11月13日の説教要旨 「悪霊を追い出す力」 平賀真理子牧師

ダニエル書52228 ルカ111423

 はじめに

今日の箇所ではまず、イエス様が悪霊を追い出したことによって、口が利けなかった人が、口が利けるようになった奇跡が記されています。そして、群衆、その背後にいる反対勢力からの中傷と要求に対してのイエス様の御言葉が語られています。

 「ベルゼブル」

イエス様の御力がどこから来るかを反対勢力の人々は問題にし、その源は「ベルゼブル」と中傷しました。私達には耳慣れない「ベルゼブル」は、元々はユダヤ人に敵対してきたペリシテ人の町で崇められていた神々の一つだったようです。ユダヤ人の間では、いつの間にか、「異教の神」から変化し、「悪霊の頭」の名前として認識されていたようです。私達は、悪霊の頭と言えば「サタン」という名が思い浮かびますが、ここでは、私達は15節にあるとおり、「悪霊の頭」と受け取ればよいでしょう。

 預言されていた「救い主」の御業への中傷と要求

イエス様が悪霊から苦しめられている人から悪霊を追い出すことをたくさんしてくださったことが、福音書には書かれています。これこそまさに、イザヤ書61章1節に預言されている「救い主の御業」の一つ「捕らわれている人には自由を」の実現です。だから、口の利けない人が、イエス様の御業ゆえに口が利けるようになったことは、その事実だけでなく、それが「救い主」の証しだと多くの人が思い至り、驚嘆しました。それ以上に危機感を持ったのが、ファリサイ派という反対勢力の人々です。イエス様の御力は「悪霊の頭」から来ていると中傷し、また、試すために「天からのしるし」と見せてほしいと要求したのです。

 悪霊と「悪霊の頭」は正反対の働きはしない

反対勢力の心根を見抜かれたイエス様は、彼らの中傷の矛盾点を指摘なさいました(17節以降)。ある悪霊が頑張って一人の人間を思いどおりにしているのに、そのボスの「悪霊の頭」が全く逆の働き(悪霊を追い出す)をして、悪霊の努力を無駄にするはずがありません。イエス様は、悪霊やその頭が、神様に対抗して人間を支配して悪の国を作ろうと働いていることをよくご存じです。この世の出来事(最近の世界情勢)をみても、一つの国が正反対の働きをする派閥の抗争によって、勢力を失います。悪霊の国「悪の国」も同じことが言えると、イエス様は教えておられます。

 ベルゼブルの力で悪霊を追い出すという論理は、仲間からも訴えられる 

おまけに、ファリサイ派の人々の中には、悪霊払いをしている者達もいたのです。イエス様ほど完璧ではなかったのでしょうけれども、いささか実績があったことが、イエス様の御言葉の御言葉からも読み取れます(19節後半)。同じように悪霊を追い出していて、それがすべて「ベルゼブル」からの力なら、イエス様を中傷するファリサイ派の仲間達も「ベルゼブル」の力をいただいていることになります。「そんなことを言われた仲間は納得しないでしょう。それなら、わたしの力もベルゼブルからの力ではない」とイエス様は論理的に結論付けました。

 「イエス様の御力は神様から来ている」⇒「神の国はあなたたちのところに来ている」(20節)

イエス様はファリサイ派の中傷が非論理的で、誤りであることを指摘なさいました。更に発展させれば、「イエス様の御力は神様から来ている」という結論になります!悪霊を追い出す御力は、「悪霊の頭」からではなく、「悪霊の頭」を悠かに凌ぐ「神様」からいただいている御力です。御自分の憐れみによって神の御力をいただける、これこそ、神様から遣わされた「救い主」にしかできないことです。その救い主イエス様が「神の国はあなたたちのところに来ている」と宣言してくださいました!そして、この世は、22節にある「強い人」としての「悪霊の頭」の支配から、23節にある「もっと強い者」としてのイエス様の支配へとすでに移っていることが宣言されています!

 「神の指」

ルカ福音書では、イエス様は「神の指で悪霊を追い出している」と言われたとあります。「神の指」とは、人間の手やその指のように神様が働かれる譬えです。恵みとしては、天地創造の御業(詩編8:4)、十戒を石版に記した御業(申命記9:10)等が挙げられます。一方、神様の御心に従わない人々への災いとして「神の指」が働かれたと言われることもあります。出エジプト記8:15、ダニエル書5章全体がその例です。神様の御心に従えば恵み、従わなければ災いを賜わるのです。

 イエス様に味方し、一緒に集めるとは?

