3月12日の説教要旨 「死と復活の予告①(信仰告白を受けて)」 平賀真理子牧師

詩編861117 マタイ福音書161321

 はじめに

イエス様はガリラヤ湖畔の町カファルナウムを中心に「神の国の福音」を宣べ伝えておられました。ただ、最終的には聖なる都エルサレムに行って十字架に付けられることで、人々の罪を贖う使命を果たさねばなりませんでした。それだけでなく、死の世界に赴いた後に、死の世界に打ち勝って復活なさることが重要な使命でした。イエス様は、その使命を、いよいよ果たすときが近づいたことをお感じになったのでしょう。「十字架と復活」の行われる場所「エルサレム」に向かう前に確認しておくべきことがありました。それは、「イエス様が救い主である」ことを本当に理解し、受け入れている人間がいるかどうかということです。そのため、イエス様はエルサレムとは反対方向の北にある町、フィリポ・カイサリアに一度は退かれて、弟子達に確認する必要があったのだと思われます。

 救い主イエス様に向かって、初めて信仰告白したペトロ

イエス様は、最初に「人々は、『人の子』(イエス様が救い主としての御自分を客観的に指す言葉)のことを何者だと言っているか」と質問なさいました。弟子達は人々の答えを告げました。人々が知っている中で、一番凄いと思われる預言者達の名が挙がりました。でも、イエス様が本当に聞きたかったのは「弟子達が御自分のことを何者だと言うのか。」ということです。

そして、一番弟子と呼ばれたシモン・ペトロが、イエス様の求めていた答えを公けに言いました。「あなたはメシア(救い主という意味)、生ける神の子です。」御自分は十字架にかかってもうすぐこの世を去ると知っているイエス様は、御自分を救い主だと告白する人間の言葉が必要でした。この世に神の国を造るための基盤となるからです。ペトロの告白は、人類初の信仰告白であり、これにより、この世での神の国建設が引き継がれていくことを天地に渡って宣言したことになりました。

しかし、イエス様は、ペトロの信仰告白も、実は父なる神様が準備してくださったのだと語られました(17節)。父なる神様は、この世にイエス様を救い主として送るだけでなく、その受け手としての弟子の信仰告白をも準備してくださったのです。父なる神様の大いなる愛をイエス様は理解し、感謝しておられます。私達もイエス様のように、神様が自分にくださった恵みを理解し、感謝を献げているのか、問われているのではないでしょうか。

 ペトロ(「岩」という意味)と言う名前

それまでは「シモン・バルヨナ」と呼ばれた弟子は、初の信仰告白という働き故に、イエス様から祝福を受け、「岩」という意味の「ペトロ」という名前をいただきました。「岩」という言葉は最高の褒め言葉の一つです。「岩」が持つ、揺るぎないという意味が、確固たる神様の存在をユダヤ人達に連想させるからです。ペトロの、揺るぎない信仰告白の言葉の上に、イエス様を救い主として信じる者達「教会」ができることこそ、父なる神様と御子イエス様との共通の御旨です!

 ペトロの信仰告白を基盤にして、イエス様の御力と権威を託された「教会」

イエス様の救いの御業は、信仰告白を基盤として、教会に引き継がれます。十字架の後に死の世界(陰府)に降ったものの、そこを打ち破って復活した御力と権威を、イエス様は惜しみなく教会に与えるとおっしゃっています。「復活の主」イエス様の恵みをいただいているが故に、教会には、陰府の力も対抗できません(18節)。そして、ペトロの信仰告白を受け継ぐ「教会」は、それだけでなく、「罪の赦し」をこの世で宣言できる権威=「天の国の鍵」をもいただけるのです。もちろん、「罪の赦し」の最終的な権威はイエス様だけがお持ちです。けれども、地上においては、「ペトロの信仰告白を受け継ぐ教会」が「罪の赦し」を宣言することを許されるのです。

 「十字架と復活」は信頼された弟子達によって伝えられていく

イエス様は、御自分の救い主としての歩みが、普通の人々が連想するような「力強い王様のような救い主」の歩みでないことを御存知でした。だから、イエス様を救い主として心から信じて従ってきた弟子達、しかも、信仰を公けに言い表すことのできる弟子達にだけ、御自分が予知している歩みを告げたのです。「惨めな十字架刑の死の後に、復活する」と。それは、信頼できる弟子達にだからこそ打ち明けられたのです。主の死は、私達の罪を贖うためだということは、この弟子達から伝わっています。同時に、私達は、十字架の先に復活という希望があると知らされています。「十字架と復活」という大いなる恵みを神様が私達にくださろうとしています。その恵みを覚えて、更に、主に感謝しましょう。

3月5日の説教要旨 「誘惑に勝たれた主」 平賀真理子牧師

詩編1091b-5 マタイ福音書4:1-11

 はじめに

「荒れ野の誘惑」と呼ばれ、教会では有名なお話に入る前に覚えておきたいことが、直前の段落の後半にあります。洗礼者ヨハネから洗礼を受けたイエス様に対し、天の父なる神様が天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とおっしゃったことです。

 「悪魔」が「神の子」を誘惑する?

