「実で見分ける」 牧師 佐藤義子

/nミカ書3:1-8 /nマタイによる福音書7:15-20 /nはじめに 私達は、自分に与えられた人生を生きていく上で、導き手が必要です。幼い時は、両親によって導かれ、成長に伴い幼稚園・保育園や、入学以降に出会う教師達、さらには人生の先輩ともいえる人達と出会い、アドバイスや指導を受けながら、今日の自分があるのではないかと思います。 しかし、それらの人々との出会いとは区別される出会い、自分の人生観や価値観に決定的な影響を与えるのは、自分に命を与え、自分を生かして下さる創造主である神様との出会いではないかと思います。旧約聖書に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしには何の楽しみもない』と言うようにならない前に、そのようにせよ</span>。」(コヘレトの言葉12:1)とあります。日本では神道や仏教の影響が強く、聖書が伝える創造主であり、イエス・キリストの父である神様のことを聞く機会が限られています。その中で、若い日を過ぎたあとでも、こうして生きている間に神様と出会うことが出来ることは、本当に素晴らしいことであり、大きな神様の恵みです。 /n偽預言者を警戒しなさい 今日の聖書は、神様のことを知った後の信仰の導き手について、イエス様が「偽預言者を警戒しなさい」と警告している箇所です。私達の社会でいえば、宗教的な指導者(キリスト教会では、牧師・神学教師など)の中に、にせものがいるという警告として聞きます。 旧約の時代には、神様が選び、神様の言葉を聞き、それを人々に伝える預言者がおりましたが、それと同時に偽(にせ)の預言者も存在しました。預言者エレミヤはこのように語っています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">万軍の主はこう言われる。お前達に預言する預言者達の言葉を聞いてはならない。彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ 主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る</span>」。 偽預言者は、人々に空しい希望を抱かせ、神様を信頼しない人々に「平和」を約束し、頑固に自分を変えない人々に「災いは起こらない」と語ります。神様は聖なる方・正しい方ですから、悪を憎み、神様への不従順に対しては怒る方です。しかし偽預言者は、人々の耳に心地良い言葉しか語ろうとしません。真の預言者であれば、聞く人によって語る言葉を変えたり、語る結果を恐れたりせずに、神様の言葉をそのまま伝えるのです。 /n偽ものの内側はおおかみ イエス様は、偽預言者を、羊の皮を身にまといその内側は貪欲な狼であると譬えました。12弟子を伝道に遣わす時にもイエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私はあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送りこむようなものだ</span>」と言われました。聖書で「羊」とは羊飼いであるイエス様に養われるキリスト者のことです。ここで「狼」と言われるのは、イエス様に従おうとする人々をまどわし、イエス様にではなく自分に人々の関心を向けさせ、自分の思想を広めたり、自分に利益がくるように人々を導く人達です。 /nいばらからぶどうは取れない イエス様は「ほんもの」と「にせもの」を区別するために、いばらとぶどう、あざみといちじくを引用します。似ていても一方は実を結ぶ食料となり、他方は障害物となること、又、同じ実を結ぶ木でも良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶこと。その事実から私達は導き手を判断せよと教えられます。マルティン・ルターも「善い義しい人が善い義しい行いをする。どんな場合にも人格が、あらゆる善い行為に先立ってあらかじめ善であり義でなければならない。」と言っています。 /n真の導き手 神様はヨシュアに「<span class="deco" style="font-weight:bold;">律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない</span>」と言われました。真の導き手は聖書の教え、イエス様の教えから右にも左にもそれない人です。又、キリストに結ばれキリストの恵みに与っている人です。さらには御霊の実(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)を結んでいる人といえるでしょう。 私達自身も実を結ぶ木、しかも善い実をならせる木として成長させていただきましょう。礼拝を通して信仰が養われていくように。又、日々の聖書や祈りを通して神様と交わる時を大切に、今週も歩みましょう。

主イエスと共に生きる

 「神に望みを置く」  佐々木哲夫先生(東北学院大学) 創世記2:15-17・?テモテ6:17-20 *はじめに 本日は収穫感謝を覚えての礼拝です。今の季節は、丁度、果物や穀物の 実りの季節の時ですから、果物や穀物の収穫感謝ということを連想致します。特に日本では稲作の豊作を期待する時期でもあり、勤労感謝の祝日の時でもあり、さまざまに理解されるところです。 ところで教会の収穫感謝礼拝は、アメリカに移住した清教徒達(ピルグリム・ファーザーズ)に由来しているものだと言われております。 1620年に、清教徒達が新大陸プリマスに到着しました。その年の冬は、大変寒くて多くの死者を出すに至ります。特にイギリスから持ってきた 穀物の種は、新大陸の土に合わなかったのでしょうか、実りが乏しく清教徒達は飢餓の危機に瀕したのです。そのような時に先住民のインディアンが、食物や衣類を持って来て彼らを助けてくれた。又、新大陸での穀物の栽培方法をも教えてくれたということで翌年は実りを豊かに迎えることになり、入植者と先住民とは、神の恵みに感謝し、豊かなご馳走を一緒にいただいたということです。この出来事は今日アメリカの祝日の一つである、 サンクスギビングデ-として祝われております。その日夕食は、親族や 友人が集まり、七面鳥を丸焼きにして食卓を囲むというような行事に なっています。私達の教会は、本日の礼拝を、私達を養って下さる神に 感謝する礼拝として守りたいと願っております。 *「神は人を園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」 さて、今日の聖書にあるように、神様は最初の人アダムを、木の実りをもって養って下さいました。エデンの園のアダムに、主は次のように語りかけています。「園のすべての木から取って食べなさい」。アダムは、園の木の実で生きることが出来たのです。エデンの園では、食べることが保証されていた、生活が保障されていたということです。しかしそれは遊んで暮らすということを意味するものではありませんでした。神はアダムに、園を耕す労働に従事するようにしています。楽園においても労働があったということになります。作家のC・Hルイスは、その著作の中で、天国と地獄を想像しています。「天国でも、やはり労働があるのだ。人々は協力して働くのだ」と書く一方で、「地獄では願うと何でも瞬時に形となって現れ、それを得ることができる。労働することがない。食べ物も自由に 願えば与えられる」と記しております。何か、地獄の方が良さそうな状況ですが、実はそこには協力がなく、絶対的な孤独がある。そんなことを、 ルイスは記しております。神様から養われるということと、人の労働と いうことの関係について考えさせられます。  *人は、顔に汗を流してパンを得る さて、エデンの園のどの木からも取って食べても良かったのですが、一つだけ例外がありました。善悪の、知識の木からは決して食べてはならないというのです。理由は、かなり強い表現が使われているのですが、「食べると必ず死んでしまう」(17節)というのです。なぜ神様は善悪の知識の木からは食べてはならないと言うのか、というのは本日の主題から外れますので詳細に立ち入ることはしません。ただ、善悪の知識の木の実を食べることによって、人類に罪が入ってくることになった。そのことはご承知のとおりです。 その時にアダムとエバは、園にあるもう一本の木、「命の木」からはまだ取って食べることをしていませんでしたので、神は、命の木から採って 食べることを禁じたとあります。人類に「罪」と同時に「死」が入りこんだ瞬間であります。この出来事以降、人が食べる物は確かに神から与えられた賜物なのですけれども、人は顔に汗を流して働いてパンを得、生きて、やがて死に、ちりに帰る、という生涯を送ることになったというのです。 *菜食から肉食も やがてアダムから世代を数えて10代目の時に、ノアが登場致します。ノアの洪水の話も皆さんご承知の通りです。あの洪水が引いて、箱舟が アララト山の上に止まり、新しい時代が始まった時に、主は、ノアを祝福しています。雲の中に虹が現れると、神は、「この祝福を心に留める」と言いましたので、この祝福のことを「にじの契約」とも言っております。 その祝福の中で、神は、次のように言っています。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食料とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。」(創世記9:1-3)。 換言するならば、洪水の前の人々は菜食でしたが、洪水の後は肉食が許されたということです。聖書はさまざまなことを記しておりますので、なぜ洪水後に肉食が許されたのかと思い巡らすところですが、聖書の記述は、その理由を記しておりません。ユダヤの伝承はこういうことを色々考えて、そのことについて記しています。その中には、洪水後の動物はノアの箱舟によって救われた動物たち、その一対から繁殖したものであり、すべて、家畜としての動物なので食べることが許された、という説明がありました。しかし聖書には、明確な説明は記しておりません。ただ確かなことは、すべての収穫は人間に与えられた「神からの恵み」であるということでした。 *「富は神からの賜物であり、恵みである」という本質 さて時代が進みまして、穀物を多く栽培し、実りを蓄積する者が現れてきます。又、羊や山羊を繁殖させて多くの群れを持つ者も現れてきます。 富める者が現れてきます。収穫は神の賜物でありますから、富める者は、 神から大きな祝福を与えられた者であり、逆に、貧しい者とは神の祝福にあずからない者、信仰の薄い者と、ユダヤの中ではみなされるようになりました。 しかし「すべては神から与えられたもの、エデンの園で与えられたもの、ノアの洪水の後に与えられた食べ物すべては、神からの賜物であり神の恵みである。」・・・そのような本質が、やがて見失われていきました。富は自らの手腕で勝ち得たものと考える者が、少なからず登場する社会となっています。特に穀物や家畜など、目に見える姿で富を所有し、認知した時代から、時間が経つにつれて、例えば、「富」というものが「貨幣」という形で所有される経済時代に進みますと、「富は神からの賜物」という直感的な理解が薄れてきました。そして、そうではなくて、「富は自分の力で得たもの」と考えるようになってくるのです。  *「神に望みを置く」 本日開きました新約聖書のテモテの手紙は、一世紀の時代を背景と しています。パウロが手紙の中でテモテに告げました。「この世で 富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」と記したのです。 この聖書の箇所は特別に解説を加えるような必要はない程に、明確な内容です。イエス・キリストの時代、一世紀の状況は、経済が進歩した時代であり、今日の私達の時代と似ている状態でありました。むしろ、今日の私達のほとんどは、一世紀の富める者をはるかに越えて、豊かな生活を営んでいるともいえます。 今朝の収穫感謝の礼拝において、私たちはもう一度、聖書の言葉 「私達にすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」の言葉を持って、あのエデンの園でアダムを養い、ノアの後の時代を養ってくださっている神に、今もなお、私達は収穫を感謝 しつつ、心新たに信仰の思いを確かにしたいと願うものであります。

