10月22日の説教要旨 「神様の憐れみ」 牧師 平賀真理子

エレミヤ書31:20 ルカ福音書15:11-32
*はじめに
ルカによる福音書15章は3つの有名な例え話から成り立っています。
3つの共通点は、「見失ったもの」を「あるじ」が必死に探して見つけ出し、見つけ出したら、仲間や近隣の人々と共に大喜びし合うことです。
*前の2つの例え話と異なる点
今回の「放蕩息子」の例え話では、「二人の息子を持つ父親」というのが「あるじ」であり、「下の息子」(以降「弟」と表記)が「見失われるもの」です。この「見失われるもの」と例えられる弟は、父親に従わないという意志があるようです。この反抗的意志があることが他の例え話とは違います。この弟は、敬意や感謝を父親に示さず、財産の生前贈与を要求し(かなり失礼な事)、取り分をもらうとサッサと遠い国に行って、元々は父親のものだった財産を使って放蕩な生活を送りました。
*「弟」の罪の姿が比喩するもの
自分の欲望の虜となって、神様や周りの人への配慮や感謝を忘れてしまう姿になるとは、この弟だけが悪い性質なのでしょうか?もしも、私達も時間と資金が潤沢にある環境に置かれたら、この弟のような自堕落な生き方を一瞬たりとも絶対にしないと言える人がいるでしょうか。「あるじ」から離れて、その存在を忘れて、自分の欲望のままに好き勝手に生きたい!という誘惑を退けられる人はほとんどいないのではないでしょうか。日頃の自分の生活を見れば、自分がいかに欲望に弱いかわかりますね。
*放蕩の末に困り果てた「弟」
この弟は、財産を使い果たし、そこで大飢饉が起き、豚の世話係にまで身をやつしました(ユダヤ人にとって豚は汚れた生き物で、この仕事は屈辱的です)。欲望を満たそうと躍起になり、神様を平気で忘れ、挙句の果てには苦しむ人間の罪の姿が示されています。神様は、この愚かな弟をこのような困窮と屈辱に追い込むことにより、「あるじ」のもとに居ることがいかに素晴らしいことかを、骨身にしみて悟らせようとなさったのだと思います。
*「天に対しても、またお父さんに対しても、罪を犯しました」(18・21節)
この試練を通して、この「弟」は、神様に喜ばれるように変えられていきます。欲望まみれの自分の罪を深く自覚して「天にも、父親にも、罪を犯した」と言うと決意しました。そして、その悪い状況を引き延ばさず、惨(みじ)めな自分を晒(さら)しても「あるじ」である父親の元に帰ろうと決意できたのです(18節)。更に次のことが重要です。実際に、この弟は悪い状況から立ち上がり、親元に帰り、決意したとおりに、自分の罪を告白したのです!以前の彼なら、自分の罪さえ自覚しないし、たとえ自覚しても、うやむやに誤魔化し、親元に居座るようになったと想像できます。しかし、欲望に従った生き方の限界を知った弟は、無条件で愛してくれる父親の元で大歓迎を受けても甘えずに、自分の罪深さをしっかり言い表しました。神様から試練を与えられることによって成長させていただいたのだと思います。
*「神様の憐れみ」
例え話の「あるじ」である「父親」の方に目を向けると、「一日千秋」の思いで毎日毎日待っていたと推測できます。というのは、この弟息子が挫折の末に帰って来た時に「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけ」(20節)て大歓迎したからです。そして、父親が弟息子を「憐れに思い」(20節)という言葉に注目したいと思います。これは、聖書で語られる神様の御性質の一つです。単なる同情だけではありません。弱い立場で苦しみ、助けを求める人間を放っておけずに、同じ思いになり、その状況を根本的に解決するように実際に働いてくださる、それが「神様の憐れみ」です。ユダヤ教指導者達は神様を恐い冷徹な存在と強調しましたが、神の御子イエス様は、父なる神様の御性質をよく御存じで、この父親に「憐れみ深い父なる神様」の本質を重ねておられます。人間が欲望に引きずられて、本当の「あるじ」である神様の元を離れても忍耐して帰りを待ち続ける御方であり、一方、人間の苦しむ姿には耐えられず、御自分の民として生きる幸いをいつでも授けようと待ち構えていてくださる御方であります。
*「神様の憐れみ」を究極的に示したのが「主の十字架と復活」
今回の話の「兄息子」は直接的には「ファリサイ派の人々や律法学者たち」(15:2)を例え、「弟息子」は「徴税人や罪人」を例えています。「あるじ」と例えられる「父なる神様」の御心に従い、イエス様は、神様から離れていた「徴税人や罪人」が神様の元に帰りたいと願うように彼らの中に入り、福音を宣べ伝えたのです。ファリサイ派や律法学者達が「自分達は神様側に居る」と言いながら、神様と共にいる恵みを感謝できずにいる姿を、イエス様は「兄息子」の様子で比喩なさいました。一方、イエス様は「神様の憐れみ」を理解して従う御方です。その「主の十字架と復活」こそ、罪に苦しむ人類を救いたいと切望する「神様の憐れみ」ゆえに為された御業です。私達は、その恵みに与って生きることを許され、感謝です!

