です。日本語で「優れていたもの」を献げたということです。それにしても一体なぜ「優れたもの」になるのかという疑問は晴れないのではないかと思います。そのような時には、しばしば、他の聖書箇所を参照しながら解釈し読んでいきますので、私共も今朝は、他の二箇所を参照しながらこの箇所を理解していきたいと思います。 /n献げること以上に大切なこと   最初はサムエル記上15章22節の、預言者サムエルのサウル王への言葉「<span style="font-weight:bold;">サムエルは言った。『主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。』</span>」です。サウル王は「いけにえを献げる」という行為こそが大事であると考えていたのですが、サムエルは、そうではない。献げ物やいけにえ以上に大事なことがある。それは、「<span style="font-weight:bold;">主の御声に聞き従うこと</span>」。そのことが、むしろいけにえよりも勝るという価値観を伝えた箇所です。 もう一箇所は、詩編51編18節-19節です。これはダビデの言葉です。「<span style="font-weight:bold;">もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、私はそれを献げます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。</span>」 神が求めるのは「献げ物」というよりは「打ち砕かれた心」、「悔いる心」。それを神は求めておられる。「謙虚な心で献げる」ということが大事であるということです。この箇所から分かることは「献げ物」というのは、献げることを機械的に行うのではなくて、献げる人の心、換言するなら神の言葉に聞き従う謙遜な心が伴わなければならないということが、すでに旧約聖書の時代に示されていたということです。 引用した二つの箇所は決して献げ物を否定しているわけではありません。「献げる」習慣は、その後も旧約聖書において継続されており、むしろ献げることは勧められております。しかし献げるということ以上に大切なことがある。サウルもダビデも献げ物を献げてはいたのですが、自分の欲や名誉を優先させたということを問題としている。そのようなことでは、献げても献げたことにはならないということでした。 /n神は献げる人と献げられた物を見られる  創世記では、神はカインとカインの献げものを見た。そしてそれに目を留めることはなかったのです。「献げ物」ではなくて「献げる人と、献げられた物」を見たということですので、まさにその献げ物がどのような心をもって献げられたか、ということが大切だということになりましょう。ヘブライ書は逆説的に、アベルの献げ物が信仰によって献げられた、優れた献げ物だったと表現したというのは、まさにそのようなことを反映しているのです。 /n信仰によって献げる信仰者  さて今日においても、私達も主に献げ物を携えてきます。例えば時間を献げ、奉仕の業に参与いたします。又、献品や献金を献げます。ある人は生涯を献げる献身をいたします。さまざまな献げ方があります。 しかしそれらは、外側の大きさ、種類で優劣が決まるのではなくて、その中身の大きさこそが大切なのです。すなわち主の言葉に謙遜に聞き従う心を伴った献げ物であるべきだ。そのような献げ物に主の目が留まる。喜ばれるということです。特に「献げる」ことを覚える本日の礼拝において、私達は信仰によって献げる信仰者でありたいと願うものです。

「五人の賢いおとめ」 牧師 佐藤義子

/n[詩編]23編 1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。 /n[マタイによる福音書]25章1-13節 1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。 5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」 /nはじめに  この大地震の中にあって、このように守られて、礼拝をいつものようにおささげすることが出来ることをまず最初に神様に感謝致します。そして、今日までに、ここにおられる方の御家族の安全の確認が出来たことを神様に感謝いたします。又、伝道所の会員であるA兄の安全確認できましたが、御両親の確認はまだですので、守られていることを信じて、出来るだけ早く確認したいと願っています。  携帯も固定電話もつながらない中、伝道所は博子姉の緊急電話用電話を使って、神奈川にいる私の息子の電話を経由して、多くの方々と連絡がとれました。さらに断水がなく、プロパンガスの使用が可能であり、さらに、たきぎや練炭などの燃料がありました。更に、博子姉が昔、来客用に作った沢山の布団がありました。それらがすべて用いられて、伝道所が一時的に避難所の役割を担うことが出来たことは本当に感謝なことでした。 /n万事が益となるように共に働く  ロマ書には、「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを私達は知っています」とありますが、この御言葉が本当に真実であることが、この数日おこりました。地震時にはここにおられる三人の方の御主人が、それぞれ秋田、茨城、名古屋に出張中でした。伝道所に避難していた家族は心配しつつ祈りました。二人の方と連絡がとれ、最後の一人の方も、ローソクの明かりのもとで祈ったその夜、遅く、不思議なプロセスを経て安全が確認されました。一人は昨夜戻り、あとの二人の方は今、こちらに向かっています。安否確認のプロセスおよびこれまでの経過をここでくわしくお伝え出来ませんが(後でその機会があると思います)が、まさに、「万事が益となるように共に働いた」プロセスであり、神様を崇めました。 /n詩編23編  今日読みました詩編23編は、試練の中にある人々を慰め励ましてきた詩編として、よく知られています。作者は自分を羊にたとえて、主は羊飼いであり、私には何も欠けることがない。主は私を、柔らかい草の生えている場所で、草を食べさせ、身を横たえることの出来る安全な場所で休ませて下さり、さらに、疲れと渇きをいやす水が豊かにあるところに、私を先導して下さるので、私の魂は、霊的な神様の言葉である食物と水を得て、元気を回復させていただけると告白しています。そして主は、私を救いに至る道に導いて下さり、たとえ、狭く険しく見通しのきかない場所を通らなければならない時も、羊飼いの持つ鞭や杖で私達羊を、猛獣や、道から外れないように守り、いつも主が共にいて下さるゆえに、私に災いが襲ってきても恐れたり心配したりしないと告白します。主の守りは、敵の前でも平然と食事が出来るほど安全確実であり、主に従う者には恵みが迫って来るという喜びの歌です。そして最後に作者は、自分の命のある限り、主の恵みといつくしみがうしろから私を追って覆って下さり、生涯、私は主の宮に住むと歌います。 /n災いを恐れない  この作者の信仰告白は、私達の信じる神様がどのような神様であるのかを力強く伝えています。そして私達がこの神様を信じる限り、どのような状況の中に置かれても、平安を失うことはありません。私達も又、「たとい我、死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れじ」と、この困難な時でも、平安の中を、主を賛美しつつ、歩んでいきたいと思います。 /n賢いおとめと愚かなおとめ  次に読みました新約聖書も又、よく知られているイエス様の譬え話です。「賢い」というのは、頭が良いとか知識があるという意味ではなく、読んでおわかりのように、ランプの光を必要としていた最も大切な時に、ランプの光を確保し、祝宴の席に座ることの出来た人達のことです。そして「愚か」とは、ランプの光を最も必要としていた時に、補充の油を買いに行かねばならず、結婚式の祝宴に出かけながら、結果として喜びの席に座れなかった人達のことです。この十人は、同じ花嫁の友人であり、花嫁と一緒にわくわくしながら花婿が迎えに来るのを待っておりました。にもかかわらず、半分は祝宴に、半分は祝いの席から閉め出されてしまったのです。 /n天の国  これは、天の国の譬え話とあります。天の国とは、神様が支配されておられるところで、度々、結婚式の祝宴に譬えられる喜びに満ちた場所です。イエス様は、そこに入ることの出来る人について語っておられるのです。  多くの人々は、死んだら天国に行かれると思っています。そのような希望を持ち、そのように信じています。よほど悪いことをしない限り天国は皆が行けると考えている人々が多いのです。しかし聖書には、入りたいと願う十人の内、全員が入れるのではなく、半分の人しか入れなかったという厳しい結果を伝えています。入れた「賢い」人とは、予備の油を用意していた人達です。 /n予備の油  「予備の油」とは具体的には何を意味しているのでしょうか。何か立派な行為でしょうか。行いでは救われないと聖書は語ります。なぜならファリサイ派のように、表面だけをきれいにみせる偽善の行いがあるからです。では何か。「祈り」だと考える人もいます。確かに祈りを知らなければ天の国に入るのは困難です。けれども祈りだけではありません。「天の国」があることを信じ、「天の国」に入りたいと願い、入る為の準備をすることです。準備とは、イエス様を神の御子と信じ、その教えに従うことです。イエス様の教えに従うとは、神様を愛することと、人を愛することです。神様を愛するとは、神様を神様とすることです。つまり神様とは、私を越えた存在ですから、自分を最優先させるのではなく、神様が最優先であることを素直に、当然のこととして受け入れることです。 自分が何をしたいかではなく、神様が何を望んでおられるかを第一に考えることです。そして、神様を愛する者は、神様を崇め、神様を賛美すること、ほめたたえることを喜びとします。 /n偉大な神様の御業  私はこの地震で、停電の暗闇の世界から朝の光の世界に移って行くのを見ました。そしてやみから光を輝き出させた神様の偉大な業(創世記1:3)をほめたたえました。人間の誰が、この光を創り出すことができるでしょうか。神様しかおられません。地震で経験したあの闇が暗くて寒くても、陽が昇れば、気温も上がります。神様は、私達に命を与えて下さった方です。私達は、神様の赦しのもとで生かされているのです。私達の命も死も神様の御手の中にあります。  神様は、私達を愛しておられることを知らせる為に、御子イエス様を遣わされました。私達は目に見えない神様がどういうお方であるのか、イエス様を通して知らされています。そして聖書は、人が救われるのはその人の行いでは無く、「信仰」であると繰り返し語っています。 /n必ず終りは来る  今日の聖書は、この救いに入ることの出来る期間は、永久に続かないこと、ある時、思いがけない時に閉じられることを警告しています。実際、宮城県沖地震のような大きな地震は確実に近いうちに来ると言われていました。しかし私達は、地震がくることを知識として知りながら、一昨日突然起こって見ると、私達の準備がどれほど不十分であったかを思い知らされています。準備はいつでも出来る・・という過信があり、その内、その内、と言っている時に大地震はやってきたのです。同じように、天の国の祝宴の扉は、必ず閉まる扉です。  その扉が、今は開いています。ここにおられるすべての方は私も含めて天の国の祝宴に招かれている方々です。私達は五人の賢いおとめと同じように、予備の油を用意し、良き備えをもって、救いの道を歩んでいきたいと願うものです。

「招待を軽視する客」    牧師 佐藤義子

/n[詩編]9章8-13 主は裁きのために御座を固く据え/とこしえに御座に着いておられる。御自ら世界を正しく治め/国々の民を公平に裁かれる。虐げられている人に/主が砦の塔となってくださるように/苦難の時の砦の塔となってくださるように。主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。シオンにいます主をほめ歌い/諸国の民に御業を告げ知らせよ。主は流された血に心を留めて/それに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れになることはない。 /n[ルカによる福音書]14章15-24節 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。 そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、 宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。 すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。 ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。 また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。 僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』 やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、 主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。 言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」 /nはじめに 今日のルカ福音書14章1節に、「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた」とあります。イエス様は時々、食事に招待されて、いろいろな話をされたり、時には病人を癒されたことが聖書に伝えられています。当時ユダヤ教においては、巡回する教師を、特に安息日に食事に招くことは一つの功績とみなされていたそうです。