 「神の知恵を知る道」   牧師 佐藤 義子

/n箴言1:7、2:1-12 /nコリント一 2:6-11    /nはじめに 使徒パウロは、熱心なユダヤ教徒であり、又、ファリサイ派の指導者として有名なガマリエルの門下生として厳しい教育を受けてきた人です。 「自分は律法に関しては非の打ちどころのない者であった」と自己紹介しているほどです。その彼が、イエス・キリストに出会い(天からの声を聞き)、キリスト教徒となり、さらにキリスト教の大伝道者となりました。では、パウロはそれ迄に身につけてきたユダヤ教の高い学歴と深い教養を、自分の武器の一つとして伝道で使おうとしたかといえば、答えはノーです。彼は、これらの知識はキリストのゆえに「損失」とみなすようになったと言っています(フィリピ書3:8)。今朝の聖書でも「この世の知恵」に関してイザヤ書29:14の、神様の言葉を引用します「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。</span>」(1:19)。 更に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私の言葉も私の宣教も、知恵にあふれた言葉によらなかった</span>」(2:4)と述懐します。この世の知恵は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">滅びゆく支配者達の知恵</span>」(2:6)なのです。 /n宣教 では、伝道がこの世の知恵の言葉によらないとするならば、どうやって宣べ伝えるのでしょうか。今日の聖書で、パウロは、「“霊”に教えられた言葉」(13節)によって語り、神様が、世界の始まる前から定めておられた「隠されていた、神秘としての神の知恵」(7節)を語ると言っています。 そして人々が、人間の知恵によって信じるのではなく、神様の力によって信じるようになるために、自分がこれまで身につけてきた「この世の知恵の言葉」によらず、「“霊”と力の証明」によって伝道したことを告白しています。霊は、言葉以上のものです。なぜなら霊は、私達の命をその根底から揺り動かし、私達を神様に結びつけ、私達の中に愛を呼び起こすからです。そして御霊の働くところには力が伴なうのです。信仰が起こされるところには、必ず、“霊”と力が働いています。 人が神様に初めて向かう時、神様を知らなかったがゆえに犯してきた罪・・特に自分を神様の位置に置いて生きてきた罪・・を知らされ、心の中に悔改めが生まれます。その時、私達の内面の命の中に活動が起こり、その活動によって信仰は確かになり、私達の愛は強くされ、私達の神様への服従は完全なものとされていきます。これが霊と力です。 /n信仰者の目 神様の御業を見ることは、普通は隠されています。信仰を与えられた者だけが、ある事柄を見て、それを神様の恵みとして喜び、感謝して受けることが出来ます。信仰者の目は時代を超えて、神様の永遠の救いの御計画を見上げることが出来ます。「この世の知恵」と「神様の知恵」が完全に違っていることは、十字架に目を向ける時に明らかになります。  2000年前イエス様を十字架につけた人達は、イエス様を通して神様の栄光を見ることは出来ませんでした。なぜなら彼らは、イエス様をこの世の知恵で判断し、無力な者・有罪判決を受けた者とみなしたからです。イエス様を断罪した祭司や律法学者達は無知ではなく当時の人々が持ちうる知恵・知識を十分持っていました。彼らは神様を知っていたがゆえに、当時の律法にのっとって死刑を求刑しました。「人の目と心の思い」だけでは神様の知恵に到達し得ないことを先のイザヤ書は告げています。 /n<span class="deco" style="font-size:small;">神からの霊を受けた者が、神から恵みとして与えられたものを知る</span>  教会には神様の御業としての永遠の命の栄光が与えられており、その命は「キリストの体」を構成している私達(信仰者)の内面的命としっかり結びついています。この命は神様が愛する者たちに用意された命です。神様が召されるのは「この世の知恵で神様を理解している人々」ではなく、「神様を信じる者達」です。「イエス様は私の罪のために死なれた」と信じる信仰によって神様からの愛を受け取り、永遠の命の栄光が用意されている群れ(教会)の中に加えられました。そして目の前に起こる現実的な事柄の中に、力を伴なう“霊”の働きを見ることが出来、神様から恵みとして与えられたものを知るようになりました。神様は、今も常に働かれ、その愛は私達に日々降り注いでいます。日々起こる神様の御業を多く見ることが出来るように、今週も歩みたいと願うものです。