「荒れ野の誘惑」は、「悪魔」から誘惑を受けるために、”霊”がイエス様を荒れ野に導いたことから始まります。”霊”とは「神の霊」だと思われます(聖書の「凡例」参照)。「神の霊」がなぜ、「悪魔の誘惑」にイエス様を引き渡すことを許したのでしょう。おそらく、天の神様から「神の子」として祝福されたイエス様は、今度は、この世を支配していた「悪魔」からも認められる必要があったのだと考えられます。

元々、神様は「この世」を人間に治めさせようと計画なさいましたが、「悪魔」は人間を誘惑して神様に背かせ、人間と神様を分断しました。人間は神様が用意した楽園を追放され、「悪魔」がこの世を支配するようになりました(創世記3章)。また、今日の箇所の「悪魔」という単語は、特に、「中傷する者」とか「悪しき告発者」という意味を含んでいます。「悪魔」は、イエス様について「神の子」としてふさわしくない点を見つけて告発するつもりで、誘惑を仕掛けたのでしょう。神様は、イエス様を信頼なさっていましたが、後々、悪魔に訴えられないよう、この世での歩みの最初に、誘惑を受けることをお許しになったのでしょう。

 第一の誘惑

40日もの断食を終えられて大変空腹だったイエス様に向かい、悪魔が「あなたが神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ。」と誘いました。「神の言葉は実現する」と信じられていましたから、「神の子」のイエス様の御言葉が実現し、石をパンに実際に変え、自分の空腹を満たすように誘ったのです。しかし、イエス様は「悪魔の説」に従うはずはありません。御自分の食欲のために、神様が定めた「この世の自然の法則」を勝手に変えようとは全く思われません。神の子としての力や権限を、御自分のために利用しようとしないのが、神様の性質を受け継いでいる「神の子」です。むしろ、神様に結びついた、本来の人間の在り方をイエス様は示されました。それは申命記8:3にあるように、本来の人間にとって、何よりも大事なのは、「神の言葉である」と宣言なさったのです。

 第二の誘惑

悪魔は、イエス様をエルサレム神殿の屋根の端に立たせ、「そこから飛び降りたらどうだ。神の子なら、聖書の言葉(詩編91:11-12)にあるように、神様が天使に命じて、あなたを守るはずだから、試してみなさい。」と誘いました。悪魔は聖書の言葉を使いましたが、これは、自分の悪意を正当化するために、御言葉を誤用しています。神の御言葉に自分を従わせるべきなのに、悪魔は、逆に、自分の意図のために御言葉を利用しようとしています。悪魔が行った「御言葉の誤った引用」に対して、イエス様は、別の御言葉を正しく示して、悪魔の誘惑を退けました。それは、申命記6:16「あなたたちの神、主を試してはならない」という御言葉でした。主への服従が先に行われ、その結果、主から恵みをいただくという順番が重要です。でも、罪深い者は、恵みを先に欲しがり、服従を後回しにしたり、服従できないままにしたりします。その誤った姿勢を悔い改めることこそ、神様の御心なのではないでしょうか。

 第三の誘惑⇒3つの誘惑に勝たれた主

第三の誘惑でいよいよ、悪魔は心の底に隠していた願望を露わ(あらわ)にしました。イエス様に対して、聖書で証しされている本当の神「主」ではなく、「私(悪魔)にひれ伏して、私(悪魔)を拝ませる」という最終目的です。この世の栄えを見せつけ、そのすべてをイエス様に与えると悪魔は言いましたが、実は、悪魔には、その権限は全くありません。「神の子・救い主」イエス様がこの世に来られてからは、悪魔のこの世の支配はもう終わりに向かっています。それに、「この世の栄え」が欲しいのは悪魔であって、イエス様は「神様の栄光」が現わされることを何よりも願っておられるのです。イエス様は、申命記6:13の御言葉「あなたの神、主にのみ仕えなさい」という御言葉で、悪魔の誘惑を完全に退けられました。私達が「神の子・救い主」と信じるイエス様は、このように「悪魔の誘惑」に完全に勝利された御方です!その御方に倣って、信仰を貫きたいものです。