2017・10月15日の礼拝説教要旨 「私の助けはどこから?」 佐藤 義子

詩編121:1-2・ヨハネ福音書3:16
*はじめに
今日は、一年に一度の子供と大人の合同礼拝です。教会学校では、旧約聖書ではアブラハムさんなど、聖書に出てくる人達がどのように生きたのかについて学んできましたし、新約聖書ではイエス様についてやイエス様がして下さった「たとえ話」などを学んできました。今日は、旧約聖書の詩編の言葉、そして新約聖書ではヨハネ福音書の有名な言葉のお話です。
*「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。」
これは今、読んだ詩編の1節です。この時、これを書いた人は「助けてほしい」と思っていますね。私達が誰かに助けてほしいと思う時は、私達が困った時です。子供の時は、大人の人に助けてもらうことが多いですが、大人になっても困ることはいろいろ起こります。そういう時は誰かに助けてもらわなければなりません。この詩編を書いた人は、何に困っているのかというと、これから長い旅に出ることになり、その旅には沢山の危険が予想されていたからです。たとえば山の向こうまでいく道には、でこぼこ道や、急な坂、深い谷間があるだろう。沼や川や、途中でへびとかクマが出るかもしれない。又、強盗が待ち伏せして襲われるような危険な目に会うかもしれない・・などと考えたのでしょう。そのような心配が心の中に広がってきて、「わたしの助けはどこから来るのでしょう」と、誰かに聞いているようです。あるいは、自分の心に聞いているのかもしれません。
私達が今、生きている時代は大変な時代です。「テロ」とか「ミサイル」という言葉を何回も聞くようになりましたし、地震や津波や火山の爆発などの自然災害も多く起こっています。そのほか事件や事故も多く、そして、大人であれば、自分の健康のこと、仕事のこと、家族のこと、人間関係や将来の進路などなど、先が良くわからないことについての心配や不安などを持っている人は、きっと沢山いることでしょう。それらを心配している人と、今、この詩編を書いた人・・遠くて長い、危険をともなうこれからの旅を前にして、山々を見上げ、不安な気持でいる人と、とても良く似ていますね。
*「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。」
「わたしの助けはどこから?」という質問の答えが、2節「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」です。「どこから?」と聞いている人が、この答えを出したのなら、この人は神様からの声を聞いたに違いありません。又、もし誰かに質問したのであれば、答えを返した人は、当時の「祭司」と呼ばれた信仰のリーダーでしょう。
*天地を造られた主
「主」とは神様のことです。なぜ助けは、天地を造られた神様から来るのでしょうか。それは、天と地上を造られただけでなく、世界中の人達すべて(私達も!)皆、神様が命を与えて生かして下さっているから、だから、人間を救う力も、もちろん持っておられるからです。
3節以下には、神様は、私達が生きていく上で足がよろめかないように(ふらふらしないように)助けて下さるお方であり昼も夜も眠ることなくいつも見守って下さるお方であり、いろいろな災いを遠ざけて下さるお方であり、どこに行っても守って下さるお方であると書かれています。この神様への信頼を持ち続けている限り、私達は決して倒れません。
*「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」
神様の独り子はイエス様です。神様はイエス様を、私達の住むこの地上に遣わして下さったことによって、私達は神様のことを正しく知ることが出来るようになりました。そして、それまで神様を正しく知らないで生きてきた「罪」を悔い改めて、イエス様を信じることにより、永遠の命をいただけることが、(ヨハネ福音書)3章16節に記されています。