説教要旨 「あなたの信仰は立派だ」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 15章21-28節 21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。 22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。 23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」 24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。 26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様がユダヤの国境外のティルスとシドン(地中海東のフェニキア)地方に行かれた時のことです。イエス様がそのような地方に出かけられるのはめずらしいことで、おそらく群衆から離れ、静寂を求めて、或いは弟子達を教える為に・・と推測されています。この地にはカナン人(昔ユダヤ人から追われたパレスチナ住民)が住んでおり、彼らはユダヤ人を歓迎せず、ユダヤ人も彼らを神を知らない汚れた異教徒として、そのままでは救いから排除されている民として軽蔑していました。 /nカナンの女  イエス様の名前は、この地方にまで既に伝わっていたようです。一人のカナン人の女が出てきてイエス様に向って「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけました。病気の娘を助けて欲しいとの叫びでした。ユダヤ人の間では「ダビデの子」=「メシア・救い主」を意味しました。しかしこの外国の地で、女からそのように呼びかけられることは異例のことでした。「しかし、イエスは何もお答えに」なりませんでした(23節)。女はイエス様が振り向いてくれることを切に期待し、叫びながら後をついていきました。 /n弟子の困惑  弟子達は後をついてくるカナンの女を追い払うようにイエス様にお願いしました。(別の訳では「去らせて下さい」・・早く解決して欲しい)。 /n「私は、イスラエルの家の失われた羊の所にしか遣わされていない。」  これが弟子達への、イエス様の答えでした。  イスラエルの失われた羊とはイスラエル全体をさしています。民全体が確固たるものを失って、神の導きを求めて頼りげなくさまよう状況をあらわしています。「私は・・しか遣わされていない」とは、遣わしたお方(父なる神様)がおられ、イエス様は派遣されたその目的を逸脱することは出来ない、ということです。(異邦人伝道は復活後、大宣教命令が出された後。マタイ28:19)。 /nイエス様の拒絶  カナンの女は近寄って来てイエス様の前にひれ伏し「主よ、どうかお助け下さい」と、自分ではなく娘の為に(娘の苦しみは自分の苦しみ)訴えました。しかしイエス様は、母親の願いがどんなに切実でも必死でも、それによってご自分の使命を変更しようとはされませんでした。「子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」(26節)。(子供=イスラエル、子犬=異邦人、パン=神様からの救いの祝福)。 /n「主よ、ごもっともです。しかし、子犬もパン屑はいただくのです。」  母親はあきらめませんでした。イエス様のおっしゃることは正しい。ユダヤ人から見れば自分達は汚れている民族である。パンをもらう資格はない。でもパンを食べる時にはパンくずが出る。子犬はそのおこぼれのパンくずを食べられる。だから私にもパンくずを下さい!と、イエス様が用意されている神様からの救いの祝福は、ユダヤ人の分をすべて使い果たしてもなお余りあるものであり、イエス様の溢れ出る豊かな力に自分もあずかれるのではないでしょうかという信仰です。 /n「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。」  イエス様がこう女に言われたその時、娘の病気はいやされました。この母親は、「神様の御計画による順序」を受け入れました。「異邦人は選びから外れている」ことを受け入れ、イエス様は正しいお方であることを前提にしながら、なお、イエス様から離れまいと一生懸命でした。   /n詩編・叫びの祈り  旧約聖書の詩編にも、叫びの祈りがあります >> 22:20 「主よ、あなただけは私を遠く離れないで下さい。私の力の神よ、今すぐに私を助けて下さい」 << >> 30:11 「主よ、耳を傾け、憐れんで下さい。主よ、私の助けとなって下さい」 << >> 31:17 「あなたのしもべに御顔の光を注ぎ、慈しみ深く私をお救いください。」 << >> 69:2 「神よ、私を救ってください。大水がのどもとに達しました。私は深い沼にはまり込み、あしがかりもありません。大水の深い底にまで沈み、奔流が私を押し流します叫び続けて疲れ、のどは涸れ、私は神を待ち望むあまり目は衰えてしまいました。 << >> 79:9 「私達は弱り果てました。私達の救いの神よ、私達を助けてあなたの御名の栄光を輝かせてください。御名のために、私達を救い出し、私達の罪をおゆるしください。」 << >> 119:86 「あなたの戒めはすべて確かです。人々は偽りをもってわたしを迫害します。わたしを助けてください。」 << >> 119:94 「私はあなたのもの。どうかお救いください。あなたの命令をわたしは尋ね求めます。」 <<    私達は幸いなことに祈ることが出来ます。そして祈りは神様が良しとされる時に聞かれます。ヨハネ福音書にはイエス様がぶどうの木のたとえを語られた箇所がありますが、その中で「あなたがたが私につながっており、わたしの言葉があなたがたの内にあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる、との約束があります(15:7)。さらにヨハネ手紙1の5章にはこのようにあります。「何事でも神の御心に適うことを私達が願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対する私達の確信です。私達は願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことはすでにかなえられていることも分かります」(14節)。 /n恵みが取り去られた時も・・  神様が祈りを聞いて下さらないことがあります。祈っても祈ってもこちらを向いて下さらない。そのような時に、私達はあきらめずにこの母親に答えて下さったイエス様に信頼し続けたいと思います。  私達は、神様の恵みを頂いていることがいつしか空気のように当然のように考えて、困難に陥ると神様はなぜそっぽをむかれるのかと問いたくなる時があります。しかし私達は本来恵みを受ける資格がない者です。受ける資格のない者が、神様の憐れみによっていただいているのが恵みです。恵みが取り去られた時、それが神様のなさることである以上、神様のなさることはすべて正しい、としてまず受け入れることを母親から学びます。その後で、「主よ、助けてください」と叫び、祈るのです。    今週一週間も、カナンの女の祈りに答えて下さったイエス・キリストの父なる神様と共に歩んでいきたいと願うものです。