この日の招待者は「議員」ですから、社会的にも地位は高く、裕福であったと想像されます。 ただ「人々はイエスの様子をうかがっていた」とありますから、同席した人達は、イエス様を愛して信頼していたというよりも、イエス様を観察し、何かあれば議論するような雰囲気があったのではないかと思われます。 /nイエス様の教え  イエス様はここで、招待客が上座に座りたがっているのをご覧になり、人から招待されたら末席に座るように教えられました。上座に座りたいという願望は名誉欲です。自分を人より高く置こうとする欲望は、空しさと危険が伴います。名誉は自分の力で自分のものにすることが出来ず、ただ受け取るのみです。イエス様は「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)と教えられます。もしも私達が高くされることがあるならば、それは神様によって高くされるのであり、神様が下さる恵みに依り頼むことを知っている者がそれを受けるのです。 /n「招くなら、お返しが出来ない人を」 次にイエス様は、招待主に、「招くなら、貧しい人、身体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と、言われました。その理由は、「その人達はお返しが出来ないから、あなたは幸いだ」ということです。招待とは、招いた人々に、無限に恵みを与えることにあります。そうするならば、終末のその時、天国で報われるからです。 /n祝宴にあずかれるという過信 客の一人が「神の国で食事をする人は、何と幸いなことでしょう」と言いました。神の国は、旧約の時代から、神様がご自分に属する者達のために備えた祝宴として考えられていたからです。彼は神の国の食事の席に、自分も招かれていることを確信していました。しかし、彼の言葉に対して、イエス様は譬えをもって、多くの人達が神の国の食事にあずかろうとするけれども、そこに入ることは出来ないと教えられました。 /nイエス様のたとえ話 譬えは、主人が盛大な宴会を催そうとして大勢の人を招いたけれども、招かれた人は出席を断り、代わりに招かれなかった人々によって宴会の席は満たされるという話です。当時、宴会は習慣的に招待が二度告知されました。一度目は予告、二度目は当日『準備が整った』との知らせです。すでに招かれている人達は当日になると、自分の買った畑を見に行く、牛を買ったので調べに行く、新婚だから、などの理由で招待を断りました。自分の財産と幸せを優先させ、招待主が用意したものを軽視したのです。主人は大変怒り、町の広場や路地へ行き、貧しい人や体の不自由な人などを招き、通りや小道からも人々を連れて来させました。 /n神の国で食事をする人 主人は神様。しもべはイエス様。最初の招待客は選民ユダヤ人。そして食事の席についたのはユダヤ人が日頃、軽蔑していた異邦人(私達日本人も異邦人)です。イエス様は、私達に神の国について知らせ、入る道を示し、招いておられます。それは、御子イエス様を信じ、神様に対する不従順を悔い改め、イエス様の教えに従って生きることです。 「今日、あなた達が神の声を聞くなら、神に反抗した時のように、心を頑なにしてはならない」(ヘブル書3:15)。 「今や、恵みの時、今こそ救いの日」(?コリント6:2)。

 「従順と献身」     牧師 佐藤 義子

/n[詩編]78編1-8節 【マスキール。アサフの詩。】わたしの民よ、わたしの教えを聞き/わたしの口の言葉に耳を傾けよ。 わたしは口を開いて箴言を/いにしえからの言い伝えを告げよう わたしたちが聞いて悟ったこと/先祖がわたしたちに語り伝えたことを。 子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう/主への賛美、主の御力を/主が成し遂げられた驚くべき御業を。 主はヤコブの中に定めを与え/イスラエルの中に教えを置き/それを子孫に示すように/わたしたちの先祖に命じられた。 子らが生まれ、後の世代が興るとき/彼らもそれを知り/その子らに語り継がなければならない。 子らが神に信頼をおき/神の御業を決して忘れず/その戒めを守るために 先祖のように/頑な反抗の世代とならないように/心が確かに定まらない世代/神に不忠実な霊の世代とならないように。 /n[ルカによる福音書]19章11-27節 人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。 イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。 そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。 しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。 さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。 最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。 主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』 二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。 また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。 あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』 主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。 ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』 そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』 僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、 主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。 ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」 /nはじめに 今日の譬え話は、ザアカイの家に立ち寄られたイエス様が、そこに集まっていた人々に話された話であると考えられます。この話の前提として、「人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたから」とあります。つまり、エルサレムに向かうイエス様に従ってきた多くの群衆は、奇跡や不思議を行うイエス様こそメシアであり、メシアである以上、近い内に、自分達民族をローマの支配下から独立させて、「神の国」を実現させて下さるだろうとの期待を、イエス様に対して抱いておりました。