私達が、「神様、助けて下さい」とお祈りする、そのお祈りは、実は、イエス様が、神様に伝えて下さっているのです。私達のお祈りが神様に届くようになったのは、イエス様が十字架で死んでくださって、神様が私達の罪を赦して下さったからなのです。神様は、イエス様を3日目に復活させて下さり、今は、神様の元に戻られています。そして毎日の私達の祈りを神様に伝えて下さり、聖霊を送って下さっています。
それで、私達は、お祈りの最後に、必ず、「イエス様のお名前を通して」とか、「イエス様のみ名によってお祈りします」と祈るのです。
*讃美歌301番
「山辺(やまべ)に向かいて我(われ)、目を開(あ)ぐ、助けは何処方(いずかた)より来(きた)るか、天地(あめつち)の御神より 助けぞ 我に来(きた)る」
今朝、歌った讃美歌301番は、121篇の「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」が もとになって作られました。最後に、この御言葉と共に歩まれた「山本つち先生」についてお話したいと思います。
山本先生は、私が卒業した女子学院という中学高校の女の院長先生です。先生は学校のすぐそばに住んでおられました。学校では毎朝「礼拝」があり、礼拝前にはいつも301番の讃美歌のチャイムが流れていました。ある朝の礼拝で山本先生は、詩編121篇を読まれて、学校が火事になった時のことを話されました。その後、火事について書かれた本なども読む機会がありました。それによると火事は1949年5月に起こりました(私の入学前です)。午後10時、先生が寝ようとしたその時、不意に聞こえて来た女の人の叫び声と窓ガラスにうつる炎に、先生の家にいた皆が燃える校舎に駆けつけました。その後,近所の方々や消防や警察の方々にも助けられ、ピアノや机いすなど出してもらったそうですが、あとはすべて焼けてしまいました。焼けた校舎は、以前、戦争で焼けた後に一年前、苦労してようやく建った新しい校舎でした。その校舎が再び今度は不審火による火事で失われてしまったのです。翌朝何も知らずに登校してきた生徒達はショックで泣いたりしていたそうですが、先生は、火事以後、祈られた夜を過ごし、朝には、凛として焼け跡に立ち、礼拝で詩編121篇を全員で読み301番を歌い、目には見えない神様への信仰を語り、火事によって一人のけが人も出なかったことに感謝の祈りを捧げたとのことでした。
ここに、121篇「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」を確信して、自分に与えられた重荷を担って前に進む信仰者の姿を見ます。
この伝道所にも礼拝を知らせるチャイムを求めていたところ、幸いにも、女子学院の鵜﨑院長のご紹介で、女子学院チャイムと同じ音源を使用する許可をいただきました。このチャイムを聴きながら、私達はこれから何が起ころうとも、ゆるぎない神様への信頼をもって歩み続けていきましょう。

10月8日の説教要旨 「天の大きな喜び」 牧師 平賀真理子

 エゼキエル書18:21-23 ルカ福音書15:1-10
*はじめに
ルカによる福音書の15章には、3つの例え話が書かれています。皆、教会の中では有名な例え話です。今回は、その1番目と2番目の例え話を学びたいと思います。それは3番目の例え話にもつながります。
*例え話が語られた状況
1つ目の話「見失った羊のたとえ」の内容に入る前に、どのような状況で語られたかが記されています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」(1節)のです。徴税人とは、当時この地域を支配したローマ帝国のために、同胞であるユダヤ人から税金を取り立てる仕事をした人のことです。それだけでもユダヤ人達は不快な思いを抱くはずですが、更に「徴税人」の多くは税金の金額よりも多くのお金を徴収し、差額を自分の懐に入れるという不正を行っており、「嫌われても仕方ない人」と見なされていたようです。また、「罪人」は、刑法上の罪よりも宗教上の罪を犯す人々のこと、具体的には安息日の礼拝を守れない人々を指します。