説教要旨 「七の七十倍ゆるす」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書]18章21-35節 21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。 23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。 25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。 27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。 28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。 30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。 31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。 32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』 34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。 35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」      /nはじめに   ペテロがイエス様に質問しました。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」  当時のユダヤ教指導者達は同じあやまちは三度までゆるされるが、四度目からは赦されないと教えておりました。ペテロは当時の「三度」を二倍にして、さらに一度加えた数「七回」までかと聞いたのでした。 /nイエス様のこたえ  その答えは驚くべきものでした。「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい。」でした。これは、1回2回と数えて覚えていられる数ではありません。すなわち「無限に、無制限に、限りなく」赦しなさいとイエス様は教えられたのです。 /nたとえ  このあとイエス様は一つの譬え話をされました。それは王様と借金を返せなくなった家来の話です。家来は多分地方長官と考えられ、集めた税金の一万タラントを使い込んでしまったと考えられます。当時、ガリラヤとベレアを治めていたヘロデ・アンティパスが受け取った年貢は200タラントといわれ、父ヘロデ大王でも年収900タラントといわれますから、一万タラントはヘロデ大王の年収の10年分以上の額にあたります。この莫大な借金をした家来が返済出来ないことを知った王様は、全財産を処分し、家族を奴隷に売って、ともかく返済するように命じました。(当時、奴隷は一人500デナリオンと言われました。1デナリオンが当時の1日分の賃金で、1タラントは6000デナリオン)。返済出来ない家来は王の前にひれ伏し、待ってくれるように嘆願します。王様は「憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにして」(27節)あげました。投獄を免れ自由が保証された上に、全部の借金が返済免除になったのですから、ものすごい事がここで起こったということです。 /nところが・・  この家来は帰り道、自分が100デナリオンを貸している仲間に出会いました。彼は仲間に「借金を返せ」と要求します。仲間はひれ伏して「どうか待ってくれ」と頼みます。しかし彼はその願いを聞き入れず、仲間を牢屋に入れてしまいます。これを知った王様は,家来が仲間を憐れまなかったことを怒り、再び借金返済を迫って牢に入れました。 /nたとえの意味  王は「神様」、一万タラントという莫大な借金を負っている家来は 「私達人間」のことです。この話は「人間は一生かかっても つぐなうことの出来ない罪を負っていること」。「その大きな罪を神様に赦していただきながら、その一方で、小さな人間同志の罪を赦さないでいる。」その愚かさ、しかもそのことに気付いていないことを教えています。  私達が人を1回赦した、2回3回と数えている間は赦したのではなくただ我慢しているだけです。赦すというのは、相手があやまった瞬間それで終りにすることです。ルカ福音書には「1日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回「悔い改めます」と言ってあなたの所に来るなら、赦してやりなさい」(17:4)と教えています。 /n私達の負っている借金とは・・  神様は私達に命を下さいました。家族を与えて下さいました。私達に能力や賜物や健康を与えて下さり、生きていくのに必要な太陽や空気、水など自然の恵みを与えて下さり、必要な食物で養って下さいます。  私達は造り主である神様に従って正しく生きていかなければならないのに、うそをついたり、人を憎んだり、赦さなかったり、自己中心に生き、自己主張をしながら、自己保身的に生きてきました。正しくないことを知りながらの言動、自己制御すべき時にブレーキが利かなくなったりもしてきました。何よりも神様をないがしろにして生きてきました。今、私達が裁判所で立たされた被告のように神様の前に立つならば、無罪判決を宣告される人は誰一人いません。すべての人は有罪と宣告されます。この有罪こそ、一万タラントの借金です。 /n借金の返済免除  神様は、たとえの王様のように私達を憐れみ、このつぐないきれない借金を無償で(イエス様の十字架の死と引き換えに)免除して下さいました。  自分自身が、神様の前にあっては、一万タラントという一生かかっても返済不可能な莫大な借金をしている者であり、イエス・キリストの十字架のゆえに「無償のゆるし」を与えられたことを信じることが出来た者は幸いです。この借金の重みを知れば知るほど、赦された喜びと感謝は大きくなっていくでしょう。 /n仲間を赦さなかった家来  たとえに登場する「家来」は、一万タラントという借金に真剣に向かい合わなかったゆえに、自分が赦されたことの背景にある「王様の大きな大きな憐れみと恵み」に鈍感になって、わずか100デナリオン(自分の借金の60万分の一)の貸しを赦そうとしませんでした。  振りかえって見ると、私達人間は、自分の利益や名誉が損なわれると怒り、正義と裁きを要求します。何かあれば当然のように隣人につぐないを要求します。自分の権利が失われることに敏感です。人を赦すことがなかなか出来ません。私達もこの家来のように、人に貸していることは忘れず、自分自身に「無罪放免」が与えられた事実を忘れています。 /nたとえの結論  イエス様は「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(35節)と言われます。これは厳しい警告です。神様の「無償の赦し」を忘れて、私達が仲間の罪をいつまでも赦さないならば「無罪放免」は取り消されます。私達が自分に与えられた赦しを忘れて他者を苦しめるならば、この地上が終る時、二度目の裁き(終末の裁き)で再び有罪となるというのです。  イエス様を信じる信仰と悔い改めを通して「私の罪」(莫大な借金)は神様から赦されています。この大きな憐れみと恵みを味わい、感謝し、この恵みの中で,私達の心に起こる「赦せない気持」に向かい合い、七を七十倍までも赦しなさいと言われたイエス様に従いたいと願うものです。 /nおわりに  神様の憐れみについての聖書の箇所を一緒に聞きたいと思います。 >> 詩編103:8-13  「主は憐れみ深く、恵みに富み 忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなく とこしえに怒り続けられることはない。主は私達を罪に応じてあしらわれることなく 私達の悪に従って報いられることもない。天が地を越えて高いように 慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠いほど 私達の背きの罪を遠ざけてくださる。父がその子を憐れむように 主は主を畏れる人を憐れんでくださる。」 << >> 詩編145:8-9  「主は恵みに富み、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主はすべてのものに恵みを与え 造られたすべてのものを 憐れんでくださいます。」 << >> マタイ5:7  「憐れみ深い人々は、幸いである、その人達は憐れみを受ける。」 << >> ヤコブ書 2:13  「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」 << >> 第一ペテロの手紙 3:9  「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐ為にあなたがたは召されたのです。」 << >> ヨハネ第一の手紙 3:15‐18 「兄弟を憎む者は皆人殺しです。あなたがたの知っている通り、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは私達のために命を捨ててくださいました。・・世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。」 <<