イエス様は、彼ら達が自分達の夢と期待をふくらませて、「神の国」を勝手に頭の中でつくり上げている現実を見て、このたとえを語られました。 /nたとえ話 話は、ある立派な家柄の人が王の位を受けて帰る為に、遠い国に旅立つことから始まります。旅立つ主人は、10人の僕を呼び、1ムナずつ分け与えて、主人の不在中、このお金で商売をするように命じます。ムナはギリシャの銀貨で、100ドラクメに相当します。1ドラクメは1デナリオンと同じで1日分の賃金に当たります。ですから1ムナは、100日働くと貯められる金額です。聖書には、これに似た譬えでタラントンの譬えがありますが、1タラントンは6,000ドラクメに当たりますので、1ムナが、1タラントンに比べて、どれほど小額なお金か想像できます。やがて王の位を受けて主人が戻ってきます。そして、留守中の僕の働きについて報告させるところは、タラントンの譬えと同じです。 /nしもべの報告 最初の僕は1ムナから10ムナ儲けたと報告します。10倍です。王は喜び、褒美として10の町の支配権を与えます。最初に託した1ムナに比べると想像を越える大きな委託です。次の僕は1ムナから5ムナ儲けました。5倍です。そして3番目の僕も報告します。彼は1ムナを差し出します。預かったまま、布に包んでしまっておいた結果です。主人の家に損害を与えたわけではありません。しかし王は大変に怒りました。そして僕に、銀行に預ければ利子を受け取ることも出来たのに、と言い、この僕から1ムナを取り上げて10ムナに増やした僕に与えます。ほかの僕達が、「あの僕は、既に10ムナも持っています」と訴えますが、王は、「持っている人は更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる」と答えます。 /n譬えの意味 この譬えで家の主人とはイエス様のことです。「王の位を受けて帰る」とは、イエス様がこれからエルサレムで受難され十字架の死と復活の後、天に昇られ、神の右に座すという「神の栄光を受けられて」、やがて再臨と言う形で戻って来る、という長期の不在の予告です。神の国はすぐにも現れると考えていた人々に、そうではないことを予告しています。 さて、僕達に託された1ムナとは何を意味するのでしょうか。これはイエス様が与えて下さった「福音の恵み」と解釈出来ます。イエス・キリストを信じる者は、福音に対して皆同じ恵みを受け、同じ責任を受け取ります。福音そのものには、一粒のからし種のように、畑に蒔けば、やがては空の鳥が来て、枝に巣を作るほどに成長する力があるのです。 譬えの中で、主人は僕達に同じ結果を求めてはいません。5倍でも10倍でも王は同じように喜び、更に「町を支配する」という大きな課題を与えています。その上、10ムナの僕には、さらに1ムナを与える方です。 /n福音にふさわしく生きる 私達がこの譬えから学ぶことは、私達に与えられている福音の恵み・喜びを、イエス様という私達のご主人の為に、使って増やすことです。具体的には、イエス様のことを伝え、イエス様の教えに従って生きること。自分を喜ばすのではなく、イエス様に喜んでいただく生き方をしていくことではないでしょうか。イエス様の為ならば、忠実に、献身的に働くことです。イエス様が一番嫌われるのは「宝のもちぐされ」です。怠惰な生き方を避けて、福音にふさわしく生きる者となりましょう。

「自由を得させる真理」  牧師 佐藤義子

/n詩編125編 /nヨハネ福音書8:31-38 /nはじめに  今読んでいただいたヨハネ福音書の最初には、「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人達に言われた」(31節)とあります。30節に、「これらのことを語られた時、多くの人々がイエスを信じた」(30節)とあるので、それ迄イエス様のことを信じていなかったユダヤ人達が、イエス様の話を聞くうちに、イエス様を信じるようになったことがわかります。  ところがこの後、59節には、イエス様の言葉を聞いていたユダヤ人達が、手に石を持ってイエス様に投げつけようとした為、イエス様は神殿から出て行かれたことが記されています。イエス様を信じたはずのユダヤ人達が、イエス様との会話により敵対者となっていくことに驚かされます。 /n本当にイエス様の弟子になる イエス様は、「わたしの言葉にとどまるならば、あなた達は本当に私の弟子である。」(31節)と言われました。イエス様の言葉に、絶えず信頼をもってとどまるということは、イエス様から離れない。イエス様を信じ続ける。信頼し続ける。イエス様に目を向け続ける。脇見をしないことです。 具体的には、イエス様の言葉に導かれる。イエス様の言葉が私達の思いと意志を動かしていくということです。そうするならば、私達は空しい空虚な思いや、空想や、偽りと決別し、人を自由にする「真理」を知ることが出来るとイエス様は言われます。 /n「真理はあなたたちを自由にする」 ところがイエス様を信じたはずのユダヤ人は、イエス様が続いて言われた「真理はあなたたちを自由にする」と言う言葉に反発しました。つまり、自分達はもともと自由であり、誰かの奴隷になって不自由な状態になったことはないと主張したのです。それに対してイエス様は、「罪を犯す者は罪の奴隷である。」すなわち、「あなたは罪の奴隷だ」と言われたのです。 /n罪の奴隷  罪とは何でしょうか。簡単にいえば、神様への不服従(戒めを破る)です。 例えば、十戒の中に「偽証してはならない」があります。ところが人間社会では、自己弁護、自己正当化のために「うそ」が入ってきます。「うそ」をつくことは罪です。うそをつかざるを得ない状態は、鎖につながれた不自由な奴隷状態にあります。生まれながらの人間は、さまざまな欲望を持っています。そしてその欲望を満たすために、頭では悪いと知りながらコントロールがきかず、罪の奴隷となっています。    この罪の奴隷状態にある私達人間が、「真理」を知ることによって自由になれる。自由を得ることが出来るとイエス様は言われたのです。イエス様は同じヨハネ福音書で「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)と言われました。イエス様ご自身が、神様の真理を現されたのです。イエス様が語られる言葉すべてが真理です。ところがこの世には、神様の支配される世界に生きることを阻止し、そこから引き離そうとする誘惑、力が至る所に存在します。 私達が「自由」になるということは、これら真理に逆らうものすべてから解放されることです。イエス様を信じて、イエス様が教えて下さっている言葉にとどまり続けるならば、私達はこの世の伝統や風習、価値観、人の目、その他全ての束縛から解放されて、自由に生きる(神の子として生きる)ことが出来るのです。このためにイエス様は来てくださいました。 /n本当の弟子になりたい イエス様は、私達を罪の奴隷から解放して下さる為に(その鎖を切り離して下さる為に)、十字架にかかって死んで下さいました。そして三日目に復活して、死(罪)に対して勝利者となられました。 イエス様が地上で繰り返し語られたことは、神様を愛することと、私達が互いに愛し合うことです。イエス様はその見本を示されました。私達はイエス様の本当の弟子になりたいと思います。それには、御言葉にとどまることによって、真理であるイエス様を益々深く知ることであり、それによって、私達を神様から引き離す力から自由にされることです。 今週も御言葉に導かれて歩んでいきたいと祈るものです。