2月26日の説教要旨 「正しい教えを語らない人々」 平賀真理子牧師

マラキ書2:5-9 ルカ福音書114554

 はじめに

今日の新約聖書の箇所は、イエス様が、神様の御心に適わない人々に対して語られたことの後半です。前半(37節-44節)で、イエス様は、ファリサイ派の人々の誤った姿勢を指摘なさいましたが、それを聞いていた「律法の専門家」の一人が、ファリサイ派の教えの根拠となる「律法の解釈」を教えているのは自分達だから、イエス様のファリサイ派への指摘は自分達への指摘でもあると気づきました。

 「律法の専門家」=「律法学者」

53節を除いて、今日の箇所は「律法の専門家」と書かれています。似た言葉として「律法学者」を思い出す方も多いでしょう。元々の言葉に従い、この2つの言葉は訳し分けられているようですが、意味の上で大きな違いはないと思われるので、以下は「律法学者」と述べていきます。

 人々に重荷を負わせても助けようともしない律法学者

イエス様は、まず、律法学者達が「人に背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」(46節)と指摘なさいました。「重荷を負わせる」とは「律法で細かいことを決めて、それを人々に守ることを押し付ける」ことであり、「自分では指一本もその重荷に触れようとしない」とは「人々が細かく定められた律法の決まりを行うのが大変だと気づいても、人々に寄り添って助けようとしない」ことをおっしゃっているのでしょう。律法学者は、悩んで相談に来た人々に寄り添おうともしない、そのような心の冷たさは神様の御心に適っていないと指摘されたのです。

 預言者の墓の建設と巡礼を推奨していた律法学者への指摘

次に、イエス様は、律法学者が当時、推奨していた「預言者の墓の建設と巡礼」に対する態度の誤りを指摘なさいました(47節-51節)。「預言者」の多くは、ユダヤ人達が神様から離れた時に、それではいけないと警告し,神様に立ち帰るように告げるように定められました。自分達の罪を素直に認められない人間の頑なさゆえに、ユダヤ人達は、預言者を殺したり、迫害したりして、神様からの預言をなかったことにしようと努めました。

律法学者が呼びかけて民衆が従った「預言者の墓の建設と巡礼」は、一見、信仰深いように見えます。しかし、よく考えると、預言者の墓ができるということは、ユダヤ人達の先祖が預言者をそこで殺したり迫害したりしたことの証明です。先祖の不信仰の証明を、子孫がいそいそとしているわけです。その不信仰を悔い改めなければ、いくら巡礼しても、ユダヤ人達は先祖の過ちを繰り返していることになります。神様に選ばれて御言葉を告げる人を殺すとか、迫害する、そのような大きな罪を悔い改めることこそ、神様の御心です。心の底から悔い改めるならば、「灰をかぶり、粗末な衣をまとい、ひれ伏して、神様に罪の赦しを祈り求めるものだ」とイエス様は伝えたかったのではないでしょうか。

 「今の時代の者たち」の罪深い行いについての預言

先祖の罪の証人となっているだけでなく、「今の時代の者たちはその責任を問われる」とイエス様は2回重ねて語られました(50節、51節)。神様が選んだ預言者も偉大な人物ですが、イエス様御自身は「救い主」として、比べ物にならないほど偉大な御方であり、「今の時代の者たち」は気づかなくても、もう既に彼らの目の前に来てくださっているのです。旧約聖書には、神様が愛し、この世に派遣された人を、受け入れるべき人が受け入れずに殺す、というユダヤ人達の歴史が綴られています。最初の犠牲者アベル(創世記4:1-12)と最後の犠牲者となった預言者ゼカルヤ(歴代誌下24:17―22)の名前を挙げて、イエス様はユダヤ人達にわかるように話されました。「神様側の人間が、罪深い人々に殺される」という、幾度となく繰り返された出来事が、神様が遣わしてくださった「救い主イエス様」御自身にも起こるであろうと預言されています。十字架の預言です。

 プロテスタント教会の私達が、神様から期待されていること

最後に、イエス様は、律法学者について、神様から賜った「律法」についての細かい知識を駆使して、自分をも、他の人をも「神の国」に入るのを妨げていると言われました。彼らは、律法の知識を、愛ではなく、裁きの道具にしたのです。

イエス様は、宣教の第一声で「悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)と宣言されました。プロテスタント教会に属する私達は、神様の掟を形式的に守るというより、神様の御心を知って、悔い改め、神の国の民としての生き方に励むよう、また、各々が、そのリーダーとなるよう、神様から期待されています。