説教要旨 「新しい朝に」 石巻山城町教会 鈴木淳一牧師

/n[創世記] 32章23-33節 23 その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。 24 皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、 25 ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。 26 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。 27 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」 28 「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、 29 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」 30 「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。 31 ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。 32 ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。 33 こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。 /n[コリントの信徒への手紙二] 12章7b-10節 7b それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 /nはじめに  夜明け前です。川の水の面も暗くひっそりとしています。この暗さの中で、ヤコブは自分の妻、側女、子供、牛・羊など向こう岸に渡して、今、一人になっています。ヤコブはずっと前に、何も持たずに父イサクのもとを発ちましたが、その間、時間が随分経つ内、財産もいろいろ増えました。妻や子供達もたくさん持つようになりました。ところが今、再び一人になったのです。自分の持ち物を全て向こう岸に渡し、暗闇の中で一人になっています。 /n暗闇  この暗闇は、ヤコブにとって彼の人生の陰の部分を表しています。彼の罪や後ろめたさがこの暗闇の中にあるのです。ヤコブは今、一人になって、この自分の陰の部分と一人向き合おうとしています。彼は兄エサウと父イサクを欺(あざむ)きました。エサウの「長子の祝福」が欲しい為に母リベカと計略をたてて、父イサクを騙(だま)したのです。兄エサウはそのことを根に持って弟ヤコブを憎むようになり、殺意まで持つようになったのです。この事を知って母リベカはヤコブに逃げるように勧めます。そのようなわけで、ヤコブは兄エサウを避けて故郷から離れました。ところが、考えてみて下さい。それにもかかわらず、ヤコブは神様から祝福を受けて念願が叶ったというのですけれども、果たして幸福で嬉しい人生になったでしょうか。兄を騙(だま)したという後ろめたさと、いつ兄が襲って来るかわからない、そういう不安の中で生きていたのではないでしょうか。人には決して言うことの出来ない、暗い過去におびえて生きる人になったのです。 /n暗闇での格闘  ヤコブは義理の父・ラバンの家から多くの財産と大勢の家族を伴ってくるわけですが、そこには「長子の権利」を騙(だま)し取られ、悔しい日々を送っている兄エサウが待っていたのです。ヤコブはもうすぐそのようなエサウに会わなければならないのです。兄エサウはきっと怒りを抑えながらヤコブを殺す機会を待っていたかもしれません。そのような兄エサウとの再会を前にして、ヤコブが兄の敵意をどうにか和らげようと図り、又一方で、エサウが攻撃してきた時の為に必死で備えをする様子が聖書にはよく記されています。いったい自分の実(じつ)の兄に会うのに、こんなに不安で恐れていなければならないとはなんて不幸なことでしょうか。いろいろな人を狡猾に騙(だま)して生きてきたヤコブは今、そのような人生の裏側の暗さに直面しているのです。表(おもて)は確かに成功者に見えます。父から祝福を得たし、子供も財産もたくさん持つようになりました。しかしその成功の裏にある狡猾さ、人を欺(あざむ)いてきたことが彼を不安にしているのです。今ヤコブについて語っていますが、この、人生の裏側・暗い部分、それによる不安・恐れというのは、私共の人生にもあります。この陰の部分が時折、私共の生活の中で顔を出すのです。ヤコブは今、まだ夜明け前の暗闇の中に不安と恐れに包まれています。そして唯一人,神の前に立っています。彼が神様の前で取り組まなければならなかったことは、自分の人生の暗い部分、自分の過去、罪に直面することであり、今その時が来たのです。しかし、その格闘の背後には神様がおられます。つまり、自分自身の暗い部分を通して神様と格闘したのです。暗闇の中で、唯一人で戦いました。  私共もヤコブのように、唯一人になって自分の暗い部分の中で格闘するしかない時があるのです。そしてその格闘の時間を通してこそ神様に出会うことがあります。ヤコブは出来れば避けたい相手、殺されるかもしれない危機を前にして、神様との格闘の機会が与えられました。私共も人生の内でヤコブのような危機に直面することがあるのではないでしょうか。その時こそ神様に出会い、神様と組み合いをする一つのチャンスかもしれません。 /n祝福への執念  ところでヤコブはそのような格闘に勝ったのでしょうか。或いは負けたのでしょうか。 >> 「ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿(もも)の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿(もも)の関節がはずれた。『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言った・・」(26-27節) <<  ヤコブは、腿の関節が外れているにもかかわらず、その人を去らせようとしません。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」と、粘り強く必死に祝福を求めていたのです。そこでその人は仕方なく、ヤコブを祝福します。出口がない危機に直面して全てをかけたヤコブの祈りであったに違いありません。私共もある問題や危機に直面した時、それを神様の前に出して神と格闘する迄、根気強くその問題に神様の答をもらおうと取り組んでいるでしょうか?「神様、どうか私の過去の罪をお赦し下さい。そして私を祝福して下さい」と粘り強く願っているでしょうか?ヤコブのように・・。 ヤコブの祝福に対する執念というのは、この時ばかりではないのです。兄エサウとの敵対関係になったのも、もともと兄エサウが父から譲ってもらうべき長子としての祝福を、父を騙(だま)して奪い取ったのです。ヤコブは手段と方法を選ばないで、何よりも祝福に固執した人でありました。  _____________________  ある日、兄エサウは疲れ切って野原から帰ってきました。兄エサウは狩猟をする人でした。その時ヤコブは煮物をしていました。お腹が空いていたエサウはヤコブにその煮物を食べさせてくれるように願うのです。その時ヤコブは言います「まず、長子の権利を譲って下さい」。お腹が空いて死にそうになったエサウは、長子の権利等どうでも良いと言いながら、誓いを迫るヤコブの言いなりになって煮物を得る為に「長子の権利」をヤコブにすんなりと譲ってしまうのです。 神様は「長子の権利」よりも「煮物」を選んだエサウを選ばず、ずる賢こく狡猾ではあったけれども、長子の権利を重んじて神様の祝福を求め願ったヤコブを選んで下さいました。エサウの最大の失敗は神様の祝福を軽んじたところにあったといえるでしょう。人間にはお腹がすいても死にそうになっても、命をかけて守らなければならないということがあるのです。どのようなことがあっても絶対に譲ってはならない、そのような領域がある。エサウはそれを知らなかった。軽んじたのです。 /nヤコブからイスラエルへ  ヤコブは神の人との格闘の末に名前が変わります。「もはやヤコブではない。イスラエルと呼ばれるのだ」と神の人から言われます。ヤコブという名前は「足をつかむもの」という意味で、ヤコブが生まれる時に、兄の踵(かかと)をつかんで生まれてきたのでそのように名が付けられました。それは奇しくもヤコブの性格をよく表わしているのです。負けず嫌いで奪い取ろうとする性格、その通りヤコブは祝福を自分のものにする為に、騙(だま)しあざむき、又逆に自分もあざむかれ、だまされ、傷だらけの人生になりました。しかし今、そのような自分の性格と過去のゆえに、不安と恐れの時間に置かれていたのです。それでも今、ヤコブはイスラエルに代わりました。足をつかむ者は、神と戦う人・イスラエルになったのです。名前が新しくなるというのはもう古い人ではなくなったということです。もはや彼は、人の足をつかむ狡猾なヤコブではなく、神と戦って勝った祝福された者・イスラエルになったのです。神から選ばれた者として変えられたのです。神がヤコブの人格の暗さ、罪だらけの暗い人生に光を当てて下さったのです。私共は自分の罪に向かい合う時、それはとても辛い時間です。しかしその向こう側に神様がおられる、そしてその戦いの中で神様の御手によって私共の暗い部分は明るくなるのです。独り子イエス・キリストを私共の為にお送り下さった神様はヤコブの為に、ヤコブの一番辛い時間、ヤコブの所に降(くだ)っていかれたのです。  人は神の御手によって変わります。見方も価値観も変わります。神の祝福には、人を根本から変える力があります。ヤコブが神の人との格闘を終え、神様から祝福され、そこを去ると太陽は昇ってきました。夜明けになったのです。それはヤコブ自身にとってきっと忘れられない素晴らしい夜明け、朝であったに違いありません。自分の罪や狡猾さからきた暗闇から解放された朝でありました。 ヤコブの暗い人生に神様からの光が差し込んできたのです。 /n夜明け  その後、ヤコブは兄エサウと再会するのですけれども、このエサウはヤコブを赦して受け入れるという、実にほほえましい場面が出てきます。神様がヤコブを変えただけでなく更にエサウの憎しみをも変えて下さった。しかし{ヤコブが神様の祝福を重んじ強く願い求めた。だから神様に選ばれた}とは言えないのではないでしょうか。それは、そこにはヤコブが生まれる以前に神様の大きな恵みがあった。不義な者を選び、義として下さる憐れみ深い神、その神様の選びがあったのではないかと思います。人間的には罪だらけのヤコブを義とし、祝福して下さる神様であった。そして祝福の光によってヤコブの陰は消え光の内を歩む人となったのです。これがペヌエルを過ぎてヤコブが迎えた夜明けでした。暗い時間は過ぎ去り、今、光の中を歩むヤコブ-いえイスラエルになったのです。 /nパウロのとげ  しかしヤコブは腿(もも)を痛めて足を引きずっていました。弱さを持つ人間になったのです。それゆえ今、自分の力でなく神様に頼る人生になりました。恵みによって生かされる、神のものとなったのです。新しい朝を迎え、新しい人生を歩み始めたヤコブが一つの弱さを持つようになったように、パウロも、思い上(あが)ることがないように一つのとげが与えられました。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙の中で、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」(?・12:5)と言っています。彼はいつも自分を苦しめる刺(とげ)がありました。弱さがあったのです。パウロはそれを取り除いて下さるように三度、神様に願いました。その時、神様から言われたのです。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(同9節)。そこでパウロはこのように告白します。「私は弱い時にこそ強いのです(同10節)。もはや自分の力で生きる人間ではなく、主の力によって生きる者となったのです。 パウロは名門の家庭に生まれ、当時有名な先生のもとで学び、最高の学問であったギリシャ哲学にも精通していました。又、律法を熱心に守っていた宗教人であったのです。パウロはユダヤ人でありましたが、特別な権利のしるしであったローマの市民権を持っていました。いわば当時の人々が欲しがるすべてのものを持っていたといっても過言ではないでしょう。しかし主イエス・キリストに出会った時にそれが誇りではなく、むしろ主から与えられた棘(とげ)、その「弱さ」が誇りであるということを知ったのです。棘(とげ)がある人間になったパウロを、主は、イエス・キリストの福音を宣べ伝える者として選び、用いて下さるようになったのです。 /n祝福への道  又、神様は、独り子イエス・キリストを通して私達をも選んで下さった。私達がどのような者であるにせよ、どのような過去を持っているにせよ、どのような弱さ・とげがあるにせよ、それは関係がありません。私共の暗闇の部分に向き合い、又、神様の祝福を願い求める時、主なる神様は必ず祝福して下さる。その時、暗闇の時間は過ぎ去り太陽が昇る夜明け、「新しい朝」が訪れるのです。 そして自分の弱さを通して、主によって新しく生まれ変わった自分自身を見ることができるのです。