「聖霊の力」  マーチー・デイビット先生(東北学院大学

/nコロサイ書3:1-17         /nはじめに  「クリスチャンである」ということの、多くの喜びの中の一つの、大変楽しいことは、「音楽や聖書を読むことを通して神様を礼拝出来る」ことだと思います。私達は一緒に歌い賛美する中で、私達を造り、イエス・キリストによって永遠の命を与えて下さった神様と一つになることが出来ます。 使徒パウロが、コロサイの教会に手紙を書いた時には、こういう考えがあったと思います。15節から17節までをもう一度読みます。 <span class="deco" style="font-weight:bold;">「また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭しあい、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。 そして、何を話すにせよ、行なうにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」</span> /n音楽の力 私は子供の頃から音楽をやっています。他の人達と同じように、強く、音楽の影響を受けたことに驚いています。音楽は霊感を与えることが出来ます。笑わせることも出来ます。悲しかったり怒ったり、がっかりしている時、なだめてくれることも出来ます。どうしてこんなに音楽に影響されてきたのか、はっきりわかりませんが、これは本当のことです。しかも、ある特定の曲を聞いた後では、私の人に対する態度や、世界に対する見方が大変改良されました。私達は音楽の力で、私達の置かれた状況を超越することも出来ます。神様からいただいた全ての賜物を楽しむように言われた生活に参加することも出来ます。このような音楽の力は、人間であることの一つの偉大な素晴らしい真理だと思います。 /nゴスペルソング   何年か前、アメリカの話です。会社のある若い幹部が、サンフランシスコの近くの、62メートル位のがけの端で、自分の車を止めました。彼は、Bill Mansdorferさんと言います。彼は自殺するつもりでした。けれども初めは、近くの家で自殺する理由を手紙に書きたかったのです。自分の生活や、いろいろな失敗で悲観してしまったこの人は、自殺の理由を手紙に書き始めました。手紙を書いている内に、衝動的にラジオをつけました。するとラジオからゴスペルソングを歌う女の人の声が聞こえました。 (ゴスペルソングとは、自分の心の気持を表現する歌です)。彼は、そのような、ゴスペルソングを聞きました。これは思いがけないことでした。 「神様はあなたの心の痛みがわかっている。 苦しみの強さをよくわかっている。 暗い闇にいる時は神様に信頼しなさい。 無駄ではない。 神様は、あなたの悲しみが分かっている。 流している涙を見ている。 あなたのそばにいてささやいている。 『よろめくな。心配するな』と。   /n音楽の力と助け主である聖霊 その歌を聞いた途端、Bill Mansdorferさんの人生は変わってしまいました。神様の方が、自分の心と生活を、自分より良く分かっているということにやっと気が付くようになったのです。神様は私達の生活状態が良い時でも悪くなった時でも、私達を進んで喜んで助けて下さることが良くわかるようになったので、彼は自殺の計画をただちにやめてしまいました。神様の恵みによって、彼はゴスペルソングから、人生の新しい希望と意志をいただきました。 音楽が私達に影響を与えるのと同じように、聖霊も私達に影響を与えます。たとえ音楽がどんなに素晴らしくても、神様の聖霊の力と比較すると、音楽はそんなに強くはないのです。音楽が私達を支える力には限りがあります。そして又、音楽は勝手にならないこともあります。私達がしたくないこと、しなくても良いことをさせるために、音楽はよく使われます。例えば音楽を使った広告は、私達のいらない物や欲しくない物を買わせようとします。又、軍隊の指導者は、戦わなくてもよい戦いを、熱狂的に戦わせる為に音楽を使います。 しかし神様の聖霊は違います。そのように人をだましたことがありません。私達はいつも聖霊を信頼することが出来ます。聖霊は、私達が神様と一つとなって生活出来るように導いて下さることを確信できます。イエス・キリストは、聖霊のことを「助け主」といわれました。そしてイエス・キリストを信じれば、その信仰を通して、私達はこの「助け主」から「愛」、「喜びもある、終らない人生」、又、「生きている神様と交わることが出来る人生」を、いただけます。 /n信仰は神の贈り物 信仰について驚くべきことの一つは、信仰を通して受け入れる「救い」と「永遠の命」と同じように、この「信仰」も、神からの贈り物であるということです。神が無償で提供して下さった「救い」の評価を理解しようとしても、我々の能力は、罪ある人としての利己的な生活や罪深い知力のために、大いに妨げられています。そのため神は、我々が信じることが出来るように、我々を助ける聖霊を備えて下さったのです。従って、真の意味において、我々の信仰すらも神の贈り物です。 /n霊の変貌 神の、約束された救いの福音(神の良い知らせ)を聞き、罪の赦しの必要を心から認める時、我々の霊性は、神の聖霊の働きによって、神からの新しい生命を受け、変貌しうるのです。聖書は、「造り変えられ」(ロマ12)「生まれ変わる」、また、「新しい創造」と表現しています。 「生まれ変わる」は我々の命の中に働く神の聖霊のわざです。ヨハネ福音書3章3節で、イエスは、ユダヤ人達の議員であるニコデモとの会話の中でこう言っています。<span class="deco" style="font-weight:bold;">「よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生れなければ、神の国を見ることは出来ない」</span>。(口語訳))   パウロは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである</span>」(第2コリント5:17)と言っています。 神の国に入るということは(イエスはしばしば話しました)、私達の内に働く神の聖霊の働きによってもたらされる「霊の変貌」を受け取ることにすぎないのです。しかも実にイエス・キリストを信じる信仰によって、この「霊の変貌」は起こるのです。私達がイエス・キリストを信じた時に起こる「霊の変貌」を理解することはむつかしいです。なぜならそれは、「霊」の「変貌」だからです。科学的に評価しうるような事柄ではありません。