福音を信じる者がすべきことは、イエス様に味方し、主を信じる者を集めること、即ち、信徒が一同に会し、主に礼拝を献げることです!神様が大変喜ばれるのです!私達は勝利者イエス様を信じ、勇気を出し、信仰生活を続けましょう。

11月6日の説教要旨 「神の愛に捉えられた者」 平賀真理子牧師

イザヤ書5049 ローマ書831b39

 はじめに

「ローマの信徒への手紙」には何が書いてあるかというと、この手紙の冒頭(1:1)からこう言えます。「キリスト・イエス」についてです。次に、この手紙の筆者と宛先をお知らせしたいと思います。筆者は「パウロ」という人です。パウロは「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった(1:1)人です。また、宛先は、ローマにいる「キリスト・イエス」を信じる者達です。これも説明があります。「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ(1:7)」です。神様が救い主をこの世に送ってくださることすら知らなかった異邦人であるローマ人の中で、イエス様が救い主であると知らされ、信仰を与えられた人々に、「救い主イエス様の恵み」を豊かに語っているのが、ローマの信徒への手紙です。特に、8章31節からは見出しのとおり「神の愛」について書かれています。

 神がわたしたちの味方である

8章31節-35節は、パウロが自問自答する形を取りながら、ローマの信仰者達に、「神の愛の恵み」を伝えています。31節bは信仰者達に敵対できる者がいるかを質問していますが、これは反語です。だれも敵対できる人はいないということです。32節はその説明です。人々の罪を肩代わりするため、イエス様は十字架にかかりました。それは、イエス様の「父なる神様」のご計画でした。神様は愛する御子を十字架で犠牲になさるほど、人々を愛してくださっています。神様が私達信仰者を本当に愛してくださる、大いなる味方である以上、敵対できる者がいるはずはありません。

 わたしたちを訴える者はいない

パウロは33節で、私達信仰者は神様に選ばれた者であると言っています。私達が神様に選ばれているなら、私達を悪者として訴えられるものはいません。人を「良し」として認めてくださるのは神様ですから、その神様が最初に選んだ者達=私達信仰者を訴えることのできる者はいません。

 わたしたちを罪に定める者はいない

私達信仰者の罪を糾弾する者もいないとパウロは言おうとしています。その説明がその直後に書かれています。キリスト・イエスについて、4つの説明があります。①死んだ方②復活させられた方③神の右に座っている方④私達のために執り成してくださる方です。①「死んだ方」とは、十字架で私達の罪を肩代わりするために命を犠牲にされた方という意味です。②「復活させられた方」とは、救い主としての定め=「十字架にかかって死ぬ」役割をイエス様が果たしたことに対して、父なる神様が栄誉として授けた復活を受けた方という意味です。③「神の右に座っている方」とは、2000年前にはこの世で人間として歩まれたイエス様も、今や、人間ではなく「神様」となられているという意味です。④「執り成してくださる方」こそ、イエス様の特徴です。イエス様は人間として歩まれたので、人間の弱さ・愚かさもよくご存知です。もし、私達信仰者を非情な裁判官のように裁く者がいても、主は人情ある弁護士のように執り成すのに充分な御力をお持ちである、安心しなさいと語られています。

 キリストの愛からわたしたちを引き離す者はいない

私達信仰者が信仰を失う原因となるものが、現実にはいろいろ考えられます。35節にあるとおり「艱難・苦しみ・迫害・飢え・裸・剣」など、つまり、権力者や社会からの圧迫や現実生活の厳しさによって、人間は次第に、もしくは一気に信仰を失ってしまいます。36節は詩編44編からの引用ですが、旧約聖書のある昔から、信仰故に苦しみを受けることを信仰者が神様に訴えている箇所です。しかし、です。その苦しみの数々、人間を信仰から遠ざける困難さに対して、私達信仰者は、もう既に勝利を収めているのです!イエス様の恵みによる勝利は、ギリギリの勝利ではありません。勝って余りある勝利、大いなる凱旋です。

 キリスト・イエスによって示された神の愛からわたしたちを引き離す者はいない

38節-39節では、もう一度、信仰者を脅かすものが具体的に挙げられています。それらは、イエス様が人間として歩まれた頃、当時の人間達が、神様以外に恐れたものです。パウロは、当時の人々の恐れを知った上で、神様から選ばれて、その大いなる愛を受けている信仰者に対して、神様の愛の偉大さを思い起こし、何事も恐れず、キリスト・イエスの福音を信じるように勧めているのです。

 「神の愛に捉えられた者達」

本日は召天者記念礼拝です。私達の教会員で、先に召天された、平野武夫兄、石川進兄、佐藤博子姉を覚えます。この3人の方々は、「神の愛に捉えられた者達」であり、信仰を貫かれました。死の床にあっても、他の人々と違う、その姿で、私達の主キリストを証しされました。私達は、その信仰を継承したいものです。