説教要旨 「そのとき」 牧師 佐藤義子

/n[マタイによる福音書] 24章15-31節 15 「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、 16 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。 17 屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。 18 畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。 19 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。 20 逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。 21 そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。 22 神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。 23 そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。 24 偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。 25 あなたがたには前もって言っておく。 26 だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。 27 稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。 28 死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」 29 「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。 30 そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。 31 人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」 /nはじめに  私達はまだ見ぬことに対して信じることに慎重であり臆病です。この世の中は偽りが横行し、信じていても騙されることが多い為に自分で自分をガードし、与えられるものを警戒します。科学が発達するにつれ、ますます信じるということが困難な時代になっています。その一方で、価値観の多様化がすすみ、いつでもどこにいても簡単に多くの情報を得ることが出来る時代になると一体どこに自分の軸足を置いたらよいのか、何をもって自分の基準とするかが問題になってきます。自分の判断基準を持たない者は、良いか悪いかということさえも周囲を見て数の多い方になびくことになり、そのように生きていると、いつしか自分で判断することが出来なくなるという危険性をはらんできます。 /n教会は聖書を正典として聞く  教会で聖書が語られるのは、聖書がキリスト教の正典だからです。正典(カノン)のもともとの意味はまっすぐな棒、さお、定規という意味です。そこから尺度、基準、原則という意味に使われています。(ラテン語ノルマは規範、標準、模範の意)。教会は、人間が人間として生きていく上でなくてはならない価値基準、判断基準となるべきものがこの「聖書」であることを信じ告白しています。聖書を学ぶならば、神を知り、人間を知り、更に、人間が神に逆らう存在であり、神に許されなければならない存在であり、そのために神は御子イエス・キリストを地上に送って下さり、イエス・キリストは私達に「言葉」を通して神様の救いのご計画を明らかにして下さった、ということを知ることが出来ます。 人間はなぜ生きているのか、人間はどのように生きるべきか、何が正しく何が間違っているのか、世界はどのように創られ、どのように終るのか、そのことがこの一冊の聖書に記されています。 /n終末の予告  イエス様は今日の聖書の個所で、ダニエル書の預言が実現するその時に備えてどうすべきかを教えます。預言の通り、聖なる場所(神殿-現代では教会)を荒らす憎むべき破壊者がこの世界の終りにやってきます。その時すべてをそのままにして先ず逃げることを教えています。悪から逃げる、その破壊者がもたらす災いから逃げる、悪に対してもたらされる神様の裁きから逃げる・・16節では「山に逃げなさい」と教えます。 /n大きな苦難  その時に受けなければならない苦難は、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難(21節)と言われています。この苦難の時を神様は選ばれた人達の為に、ちぢめて下さるともいわれます。この苦難の時、にせもののメシア(救い主)や、にせものの預言者が表れて大きなしるしや不思議なわざを行ない人々を惑わそうとします。(にせものでも、大きなしるしや不思議な業は行なえることに注意!) /n再臨の予告  本物のメシアであるイエス様は「稲妻がひらめき渡る」ように、誰の目にも明らかなかたちで来ます。再臨の時、天変地異が起こります。イエス・キリストがこの地上に来た時にはベツレヘムの馬小屋でひっそりと誕生され、地上の生活においても栄光を直接現わすことはありませんでした。しかし再臨の時には、大いなる力と栄光を帯びて来られます。「天の雲にのって」(30節)とは神様の臨在を表す表現です。その時神様から選ばれた人達(信仰を与えられた者達)が天使によって呼び集められる(31節)との言葉で予告は閉じられています。 /n希望  神様を信じる者は神様の所有とされ、この世の終りの日にイエス様のもとに一つに集められるという約束(希望)を聞き,信じる者は幸いです。「知恵ある心を得ることができますように(詩篇90:12)」と祈りましょう。