なぜならそれは、我々自身の中から発してくるものではないからです。それは我々の外から、我々の創り主でもある超越の存在である神から我々に及んでくるものです。しかし、私達には完全にそのことが理解出来なくても、キリストを信じる者は、この「変貌」が現実であることを知るのです。 /n「霊の変貌」は、「新生」の始まり この内なる「霊の変貌」が、「新生」の始まりであり、信じる者の人生の前途(展望)は変わっていくのです。以前は、自己中心にあやつられ、いろいろな破壊的衝動に駆られていましたが、キリストと神の聖霊の働きを信じることによって、その人の感情は、我々を愛して下さる「神の方に」、又、「他の人々の方に」向かうようになっていきます。又、以前私達は、この世界の中に、自分だけの安全を構築しようと空しい努力を続けていたのが、私達がキリストを信じ、神との新しい交わりに入ることによって、今や私達の現在および未来の安全は、完全に打ち建てられるのです。 私達はもはや古い迷信や、偶像礼拝や数々の罪深い衝動などに縛られはしないのです。それより私達には新しい自由があるから、神が造ったこの世界で、神に結びついて生きている人として生きることが許されるのです。  パウロは、根本的に新しい生の方向について、エフェソ書で、 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私達も皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、他の人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、私達をこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいた私達をキリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして神は、キリスト・イエスにおいて私達にお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです</span>。」(2:3-7)と言っています。 この聖句はさらに続けて、私達は、キリスト・イエスを神の前に我々の代表として、神の変わらない慈愛を受ける者となる未来を待ち望むことが出来る、と述べます。 /n信仰者に約束された「命」 このような命は、イエス・キリストを信じる信仰を持った者に神が約束された命なのです。この「新生」と言うことは、基本的には「霊の変貌」ですが、その結果ははっきりしています。そしてそれは多く、我々の住むこの世界に属することです。イエス・キリストを信じる信仰によって、我々は神の国に入ります。「永遠の命」も受けますが、この「新生」は、今、始まります。 神の国は、この地上の国ではありません。霊の国であって、イエス・キリストが支配する国です。それは、根本的に異なる国です。そこでは、キリストを信じる全ての者は、神と人とに仕える自己犠牲の愛の命を生きるように求められます。このような命が可能なのは、キリストを信じる者の命の中に、聖霊が常に変わらず存在しているからです。 神の国は、私達が住んでいるこの現在の社会を去るということとは関係ない事柄です。それとは全く反対に、神は、私達に、キリストの代表としてこの世にキリストの愛のわざを進めるように求めます。 /n永遠の命 神様が約束して下さった命は、永遠の命です。 美しい音楽は、私達を一時的に元気よくさせます。 それにもかかわらず、神様だけが私達に、神様と共にいる永遠の命を、福音に引き上げて下さるのです。そしてこの「永遠の命」は、絶対の、御国の神様からいただける「賜物」なのです。 この賜物をいただく為には、私達は、イエス・キリストという神様の独り子を信じさえすれば良いのです。 今日、皆さんが、この神様の「永遠の命の賜物」を、自分から戴いて下さることを私は希望して祈ります。 このことは、私よりもイエス・キリストの使徒ヨハネがもっとはっきり、もっと強く、簡単に言っています。 ヨハネ福音書3章16節に書いてあります。 <span class="deco" style="font-weight:bold;">「神はその独り子をたまわったほどにこの世を愛して下さった。それは、 御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」</span>               

「終末についての御言葉(1)」 伝道師 平賀真理子

/n詩編46:2-12 /nマルコ福音書13:1-13 /nはじめに  本日の聖書には、地震、戦争、飢饉という言葉があり、「今は終末だろうか?」と不安に思われる方もいらっしゃるかもしれません。そんな折に与えられた御言葉を、じっくり追いながら学んでいきたいと思います。 ユダヤ教の総本山エルサレム神殿で、本当は、救い主として迎えられるはずであったイエス様は、ユダヤ教の有力者達によって排斥されました。  イエス様は、彼らと討論しながら彼らの誤りを指摘されましたが、彼らはイエス様を救い主と認めることはできませんでした。エルサレム神殿は、古い形を固守したが故に、新しい形を受け入れられなかった「不信仰」のシンボルとなりました。にもかかわらずイエス様の弟子の一人は、「何とすばらしい建物でしょう」と、表面的な見方のままです。  イエス様は、エルサレム神殿が「人間の救い」の役目を果たさないなら、外見はどんなに立派でも、近い将来、崩れて滅びると言われました。 /n二つの質問 イエス様は不信仰のエルサレムを出て、そこを見下ろせるオリーブ山に来た時、弟子達(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ)がひそかに尋ねました。彼らは最初にイエス様に呼び集められた弟子達です。素晴しいエルサレム神殿が崩壊するのは「終末」の時と考えて質問したのです。 「終末」は、「終りの日」・「主の日」と言われ、神様が審判と救いの完成の為にご自身を現わされる日であることがユダヤ教の中で知られていました。弟子達は二つの質問をしています。最初の質問は、いつ「終末」が来るのか。そして、第二の質問は、終末の「前触れ」としての出来事は何かです。 /n終末の前ぶれについて イエス様は、二番目の質問「前触れ」について、偽の「救い主」を語る者達の出現、戦いや地震や飢饉などを挙げられました。しかし、これらは起こるに決まっているが、まだ世の終りではないと言われます。 「起こるに決まっている」とは、神様の救いを理解できず、信仰を表すことができない「この世」は、主の御心に沿わず、崩壊していくようになっているのです。そして戦争・地震・飢饉などは「産みの苦しみの始まり」と言われます。これは、古い形の信仰に生きる世界から、新しい形の信仰の下に広がる世界へと移り変わる時(生まれる前)に伴う「苦難」です。御子イエス様がこの世に来られ、神の国の福音を広め、イエス様の救いを信じる者達が神の国の民となる世界、誰もが本当の神様の愛の主権の下で平安に生きる世界は、「産みの苦しみ」の後、到来するのです。