10月30日の説教要旨 「わたしたちの立ち所」 倉松 功 先生(元東北学院院長)

ヨハネ福音書65263

 はじめに

私達の教会はプロテスタントですが、決して「新教」(新しい宗教)ではありません。日本では、カトリックは「旧教」、プロテスタントは「新教」と表しますが、カトリックが古代(4~5世紀)の教会から離脱していたのを、そこへ帰って行こうとするがプロテスタント、「新教」ではありません。

 宗教改革→プロテスタントの発足

プロテスタントは、今から499年前の1517年10月31日に発足しました。この日、ヴィッテンベルクのお城の付属教会の扉に、マルティン・ルターが95箇条の質問(問題提起)を打ち付けたことにより、宗教改革が始まったのです。それは、ローマ・カトリック教会(以下、ルターの使った「ローマ教会」と記す)の誤りを正そうとするものでした。それはローマ教会が販売していた贖宥券(通称「免罪符」)についてです。元々、「贖宥券制度」とは罪の償いの軽減のため、中世のローマ教会が案出したものでした。しかし、ルターの時代には、死後の煉獄での苦しみの軽減に及び、自分のためだけでなく、既に死んだ者のために販売されました。ルターが直接非難したのは免罪符販売の口実です。神父テッツェルは「免罪符を買った人の代金が箱に入れられ、チャリンという音がするや否や、罪赦されて魂は天国に行く」と宣伝しました。私達日本人は、神社やお寺でお賽銭を箱に入れてお参りするという光景を現代でも見かけます。似たような状況が、ルターが95箇条の問題提起をした時にあったのです。

 ルターが抗議した相手

更に、ルターの宗教改革は、カトリックが使命と考えてきた「宗教と政治を一つにする」ことに対する批判、抗議でもありました。カトリックは「救済の歴史を、政治においても信仰においても担うこと」が自分達の使命と考えていたのです。ルターの宗教改革は、このことへの抗議でもありました。カトリックの司教は、教会の監督であると同時にこの世の「領主」でもありました。だから、ルターの宗教改革は、カトリックの司教でもある領主達という、大変困難な相手に対する批判でもあったのです。

 ルターの宗教改革の遺産=「信仰のみ」「聖書のみ」

ルターの宗教改革の遺産は何といっても「(キリストを信じる)信仰のみによって救われる」ということと「権威の拠り所は聖書のみ」ということです。これに対して、カトリックは「聖書と伝統」、「信仰と伝統」、「信仰と行為」を根拠とし、大きく異なります。その「行為」とは、カトリック教会が当時決めていた行為、例えば、特定の教会への訪問や、秘蹟(サクラメント)のことだったりします。

 プロテスタントのサクラメントは2

サクラメントと言えば、カトリックは7つの秘蹟ですが、プロテスタントでは、その定義は「それ自体がキリストによって設定され、恵みを伝達するもの」、つまり、「聖礼典」のことであり、具体的には「洗礼」と「聖餐」の2つです。特に、「聖餐」についてはプロテスタントの幾つかの教派で、解釈の違いはありますが、私達の教会では、聖書の言葉を根拠に聖餐を行っています。聖餐について、聖書で語られている箇所は幾つかあります。今日の聖書箇所(ヨハネ福音書6:52-63)もその一つです。私達は、聖書の御言葉「これ(パン)はわたし(キリスト)の体であり、これ(葡萄酒)はわたし(キリスト)の契約の血である」を根拠に、聖餐を行っています。(参照:Ⅰコリント書11:23-26、ルカ福音書22:19-20等)

 ルターの宗教改革で特筆すべきこと

ルターの宗教改革で、他に特筆すべきことが幾つかあります。一つは「万人祭司」、つまり、すべてのキリスト者は、信者でも牧師でも同じように、祭司としての権威が与えられているということです。このことを、神学者のティリッヒや文学者のトーマス・マンは「宗教的民主主義」と言いました。また、「万人祭司」に対応して、ルターはこう主張しています。「領主は領民への奉仕者である。」

二つ目として、「信仰告白は、福音の伝道である」とも言われていることが挙げられます。このことは、今日の教会の伝道への励ましと受け取れます。

三つ目に、ルターのキリスト論「キリストは神であると同時に人である」「キリストは神性と人性を共有している」ということをお伝えします。これは、他の宗教改革者達(カルバン=「キリストの神性は人性の外にある。」ツヴィングリ=「キリストの神性と人性は交替する」)と異なっていますが、ルターは聖書そのものを根拠にそう説きました。私達は、ルターの遺産として「神学の根拠は聖書のみ」「信仰によってのみ救われる」ことを再び思い起こし、継承していきたいものです。