「福音伝道に必要なもの」 伝道師 平賀真理子

/n[エレミヤ書] 16章16-21節 16 見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。 17 わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている。彼らはわたしの前から身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない。 18 まず、わたしは彼らの罪と悪を二倍にして報いる。彼らがわたしの地を、憎むべきものの死体で汚し、わたしの嗣業を忌むべきもので満たしたからだ。 19 主よ、わたしの力、わたしの砦/苦難が襲うときの逃れ場よ。あなたのもとに/国々は地の果てから来て言うでしょう。「我々の先祖が自分のものとしたのは/偽りで、空しく、無益なものであった。 20 人間が神を造れようか。そのようなものが神であろうか」と。 21 それゆえ、わたしは彼らに知らせよう。今度こそ、わたしは知らせる/わたしの手、わたしの力強い業を。彼らはわたしの名が主であることを知る。 /n[マルコによる福音書] 1章14-20節 14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 18 二人はすぐに網を捨てて従った。 19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、 20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。 /nはじめに  今日の新約聖書の箇所は、イエス様が「ガリラヤで伝道を始める」ことと「四人の漁師を弟子にする」内容が書かれています。ここで、イエス様の第一声が明らかになります。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」です。 /n「時は満ち、神の国は近づいた。」  『時』とは「神様が定められた時」という意味があって、ここでは、父なる神が御子を世に遣わし、罪深い人間達すべてを救おうと予めご計画されていた時がついに来た!との宣言です。『神の国は近づいた。』は、イスラエル民族が期待していた、メシアの政治的な国が建てられるということではなく、神の特性である愛の支配が間近に迫っているということで、神と人間、更には人間と人間の関係が御子の働きによって回復するという、本質的な希望にあふれたメッセージなのです。 /n「悔い改めて福音を信じなさい。」  『悔い改めて』は、誤解しやすい言葉です。「してはならないことをしてしまった」「良くない思いを心に抱いてしまった」ことを後悔することや、“反省”して落ち込むことでもありません。神様がイエス様を通して語られた「悔い改めなさい。神の国が近づいたのだから。」という呼びかけに対し、これを受け入れて、応じることを意味します。「悔い改める」の元々の意味は、心を変えるということです。心の向きを変えるとも言えます。神様の呼びかけへの応答は、神様に背いた生き方、即ち、反抗的な生き方、惰性に従った生き方、曲がった生き方などから、方向転換して、信仰を持ってキリストにおける神に向かって生きることです。 /n方向転換  「大きな悔い改め」が求められる時があります。生き方の大いなる方向転換の時です。つまり、イエス様を「主」として「キリスト」として受け入れていく決意をする時です。多くの人はイエス様の御言葉や生き方や聖書を通じてその決意が与えられます。「与えられる」と言いました。これは、聖霊によって与えられるとしか言いようがありません。しかし、神様は神様に向かって生きる人に聖霊を送ってくださるのです。 又、悔い改めは、「大きい悔い改め」の後にも必要になる時があります。人生の大きな選択で悩んでいる時、巧みなサタンの誘惑にあっている時など、多々あります。罪ある私達は、日々、神様に方向を向ける確認をしていないと、それてしまいやすいからです。そんな時こそ聖書を読み、神様に祈っていく態度が必要です。そのことによって聖霊(神の霊)が与えられて、正しい方向へ軌道修正してもらえます。それは大いなる恵みといえます。悔い改めは厳しいもののようにイメージされることがあるかもしれませんが、実は裁きではなく、救いに与る希望の源なのです。 /n「福音を信じなさい。」  福音とは「よき知らせ」という意味です。神の「よき知らせ」=神様が罪の世界に陥った人間を救うべく計画を立ててくださり、御子イエス様をこの世に送り、イエス様の十字架上での死によって、人間すべての罪を贖ってくださったこと、そして、その死にも打ち勝ち、復活されたことで、神様と人間の関係が回復されたこと、又イエス様が人間として歩まれた時にお教えくださった御言葉や癒しの奇跡など、救いの喜びの中身です。神様が私達をいかに愛して下さっているかを切に感じます。イエス様はその証となられるお方です。 /n「信じなさい。」  これは確信を抱くとか、信頼するという意味を含んだ言葉です。「そうである!」と強く思い、それをプラスに受け取っていく意味です。讃美歌や祈りの最後の「アーメン!」は、「まさにそうです!」という意味です。私達は礼拝や信仰生活の中で、神様やイエス様に向かって生きることを肯定され、人生を積極的に歩んでいけるように祝福された存在なのだということを、示されています。 「福音を信じる」こと、それを証することで主に招かれているわけです。 /n弟子の選び  イエス様は、まず御言葉を宣言されましたが、次になさったことは、弟子の獲得でした。地上に基盤を立て、伝道するための礎となる人々を探し出すことでした。神様の御用の為に働くのであれば、イスラエル社会ではレビ族出身者ときまっていました。しかし、イエス様はそんな掟はお構いなしに、旅の途中の通りすがりにその場で働いている人に実に無造作に呼び掛けています。そして、呼び掛けられた二組の兄弟達も、すぐにすべてを捨てて従っています。私のように持ち物が多く未練がましい人間から見れば、彼らの行動はついつい、「本当?」と疑ってしまいます。シモンとアンデレという兄弟の家も、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの家もそれほど貧しいわけでもなく、特に後者のヤコブとヨハネの家は雇い人もいるので、かなりの資産があったのでは?と言われています。でも、四人ともすぐにすべてを(家族も財産も)捨てて「わたしについてきなさい。」というイエス様の呼びかけに従ったのです。シモンとは弟子の筆頭となるペトロのことです。この4人は12使徒に選ばれていますし、その内三人(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)は核になる弟子として、死んだ娘の蘇生(5:35-43)、山上の変容(9:2-13)、ゲッセマネの祈り(14:32-42)など、重要な場面にイエス様が三人だけ許して立ち合わせておられます。 /n主の召しに答える  二組の兄弟は、主の召しにすぐに答えそれまで積み重ねてきたものすべてを捨てて、主に従うという行動をしました。「主の召しに答える」ということでは、アブラハムやモーセの信仰を思い起こします。主が安住の地に導くことを約束され、それをひたすら信じていけばいいのです。彼らはそう信じ、そう行ない、神様の祝福を得ました。思い煩いの多い私などがその立場になったら、途中の困難に出会うたびに、いちいち立ち止まって動けなくなるな~と予測できます。四人の弟子達は核になる弟子と言いましたが、実は、いろいろ失敗して、イエス様を激しく怒らせたり、絶望させていますし、イエス様の受難の際には逃げ去ってしまっています。しかし、イエス様の復活の後は、悔い改めて、許され、福音伝道に邁進したのです。彼らの歩みは、実にこの点で後に続く信徒の慰めになります。 /n後に続くわたしたち  「イエス様の福音に触れ、従う」という大きな決意をします。「悔い改め」です。「主の教えを学べる立場」になります。これが、「礼拝をささげて、説教を聴き、御言葉の解き明かしを聴く」ことになります。そのような恵みにありながら、時々主の意にそぐわない言動をしてしまいます。「神様に赦しを請う」ため祈ります。イエス様のお働きにより聖霊が働いて、赦しを得、その恵みに感謝します。その「恵みを広めたい」と思うようになり「そのように働く」ものとなります。この一連の流れは一日の単位でも、一週間単位でも、一年単位でも、人の信仰生活上でも起こり得ることです。進んで、失敗しなさいといっているわけではありません。神様に心を向けていれば、必ず聖霊が働いて赦しを得ることができ、力強く歩んでいけることを四人の弟子達が表している、とお伝えしたかったのです。 /n「人間をとる漁師」  今日の聖書に「人間をとる漁師」という表現がでてきます。「漁師」ということで、今日の旧約聖書のエレミヤ書などでは、敵を表現するもので、あまりいい意味はありません。「漁師」ではないのですが、わたしもかつて、この世で、人をとる仕事をしていました。採用係といって、企業に働き口を求めてやってくる学生さん達を選んで採用する仕事です。会社や社会システムの矛盾を疑問に思いながら、「うちの会社はいい会社です。あなたの可能性を高めます」などとあまり思ってもいないことを言わなくてはならず、うそをつかねばならない罪悪感の中で仕事をしていました。会社説明会でも大勢の前で説明する立場になり、「どうせなら真実を語る口にしてほしい」と秘かに願っていました。ちょうど教会の門をたたいた頃でした。  数年たって洗礼を受ける決意を与えられましたが、礼拝だけは守る姿勢で歩んできました。恵みを受けて、このたび、福音宣教の仕事を担わせていただけるようになりました。信仰の基準が高いわけでは全然ありません。この期に及んで御言葉を勉強中です。この世の中にありながら、どうにかこうにか心を神様に向け、なんとか守られたとしかいいようがありません。かつてこの世をアップアップしながら泳ぎつつ、神様の清さと愛の大きさにあこがれつつ、生かしていただいてきた自分を思い出します。 /n福音伝道に必要なもの  仕事やこの世での生活で大変な思いをされている人が多いと思います。しかしそこに埋もれないで、心を神様に向け続けて下さい。イエス様はそのために、あなたを救いに入れるために福音を宣べ伝えて下さったのです。説教題の「福音伝道に必要なもの」。「もの」をひらがなにした理由を話します。二つ意味があります。「物」として、福音伝道に必要な物は「あなたの、神に向けられた心」です。「者」として、福音伝道に必要な者は「福音に触れ、神に心を向け、主に従う決意をした者」です。即ち、神の側につくと決意できた者です。あなたがそうなることを神様は愛を持って待っておられます。