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた方は自分の事に気をつけていなさい</span>。」(9節) イエス様は「あなた方は自分の事に気をつけていなさい。」と言われました。何をどう気をつけるのでしょうか。それは今後の出来事における弟子達の態度です。イエス様を救い主と信じるゆえに、権力者からの迫害があり、そこではイエス様について証言を求められます。力ある反対者達の前で自分の信仰を表現するのです。しかし神様のご計画によれば、信仰者がそのような目に遭うことで、「主が来てくださった!救いがこの世で成就される!」という福音が、全ての人々に広まることになるのです。人間の思いもよらないことです!「<span class="deco" style="font-weight:bold;">主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される</span>」(詩編46:9)。 更に、迫害の中でも助け主として「聖霊」が共に居てくださり、信仰者を通して聖霊が語ってくださることを教えています。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられなければならない</span>」(10節) 人間が、今の自己中心の世界を卒業し、全く逆の「神様の愛」を根本にした世界を生み出していくには、「産みの苦しみ」が待っています。 主の福音が広まるために弟子達は、純粋で強い信仰を貫き迫害に負けず、イエス様が救い主であると証しし、多くの人達が殉教していきました。「主の十字架」により、この世に対する神様側が勝利していることは確かです。私達も又、信仰によって新しい「神様主権の世」を創りだす手伝いが許されていることを感謝し、主の証人としての歩みを励みましょう。

「神の養いの中で」  遠藤尚幸神学生(東京神学大学)

/n詩編68:23 /nマタイ福音書6:25-34     /nはじめに  初めて仙台南伝道所に来たのは、今から約8年前の2005年でした。誘われて、おそるおそる教会という場所に足を踏み入れた時のことを今でも思い出します。それから一年後の2006年4月に仙台南伝道所で洗礼を受けました。同じ年、私は社会人にもなりました。社会人生活をしながら毎週日曜日、車で高速に乗り、古川から約30分かけてこの伝道所に通いました。そういう生活を続ける中で、自分は何の為に生き何の為に死んでいくのか。又、神様が自分に与えられている仕事は何か、を考えるようになりました。その中で牧師になる(献身)という一つの道が示されました。牧師に相談し、祈り、受洗から3年後の2009年に会社を退職し、東京神学大学に進学することを決めました。 それからもうすぐ4年の月日が経とうとしています。上京当時は知り合いもなく、将来の見通しもあったわけではなく、不安の中で始まった学生生活でしたが、その後、現在在籍している教会との出会いが与えられ、様々な人々との出会い、神学校での学びと教会での学びに支えられながら進んでいきました。自分自身の信仰が揺さぶられ、打ち砕かれ、また、想像以上の沢山の恵みが与えられた4年間でもありました。仙台南伝道所の皆様には、この4年間、お祈りと奨学金という支えをいただきました。離れていても共に礼拝を守る群れとして、いつも繋がっていると感じてきました。 今朝は、今年初めての主の日の礼拝を、この仙台南伝道所で共に守ることのできる幸いを、心から神様に感謝しています。 /n神学生時代  神学校での4年間は、大変恵まれた4年間でありましたが、その反面、不安や恐れのない4年間ではありませんでした。さまざまな思い悩みがありました。夏期伝道実習では、実習先の牧師から、厳しい言葉をいただきました。ある時には聖書そのものが読めなくなる経験もしました。又、説教を聴いても御言葉が響いてこない時期もありました。伝道者を志す者として「神様に召された」という思いが、逆に自らを苦しめるものとなっていきました。東京の教会に於いても、神学生として厳しいお叱りを受けることも多々ありました。振り返ってみれば、辛く悲しい思い悩まずにはいられないような現実と向き合うこの4年間でもありました。 /n私達の思い悩み  考えてみれば、人生において誰しもが、「思い悩み」を持って生きているのではないでしょうか。生きていれば病気もします。自分の命のことを考えます。人間はなぜ死ぬのか、また何の為に生まれて来たのか・・。そのような、私達にとって避けることの出来ない思い悩みが誰にもあります。右に行っても左に行っても、さほど影響のないような、ごくごく小さな思い悩みの時もありますが、反対に、人生に大きな影響を及ぼす重要な決断を迫られるような思い悩みもあります。言ってみれば私達の日々の生活は、このような、思い悩まずにはいられない決断の連続と言ってよいかもしれません。時には、どちらに行こうとも、もうどこにもたどり着けないような「行き詰まり」さえ経験することがあります。 /n「思い悩むな」  そういう私達の、思い悩まずにいられない現実に対して、聖書は今朝、私達にこう語ります。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。</span>」(マタイ福音書6:25)。 さまざまな思い悩みがある私達の日常生活の中で、主イエスが「思い悩むな」と言って下さることは、それだけで意味があり、素晴らしいことだと思います。まさに、思い悩まずにはいられない私達に対する、神様の励ましの言葉であると言えるでしょう。 しかしその一方で、この言葉を容易には受け取ることの出来ない自分に気付きます。「思い悩むな」と言われて私達は思い悩むことをやめることが出来ない自分自身の姿と直面させられるのではないでしょうか。 /n「空の鳥をよく見なさい。」  「<span class="deco" style="font-weight:bold;">空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか</span>。」(マタイ6:26)  思い悩みの現実にある時、その中心は「自分」です。25節に「自分の命」・「自分の体」という言葉が続きます。神様を見ないで、自分ばかり見る。自分のことしか考えない。そういう私達の現実に対して、主イエスは、「空の鳥をよく見なさい」と教えて下さいます。空の鳥は種も蒔きません。刈入れもしません。倉に納めもしない。けれども天の父はこの鳥を養って下さいます。又、主イエスは続けて「<span class="deco" style="font-weight:bold;">野の花がどのように育つのか、注意して見なさい</span>」と言われます。野の花は働きもせず、自らを紡ぐこともありません。けれども野の花は、「栄華を極めた王」ソロモンよりも着飾っていると言っています。野の花はいつ捨てられるか分からないような、そういう小さな存在です。その花を神様は装って下さいます。