10月23日の説教要旨 「祈るときには ②」 牧師 平賀真理子

 歴代誌 1517 ルカ福音書11513

 はじめに

イエス様は、祈りを教えてほしいと願う弟子達に、まず、「主の祈り」を教えてくださり、御言葉として一つの形を示されました。その一つ一つの意味について、前回お話ししました(前週の週報の裏面をご参照ください。)。「主の祈り」には、イエス様の父なる神様への思いと、人間への憐れみが貫かれており、「主の祈り」は、その意味を理解して祈る必要があるし、また、そのように祈れることは大きな喜びです。

 「主の祈り」を献げる相手

「主の祈り」を献げる相手はイエス様の「天の父なる神様」です。その御方は、私達の祈りを確かに聞いてくださり、私達に必要な物を確かにくださる御方であることを、主は弟子達に更に教えようとされました。

 友人のためにパンをしつように頼む者の例え話

「主の祈り」の御言葉を教えてくださった後、イエス様は例え話をなさいました。「旅行中の友人に挙げるためにパンをください」と別の友人宅を夜中に訪れる人についての話です。

友人宅を訪ねる人をAさん、訪問された人をBさん、旅行中の人をCさんとしましょう。Aさんは、Cさんに一泊してもらうことになったのでしょう。急なことで、翌朝のCさんのパンがないことにAさんは夜中に気づき、願いを聞いてくれると予想した友人Bさん宅を訪ね、Cさん用のパンをくださいと願います。

しかし、Bさんの方では、たやすくAさんの願いを叶えてあげる余裕はありませんでした。それでも「しつように」頼んだ結果、やっと願いを聞いてもらえて必要な物を入手できたという話です。

 例え話からわかる「祈るときの真実」

この例え話から、父なる神様に献げる祈りに必要とされる2つのことがわかります。一つは「しつように頼めば」です。思い起こしていただきたいことは、ここは「祈るときには」の話です。Aさんは祈る人間の例えです。Aさんが頼ったBさんは、あまり親切でないように感じます。そんなBさんでさえ、「しつように頼んだ」Aさんの願いを叶えてくれたのですから、祈りにおいて「しつように頼む」ことが大切だということです。Aさんも「友人とはいえ、夜中にBさんを訪ねることが非常識だ。」とわかっていたはずです。それでも、自分でなく、友人Cさんをもてなすために、恥ずかしさを捨て、何度も熱心に訴えたのでしょう。祈る時には、その「しつようさ」が必要とされていると示されています。

もう一つは、願いをする相手のことです。例え話では、Bさんという、限界のある人間でした。そのBさんはAさんの「しつようさ」=「熱意」で動かされました。そうならば、愛情豊かで、限界のない、全知全能の天の父なる神様は尚更、人間の熱意ある祈りを叶えるように、実際に働いてくださる御方であるとイエス様は弟子達に教えてくださっています!私達日本人の多くは、祈ることはしますが、その相手が誰なのか、どういう方かは全く意識しません。実力のない相手、心の冷たい相手に頼んでも叶えられないことは、社会経験上、よく知っているのに、大事な祈りにおいて、相手に無頓着なのは不可解なことです。

 天の父なる神様の人間に対する愛

今日の箇所の後半部分(9節以降)は、天の父なる神様が人間にどんなに愛情を感じているかを主が伝えようとされておられる所です。人間の父親さえ、子供の欲しがる物、いや、それ以上の物を与える愛情を持っています。愛情の源である神様なら、尚更、主を求める者には、良いものを与えようと待ち構えておられると教えておられます。主を求め、熱心に祈る者に神様が与える最良のものが「聖霊」です。それは、神様の御心に自分の心を従わせようとする者だけが受け取れる「神様の霊」です。神様の周波数にアンテナを合わせなければ、神様の御心を知ることはできません。9節・10節は良く知られた御言葉ですが、対象が何かが問題です。「神様の御心」または「神様とのつながり」です。人間が、神様の御心やそのつながりを求め、探し、門をたたくことを神様は待っておられます。

 「祈りが聞かれるために」

自分では祈っているつもりでも、祈りが聞かれていないと感じる時があります。原因は幾つかあります。①自分中心の欲望が捨てきれていない=神様の周波数に合わせ切れていない場合、②いまだ「神の定めた時」でない場合、③神様がその人とのつながりを強めるために鍛錬している場合です。だから、私達は「主の祈り」を熱心に忍耐強く祈り続けて、主の弟子としての成長を願いましょう。