2月19日の説教要 「外側だけを清める人々」 平賀真理子牧師

詩編5813 ルカ福音書113744

詩編5813 ルカ福音書113744

 はじめに

私達は、イエス様を救い主と信じ、「主」と呼んで礼拝を献げています。主の御心を知り、それに従って歩みたいと願っています。では、「主の御心」とは何でしょう。それはあまりにも大きく、人間の限られた能力で表現するには充分でない場合もあります。逆に、「何が、主の御心ではないのかを知ること」を、一つの方法として取り入れることも可能ではないでしょうか。「主の御心に適わない生き方をしないこと」も、信仰者として心がけるべきことだと思います。今日の新約聖書の箇所はイエス様御自身が、何が御心に適わないのかを教えてくださっており、そのように生きている人々をどのように教え導いたかが書かれています。

 「ファリサイ派の人々」

主の御心に適わない生き方をしている人々として「ファリサイ派の人々」に対する御言葉が記されています。聖書の後ろにある「用語解説」にもありますが、彼らは律法を守ることや宗教的清めを大事にしました。それだけでなく、イエス様を「救い主」と認めずに無実の罪を着せて「十字架」に追いやった、中心的グループなので、悪者だと思っている方も多いでしょう。しかし、ファリサイ派は、神様からいただく恵みを、サドカイ派という宗教上の特権階級の独占から解放し、その恵みを「民衆」に広げようとして興ったグループであり、ファリサイ派の尽力で、各地に「会堂」ができ、そこで人々は神様を礼拝したり、律法を学ぶ学校が運営されたりしました。

 「ファリサイ派の最初の精神」と「プロテスタント教会の最初の精神」

ここで思い浮かぶのは、500年前の宗教改革の精神です。当時のカトリック教会の指導者達が独占していた特権を、民衆に広めようとしたのが、「宗教改革の精神」であり、ここから「プロテスタント教会」(私達が属するグループ)が興りました。キリスト教における特権とは「何が主の御心であるか」を知ることができるということであり、具体的に言うと、神の言葉として「聖書」を読むことができるということです。宗教改革者の「ルター」は、それまでは専門教育を受けた者しか読めなかったラテン語聖書を自分達の母国語のドイツ語に訳して、神の御心を読み解くための聖書を民衆に解放したのです。このように、「ファリサイ派」と「プロテスタント教会」は、基本の精神が同じなのです。「ファリサイ派」の人々の「何が主の御心に適わないのか」を知ることは、私達「プロテスタント教会」への戒めとなるはずです。

 「神様は、外側だけでなく、内側もお造りになった!」

イエス様を食事に招待したファリサイ派の人が不審に思ったのは、ファリサイ派が決めた「身を清める」行為をイエス様がしなかったからでした。具体的には、細かい手順が定められた「手洗い」をなさらなかったということのようです。イエス様は人の心を見抜く御方ですから、彼の思いに気付いたはずです。しかし、イエス様は、「外側だけを清めることに留意し、細かい規則を作って、その規則で人々を縛る『当時のファリサイ派の精神』は、神様の御心に適っていない。」と指摘されました。強欲や悪意で満ちている内側(心)を清める必要があると教えたのです。彼らは人目につく外側だけに気が向いていますが、イエス様は、人間を外側も内側も造られた創造主である神様の御心を知っておられ、神様の御心を第一に思い、内側から清める重要性を教えてくださいました(40節)。

 あらゆる場面で外側(人目につくこと)だけ清めたがった「ファリサイ派」

外側だけを清めようとするファリサイ派の人々は、心だけでなく、宗教上の制度でも、表面だけに明らかになることだけに留意していました。「十分の一税」は守ろうと必死になっても、神様の御心に適うはずの「正義の実行と神への愛」という本当の信仰(内側)を忘れていることをイエス様は指摘されました。また、社会的な体裁でも、自分達が尊敬されていることが、外側(人目にわかる形)に現れることを好みました(会堂で上席に着くこと、広場で敬意を表す挨拶をされること)。

 外側だけ清めて内側が汚れていると、「清め」ではなく、「汚れ」を広める

イエス様はファリサイ派の人々を「人目につかない墓」(44節)と例えました。内側の汚れが表に現れないために、「汚れ」を広めていると伝えようとされました。

 信仰が形式的になっていないか吟味し続ける

ファリサイ派は、内側をも造られた神様を第一としなくても、外側だけ宗教的に振舞っていれば尊敬され続けると誤解しました。それは、主の御心に適わないとイエス様は言われたのです。私達は、「礼拝や聖書朗読」が形式的になっていないか吟味し続け、内側から神様に相対するにふさわしく清められたいものです。