この野の花の姿を見る時、私達は、野の花を越えて神様の養いがあることを教えられるのではないでしょうか。これらの主イエスの言葉は、「自分ばかり見るのではなく、あなたを養い、あなたを守り導いて下さる神様にこそ 目を留めなさい」ということを私達に教えてくれています。 /n「海の深い底から」  昨年8月に、私の所属する教会の先生と共にボランティアチームに参加し、宮古に行ってきました。宮古には2月に続いて二度目です。行く途中、ある教会に寄りましたが、その教会の先生が、2月には行かなかった場所に案内して下さいました。そこでは震災時に約160名余りの人が避難しましたが、120名以上の方が津波の被害で亡くなった場所でした。その建物の中の壁は剥がされ、天井は傷つき、当時の凄まじさを まざまざと見せつけられ、恐ろしさを感じました。その場所の一番大きな部屋の中心には現在祭壇が置いてあり花が置かれています。その前で、先生が聖書を読んで下さいました。 それが今朝の旧約聖書の御言葉です「<span class="deco" style="font-weight:bold;">主は言われる。『バシャンの山からわたしは連れ帰ろう。海の深い底から連れ帰ろう。</span>』」(詩編68:23)   先生は、その場所は本当に地獄のような場所だったと、当時の状況を知る人から聴いたそうです。そしてこう語られました。「主なる神様は、私達が海の底に行っても、地獄の底に行っても必ず連れ帰るという約束をして下さっています。まさに、地獄だと言われたその場所からもイエス様が連れ帰って下さる、という約束を信じたいと思います」と。 私達はその祭壇の前で、祈りを捧げました。私は、「海の深い底から連れ帰ろう」という神様の約束の言葉に、どんなに辛く受け入れ難いような現実の中にも、主イエス・キリストの 救いの約束があることを教えられました。「海の深い底から連れ帰ろう」、そう神様は約束をして下さっている。想像を絶するような、まるで地獄のような場所にもイエス・キリストが立っておられることを知りました。   今日1月6日は、教会歴で「公現日」(*注)です。12月25日のクリスマスに、私達の為に生まれたイエス・キリストが、おおやけの前に「救い主」として現れた日として制定されています(*注:東方の博士が星に導かれてキリストを礼拝したことが中心となり、クリスマスから12日後の1月6日に祝う。顕現日ともいう)。 イエス・キリストは、遠い昔に生まれたお方でありながら、同時に今ここで、礼拝を守る私達の目の前に立たれています。又、イエス・キリストは、私達が人生につまずき、もうこれ以上どこにも進めないような、 思い悩みから逃れられない現実の中で、私達と共にいてくださいます。 /n神の養いの中で  マタイ福音書6:31以下に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである</span>。」とあります。思い悩みの現実の中に投げ出される時、人生の行き詰まりを感じている時、私達はその絶望の淵に立って私達を救おうとされている「一人のお方」に出会います。絶望の淵にこそ神様の守りがあることを知らされます。もうそこから先に進む事のできない、そのような時にその淵に立ち、私達と共にいて下さるイエス・キリストと出会います。 神様は私達に必要なものをすべて御存知です。それは、私達が思い悩み、自分のことを考えている以上に、神様が私達のことを考えて下さっていると言い換えることが出来ます。その確かな証拠として、神様はその独り子イエス・キリストを私達に与えて下さいました。人生に行き詰まり、自分の事しか考えないような罪深い私達の現実の中に、神様は主イエス・キリストを遣わされたのです。イエス・キリストは神の子でありながら、私達の罪のために十字架に架かって死なれました。ですから、私達が今立っている(生かされている)場所は、何の保証も無い場所ではありません。 そこは、イエス・キリストの十字架の死によって私達の罪が赦され、神様が私達の父となって下さり、守り養って下さっている場所です。現実の只中で、この場所こそが、神様の養いの中にあります。 /n「神の国と神の義を求めなさい」  33節にはこう続きます。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる</span>」。  「神の国」とは、神様のご支配と言い換えることが出来ます。「神の義」とは、神様の御心に従って生きていくことと言い換えることが出来ます。私達は、何よりも先ず、神様によるご支配を求め、御心が何であるかを 聴きつつ生きることにこそ、思い悩みから解放される唯一の道があることを知らされます。そのようにして初めて、私達の人生に必要なものが備えられていきます。 「必要なものが備えられてから」ではありません。「まず、神様のご支配と御心を求める」ことによって、私達はその時その時に必要なものを、「神様からの恵み」として受けとっていきます。それによって日々の思い悩みから解放され、神様の養いの中で安心して生きていけます。 このことは、私達の考えと逆の発想でありましょう。全てが備えられたから、神様のことを信じるのではありません。何一つ備わっていないそういう状況の中でも、神様のご支配と御心を求めて歩む。その歩みの 中で必要なものが備えられていくのです。そのことを知らされ、受け入れ、主イエスを救い主と信じて告白して歩んでいくことが私達にとっての信仰生活です。信仰生活とはそういう意味で、何一つ持たず、ただ主イエスのみに信頼して歩んで行くことと言い換えることが出来ます。そしてその時にこそ私達は、思い悩みから解放されていくのです。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である</span>。」   そのようにして、神の国と神の義を求めるという信仰生活が与えられてもなお、この言葉は、その日の苦労、その日の思い悩みは残るということが言われます。しかしその思い悩みは、もはや人生が行き詰ってしまうような、思い悩みではありません。なぜなら私達は、絶望の淵に立ち、私達を救おうとなさる主イエス・キリストが、私達と共にいることを知らされているからです。思い悩みの只中にある私達と共に、主イエスはいて下さる。たとえどのような辛く悲しい現実があろうとも、私達の与えられている希望は決して無くなることはありません。そして、その希望は、私達が死んだ後もなお、輝いています。 /nあなた方の父 主イエス・キリストは、天の父なる神様を「あなたがたの天の父」と、私達に教えて下さいました(26節)。イエス・キリストの父なる神様は、十字架の出来事を通して、私達の父ともなって下さいました。私達を愛し、守り、導き、海の深い底から連れ帰ろうと約束して下さる神様が、私達の「天の父」として、私達をご支配の中に置き、養って下さっています。それ故に私達は、自らの人生の日々を、神様の御心を求めて思い悩みを担いつつ、神様の守りの中で安心して歩んでいくことが出来ます。 私たちは今日も、父なる神様のご支配の中で養われ、生かされています。