農業・漁業・牧畜業に携わる人は仕事柄、自然が相手ですから、安息日に休めることは少なかったと思われます。また、それ以外にもその他の理由で安息日に来られない人々、例えば「娼婦」等も含まれていたようです。これらの人々を「ファリサイ派の人々や律法学者たち」(1節)は、「神様から遠い、汚れた人々」と見なし、彼等と接すれば「汚れが移る」と言い、彼等を避けるよう教えました。だから、ファリサイ派や律法学者達から見れば、「ラビ(先生の意味)」と呼ばれたイエス様が、「徴税人や罪人と呼ばれる人々」の中に入っていく姿は、自分達の教えに従わない間違った姿勢、または「自分達への反抗」と判断したのです。しかし、イエス様は神の御子ですから、「聖なる御方」であり、「汚れが移る」ことはありません。
それに、ファリサイ派や律法学者達の教えが間違いだと気づかせたかったのでしょう。3つの例え話を語られました。
*2つの例え話が例えていること
まず、1番目、2番目の例え話の例えが具体的には何を指しているかを見てみましょう。「百匹の羊を持っている人」と「銀貨を十枚持っている女」(以降は「あるじ」とまとめて呼びます)は「神様、もしくはその御子イエス様」の例え、「あるじ」が見失った「1匹の羊」や「1枚の銀貨」が「徴税人や罪人」の例え、「99匹の羊」や「9枚の銀貨」は「あるじ」が見失っていない方ということで「ファリサイ派や律法学者」の例えです。(但し、これは、イエス様がファリサイ派や律法学者の考えに合わせた例えです。)そして、「あるじ」が一緒に喜んでほしい「友達や近所の人々」とは「神の天使たち」(10節)や信仰深く生きて天の国にいる「聖徒達」(13:28参照)とも言えるでしょう。
*見失っていた人間を見つけ出した神様の大いなる喜び
私達が理解しやすくなるように、イエス様は人間が見失った物を見つけた時の態度と、神様の態度は同じだと教えてくださっています。よくよく考えれば、人間は神様に創られたのですから、神様の方が源です。神様がそのような御方だからこそ、人間も喜びを分かち合いたいと思うのです。ただ、神様のスケールは人間のものとは比べ物にならないほど大きいので、「見失った物」と例えた「人間」を見出した時の神様の喜びは本当に大きいのだということを、私達は、ここで、再度思い起こしたいと思います。
*神様が人間を「見失う」ことと「見つけ出す」こと
神様が人間を「見失う」ことと「見つけ出す」ことについて考えたいと思います。神様が過失によって、大事な人間を見失うのでしょうか。そうではありません。人間自らが自己中心の罪に陥ったので、神様から見えなくなってしまったのです。そんな人間を、神様は救い出して御自分との関係
を修復しようとなさった、それが神様の人間に対する「救いの御業」です。
神様が人間を見失ったけれども、御自分から提供してくださった「見つけ出す」方法が、「まず、ユダヤ民族を救い、その救いを世界に広める」ことでした。しかし、それもまた、人間の罪でダメになった時に、神様が新たに救いの方法を考えてくださいました。「救い主をこの世に遣わし、その御業を信じた者が救われ、その救いが全世界に広まる」という方法です。
*「悔い改め」によって、神様に見つけ出された存在の私達
イエス様が福音を宣べ伝えた時の第一声は「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイ4:17)でした。救われるために、人間の方でしなければならないことは「悔い改め」です。「今までの、この世の方法、自己中心でいいじゃない!という生き方では救われない!神様の御心に適う生き方がしたい」と思い始めると、やがて、救い主の恵みによって、罪が赦され、神様に見守ってもらえる存在になります。「ファリサイ派や律法学者達」のように、この世では正しいように見えても、人間は誰もが罪深くて、神様からは見失われています。しかし、私達は救い主の恵みを賜って、罪赦され、「神様に見出された存在」とされていることに感謝を献げましょう。