「ユダヤのベツレヘム」 牧師 佐藤 義子

/n[ルカによる福音書] 2章1-7節 1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 /nはじめに  ベツレヘムはパレスチナの中央山脈地帯に属するユダの町で、最も肥沃な地帯の一つです。北側の丘にはオリーブが茂り、東側のゆるやかな斜面には小麦が豊かに実りました。ベツレヘムは昔エフラタと呼ばれ、旧約聖書にはエフラタとベツレヘムの両方の名で出ています。ベツレヘムはダビデの出身地として知られ、さらに時代をさかのぼれば、ルツの夫の出身地でもありました。 /nルツ-ダビデ-マリアの夫  ルツ記の初めに「ききんが国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れてユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。その人の名をエリメレク、妻はナオミ、二人の息子はマフロンとキルヨンといい、ユダのベツレヘム出身のエフラタ族の者であった。」とあります。ナオミの夫エリメレクはその後亡くなり、二人の息子達はモアブの女性を妻に迎えますが、10年後には二人の息子も死んでしまいます。ベツレヘムのききんがおさまったことを知ったナオミは一人故郷に帰ることにして、若い二人の嫁には実家に戻るように説得します。ところが嫁の一人、ルツはナオミについていくと聞かず、ついにナオミは説得をあきらめルツを連れてベツレヘムに帰ります。ベツレヘムで落ち穂拾いに出かけたルツは、農夫達の後について畑に入ると、そこはたまたま夫の父エリメレクの親族ボアズの畑でした。やがてルツはボアズと結婚して男の子(オベド)を産み、オベドは成人してエッサイの父となり、エッサイの末の息子がダビデです。羊飼いだったダビデはやがてイスラエルの国王となり(BC1000)、このダビデの家から救い主が生まれるとの預言が与えられ、イスラエルの民は長い間、救い主(メシア)を待ち望んでいました。マタイ福音書の系図によれば、マリアの夫ヨセフはダビデから数えて26代目にあたります。 /n人口調査  今日の聖書には、ローマ皇帝から全住民に登録の勅令が出たとあります。人口調査です。強制的に出身地に戻っての登録のため、ナザレに住んでいたヨセフとマリアは120キロも離れたヨセフの出身地ベツレヘムに帰ることになりました。絵画等でマリアがろばに乗り、ヨセフがたずなをひいて歩く姿が描かれていますが、当時、臨月のマリアをつれての旅は、どんなに大変で、また危険が伴っていたことでしょう。 >> 「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(6-7節) << /nべツレヘム 「エフラタのベツレヘムよお前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、私のためにイスラエルを治める者が出る。」(ミカ書5:1) 預言者ミカ(BC750-686)は、神様がこの小さな町ベツレヘムをメシア誕生の場所として選ばれていることを預言しました。それから700年以上の年月を経て、イエス・キリストがベツレヘムでお生まれになった。これは、たまたまではなく、偶然でもなく、神がこの世の権力者の人口調査という計画を用いて、ベツレヘムのダビデの血をひく、さらにはモアブの女性ルツの血を引くヨセフという男性を父親として選び、婚約者マリアをベツレヘムまで導かれた、ということです。これは神様のご計画による約束の成就!以外の何ものでもありません。 /n飼い葉おけ  イエス様が誕生されて初めてのベッドが家畜の為の飼い葉桶でした。ユダヤ人として生まれたイエス様は、始めからローマ皇帝勅令によって旅の途中で誕生し、イスラエルの国の歩みの苦しさと貧しさと共に生きられました。飼い葉桶の理由を口語訳では、「客間には彼らのいる余地がなかったから」と説明しています。お腹の大きなマリアの為に自分のベッドを譲る人は誰もいなかった、ということでしょう。この世の権力からも富からも、そして人々の愛からも遠く離れたこの飼い葉桶に寝かされた幼子は、しかし神様の深いご計画の中で何の支障もなく、誰にも邪魔されず、神様の大いなる恵みの中で天から地上に降られたのでした。(後略)

「ペトロの説教」 佐藤義子 牧師

/n[イザヤ書] 44章21-23節 21 思い起こせ、ヤコブよ/イスラエルよ、あなたはわたしの僕。わたしはあなたを形づくり、わたしの僕とした。イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。 22 わたしはあなたの背きを雲のように/罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。 23 天よ、喜び歌え、主のなさったことを。地の底よ、喜びの叫びをあげよ。山々も、森とその木々も歓声をあげよ。主はヤコブを贖い/イスラエルによって輝きを現された。 /n[使徒言行録] 3章11-26節 11 さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。 12 これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。 13 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。 14 聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。 15 あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。 16 あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。 17 ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。 18 しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。 19 だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。 20 こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。 21 このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。 22 モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。 23 この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』 24 預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。 25 あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。 26 それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」 /nはじめに  本日は、しゅろの日曜日(パームサンデー)です。ヨハネ福音書12章にはイエス様がエルサレムに来られると聞いて、大勢の群衆がなつめやし(しゅろのこと・英語では、date-palm)の枝をもって迎えに出たことが記されています。しゅろの日曜日から始まる一週間を、受難週(Passion Week又はHoly Week)と呼んでいます。私共の伝道所では受難週の月曜日から金曜日まで毎日30分間を黙想会として持ちます。約2000年前のイエス様の最後の一週間の足跡をたどり、受難と死の意味(自分が罪赦された者とされ、あがなわれたこと)を黙想するひとときです。 /nペトロの説教  今日の聖書は、祈る為にエルサレム神殿の中に入ってきたペトロとヨハネにつきまとっている男が、エルサレム神殿の「美しい門」のそばで施しを乞うていた生まれつき足の不自由な男だと知って、人々が驚きをもってペトロとヨハネのもとに集まって来ました。そこでペトロは話し始めます。 ペトロは、まず彼らの誤解を解くことから始めました。民衆は、立つことも歩くことも出来なかった男が今、目の前に立って歩いているのはペトロとヨハネがいやしたからだと考え、こんな奇跡を行うペトロとヨハネに対して驚きのまなざしで見つめています。しかしそのように見る限りこの出来事を説明することはできません。ペトロはまず「これは私達の力や信仰によるのではなくイエス・キリストによるものである」と宣言しました。男を癒したのは「イエス・キリスト」であり弟子ではないのです。イエス・キリストは神から遣わされたお方です。奇跡は神のみが行う業であり、神の御名が崇められることに、奇跡の業の根拠と目的があります。歩けるようになった男は、神様がイエス・キリストの名によって、神のみ業をなされた、そのあかしでもあります。 /nイエス・キリストの現臨  このいやしは、イエス・キリストに対する信仰が呼び起したものです。弟子達の信仰はイエス・キリストの言葉と行為を通して植えつけられた信仰であり、今弟子達はその信仰によってイエス・キリストに呼びかけ、イエス・キリストからいやしを受け取ることによってイエス・キリストの栄光が現わされることに奉仕をしています。使徒言行録では「イエス・キリストの名によって」罪が赦され,救いが起こされ,悪霊が追放されます。「名による」とは、そこにイエス・キリストが現臨することです。 /n預言の実現  ペトロは民衆に、このいやしの奇跡を起こされたイエス・キリストを、あなたがたは殺してしまったが、それは無知のためだった。しかしイエス・キリストのご受難は、あらかじめ旧約聖書で予告されていた神様の救いのご計画の中にあったこと、イエス・キリストの死は結果としてイスラエルの不信仰と罪によって、神の救いのご計画を実現することになったことを語りました。それゆえにユダヤ人達は、「その罪を離れ、回心して、自分達が殺してしまったイエス・キリストを救い主メシアとして信じる」道が用意されているのです。 /n悔い改めは罪の赦しの第一歩  ペトロは、「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」(19節)と迫りました。ユダヤ人のみならず全ての人は、悔い改めて神のもとに立ち帰るならば、神の赦しを受け取ることができ、その罪から解放されるのです。第二に終末と再臨の約束が語られます。ペトロはこの時を「主のもとから慰めの時が訪れる」と表現します。今、私達にはさまざまな苦痛があり、悲しみがあります。しかしその時には、神様の栄光が現れ、歴史の苦痛に満ちた歩みは、終りを告げます。 この時を迎えるために私達がなすべきことは、旧約聖書の言葉に従うことであり(22節以下)、それはイエス・キリストに聞き従うことです。